2005/10/31
健史からのメール
筑摩書房の増田健史からのメール。
「緊急報告!
いやあ、茂木さん、今地下鉄に乗っている
んですが、隣の男が「脳」整理法を読んでいる
んですよ。茂木さんの読者って、こういう
人たちだったのですね」
一体、どういう人たちだったのか。
そのことが、私の人格にどう関わってしまうのか。
何はともあれ、売れていること、
読まれていることは
ありがたいことである。
10月 31, 2005 at 08:57 午前 | Permalink
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長い日曜日
ハロウィーンのTrick or Treat!
は、イギリスに住んでいる時に近所の
子供たちにやられたことがある。
幼い兄弟で来て、プリングルスを
「一管」(A pipe of Pringles)を
あげたら、
こっちがびっくりするくらい
「うゎあ!」
と驚いて喜んでくれた。
とりあえずはハロウィーンとは関係の
ない日曜日。
まずは、朝一番で新宿野村ビルの
スターバックスコーヒーで、
日本テレビ「世界一受けたい授業」
の打ち合わせ。
竹下美佐さんと、岩田裕美さん、
それに若い男のスタッフ。
岩田さんは「アハ! チャンジ」
と「アハ! ムービー」のマエストロに
なりつつあり、
今回は特に「アハ! ムービー」
に名作が多かった。
うーむ、これはスゴイですね!
さすが、岩田マエストロ!
収録は11月5日にあり、放送は12月17
の予定、とのこと。
徳間書店から12月に出る
近未来小説『プロセス・アイ』の
ゲラを見ながらロマンスカーで
相模大野に移動。
相模女子大学で、日本文学協会
のシンポジウム。
青嶋康文さん、高木信さん、
それに私で、それぞれ30分間「報告」
し、
その後ディスカッションをした。
これがなかなか大変な会であった。
どうやら、ある文学作品を読んで、
自分が感じたことをそのままストレートに
表現するということは忌避されることらしく、
だからこそ、テクスト論などの
理論を駆使して作品を解体して
行こうとするのである。
驚いたのは、高校の現代国語の
現場などでも、そのような形で
自己の感想を「脱構築」するということを
信条として指導する場合があるということで、
青嶋先生が小川洋子のエッセイを
材料に生徒に書かせた感想文は、
私にはとても素直で良いものに思えたのだが、
高木先生を始め会場の多くの人から、
「老人を安易に対象化している」
「本当の意味での他者との向き合いがない」
などと強い批判が集まった。
私は、聴きながら、どんなイデオロギーも
行きすぎると肝心な文学の生命を
殺してしまうことになるのではないかと
違和感を持った。
私は、自分の「報告」から、一環して
ポストモダンな「解体」系の解釈よりも、
むしろ素朴な「印象批評」をいかに
擁護するか、という立場で話したのだが、
会場を埋めたイデオローグから、
「それは30年前の文学理論だ」
とか、
「良い、悪いという形容詞をどのような
意味で普遍的に使えるのか?」
と次々と質問が相次いだのには、
ある程度予想したこととは言え、
「ここまでとは」とショックを受けた。
『クオリア降臨』のあと書きで、
印象批評の擁護論を短く展開したのだが、
どうやら敵は思った以上に大きく、手強いようだ。
脳科学の方では、巡り巡って、主観的
印象の質こそが問題になっているのだが。
クオリアの問題をのぞいて、解くべき問題など
ないのだけれども。
そもそも、良質な文学作品を読んだ時の
感動に寄り添わない批評などに、どんな
価値があるのか、という疑問はぬぐえない。
それは、科学主義を陳腐な形でなぞる
だけのことにならないか。
じゃあ、何で文学など存在するのか?
「見るべき事は見つ」というような言葉の
持つ力を信じないで、
一体何の平家物語なのか?
高木先生に、「先生が平家物語を研究しているのは
好きだからじゃないのか」
と聞いたが、
「いや、そうではない、NANAや、森博嗣の
「全てがFになる」と等価だ」とあくまでも
立場を崩さなかった。
セッションが終わった後で、「いやあ、今日は
ヒールに徹していたのですよ」とは
言われていたが。
しかし、何だかんだ言っても、
白熱の議論は楽しかった。
異質なものに接することは、
魂を鍛えるのに役立つ。
私を呼んでくださった風間誠史さん
(相模女子大教授)が、「30年前の文学理論
とは言うけれども、それを解決済みだとして
しまったのでは、我々古典をやっている人間の
意味はない」と言われたことに
共感できた。
どんな立場であれ、解決済みだと
言っている人たちは何かを隠蔽しているのでは
ないか。
主観的印象の問題が解決済みだなととは、
私は口が裂けても言えない。
それともう一つ、好きになり、
愛するということは、
一種のstake holdingの行為であって、
そのような有限の立場を引き受ける
ことでしか、
本当の意味で人生を生きることは
できないのではないか。
ポストモダンな言説に感じられる
一種の無責任主義、自分を棚に上げた
感覚は、stake holdingをしていない
ことに起因していると思われる。
そんなことをつらつら考えながら、
再びロマンスカーに乗り、
ゲラを読みながら新宿、渋谷経由で
祐天寺へ。
クラブ・キングに行くのは
いつも本当に心から楽しい。
しかも、今回は佐藤雅彦さんとの
対談。
琴瑟相和す、喋喋喃喃。
桑原茂一さん、吉村栄一さんも
ラウンドテーブルに座り、
4人でクリエィティヴィティについて
ゆったりと語り合った。
佐藤さんの言われていた
studeoというラテン語は、
[to be eager , take pains, strive after (usually with dat.);
to side with, support, favor a person; to study a subject].
という意味だが、それを大切にしたい、
というフィロソフィーに全面的に賛同。
それは、テレビゲームに熱中するのとも、
ネットをサーフィンするのとも違う。
むしろ、スクリーンとその向こうにある
ネットからくるりと背を向けて、
世界自体を向き合うことだ。
そして、時間が経つのもわすれて熱中し、
「蛍光灯」というよりは「白熱電灯」のグルーヴで
我を忘れることだ。
対談内容は、 dictionary107号、及び
Podcastingで公開される予定。
対談が延びて、その後の食事の開始時間が
遅れたこともあって、宇川直宏さんや、
TOKIONの西村大助さん、南有紀さんに誘われて
いたCreativity Nowのイベントに伺えなかったの
は残念だった。
宇川さんと電話で、再会を約した。
家を出たのが9時30分、帰宅は午前2時。
長い日曜日だった。
10月 31, 2005 at 08:49 午前 | Permalink
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2005/10/30
My life as a Neanderthal.
10月 30, 2005 at 07:52 午前 | Permalink
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見える才能と見えない才能
ヨミウリ・ウィークリー
2005年11月 13日号
(2005年10月31日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第76回
見える才能と見えない才能
一部引用
美人であることは表面的な属性だと思われがちだが、顔立ちも実は才能の一部である。タレントとしての素質のかなりの部分を、目鼻立ちが占めるのはむしろ当然だろう。その時々に、流行の顔というか、ぱっと見て人の心を惹きつける姿かたちというものはある。ある女優がまだデビューする前に原宿を歩いたら、数人のスカウトに声を掛けられたという話を聞いたことがある。そのような顔をしているということも、立派な才能だと考えることには何の不自然さもない
一方、普通に言う「才能」は、顔のように目に見えるものではない。モーツァルトがピアノで素晴らしい即興演奏をしたり、アインシュタインがヴァイオリンを弾きながら物理学の問題を考えたり、あるいはゴッホが絵の構想を思い描いたりするプロセスは、確かに、目に見えることではない。
このような目に見えない「才能」を支えているのは、脳の働きである。脳の働きとは、言い換えれば、つまりは、脳の中の神経細胞のネットワークの結合のパターンのことである。神経細胞と神経細胞がどのようにつながっているかということも、一般的な意味においては「姿かたち」であり、その点において、顔のかたちと何ら変わらないということさえできる。
私たちは、お互いに脳の中身を見ることはできないが、もし透けていて見ることができたらどうだったろう。神経細胞が活動する度にぴかぴか光って、そのパターンが外から観察できたらどうなっていたろう。そのようなことがもしあったら、モーツァルトや、アインシュタイン、ゴッホの才能も、「目に見える」ものになっていたろう。そうなっていたら、私たちは、アタマの良し悪しも、また、美人かどうかということと同じように考えていたのではないか。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 30, 2005 at 07:23 午前 | Permalink
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バタバタ、タラダディ!
