長い日曜日
ハロウィーンのTrick or Treat!
は、イギリスに住んでいる時に近所の
子供たちにやられたことがある。
幼い兄弟で来て、プリングルスを
「一管」(A pipe of Pringles)を
あげたら、
こっちがびっくりするくらい
「うゎあ!」
と驚いて喜んでくれた。
とりあえずはハロウィーンとは関係の
ない日曜日。
まずは、朝一番で新宿野村ビルの
スターバックスコーヒーで、
日本テレビ「世界一受けたい授業」
の打ち合わせ。
竹下美佐さんと、岩田裕美さん、
それに若い男のスタッフ。
岩田さんは「アハ! チャンジ」
と「アハ! ムービー」のマエストロに
なりつつあり、
今回は特に「アハ! ムービー」
に名作が多かった。
うーむ、これはスゴイですね!
さすが、岩田マエストロ!
収録は11月5日にあり、放送は12月17
の予定、とのこと。
徳間書店から12月に出る
近未来小説『プロセス・アイ』の
ゲラを見ながらロマンスカーで
相模大野に移動。
相模女子大学で、日本文学協会
のシンポジウム。
青嶋康文さん、高木信さん、
それに私で、それぞれ30分間「報告」
し、
その後ディスカッションをした。
これがなかなか大変な会であった。
どうやら、ある文学作品を読んで、
自分が感じたことをそのままストレートに
表現するということは忌避されることらしく、
だからこそ、テクスト論などの
理論を駆使して作品を解体して
行こうとするのである。
驚いたのは、高校の現代国語の
現場などでも、そのような形で
自己の感想を「脱構築」するということを
信条として指導する場合があるということで、
青嶋先生が小川洋子のエッセイを
材料に生徒に書かせた感想文は、
私にはとても素直で良いものに思えたのだが、
高木先生を始め会場の多くの人から、
「老人を安易に対象化している」
「本当の意味での他者との向き合いがない」
などと強い批判が集まった。
私は、聴きながら、どんなイデオロギーも
行きすぎると肝心な文学の生命を
殺してしまうことになるのではないかと
違和感を持った。
私は、自分の「報告」から、一環して
ポストモダンな「解体」系の解釈よりも、
むしろ素朴な「印象批評」をいかに
擁護するか、という立場で話したのだが、
会場を埋めたイデオローグから、
「それは30年前の文学理論だ」
とか、
「良い、悪いという形容詞をどのような
意味で普遍的に使えるのか?」
と次々と質問が相次いだのには、
ある程度予想したこととは言え、
「ここまでとは」とショックを受けた。
『クオリア降臨』のあと書きで、
印象批評の擁護論を短く展開したのだが、
どうやら敵は思った以上に大きく、手強いようだ。
脳科学の方では、巡り巡って、主観的
印象の質こそが問題になっているのだが。
クオリアの問題をのぞいて、解くべき問題など
ないのだけれども。
そもそも、良質な文学作品を読んだ時の
感動に寄り添わない批評などに、どんな
価値があるのか、という疑問はぬぐえない。
それは、科学主義を陳腐な形でなぞる
だけのことにならないか。
じゃあ、何で文学など存在するのか?
「見るべき事は見つ」というような言葉の
持つ力を信じないで、
一体何の平家物語なのか?
