東京のシーシュポス
東京に帰り、
街中を歩いていて、
カウンターだけのラーメン屋や、
牛丼の店、
一杯飲み屋の横を通り過ぎた。
学生だった頃の自分が、バイトの
帰りなどに、そんな店で一人食事をし、
飲んでいるような気がした。
一人カウンターに向かう若者たちの
姿を見ながら、
あの頃の自分がそのあたりにうろうろ
しているように思えた。
どんなに自由に行動できていても、
「今、ここ」にいるということは、
「今、ここ」以外の生き方が
あり得たかもしれないという可能性性
を全て否定し尽くすことであり、
その意味で、人は、自由を満喫して
いているように見えても、
本質的にカミュの「シーシュポスの神話」
で岩を永遠に持ち上げている男と変わらない
のだと思った。
シーシュポスの男が不自由ならば、我々も
また不自由であり、
彼が自由なのならば、我々もまた自由である。
私たちは、東京の街をふらつきながら、
岩を持ち上げ続けているのだ。
池上と、大阪のワークショップの間
話していた「オレたり、単一文脈の中にいると
飽きちゃうんだよな」を突きつめていくと、
シーシュポスの神話に通じるのだと
気が付いた。
今日から恐山に行く。
新潮社の金寿煥さんによると、
ネットはもちろん、ケータイも通じないところ
らしい。
ネットやケータイが通じる状態は、
実は通じない状態と同じだと見切ることが
カミュの精神に殉じることだと思うけれども、
とりあえず関係者の方々、ご承知おきください。
南直哉さんにお会いする。
人生で大切な時間になるような
予感がある。
10月 3, 2005 at 04:31 午前 | Permalink
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コメント
御晩で御座います。
>シーシュポスの男が不自由ならば、我々も不自由であり、
彼が自由なのならば、我々もまた自由である。
我々は東京の街をふらつきながら、岩を
持ち上げているのだ。
不自由と自由が交差する我等の生きる時間もしくは空間。
我々はまさに「シーシュポスの神話」の世界に
生きているのかもしれません。
投稿: 銀鏡反応 | 2005/10/06 21:17:58
ごぶさたしております。
恐山は夜のほうが、
より視覚以外の感覚が感じられます。
以前、しゅざいにいいったとき、
特に触覚が便遺憾になりました。
21:00以降がおすすめです。
投稿: 松永真哉 | 2005/10/04 9:43:48