ここのところ運動不足だったが、
この2、3日は何とか時間を見つけて
朝走っている。
すっかり涼しくなったが、まだ
半袖短パンで走れる、ハシレル。
先日の京都造形芸術大学の
シンポジウムの時、
黛まどかさんが「スワヒリ語には
二種類「歩く」という動詞があって、
ある特定の目的地に向かって
歩くのと、
ぶらぶら歩くのは違う動詞なのだ
と言っていたのが
その後もとても気になっていて、
インターネット上のスワヒリ語の
辞書で「walk」を引いてみた。
http://www.yale.edu/swahili/
すると、確かに「歩く」に相当する
たくさんの動詞が出てくる。
「アヒルのように歩く」という
「batabata」という動詞まで
ある。
「バタバタ」とは、あまりにも
ぴったりで笑ってしまうが、
きっとスワヒリ語は素敵な言葉なのだろう。
問題の、「目的もなくぶらぶら歩く」
(walk about aimlessly)
という動詞は、taladadiで、
私の最近の生活には、タラダディ
が欠けていたのだ。
そういえば、バタバタも子供の頃
ふざけて以来やっていないように思う。
人生に、少しバタバタやタラダディを
取り入れることを決意する。
まずはタラダディからやってみよう。
たまっていた郵便物を処理。
大学の入試に使いました、それを
参考書に載せます、という知らせが
多く、
それに返事をするのが
案外大変である。
新潟大学の人文学部、経済学部の前期日程
入試では、
「脳のなかの文学」の2004年4月号を
使っていただいたらしい。
作者が問題を解けないというのは
本当である。
奇問だからというのではなくて、
暗黙知で自分でも言語化していない
ことだからだろう。
確かに自分の書いた文章であるが、
傍線部(1)「則天去私」について、筆者は
本文においてどのような意味で用いているか。
五十字以内でわかりやすく説明せよ。
と言われると、改めて考え込んでしまう。
人生の神様と、二人で見つめ合って、
沈黙する。
紅葉がいよいよ美しく、
しかし発する言葉が見つからない。
そんな時、「タラダディ」(!)という
新しい動詞を発見すると、人生何だか
ぱっと明るくなるような気がする。
歩いていくべき道が見つかるような
感覚がある。
一つの言葉の発見は、新大陸発見に相当
するのであろう。
さて、今日も元気でいることにしよう。
10月 30, 2005 at 07:17 午前 | Permalink
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2005/10/29
今、<文学>をどう学ぶか?
日本文学協会第60回大会
2005年10月30日(日) 12時30分〜17時
相模女子大学
青島康文 「教室という場と〈私〉」
高木 信 「「教えられるのか」/「どう学ぶか?」という問題構制」
茂木健一郎 「脳はいかに文学をとらえるか」
「脳はいかに文学をとらえるか」 要旨
文学は、言葉によって組み立てられている。それは意味の塊であるようにも思われる。しかし、すぐれた文学作品は、決してどのような意味づけにも回収されない、その作品に接した時のクオリア(感覚質)によって特徴付けられる。ある作品を、精神分析にせよ、構造主義にせよ、記号論にせよ、テクスト論にせよ、ある立場で分析し、文脈付ける試みは、クオリアのピュアさにおいて、作品自体には絶対に負ける。
極端なことを言えば、文学とは、最初から最後までの文字列が与える印象のことである。むろん、言葉である以上、いわゆる「意味」がその印象形成に介在することは当然である。しかし、そのような言葉の意味を通じて形成される文学作品の印象の中には、それが良質なものであるほど、決して特定の意味には回収され得ないものがある。傑作とは、すなわち、その作品を何度読んでも、十年二十年と向き合っても、汲み尽くせぬクオリアの源泉となるものを言う。特定の意味の体系に置き換えられてしまうものは名作たり得ない。
ならば、そのような文学作品を分析し、解析しようとする批評が、自らも対抗し得る印象の表出に成功しない限り、常に破れ続ける運命にあるのは当然のことではないか。
(以上、茂木健一郎『クオリア降臨』(仮題、文藝春秋より近刊)から一部改変して抜粋)
文学が人に与える感動の本質について考察し、脳の中の文学という体験について考えてみたい。
10月 29, 2005 at 02:09 午後 | Permalink
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(本日)科学大好き土よう塾 脳科学スペシャル
2005年10月29日(土)9:15〜9:59
科学大好き土よう塾
脳科学スペシャル
天才になるにはどうしたらいいの?
茂木健一郎
芸大の植田工の描いた「ニュートンとりんごの木」
の絵も出ます!
http://www.nhk.or.jp/daisuki/next/index.html
http://tv.yahoo.co.jp/vhf/tokyo/2005102904.html
10月 29, 2005 at 08:40 午前 | Permalink
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あすへの話題 科学の恵み
あすへの話題 科学の恵み
茂木健一郎
科学離れが心配されて久しい。
確かに、私が子供の頃に比べて、科学の社会の中での位置付けが変わってきているように思う。宇宙の真理を探求する営みとしての科学よりも、役に立つ技術を提供する方便としての科学への期待が高まっている。科学は単なるノウハウではないのだが、真理探究としての科学に対する尊敬の念が、いささか薄らいで来ているようだ。
この辺で、もう一度、科学が人間にもたらした恵みを振り返ってみてはどうか? 単にテクノロジーだけの問題ではない。科学は、私たち人間の世界の見方自体を変えてきたのである。
相対性理論を創った天才アインシュタインは、「ある人の価値は、自分自身からどれくらい解放されているかで決まる」という言葉を残した。科学のすばらしさは、自分という特別な立場、利害を離れてこの世界を見ることを可能にすることである。お金儲けも悪くはないが、たまには欲望から離れて世界をありのままに見つめてはどうか。
科学者は、データやモデルを、それが誰によって提出されたものかということには関係なく検討し、評価する訓練を受けている。認知的距離を置くことが、宇宙の秘密を明らかにする上で必要だと知っているのである。
インターネットを支えているのも、科学と同じようなクールな論理である。欲望だけをいたずらに拡大させても、肝心の技術がそれを支えなければ話にならない。熱い心と冷静な論理の組み合わせこそが最強の知性を実現するのである。
対象から距離を置き冷静に考えること。科学の恵みが由来するところを忘れてはならない。
(日本経済新聞2005年10月27日夕刊掲載)
10月 29, 2005 at 08:38 午前 | Permalink
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絶え絶えとおもしろき
ここのところ、メールを書く時間さえも
取れない状態だったので、
たまっていた仕事のメールにお返事を
差し上げていたら、息も絶え絶えの
状態になった。
来年になって状況が改善する
(忙しくなくなる)とはとても思えないので、
これは本格的になんとかせねば
なるまい。
食事もコンピュータに向かいながら
かっこむという状態では、人生
苦しいのである。
メールを送り終わってから
(すでに雑誌のゲラチェックなどで、
校了が過ぎてしまっているものもありました。
問題がなかったから良かったのですが、
関係者の皆様、済みません)
柳川透との投稿論文の添削を始める。
英文は直し、こうして欲しい
というところは日本語で書き加える。
Methodsまでやったところで
時間切れになり、
Scienceのmirror neuronの
論文を読みながら、移動を始める。
前にも書いたが、大学院とは、
最初は辞書を引きながら一週間かかっていた論文が
10分とか20分とかで
読めるようにするところである。
自分がJournal Clubの担当だったので
(そうです。誰でも平等に担当するのです)
Rizzolattiらの最新の論文を
紹介することにしたのだが、
最初はつまらないと思っていたが、
読んでみるとなかなか含みのある
論文だった。
action perceptionが、 F5cでは
actorなどの
contextに依存するものであるのが、
F5p, F5aと進み、
45B野に至るにつれて、次第に
abstractなものになって行く、という
話。
objectに対するaction repertoireも
表すようになる。
それが言語のprecursorではないか、
という示唆。
面白い。研究所に着いて、
「この論文はこういうことなんだよ」
と10分くらいでぱぱぱぱと説明。
後は読んで考えてください。
小俣圭と関根崇泰が、台湾で
行われるICONIPで発表するので、
その発表練習。
小俣は、McGurk効果について
関根は、body imageの話。
英語で、15分。
タイマーで測ったが、
小俣はぴったり15分で終わらせた。
本当は私も台湾に行くつもりだったのだが、
今回は断念しました。
おいしいものを食べて来てください。
じゃあ、これでゼミは終わり!
とさっと切り上げ、
五反田の「あさり」へ。
関根と「部長ごっこ」をして
気合いを入れる。
私「部長、こいつが新入社員のヘライと
石川で、まあ、一つよろしくご指導お願い
しますよ。」
関根「ああ、そうかね。おぼえておくよ。
それにしても、茂木くんも気が利くね。
まあ、君もがんばりたまえ」
私「なに、関根てめえ」
関根「こえええ」
私、関根「はははははは」
こういう飲み会で、案外
大切なアジェンダが出たりするのが
研究室というものである。
いくつか、重要なdecision makingが
行われたような気がする。
柳川は、週末自宅でシミュレーションを
するために、大きなコンピュータを
持ち帰った。
まるでカタツムリのようだった。
10月 29, 2005 at 08:34 午前 | Permalink
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2005/10/28
(予告)脳と文学 池田雅延氏
2005年11月4日
朝日カルチャーセンター
「脳と文学」講座は、
長年小林秀雄さんを担当された新潮社の
池田雅延氏をお迎えし、
小林秀雄さんの思い出、秘められたエピソード
などを中心に、文学の現場で考えて
こられたことについてお話いただきます。
http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture22.html
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0510koza/A0301.html
(以下、朝日カルチャーセンターからのお知らせ)
11月4日の回につきましては、一回だけの受講を受け付けます。
税込みで、3000円です。
予約・お問い合わせは、
朝日カルチャーセンター 03-3344-1945まで。
住友ビル48階受付にて申し込みもできます。現金のみで、カードは使用できません。
10月 28, 2005 at 12:25 午後 | Permalink
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切り株と頭
午前、研究所の運営会議。
気合いが入った。
経済物理学の高安秀樹さんと、
懸案のスケジュールについて詰める。
関根崇泰(博士2年)、柳川透(博士3年)
とランチ・ミーティング。
お気楽な話題で盛り上がるが、
このような時間をどれくらい持てるかが
つまりは大学院ということなのではないか。
研究はもちろん、
「楽しかった」という思い出を
残してやりたい。
東京芸術大学に移動。
後期初めての授業である。
大浦食堂の前を歩いていると、
向こうから蓮沼昌宏がカメラを
担いでやってくる。
「おお、蓮沼! 今日、内藤礼さんが
杉原信幸の作品見に来るってさ。どこにあるの?」
「あの、森の中にいます。」
「うん?」
「杉ちゃん、森の中に埋まっています。」
「あれれ?」
件(くだん)の「作品」は、杉原が
「表層の内側2」東京−大邱
東京芸術大学院美術研究科絵画専攻油画第4研究室
大邱カトリック大学大学院絵画科西洋画専攻
研究室間国際交流展
http://www.g-j2.com/
というイベントに向けて「制作」
したもののはずなのだが、
「杉ちゃん、森の中に埋まっています。」
とはどういうことか?