高木先生に、「先生が平家物語を研究しているのは
好きだからじゃないのか」
と聞いたが、
「いや、そうではない、NANAや、森博嗣の
「全てがFになる」と等価だ」とあくまでも
立場を崩さなかった。
セッションが終わった後で、「いやあ、今日は
ヒールに徹していたのですよ」とは
言われていたが。
しかし、何だかんだ言っても、
白熱の議論は楽しかった。
異質なものに接することは、
魂を鍛えるのに役立つ。
私を呼んでくださった風間誠史さん
(相模女子大教授)が、「30年前の文学理論
とは言うけれども、それを解決済みだとして
しまったのでは、我々古典をやっている人間の
意味はない」と言われたことに
共感できた。
どんな立場であれ、解決済みだと
言っている人たちは何かを隠蔽しているのでは
ないか。
主観的印象の問題が解決済みだなととは、
私は口が裂けても言えない。
それともう一つ、好きになり、
愛するということは、
一種のstake holdingの行為であって、
そのような有限の立場を引き受ける
ことでしか、
本当の意味で人生を生きることは
できないのではないか。
ポストモダンな言説に感じられる
一種の無責任主義、自分を棚に上げた
感覚は、stake holdingをしていない
ことに起因していると思われる。
そんなことをつらつら考えながら、
再びロマンスカーに乗り、
ゲラを読みながら新宿、渋谷経由で
祐天寺へ。
クラブ・キングに行くのは
いつも本当に心から楽しい。
しかも、今回は佐藤雅彦さんとの
対談。
琴瑟相和す、喋喋喃喃。
桑原茂一さん、吉村栄一さんも
ラウンドテーブルに座り、
4人でクリエィティヴィティについて
ゆったりと語り合った。
佐藤さんの言われていた
studeoというラテン語は、
[to be eager , take pains, strive after (usually with dat.);
to side with, support, favor a person; to study a subject].
という意味だが、それを大切にしたい、
というフィロソフィーに全面的に賛同。
それは、テレビゲームに熱中するのとも、
ネットをサーフィンするのとも違う。
むしろ、スクリーンとその向こうにある
ネットからくるりと背を向けて、
世界自体を向き合うことだ。
そして、時間が経つのもわすれて熱中し、
「蛍光灯」というよりは「白熱電灯」のグルーヴで
我を忘れることだ。
対談内容は、 dictionary107号、及び
Podcastingで公開される予定。
対談が延びて、その後の食事の開始時間が
遅れたこともあって、宇川直宏さんや、
TOKIONの西村大助さん、南有紀さんに誘われて
いたCreativity Nowのイベントに伺えなかったの
は残念だった。
宇川さんと電話で、再会を約した。
家を出たのが9時30分、帰宅は午前2時。
長い日曜日だった。
10月 31, 2005 at 08:49 午前 | Permalink
トラックバック
この記事へのトラックバック一覧です: 長い日曜日:
» 批評という空間 トラックバック 江村哲二の日々創造的認知過程
ある脳科学者がブログで面白いことを書いている。 氏は科学者でありながら「創造性」 [続きを読む]
受信: 2005/10/31 10:37:29
» [ネット編]言葉と狂い(身体)、そして義体 トラックバック 千人印の歩行器(walking gentleman)
屁爆弾さんの『この筆者、悪文につき』を読んでいると、僕の言葉は浮いている度合いが高いなぁと自省してしまう。別に謙遜でも皮肉でもなくそう思うのです。屁爆弾さんの文章は身体性を感じる。僕はどうしてもそれが稀薄になってくる。例えば、ここで屁爆弾さんが表現についてさわこさんが口にされたことに触れていますが、僕はさわこさんの文章に「物質性」(身体性とどう違うのかと問われると困るのですが、もっと硬質な感じですか…)と言うか質感を感じる。それは多分、古典、古美術もおやりになっていらっしゃる方の門前の小僧で、「現... [続きを読む]
受信: 2005/11/01 14:24:11
» [念]言うに言われぬ思いと「解体」 トラックバック 風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜
