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2005/10/01

あすへの話題 月見は最高の贅沢

あすへの話題 月見は最高の贅沢
茂木健一郎

 秋になると、夜空の月に心が惹かれる。満月でなくても構わない。欠けていても、ふと見上げた空にそれが輝いていると、魅惑される。心の中をさわやかな風が吹き抜けた気分になる。
 菜の花におぼろ月夜と言うように、他の季節の月もそれなりに味わい深いが、やはり秋は格別だ。暑さもやっと過ぎ、収穫の時を迎えつつ、やがて来る寒さを予感する。様々な要素の「総合芸術」として、秋の月の魅力はあるのだろう。
 関西に行くと、しばしば「月見人形」を見かける。ウサギが嬉しそうに月を見上げている姿は雅で、自分も仲間になりたくなる。ウサギの隣りで空を見上げたくなる。
 ところで、月見が気分良くできる環境は、要求水準が極めて高い、贅沢なものなのではないだろうか。ススキの穂が揺れていなければならない。虫の音以外は静寂であって欲しい。人工光は要らない。そして何よりも、広々とした空が必要である。
 都会はもちろん、田舎でも、月見にぴったりの設(しつら)いの場所を見つけるのは、至難である。マンションのベランダや電車のプラットフォームからも月は見えるが、それではもの足りない気がする。
 平安時代ならばふんだんにあったであろう月見に適した場所を、現代人は持たない。月見を基準にすれば、文明は衰退しているのだろう。
 一度だけ、完璧なまでに条件の揃った場所で月見をしたことがある。ススキに囲まれた縁側で酒を飲みながら見上げているうちに、ついうとうと眠ってしまった。月の光に照らされ、夜風に吹かれて聞いた虫の音の味が忘れられない。

(日本経済新聞2005年9月29日夕刊掲載)

10月 1, 2005 at 07:37 午前 |

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コメント

近代文明の進歩が月見の文化を衰退させてしまったことは間違いない。
少なくとも都会では、縁台或いは月見団子を飾って、満月を見ることはほとんどなくなったと言って良いでしょう。
このままITが進み、グローヴァリゼーションが世界を席巻してゆけば、月見に相応しい場所がいよいよ狭まってゆき、我々の次の世代なぞは、ススキの原っぱに縁台をもちだし、その上に月見団子などを置いて満月を観賞する行為そのものを知らないまま大人になる…。そんな未来はなんだか寂しいです。

投稿: 銀鏡反応 | 2005/10/01 23:02:32

猿たちは空を見ない。
明日の天気を予想しようとは思わないから。
雨が降っても、毛があるので、それほど体温を取られる訳ではない。
冬でもそのままで凍死するような事はない。
しかし、私達は違った、明日の天気に恐怖していた。
天候で命を落とすことが頻繁だった。
星が出ることが私達の望みだった。
月が輝いていて、雲が無ければ、明日は明るい。
明日の明は太陽と月の機嫌を伺う漢字なのだろうか?(暗いは音しか聞こえない嵐なのだろうか?)
私達は、明日の天気を伺うために、空を見上げた。
そうして、私達は幾度の気候災害を乗り越えた。
それが、ノアの箱舟として、語り継がれている。
また、寝耳に水の水は洪水を表すという。
火山の爆発で一瞬で灰の下に沈んでは偶有領域はない。
選択は一瞬で無効にされ、遺伝するチャンスはない。

月を美しいと感じるのは、この偶有領域を乗り越えて、
私達がここに存在している何よりのエピソードなのかもしれない。
このエピソードを私達は反復して循環させてきた。

いつまで、月はあそこに、そう私達の脳内の神経細胞で満たされた偶有空間に筋道を付け作り出された仮想的な偶有空間に、存在しているのだろうか?

循環増幅による偶有空間内の相対的時間差が現実質として現れているならば、
時間をどうにか操作できない以上手も足も出ない。
この不均質な宇宙は全て時間で説明が付くというのか?

投稿: | 2005/10/01 21:02:38

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