ちょっとわくわくしながら歩いていってみると、
木立の中に木の枝をサークル状に配置した場所が
あって、
それらに囲まれて、切り株が置いてある。
その切り株の横に少しくぼみがあって、
杉原が頭だけ出していた。
出していた、といっても、本当は
飛び出てもいなくて、
要するに地面のレベルよりもやや下に
頭があって、
顔だけくぼみの斜面から顔をのぞかせている、
というそういう状態だったのである。
「おーい、杉原、元気かあ? 内藤さん
見に来てくれるってよ!」
と声をかけても、杉原は返事をしない。
時折まばたきをしているけれども、
一切声を出さない。
「作品」は声を出してはいけないらしい。
うーむ、参ったなあ。
また、杉ちゃんやってくれたよ〜。
苦しくないかあ、
地面の中はどうなっているんだあ?
といろいろ聞いても、当然「作品」は返事を
しない。
心配だったが、授業開始時間に
なったので、
第3講義室に行き、みんなでイギリスの
コメディを見ながら「批評精神」について
考えた。
いつもより15分くらい早く授業を
切り上げて、杉原をみんなで見に行った。
内藤礼さんもいらして、
「きゃあ」と言った。
日が陰って来て、杉原の顔がよく見えなくなった
ので、
植田がライトを持ってきた。
「杉ちゃん、もうそろそろ出てきて
みんなで飲もうよ」と言っている
うちに、
何人かでわっせわっせと杉原を肩まで
掘り出した。
ちょっと勢いをつけて持ち上げて
やると、
杉原が、うんとこしょ、
っとまるでゾンビのように出てきて、
無言でふらふらと美術学部本館の
方に向かって歩いていった。
誰かが「トイレにいったんじゃないか」
と言っていたが、
「作品」は一切喋らないという「美学」
を貫きつつ、みんなの前から消えたのだと
思いたい。
杉ちゃんが「地中美術人」から地上の人に
戻ったので、
何だか一安心。
東京都美術館の前のいつもの
公園で、植田に買ってきてもらった
ビールやワインを飲んでいると、
杉原がふらふらとやってきた。
「作品」から「人間」に戻っていて、
ちゃんと喋るし、ビールも飲む。
「よくやった、乾杯!」と作品から
人間に戻った男をたたえる。
杉本博司さんが芸大に授業にいらしていたので、
まだその辺ではないかと、
橋本麻里さんに聞いて、ギャラリー小柳の
小柳敦子さんに連絡する。
まだ正門のあたりにいらしたので、
植田が迎えにいった。
ちょうど、六本木ヒルズで大規模な
杉本博司展をやっている。
オリジナルプリントが、オークションで
2000万の値がつく。
美術界のVIP登場に、学生たちも
盛り上がる。
布施英利さんもいらして、美術関係の
濃いミーティングの様相を呈してきた。
筑摩書房の増田健史も乱入。
少し肌寒いが、しかし心地よく、
東京都美術館前公園の飲み会の夜は
気持ちよく深度を増していった。
電通の佐々木厚さんも、いつも
ながらの名調子。
授業後の上野公園での飲み会は
もはや一つの伝統となりつつ
あるが、
昼間、芸大に向かって歩きながら思ったことが
ある。
こういうことは何時までもあると
思っているが、本当は判らない。
一期一会かもしれない。
後期は始まったばかりであるが、
これから寒くなると、外での
飲み会はできなくなる。
来年、私が芸大の授業を続けられるか
どうかも判らない。
(他の大学の授業が時間的に
苦しくなっても、芸大だけは最後まで
やりたい! と思っているのだけれども)。
何時までもある、と思っていた
東京都美術館前公園飲み会が、実はあの
時が最後だった、という可能性は常に
あるのであって、
そういう緊張感を心の底に持って
全てに臨みたいと思う。
それにしても杉原は愛すべきバカである。
60倍の難関を突破して芸大の油絵科に
入って、大学院まで行ってこういうことをしている
んだから、
そういうのを見られるだけでも、
芸大で授業を持っていて良かったと思う。

杉原信幸 「域」(Zone)
東京芸術大学構内の森の地面、切り株(画面左)、
杉原の頭部(画面右下)からなるコンポジション
(c)Nobuyuki Sugihara 2005

杉原信幸 「域」(Zone) 部分
(c)Nobuyuki Sugihara 2005
10月 28, 2005 at 08:14 午前 | Permalink
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2005/10/27
科学大好き土よう塾 脳科学スペシャル
10月 27, 2005 at 07:23 午前 | Permalink
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(本日)東京芸術大学 美術解剖学 「批評の精神」
東京芸術大学 美術解剖学授業
(後期第一回)
2005年10月27日(木)
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)
「批評の精神について」
日本のクリエイティヴを、とりわけ、そのコマーシャル
な展開に即して見ると、もっとも欠けているのは根性の
座った批評精神ではないでしょうか。
外国のキュレーターから見た日本の作品の
物足りなさも、そこにあると聞きます。
後期の授業を、イギリスのコメディにおける、
社会のタブーに突っ込む批評精神の実例を参照
しながら、「クリティカル」(critical)という
ことについて考えることで始めたいと思います。
茂木健一郎
http://www.geidai.ac.jp/campus/ueno_campus.html
10月 27, 2005 at 06:56 午前 | Permalink
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「意識は科学で解き明かせるか」増刷
講談社ブルーバックス
「意識は科学で解き明かせるか」
は増刷(6刷)が決まりました。
ご愛読に感謝いたします。
10月 27, 2005 at 06:48 午前 | Permalink
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「脳とコンピュータはどう違うか」増刷
講談社ブルーバックス
「脳とコンピュータはどう違うか」
は増刷(2刷)となりました。
ご愛読に感謝いたします。
10月 27, 2005 at 06:48 午前 | Permalink
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御礼
2005年10月24日付けの
「日本のクリエィティヴにダメ出し」
に対して、たくさんのコメントをいただきました。
皆さんの意見は、大変参考になりました。
御礼を申し上げます。
10月 27, 2005 at 06:46 午前 | Permalink
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知の青天井
慶應大学の日吉キャンパスに行くのは
久しぶりだった。
駅で降り、雨が降りそうだったので
傘を買い、
それからとぼとぼと歩いた。
まだ少し時間があったので、
ふらふらしていると、
大きなフィールドがあって
サッカーをしていた。
ベンチに座ってぼんやりしていたら、
高校一年の夏に初めてカナダに行き
ホームステイした
時のことが思い出された。
あの頃、カナダ人たちは、
皆「retirement」の話を
していた。
人生を降りるわけではないが、
定期的、継続的に何かをやるという
コミットメントからは降りて、
自由に時間を使う。
ホームパーティーで、ピクニックで、
そのような区切りへのあこがれを
もって大人たちが話しているのを、
日本でそんな話に触れたことが
ないティーンエージャーの私は
新鮮な驚きをもって聞いていた。
retirementのことを突然思い出したのは、
最近あまりにもon-timeが多すぎて
疲れ気味だからだろう。
引きこもって、エッセンシャルな問題を
ゆったりと考えてみたい。
そうは思っていても、なかなか
うまくはいかない。
できることは、目の前の仕事を
一生懸命やりながら、
少しずつ、少しずつセレクト
していくことでしかない。
大きな階段教室。
聞けば、皆学部一年生だということで、
急遽高度な内容は端折って、できるだけ
一般的な例を使って話す。
授業を終え、
研究所に向かう時、大学4年間で
起こること(起こるべきこと)は何なのだろう
と考えた。
思うに、高校までと大学との最大の差は、
「青天井」になることではないか。
決まった範囲で問題を解く技巧を競う
受験時代と違って、
大学に入ったとたん、知的アチーヴメントの
天井がなくなる。
上を見れば、どこまでもはるかに深遠な
知の世界が広がっている。
その知の世界の前では、大学の先生と
いえどもひょっ子に過ぎず、
手に手を携えて
学生たちとともに幾ら昇っても尽きぬ
知の階段を目指す、
そんな雰囲気が「アカデミズム」ではないか。
そのような大学の「理想」から考えると、
最近のキャンパスにはどうもお気楽なエンタティンメント
の雰囲気が忍び寄っている気がしないでもない。
無限に続く知の階段は、
別に単位を取るのが難しいとか、
授業の出席チェックが厳格であるとか、
そういうレベルの話ではない。
試験や成績など、そういうレベルの
話は本当はどうでも良い。
それでは高校に戻ってしまう。
知の青天井の下で、いかに上を
真摯にみはるかし、
高みを目指すかということが
本来アカデミズムの役割のはずなのだが。
そんなことを考えていたら、
retirementしなくてもまあいいか、
と思えた。
引退したいのは、単なるパフォーマンス
としての現世だったらしい。
未踏の世界を目指す仕事ならば、
on-timeがずっと続いてもいいかもしれない。
それは生きることだから。
10月 27, 2005 at 06:43 午前 | Permalink