茂木健一郎さんの、クオリア日記の10/31の記事に、下記のような記述があった。 << 相模女子大学で、日本文学協会のシンポジウム。青嶋康文さん、高木信さん、それに私で、それぞれ30分間「報告」し、その後ディスカッションをした。 これがなかなか大変な会であった。どうやら、ある文学作品を読んで、自分が感じたことをそのままストレートに表現するということは忌避されることらしく、だからこそ、テクスト論などの理論を駆使して作品を解体して行こうとするのである。 驚いたのは、高校の現代国語の現場などでも、そ... [続きを読む]
受信: 2005/11/01 19:47:58
» ホウゲン〜感動〜茂木健一郎 クオリア日記(ブログ) トラックバック Johnの日記
茂木健一郎さんのブログは、管理人のお勧めにも入れてるけど、ほぼ毎日見ている。 最近はマスコミの露出もすごく多いし、本も量産態勢な彼だが、忙しいと言いながらも、ブログの更新の手を抜かないのはどうなのか・... [続きを読む]
受信: 2006/01/30 22:20:11
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
ものの見方は、ほんとうにいろいろなんですね…
私は、最近になって
国語教師の大村 はま先生や、
平木典子先生(カウンセリングやアサーションがご専門)のご本やお話から
“自分の思いや考えを、自分らしい言葉で表現すること”の
大切さを教えられて、今こんな風に書くことがほんとうに楽しくなりました。
まだ、人前でお話したり、自分を表現することは
カナリ苦手だとは思いますが
それも自分らしさであって、それはそれで“まあいいかなぁ”と
自分を肯定できるようになりました。
自分が、理系であったために
本は純粋に、興味や楽しむものでしたが
文学を学ぶということに、いろんなやり方があることを知り、驚きました。
それにしても、茂木先生の脳の中の引出しは
無限に広がって、まさに変幻自在なんですね…
投稿: TOMOはは | 2005/12/30 17:01:30
10月30日の相模女子大でのシンポジウムを聞いた高校の国語教諭です。茂木さんの話から受けた感動を一言お伝えしたく書いています。文学はいかに深く広く果てしないものか、その文学から得られる喜びを伝えることこそ国語教育だ、学びの動機付けだ、という話にまさに我が意を得たりという思いがしました。
漱石の真摯な倫理観に感動し、直実に呼び止められて「とってかへす」敦盛の愚直さに感動する心を今の生徒も持っています。その感動が道徳教育とは違うところです。「良質な文学作品を読んだ時の感動」と書いていらっしゃいましたが、まさにそれを伝えていくのが国語科の役割だと思っています。文法もセンター試験的な読みもそのための手段のひとつです。文字の嫌いな生徒にも、好きなものがある幸福感だけは伝えていきたいと思っています。
投稿: onozawa | 2005/11/02 11:51:17
良いキックを沢山受けられたようですね。
やはりキックされると痛いし、なでられると自分が正しいと思えるし、なでられるのが良いなと思いがちなものですが。
ときに、
>そのような有限の立場を引き受けることでしか、本当の意味で人生を生きることは
できないのではないか。
という事は、「何事にも執着しない」という、一種の悟り的生き方は本当の生き方ではないという事なのでしょうか?
投稿: cosmos | 2005/11/01 0:49:13
文学作品を読んだ自己の感想を「脱構築」する?
それよりも読後の感想を、自分の思いのままに述べるほうがより創造的、健康的なのではないだろうか。
「脱構築」なんてややこしいことなんか、文学の教育でやるべきことではないと思う。
大学、もしくは高校の文学教育の現場でそんなややこしいことをやっていては、いつまでたっても青年たちの「本離れ」「読書離れ」はなくならないのではないか。
投稿: 銀鏡反応 | 2005/10/31 19:28:58
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
投稿: 普遍、不変、不偏 | 2005/10/31 10:46:26
文学教育の現場はある程度予感していましたが、なんだかまあやれやれですね。脱構築ですか。言葉の高等遊民というか言葉転がしの職人という特権的な地位にいるらしい自分の姿こそ脱構築したらいいのになあ、と思いますがね。素朴な言い方に過ぎるとすぐかみつかれるだろうと思いますが、読者である前に自己の生の実践をかかえ、そのなかでの生の意味を強化したいという<美的>志向を持った読者がまずあって、読みに入るわけですから、読書内ですべて完結させたいという志向こそ非常な限界を持った読書理論だと思うのですが。
投稿: イガラシシゲル | 2005/10/31 10:28:53