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2005/10/26
慶應大学 理工学概論
2005年10月26日(水)(本日)
13:00〜14:30
慶應大学 理工学概論
茂木健一郎 偶有性の脳科学
慶應義塾大学日吉キャンパス
第6校舎 613番教室
http://www.keio.ac.jp/access/hiyoshi.html
10月 26, 2005 at 08:48 午前 | Permalink
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自家中毒
藤岡多野医師会の久保博先生に
お呼びいただき、医師会の会合でお話する。
医師会長の江原洋一先生が、
御巣鷹の冊子を下さった。
1985年の日航機事故で、藤岡のお医者
さんたちは大変なご苦労があったとのこと。
その体験記。
質疑応答になり、日大で宇宙航空医学
を研究されているという中里龍生先生から、
無重力空間に行くと、脳の働きも次の
ステージに進化して、
地上の脳科学では捉えきれなく
なるのではないかという指摘。
同感である。
もともとロシアの神学はそう考えている
と中沢新一さんに聞いた。
江原先生によると、アルツハイマー患者
の一部はスケールエラーのような行動を
起こすという。
ドアの蝶番側の隙間から人が見えると、
いきなりそちらに行こうとすると言うのだ。
三共の吉村篤所長は先にお帰りになり、
久保先生、それに三共でMRをなさっている
鵜飼文彦さんと
「五万石」に行く。
寿司屋のカウンターとして、今までみたことが
ないような見事で長いひのきが使ってある。
45年前の開店当時から使っているという
ことだが、今買えば一本(一千万)は下らない
という。
木というのは、奥深く、面白い世界である。
そのひのきは丸ごと買ったのだと言う。
根の部分を使ったテーブルもあったが、
そのくねくねと曲がった迫力あるかたちの
回りに仲間が集まって飲めばさぞ楽しかろう。
サバ、つぶ貝、うに、わさびあえ、
トロ、イカ、とり貝、エビ、エビ頭焼き、
などなどなど。
「五万石」をとてもおいしくいただきました。
小説に重大なる関心があるという久保先生は、
どこか、私が子供の頃かかっていた
ファミリードクターの菱川先生に風貌が似ている。
「そういえば、子供の頃、菱川先生に
よく『自家中毒』という診断を受けたのですが、
あれは何なのですか?」
と長年の疑問を久保先生にぶつけた。
つまり、あれは自己意識が過敏な子供が
なるのだと久保先生。
うーむと唸って八海山を飲むと、
ひのきのカウンターが
少し白く見えた。
10月 26, 2005 at 08:38 午前 | Permalink
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2005/10/25
日常に戻り
午前、研究所で、ある技術的問題についての
検討会。
やると面白い方向性がいくつか見えてきた。
ソニー4号館の食堂に
田谷文彦、田辺史子、関根崇泰と
ランチを食べに行って、
よしなしごとを喋る。
こういう時間は大切である。
帰ってきて、学生たちのいるスペースの
近くで仕事。
私は、研究所で自分の部屋にいることは
まずない。
学生スペースか、あるいは
パブリックスペースで仕事する。
そうしていると、何か議論をしたい
人とか、用事がある人が話しやすい。
リゾートの再建で有名な星野リゾート
の星野佳路さんは、社長室がなく、
休んだ社員の机などで仕事をするのだと
いう。
そのことを知った時、私と似た人が
いるなと思った。
ふと気がつくと、博士3年の小俣圭と柳川透が、
phenomenal consciousnessについて議論している。
何しろ忙しくなってしまったので、
ゆっくりと議論する時間がなかなかとれない。
こいつらも博士3年になってしまって、
できるだけ多くの時間、一緒に何かを考える
ようにしたい、とシミジミ思うようになって、
それで、ますます自分の部屋に閉じこもらなくなった。
実は迷惑に思っているかもしれないが(笑)。
そもそも、研究所に毎日顔を出せるわけ
ではないのだ。
夕刻、作曲家の三枝成彰さんが、「三枝塾」
の面々を連れて研究所を来訪。
キャリアプラン 代表取締役 冨永兼司さん
ゲームフリーク 取締役 開発部長 増田順一さん
リンクアンドモチベーション 代表取締役社長 小笹芳央さん。
三枝さんが主催される、少数精鋭の
勉強会である。
まずは、脳科学の最新トピックについての
レクチャー。
続いて、インタラクション・ラボで、
暦本純一さんが率いる「テクノ・マジシャン」
たちが創りだした最先端のインターフェイス
を見ていただいた。
綾塚祐二さん、河野通宗さんが
マエストロとしてご案内。
三枝さんが行きつけの六本木のフレンチで
さらに懇談した。
三枝さんの話はいつも面白い。
しかし、この人ほど忙しい人はあまり見たことがない。
別れ際、これから家に帰って午前4時まで
作曲して、
それからイタリアに一泊で出張するという。
どうぞ、お身体にお気をつけください。
10月 25, 2005 at 07:40 午前 | Permalink
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2005/10/24
日本のクリエィティヴにダメ出し。
Creativity Now 2005に参加するため、
原宿のラフォーレ・ミュージアムに行く。
始まる前に、文藝春秋の山田憲和さんと
打ち合わせ。
『クオリア降臨』の件。
ゲラの最終チェックと、
表紙のデザインについて確認する。
表紙は、かなりキックの効いた感じに
なっており、
発売が楽しみである。
本番が始まり、
自分が司会をするセッション
3つが、宇川直宏さんが司会を
するセッション1を挟んで進んで
行った。
最後のファッションのセッションで、
私はついに爆発してしまった。
徐々にたまっていったのである。
直接のきっかけは、ファッション雑誌を
巡る対話の中で「ざけるんじゃねえ」
となったことだが、
根本的な原因はもっと一般的で深いところに
あった。
過度の一般化をするつもりはないが、
当日の会場の雰囲気を一言で言えば、
日本の「クリエーター」たちは、自分たち
の世界を他者に対して語る言葉を持たないの
である。
そこにあるのは、仲間うちの
なれ合いだけで、外からの水が入り込んで
きてきゅんと緊張する場面がない。
一人、デンマークからゲストで
来ていた人には、マトモに話が
通じた気がしたし、何人かの
ゲスト(特に、どちらかと言えば
黙っていた人たち)にも話が通じる
気がしたが、べらべらと
喋っている人ほど、内語の宇宙に籠もって
そこから出てこないのであった。
それをぶち開けないと、本当の
クリエィティヴなんてできないじゃん!
というのが私のメッセージだったのだが、
通じたかどうかは知らん。
とにかくアッタマに来た。
自分の司会が終わって、
いらいらしながら出て行って、
見に来ていた電通の佐々木さんらと
近くでビールを飲む。
ワインを飲みながら落ち着いていって、
あっ、そうか、と判ったのは、
会場のしつらいが全てを語るメッセージ
だったということ。
ソファやチェアが置いてあり、
そこでゲストがくつろいで喋っている。
会場に向かって、というよりは、
自分たちの間で。
それを、聴衆が拝聴する、という構図。
丁々発止もなければ、
異質な意見の対立もない。
つまり、日本のクリエィティヴシーンに
おいては、「おれたちクリエーター仲間
だから」というクラブに属することが
何よりも重要なのであり、
会場を埋めた若いクリエーターたち
も、
「いつかはあっち側に行きたい!」
と憧れるという構図がそこにあって、
異質な他者と向き合ってコミュニケーション
するなんて話は、最初からないのだ。
もちろん、クリエーター一人一人
はそれなりに他者と向き合っているに違いないが、
コミュニケーションのスタイルが
仲間内のそれになっていることが、
決定的にダメなところで、
作品は知らないが、言葉には、
それだけでキックが効いているものは
ほとんど皆無だった。
つまり、商品にならねえんだよ。
そりゃそうだ。他者に向き合わなければ、
キックの効いた言葉なんて出るわけないじゃん。
渋谷の女子高生が「オヤジ」のつくった
システムに反抗している、
と言いっぱなしにさせているところが
そもそもダメで、
その「オヤジ」のシステムにお前たちも
少しぶらさがっているんじゃねえのかよ!
とか、
そういうコンフロンテーションが全く
ないから全てがぬるま湯でつまらねえ。
青土社的にも、あれじゃあ
本にならねえ!
とボツ宣言だった。
勝手に打ち上げの席で、
ちょうど目の前に東大生が
二人いたので、オレはアジった。
いいか、おまえら、
今の社会では、あの「クリエーター」
たちが一番いばってんだよ。
金も来るし、人々の注目も集めるし、
いちばん、自分たちの存在意義を
問わなくてもいい立場にいるんだよ。
世間は、東大とか、工学の研究なんて、
気にもとめていねえよ。
お前らが自分の研究を
獄本野ばらみたいな調子で言っても、
誰も聞いてくれねえだろ。
ファッション業界の内幕、みたいな
感じで、
研究の話をしても、無視されるだけだろ。
ところが、「クリエーター」たちは、
そういうことが許されると思っている
んだよ。
くだらねえけど、それが現代だ。
地上波テレビのバラエティの構造って、
まさにそれじゃん。
うんざりだけど、そういうのと、闘わないと
しょうがねえじゃん。
自称クリエーターたちの言っていること
のくだらなさをちゃんと指摘していかないと
ダメだね。
ふざけんじゃねえよ。何がホワイトバンドだよ。
マルクスの「資本論」は、資本主義の構造を
ちゃんと説明したわけじゃん。
ホリエモンも三木谷もその上に載っている。
それが、ホワイトバンドってなんなんだ?
ああいうのに意味があると勘違いして
踊っているやつら、
そりゃあ、生活の中の一つのアイテムとしては
いいけど、
オレもシャレでつけるかもしれないけど、
それで世界の貧困がなくなるはずねえだろ。
外の世界に対する緊張感がなくなったら
おしまいだね。
きっと、作品も、ろくなものができねえな。
日本のクリエィティヴにダメ出し!
と、みんなでひとしきりアタマに来たところで、
打ち上げに行き、TOKIONの南さんとか、
宇川直宏とかに「ご苦労さま!」
と言っている頃には、私はすっかり普通の
いい人になっていた。
怒るのは愛の表現です。
すばらしい新しいものを、本気で他者に向き合って
つくろうじゃねえか。
居心地の良いぬるま湯につかっているやつらの
ことは、オレは知らない。
10月 24, 2005 at 07:27 午前 | Permalink
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2005/10/23
「自然は“想定外”の先生」
ヨミウリ・ウィークリー
2005年11月 6日号
(2005年10月24日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第75回
「自然は“想定外”の先生」
一部引用
教育関係の仕事で訪れた金沢で、海岸の松林を歩いた。自然の中で子供たちが学ぶ姿を見るのが目的だった。
「こうなるだろう」とあらかじめ想定していても、自然は必ずと言って良いほどその予想を裏切る。「想定外」の出来事に満ちていてこその自然なのである。だからこそ、教室の外に出ることの意味もある。
さわやかな秋の一日、子供たちも沢山の「想定外」に出会っていたが、私も大変面白かった。空いている時間にアリジゴクを観察したのである。
松林の中に開けた見晴らしの良い丘の上に、アリジゴクの巣が数多くつくられた一角があった。上に何の覆いもない、雨ざらしの場所である。私が育った関東平野の郊外では、アリジゴクの円錐状の巣は神社の軒下などにあるというのが「常識」だったから、巣のある場所がまずは「想定外」だった。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 23, 2005 at 07:41 午前 | Permalink
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本のこと
増田健史が先週電話してきて、
「茂木さん、今度の日曜の日本経済新聞に
『脳』整理法の広告出しますから!」
と言っていた。
確かに出ている。すっきりした
良い広告である。
筑摩書房の皆様、いろいろ
ありがとうございます。
本はもっぱら読むだけだった頃は、
これだけ多くの人が関わっている
とは知らなかった。
たとえば、「タイトル」は著者が
勝手につけるものだと思っていたが、
実際は編集者が営業などの
意見を聞いて決めていく。
装丁なども、著者の趣味だと思っていたが、
とんでもない。
簡単に言えば、著者は「本文」という
素材を提供するだけで、
それがどのように料理されるか、
あとは他人任せということになる。
最初はそれが「うゎーつ!」という
肝を冷やす経験につながったこともあったが、
慣れるに従って、
それぞれのセクションでベストを尽くして
下さった結果、できあがった
「本」という作品の姿が楽しみになって
きた。
だから、今は「本文」という素材を
提供する、ということに無上の喜びを
感じている。
文藝春秋から11月に出る
「クオリア降臨」はある意味では画期的な
本で、
というのも、このタイトルからは
何の本なのか、簡単には判らない。
文學界の連載をまとめたものだが、
編集の山田憲和さんが
がんばって下さったおかげで、
説明的ではないタイトルが
ついた。
たまには
「脳」という言葉が入らない
本がつくってみたいと思っていた
願いが叶ったのである。
12月15日には、徳間書店から
小説『プロセス・アイ』が刊行される。
脳、経済、政治などを絡めた
近未来もの。
原稿自体は3年前に書き終えていたのだが、
そのあといろいろfine tuningして
満を持して出ることになった。
それと、これもおそらく12月に?
「ヨミウリ・ウィークリー」の連載
(「脳の中の人生」)を
まとめた本が出る(タイトル未定)。
全て、最近の書き下ろしではないので、
著者には負担は実はあまりない。
本が出るのは嬉しいことだけれども、
実は少し休みたいというキモチもあって、
大切な仕事に絞って、あとはあまり
新規には受けないでやっていきたいと
いうキモチが強い。
本当は、1ー2年外国に逃亡して、
エッセンシャルな問題に没入したい。
自分が何を考えていきたいのか、
どんな問題が大切なのかはよく判っていて、
そのことに寄り添ってやっていきたい。
たとえば、「脳を鍛える」類のことは
あまり関心がない。
難しい問題に一人称で取り組む、
あるいは、ポジティヴな、しかし
裏付けのあるメッセージを
広く伝える、その二つが大切な
仕事の領域ではないかと思っている。
ときによれよれだが、
まあ、とにかく、がんばるよ。
今日は原宿で、宇川直宏さんと
Creativity Now Tokyo 2005
楽しみだ。
10月 23, 2005 at 07:34 午前 | Permalink
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2005/10/22
ネイティヴ化計画
「ヨミウリ・ウィークリー」の
笠間亜紀子さん。
最近の「脳を鍛える」ブームについて。
The Brain Club (研究室のゼミ)
修士一年の大久保ふみ、箆伊智充、星野英一
がどのような研究をするか、
アイデアを発表する。
問題意識はとても判るのだけれども、
まだ具体的な実験系やモデル・システム
に落とすことが出来ていない。
20編くらい関連論文を
読むと見えてくるのではないか。
朝日カルチャーセンター
『脳と文学』の第一回。
「文脈」をテーマに、
視覚におけるcontextual perceptionの
論文を読み、
小林秀雄の『無常といふこと』を
とりあげる。
映画は小津安二郎『麦秋』
終了後、懇談。
PHPエディターズ・グループの
石井高弘さんが、後輩を紹介したい、
と北村緑さんを連れてくる。
NHKおはよう日本の谷卓生さんも。
その他、NTT出版の牧野彰久さん、
ちくま書房の伊藤笑子さんなど
編集者関係で周囲をかためられて、
苦しい思いがした(笑)
明けて今朝、先日届いたLittle Britain 2nd series
のDVDをだらだらしながら見る。
久しぶりに少しゆっくりした。
とは言っても、好きなコメディの話だし、
英語Native化計画の一環だから、
仕事の一部だと言えないこともない。
言葉というものは、結局、生きて常に
変化するものだから、nativeである
ということの言葉の作用は、結局「生きる」
ということとエネルギーやダイナミクスに
おいて等価になる。
日本の文部科学省のように、「中学で
学ぶ英単語はこれだけ」などとsmall worldを
つくっていたら、絶対に「生きる」という
ことの切実さに接続などできない。
英検一級とか、TOEICとか、ああいう
ことも意味がない。
そのレベルをクリアした後で
(そんなことをクリアしなくても)
無限の世界が広がる。
そのことは、私たちが普段日本語を使って
いかに必死に生きているかということを
思い越せばすぐに判るだろう。
言葉を話すということは、生きるということである。
それが判っていないから、いつまで経っても
日本の英語教育はまともなものにならない。
ここで書いていることは、「無常といふこと」
のテーマと無関係でもない。
10月 22, 2005 at 12:13 午後 | Permalink
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2005/10/21
『脳と仮想』 9刷
新潮社『脳と仮想』はおかげさまで
増刷(9刷、累計2万8000部)が決まりました。
ご愛読に感謝いたします。
10月 21, 2005 at 06:50 午前 | Permalink
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あすへの話題 大人の誕生日
あすへの話題 大人の誕生日
茂木健一郎
本日(10月20日)は、私の誕生日である。1962年のこの日に生を受けた。皇后さまと偶然にも同じなので、子供の頃から覚えてもらいやすかった。
この年になると、誕生日といっても特にお祝いするわけではない。ただ何となく「また一つ年をとったか」という感慨があるだけだ。今さらパーティーなんて、というのが世の大人たちの本音なのではないかと推測する。しかし、本当は誕生日のパーティーはやった方が良いのではないかと思う。
欧米では何歳になってもパーティーをやっている。私も、何回かその場に出くわしたことがある。実に他愛ないもので、ただ集まって乾杯し、軽い食事を共にするだけであるが、楽しかった。集った人々の笑顔を思い出してみると、パーティーの効用は、確かにあるに違いない。
子供の頃、誕生日のパーティーをやってもらうことは、くすぐったいような、飛び上がるほど嬉しいような、妙な気分だった。その日は自分が主役になる。春に日差しを浴びているようにぽかぽかする。他人が好意をもって祝ってくれる、ということは、脳にとっては何よりの報酬である。
人類の文明の歴史を眺めてみると、大人が自分の中に残っている子供っぽさを肯定し、積極的に活用する方向に進化して来ているように思う。近年ますます求められるようになって来ている「創造性」も、良い意味での子供っぽさなしでは成り立たない。誕生のパーティーなんて大人げないと思っていると、時代の波に逆行する。
一年に一度くらいは童心に還るのも良いだろう。この世に生を受けたことを感謝する。大人の誕生日を大切にしたい。
(日本経済新聞2005年10月20日夕刊掲載)
10月 21, 2005 at 06:46 午前 | Permalink
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脳と文学
10月 21, 2005 at 06:40 午前 | Permalink
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基準
今週は、あまりにもたくさんの
仕事がありすぎて、ずっとテンパっている
状態だった(である)が、
その中でも、「魂の仕事」ははっきりと
つながっている。
これだけは心を込めて、ということに
向き合っている時は、心身共に気持ちが良い。
移動しながら、
講談社文芸文庫 小林秀雄対話集
を読んだ。
もちろん、全集で持っているのだが、
こうやって文庫で持ち運べるとまたうれしい。
坂口安吾と、三島由紀夫を読んだが、
本当の対話というのは、自分を脅かし、
揺らすものでなければならないのだなと
思った。
仕事もまたそうである。本当に大切な
仕事は、自分をほどき、変えていくもので
なければならない。
自分自身が偶有性(なかば規則的で、
なかばランダムであること)のかたまり
であると自覚できるようなことで
なければ、詰まらない。
仕事をしぼっていくとしたら、
それ以外に基準はないだろう。
思春期の恋愛のことを考えても、
自分が揺り動かされ、変わっていくことが
一番大切だということは納得できるはずだ。
多くの方から誕生日のメッセージをいただきました。
ありがとうございました。
10月 21, 2005 at 06:23 午前 | Permalink
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2005/10/20
東京芸術大学 美術解剖学
本日予定しておりました
「美術解剖学」の授業は、
美術解剖学教室の古美術研究の
イベントのため、休講といたします。
10月 20, 2005 at 08:49 午前 | Permalink
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わらわら
私の誕生日は今日(10月20日)
である。
ちょうど誕生日に新聞にコラムが掲載
されることなどそうないと思って、
今日の日経の夕刊の「あすへの話題」
は誕生日ネタにした。
昨日(19日)のことに戻る。
午前、
ソニー教育財団での評議員懇談会。
ソニー教育財団は
井深大さんの意を受けて、
「科学する心」を育むために
驚くほど多くの仕事をしている。
その成果を、いかに一般の
人々のpublic awareness of scienceに
つなげて行くか。
その方策を議論。
東京工業大学すずかけ台キャンパスに
移動。
中村清彦研究室の林栄治さんの
博士予備審査。
続いて、小俣圭、柳川透の
予備審査。
博士は、修士のようには
いかない。
通過儀礼だから、いろいろ
あるけれども、
そこを通り抜けるとぱっと
世界が明るくなる。
青葉台の中華料理で
知能システムの懇親会があり、
そこで、小林秀雄賞のことを
お祝いしていただく。
ありがとうございました。
山村雅幸先生や、小林重信先生と
楽しく話す。
知能システムの客員をして、6年目
ということになる。
ちょうど、柳川や小俣たちが同じビルの
「笑笑」で「打ち上げ」をしているというので、
時々顔を出す。
中華と笑笑を往復。
笑笑で、わらわらと笑っていたので、
ほっと一息。
10月 20, 2005 at 07:28 午前 | Permalink
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2005/10/19
「脳」整理法 増刷
「脳」整理法(ちくま新書)
は、増刷(5刷、計6万部)となりました。
ご愛読に感謝いたします。
http://www.qualia-manifesto.com/nouseiri.html
10月 19, 2005 at 07:37 午前 | Permalink
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キックオフ
六本木のスタジオで、
日本画家の千住博さんと対談。
「日本の美」を巡って。
日月山水図屏風の資料を前に、
千住さんが、「春、夏、秋、冬を一つの
絵の中にこうしてならべるというのは、
日本だけななのではないでしょうか」と。
「この月は、もともと銀で描かれて
いたのでしょうが、うすれてこうなって
しまうということは、当然画家は
予想していたでしょう。
自分の手で描かれたものに、時間の
作用が加わって、このようなかたちに
なる。
いわば、画家と時間の共同作業なのです」
「普段NYに住んでいて思うことは、
茂木さんが言われるように、他者という鏡があって
はじめて自分のことが判るということです。
日本の美に目覚めたのは、ボストン美術館
でのことでした。
日本の美を、いかに普遍的な概念に
つなげていくかということが大切なのでは
ないでしょうか。」
千住さんの提案で、和装した。
ステテコをはいて、あとは名前が
わからぬ。
対談を終え、六本木のテレビ朝日通りの
Le Bourguignonに移動している途中で、
千住さんも実は和装するのは初めて
だったと聴いた。
千住さんはしみじみとおもしろい方なり。
対談もまたおもしろかったなり!
和樂の蔵敏則編集長、石塚晶子さん。
千住さんの秘書の目崎祥徳さんも
加わり、おいしいランチ。
研究所へ。
日本経済新聞社の佐藤慎(まこと)さん。
PCのインターフェイスの未来について。
柳川透、小俣圭は博士の予備審査に向けての
準備をしている。
その横で、私も仕事をする。
NHKへ。
『プロフェッショナル』のスタッフ。
おなじみの有吉伸人さん、住吉美紀さん、
細田美和子さん、河瀬大作さん、小池耕自
さんに加えて、たくさんの方々が。
打ち合わせ、懇談のあと、
以前から「行きましょう!」と言っていた
カラオケへ。
いやあ、私は驚いた。
皆さん芸達者。しかも、脱抑制のツボを
心得ている。
やはり、audiovisualなドメインで普段
仕事をしていることは伊達ではない。
人間というのは、すごい
生き物だなあと思った。
それぞれの仕事で、突き抜けて
見えてくる領域があり、
それを言葉にしないとしても
実はちゃんと見えている。
私は実はかなり厳しい状況で(であり)、
またもやコンピュータを取りだしてその場で
仕事を始めるというワザも使ったが、
どうしても途中で「お先に」というわけには
いかなかった。
大切な「キックオフ」だったからである。
昔、ラーメン屋に行くと、
「店のおやじになめられるから」と
必ずスープを最後の一滴まで飲み干した。
その感じに似ていた。
最後まできちんと歌って(ラストは
ミスチルをコーラスラインのフォーメーションで
合唱して)終わった。
気合いが入った。
楽しかった。
それから、
誕生日のお祝いということで、
花束とシャンパンをいただいた。
みなさん、ありがとうございました。
タクシーに乗ってすぐに仕事を
始めたが、意識がとぎれて気付いたら
家の近くだった。
10月 19, 2005 at 07:31 午前 | Permalink
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2005/10/18
存在証明のミニマリズム
中央公論の岡田健吾さん。
写真部長の立林映二さん。
ヨミウリ・ウィークリー連載の
「脳の中の人生」が新書ラクレに
なる件。
ゲラをいただく。
なんだか、
書いたものが
別の生きものになった気がする。
岡田さんは相変わらずの
サービス精神。
同居人が「テレビ関係」と初めて
知った。
ただし同居人は男で、全部で3人なり。
共同通信の宗像道子さん。
お正月の「脳」特集。
「アハ!」(ひらめき)について。
小俣圭、柳川透の
博士論文予備審査が水曜日にあり、
その予行をする。
発表30分、審査30分。
こちらもだんだん緊張してきた。
なによりも、論文をジャーナルに通すのが
肝要。
コンビニに行って、栄養ドリンクを
8種類買ってきて小俣にあげた。
小俣と柳川が、好きなのを4つずつ取った。
財団法人塩事業センターの
大庭剛司さん、アルシーヴの佐藤真さん、
青土社の今岡さん。
「おいしさのクオリア」の単行本化の件。
打ち合わせの最中も、申し訳ないが
ワインを飲みながら仕事をしていた。
ひどい話だが、仕方がない。
今週はそれくらい切羽詰まっている。
この日記も存在証明のミニマリズムなり。
しめきりがわっと。小俣、柳川
以外にもいろいろ。
さればさようなら。私にも栄養ドリンクください。
動物の絵が描いてあるやつが効くようで。
10月 18, 2005 at 06:46 午前 | Permalink
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2005/10/17
「脳」整理法 朝日新聞広告
10月 17, 2005 at 07:35 午前 | Permalink
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Uprise座談会
石井琢郎、小俣英彦、今野健太、坂本暁美、茂木健一郎
上野の森美術館 2005年10月16日
音声ファイル ( MP3、78分)
10月 17, 2005 at 07:16 午前 | Permalink
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立ち上がれ
上野の森美術館で、
Uprise展をやっている
芸大彫刻科の石井琢郎、
小俣英彦、今野健太の3人と、
上野の森美術館、学芸員の
坂本暁美さんと座談会をした。
その時にも言ったが、
近来にないすがすがしい気分になった。
これから世に出ようといろいろ
模索している時にあらわれる
「あわい」のような気分が何とも言えない。
石井くんがずいぶん真剣にいろいろな
ことを考えていることは伝わってきたし、
小俣くんが、あえて言葉にしない
領域に託そうとしていることは
わかった。
今野くんの技術的なディテールへの
こだわりにも共感できた。
人間、「どうなるか判らない」という
偶有性を失った時に、「終わってしまう」
のであって、
ルビコン川を渡り続けなければならない
のである。
石井くんは、展覧会のwebpageに、
「現在の日本の状況を我々若い世代が生きながらに感じていること
は、表現の場というものがかなり限定されてきていて、過去の世代か
らの流れしか存在しないかのように見えることです」
と書いている。
だからこそのuprise(蜂起)なのだろうけど、
そういう気持ちを持つことは
何事かを達成するための十分条件では
ないにしても、必要条件ではあると
思う。
そんな石井くんたちの気配が伝わってきたから、
すがすがしい気分になれたのだと思う。
立ち上がれ。
それで、結局ダメでも、いいじゃないか。
10月 17, 2005 at 07:10 午前 | Permalink
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2005/10/16
「脳と創造性」増刷
「脳と創造性」
(PHP研究所)は
増刷(4刷)が決まりました。
ご愛読に感謝いたします。
10月 16, 2005 at 11:39 午前 | Permalink
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「本物の学問はどこに?」
ヨミウリ・ウィークリー
2005年10月 30日号
(2005年10月17日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第74回
「本物の学問はどこに?」
一部引用
私が大学に入った頃は、まだ、「学問の香り」に対するあこがれがあった。キャンパスに一歩足を踏み入れれば、身が引き締まった。大学の先生と言えば、長い間の精励の結果、余人には容易に図りがたい学識を身につけた尊敬すべき人々であり、その深い教養に基づいて人類未踏の知的課題にチャレンジしている、そのようなイメージがあったように思う。
ところが、近頃では、大学のキャンパスが、悪く言えば「市役所の受付」のような雰囲気になって来ている。何も市役所を揶揄したいわけではないが、大学が本来持っているはずの知的な興奮や、未知のものを探究するというチャレンジ精神が希薄になってきているように感じられるのである。
希望となるのは、学生たちの意欲が高いことだろう。社会に出て役に立つ「実学」を求める者ばかりではない。せっかく大学に来たのだから、四年間、学問の香りに触れたいという切ない思いを抱いている学生は、案外多いのである。そのような熱意に応えるためには、学問を教える側がよほど真剣にならなくてはならない。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 16, 2005 at 11:37 午前 | Permalink
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あすへの話題 快楽のアマゾン河
あすへの話題 快楽のアマゾン河
茂木健一郎
「食欲の秋」と言うだけあって、食べ物が美味しい。ついつい飲食が過ぎて反省することになるが、少々後ろめたいくらいでないと人生は楽しくない。
人間の脳は、基本的に快楽主義者である。ある行動をして、結果として脳の中で「うれしさ」(報酬)を表現する物質であるドーパミンが放出されると、その行動が強化される。脳は、ドーパミンが出る前の行動を強めることで、快楽を増やして行こうとするのである。
もっとも、人間の場合、快楽は単純なものではない。数学者などは、毎日未解決の問題について考えるのが快楽である。毎朝起きると、「さて、今日もあの難しい問題に取り組めるぞ」とわくわくする。常人から見ると何とも奇妙だが、それもまた立派な脳内の快楽文化なのである。
自分の脳の中で、快楽の「上流」に何があるか。それを自問してみれば、自分がどんな人間であるか判る。食べたり飲んだりといった生物として基本的なことはもちろんであるが、それ以外にどんなユニークな行動が脳内快楽につながるか、そこが勝負のしどころなのである。
世に言う「快楽主義者」に案外詰まらない人が多いのは、その場合の「快楽」が紋切り型だからである。人間は単純なる快楽のみで生きているのではない。「楕円関数」について考えるのが楽しくて堪らないとか、江戸時代の寺社奉行の日記について調べるのが無常の快感であるとか、どうせならそれくらいに達しないと、脳内快楽の達人とは言えないのである。
様々なユニークな「うれしさ」の支流がやがてアマゾンのごとき大河となる。そんな人生は最高ではないか。
(日本経済新聞2005年10月13日夕刊掲載)
10月 16, 2005 at 11:32 午前 | Permalink
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天才になる方法
NHKで「科学大好き土よう塾」の
収録。
今回は、「天才になる方法」
ということで、
ひらめきがテーマ。
塾長の室山哲也さん、アシスタントの中山エミリさん、
それにシオン君、輝弥君、美里ちゃん
のいつものメンバー。
「アハセンテンス」の数が足りなかったので、
会議室で中山エミリさんを交えてみんなで
打ち合わせをしている間、
私はひそかに頭の体操をして3つひねり出した。
どれもそれなりの出来なり。何となくこつを
掴んだように思う。
人間、追い込まれればなんとかなるものである。
スタジオに行くと、なぜか芸大の植田工がいる!
そういえば、ディレクターの近藤さんが、
「植田さんにニュートンの絵を描いていただきました!」
と言われていたのを思い出した。
いつもは、放送時間ちょうどの時間で収録
(「完パケ」)するのだけれども、
今回は、セクション毎にリハーサルをして、
本番の収録をする、ということを繰り返す
方式。
盛り上がって楽しい収録だった。
「サイエンス・ゼロ」のプロデューサーの
落合淳さんも「オブザーバー」としていらっしゃる。
収録後、渋谷の韓国料理屋で、「反省会」
室山哲哉さん、高橋さん(CP)、近藤さん
(PD)、植田、私、それに、子供たちに「演技指導」
をしているオフィス・トゥー・ワンの内海さん。
室山さんを中心に、シリアスな演出論
も出る。
高橋さんのお父様は、名古屋大学の医学部の先生で、
有名な蝶の研究家でもある高橋昭さん。
高橋さんの本は、子供の頃愛読したので、
ついつい蝶の話で盛り上がる。
「それは、一般の人々にとってはどういう
意味があるのか!」と室山さん。
確かに、「最近東京でツマグロヒョウモンが
増えている!」
とか、
「ヒサマツミドリシジミとキマダラルリツバメは
どっちが偉いのか?」
とか、
「オニヤンマやウチワヤンマはヤンマではない!」
といった話題は、一般の人々にとってどのような
意味があるのか、よく判らない。
判らないが楽しい。冬の林の中でゼフィルスの
卵を探したり、ゴマダラチョウやオオムラサキの
幼虫を探したりするのは、子供たちにとっても
実に楽しいことになるのではないかと思う。
自然は、予定調和では決して行かずに、
驚きに満ちているからである。
自然こそが脳にとって必要な栄養素、
「偶有性」の源である。
今朝の朝日新聞に、増田健史の予告通り、
「脳」整理法(ちくま新書)の広告が大きく
掲載されている。
急上昇! 5万部突破!
とある。
売れ行きは偶有性だから、
お釈迦様でもご存じない。
10月 16, 2005 at 11:23 午前 | Permalink
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2005/10/15
アップライズ展
アップライズ展
ー彫刻における現代への視座ー
2005年10月7日〜10月30日 開催中
10:00〜17:00 会期中無休、入場無料
http://uprise-info.com/sub1.htm
座談
2005年10月16日(日)17:00〜18:00
茂木健一郎
坂本暁美(上野の森美術館 学芸員)
石井琢郎、小俣英彦、今野健太
彫刻の自由 ーその不自由を突き抜けてー
http://uprise-info.com/sub3.htm
10月 15, 2005 at 10:17 午前 | Permalink
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逃げ出したアリジゴク
ソニー教育財団は、
「ソニー幼児教育支援プログラム」
を実施しており、
その「優秀プロジェクト園」に
選ばれた金沢の大野町保育園に
伺った。
大野町保育園は、海岸沿いの松林の中にあり、
子供たちが風をつかまえようと林の中を
かけていった。
私はしばらくその様子を見た後、
ふらふらと一人で見晴らしの丘の方に
歩いていった。
足もとを見ると、アリジゴクの巣が
沢山ある。関東では寺社の軒下など、
雨が当たらないところにあるが、
ここは吹きさらしである。
巣の一つにアリを落としたら、
アリは一瞬のうちに這いだしてきてしまった。
アリではダメかと、ダンゴムシを
落としたら、
予想外のことが起こった。
アリジゴクが驚いて、巣の中から
逃げ出してしまったのである。
アリジゴクは、「ああ、びっくりした」
とでも言うように、近くの草むら
まで駆けると、そこで後ずさりして
土の中に潜り込んだ。
ちょっと失礼して、アリジゴク君を
外に出てもらって撮影した写真が
これである。

立派な個体で、関東で軒下に
巣をつくるやつよりも「鬼」のように
見える。
獲物が来てアリジゴクが逃げ出す
などという事態は想定していなかった。
これだから自然は面白い。
人間の脳の前頭葉は、想定した
文脈以外のことが起きる時に
その真価を発揮するが、
考えてみれば、文脈外のことが
闖入することなど、
自然の中では日常茶飯事である。
アリジゴクの巣を見ている時、
突然バッタが飛んできたびっくりした
のもまた文脈外。
いつの間にかアリジゴクの視線で
見ていて、
その巨大さに驚愕した。
文脈ダイナミクスへの適応は
何も人間の専売特許ではない。
アリジゴクを見ていたらそのことを
思い出した。
体育館で、
「子供たちの脳を育む」というタイトル
で講演。
宝生寿司で打ち上げ。ユニークな園長先生。
帰りの飛行機の中でも、ずっと
アリジゴクのことを考えていた。
金沢入りしたのに、21世紀美術館には
行けなかった。
田森佳秀にも会えなかった。
アリジゴク君の想定外に比べれば、大した
ことではないが。
10月 15, 2005 at 10:09 午前 | Permalink
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2005/10/14
金沢
ソニー教育財団の仕事で金沢。
海辺の松林の中にある保育園。
アリジゴクを見た。
10月 14, 2005 at 10:46 午前 | Permalink
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2005/10/13
Creativity Now Tokyo 2005
2005年10月23日
ラフォーレミュージアム原宿
http://www.tokion.jp/conference/index_a.html
アダム・グリックマン、宇川直宏、茂木健一郎、板尾創路、楳図かずお、ドクター中松、松本俊夫、小谷元彦、オリヴィエ・ゴンドリー、ヘンリック・ヴィブスコフ、辛酸なめ子、嶽本野ばら、山口小夜子、米原康正、おちまさと、林文浩、森本容子、石黒望、飴屋法水、ジョニー・ハードスタッフ、根本敬、ANI(スチャダラパー)、天久聖一、いとうせいこう、高木完、ムードマン
10月 13, 2005 at 07:49 午前 | Permalink
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一日付き人
東京大学の船曳建夫先生のゼミの
山崎康太郎くんが、ゼミの企画で
「一日付き人」として
行動をともにした。
東京芸術大学で、養老孟司さんの
年に一回の美術解剖学の授業。
始まる前に、大浦食堂で
養老さんとお話する。
「いやあね、50年前に一匹だけ
とれたカメムシが、一気に3匹も出てきて
びっくりしたよ。」
と養老さん。
「夜、1匹とれて、50年ぶりだと
喜んでいたら、朝になって玄関のところに
また2匹いるんだよ。」
「温暖化の影響ですかね」
「そうかもしれない。それとね、
誰かが放したアカボシゴマダラが普通種に
なっている。」
「アカボシゴマラダですか!」
「うん、それと、ナガサキアゲハも
随分普通に見られるようになったね」
アカボシゴマラダは、日本ではもともと
奄美大島にしかいない蝶である。
後ろバネに美しい赤い紋がある。
いざ鎌倉、と思ったが、
今年はもう遅いだろう。
来年こそ。
授業開始。
「感性の時代とは言うけれど、
記号ばかりで感覚が否定されている
この世の中に、君たちよくアートをやっているね」
と養老さん。
養老さんのお話を久しぶりに
堪能してから、研究所へ。
日本経済新聞の取材。
インターネットと未来について。
Kandelの読書会をやっていたので、
その横で聞き耳を立てながら
仕事をした。
関根崇泰がなかなか見事に
仕切っている。
六本木のマクシヴァンに移動。
TOKIONの西村大助さん、南有紀さん
と打ち合わせ。
となりに電通の佐々木厚さん。
テレ朝通りの「ランビキヤ」
に移動。
鈴木健、池上高志、東浩紀、安斎利洋、
渋谷慶一郎、文二2年の秋山くん。
東さんとお話するのは久しぶりだった。
いろいろ仕事があるので、
山崎くんを置いて先に失礼したが、
山崎くんは池上、東両先生と話して幸せ
だったらしい。
「一日付き人」、お疲れさまでした。
「脳」整理法(ちくま新書)は発売一ヶ月
新書のベストセラーリストに名を連ねているが、
さらにターボをかけようと、
今度の日曜日(10月16日)の
朝日新聞に広告が案外大きく出ます、
と増田健史からメール(筑摩書房編集者兼
「脳」整理法販売促進本部CEO)が来る。
今回は、蓮沼昌宏の「指人形イラスト」
はないらしい。
目論見通り売れれば良いのだが。
fingers crossed.
10月 13, 2005 at 07:39 午前 | Permalink
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2005/10/12
For the love of pampas grass
For the love of pampas grass
The qualia journal
http://qualiajournal.blogspot.com/
10月 12, 2005 at 06:31 午前 | Permalink
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気合いの入ったやつはどこにでも
神楽坂で
金森修さんと2時間対談。
金森さんとお会いするのは、数年前の
「養老孟司シンポジウム」以来である。
あの頃、金森さんは『サイエンス・ウォーズ』
を出版され、「時の人」だった。
山上会館でのシンポジウムが終わった後、
本郷三丁目の居酒屋で飲んでいる時、
金森さんが「いやあ、こんなフレンチ・
ジョークがあるんだけどね」
と紹介したネタが素晴らしく、
それから私は何十人にも「金森ジョーク」を
伝播している。
生まれて以来、ずっとビリ。学業もビリ、
女にももてず、仕事もぱっとしない。
そんな男が、生涯でたった一度だけ
一位になったことがある、
というジョークなのだが、
(ヒント:人生の本当に一番最初)
それで、一気に金森さんは信用
できる人だと思った。
人生の最初に一位になって、
その結果この世に生を受けたことに
比べたら、生まれた後ずっとビリなんて
ことは本当にどうでも良いことなのではないか。
対談は脳から生命倫理まで、幅広く。
驚いたのは、金森さんの早口で、
私は大抵の人より早口だが、
その私が「あれれ」と思うくらい
機関銃のように金森さんは喋った。
金森さんはパリ留学が長い。
それで思い出したことがある。
昔、ものすごいスピードで歩くのを
習慣としていた頃がある。
東京を歩いていて、抜かすことはあっても
抜かされることはなかったが、
ある日、パリを訪れてパレ・ロワイヤルから
北駅まで歩いた時、
パリジャン、パリジェンヌが
次々と私を抜いて行くので
「こいつらはなんでこんなに速く歩けるんだ!」
と内心ひどく動揺したことがある。
その記憶がよみがえってきた。
北の丸公園を抜けて読売新聞本社まで歩く。
近くのカフェで、講談社の森定泉さんと
お話する。
来年あたり、というゆるゆるした課題。
読書委員会。
本の評価を巡り、こわいおじ様たちと
ちょっと議論してしまった。
どこに行っても予定調和と行かないのが
私の性である。
くわばらくわばら。
終了後のパレス・ホテルでの懇談で、
町田康さんと「パンク談義」をしたのが
楽しかった。
町田さんは私と同じ1962年生まれ。
パンクを始めたが1978年で、
日本では草分けらしい。
「オレたちの頃は、年上のやつらが
やっているバンドなんて、くそくらえと
思っていたのに、最近の若いやつらは、
オレたちのことをリスペクトしやがるん
だよな。ちょっとそれは違うじゃないかと
思う」
と町田さん。
反抗することが最大のリスペクト、
ということは確かにあるのではないか。
反抗するにはエネルギーがいる。
中野不二男さんが、「最近の若いノンフィクション
ライターには粘りがないんだよな!」と
言っていたこととも符合するが、
しかし気合いの入ったやつは必ずいて、
私も実際何人か知っている。
未来のカナモリマチダナカノは
必ずいるはずだ。
10月 12, 2005 at 06:29 午前 | Permalink
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2005/10/11
木枯らしが葉を散らしてしまう前に
一日中雨で、家の中で仕事をしていた。
この季節、もし晴れれば、一つのイメージがある。
中学校の時、みんなで河川敷に遠足をした。
臙脂色のジャージを着て、今考えればみっとも
ない格好をして学年の全員でとぼとぼと
歩いていったのだが、
いったん河川敷に着くと、
そこにはススキがあり、穂に当たる
太陽の光があり、
トンボが飛んでいて、コスモスの
花が揺れ、
とても気分の良いところだった。
あの時、気の合う仲間とはしゃぎながら、
気になる女の子がどこにいるのか
時折意識しながら、
なんとなく、「こんなことは人生で
これから何回でもあるんだ」
と思っていたが、
実際にはそんなことはなく、
あの日と全く同じクオリアは戻って来ない。
過ぎ去った時、死者の世界は
その気になれば何回でも訪問することが
できるが、
生きている今この時は、精細に見れば
全てが一期一会であって、
こんなことは人生であと何回でも
ある、
などと油断してはいけないのである。
とここまで書いて、そうだ、今日は
新聞が休刊日であった、また間違えて
取りにいってしまうことはないように
しよう、と肝に銘じた。
それにしても、あの日の楽しさを
もう一度疑似体験することくらいは
できるだろう。
秋のプライムタイムは桜と違って
案外長い。
木枯らしが葉を散らしてしまう前に、
ススキやコスモスの中を歩く時が
来ればよいのだけれども。
10月 11, 2005 at 06:00 午前 | Permalink
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2005/10/10
dictionaryについてのお知らせ
dictionary106の坂本龍一 × 茂木健一郎
対談の記事
に、dictionary編集部 新堀桂子さんから
コメントをいただきましたので、
ここに掲載させていただきます。
新堀さん、ありがとうございました。
(元記事のURLも訂正いたしました)
*
ご紹介ありがとうございました。
茂木さんと坂本さんの対談は、WEBでは14日より、一部抜粋をご覧頂ける予定です。
リンク先を訂正させていただきます。
http://www.clubking.com/contents/index_webdic.html
こちらで、dictionary 106号コンテンツ、WEBでの公開スケジュールがご覧頂けます。
対談は、フリーペーペーdictionary 106号にて、16ページに渡るロング対談として掲載させて頂いております。
お近くの配付所は下記ご参照ください。
http://www.clubking.com/contents/diccomi_list.html
定期購読も承っておりますので、よろしかったらご利用くださいませ。
http://www.clubking.com/contents/index_dic_member.html
クラブキング dictionary編集部・新堀
10月 10, 2005 at 10:19 午前 | Permalink
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アハ! センテンス破りから成層圏へ。
表現リテラシー研究所の桝水さんに
頼まれると、
お人柄か、どうしても断れない。
連休の中日、下北沢で
ひらめきに関するレクチャーと
ワークショップを行った。
ワークショップの前、
駅前のイタリアン・レストランで
オフィス・トゥー・ワン
の岡武士さん、宮下浩行さんと
お会いする。
岡さんは、久米宏さんを
ずっと担当されてきた方。
白ワインを一杯飲みながら、
目新しい話を伺って面白かった。
ワークショップで
新しく試みたのは、
「アハ! センテンス破り」
「アハ! センテンス」とは、
「太陽が出たので家が小さくなった」
など、
それ単独では意味を成さない文章。
ここで、「イヌイット(エスキモー)の家」
という「ヒント」を出すと、
一気に「アハ!」と気付きが起こる。
参加者に、アハ! センテンスを
作ってもらって、
それがどのような意味なのか、
「ヒント」を含めて、
他の参加者に当ててもらう。
見事当たれば、「アハ! センテンス破り」
成功。
判らないと、降参して、教えてもらう
ことになる。
日本テレビの「アハ! センテンスの天才」
倉田忠明さんのようにはなかなか傑作ができず、
皆四苦八苦する。
作品発表の時にも、なかなか傑作は
出ない。
傑作の基準は、「判らない」状態
から「ヒント」を与えられて「判った」
状態になる遷移が見事で、
「アハ!」感が強いものである。
そんな中、現代詩を作っていらっしゃる
北爪満喜さんの作品が会場が一致して
「傑作!」と認めるものだった。
さすがは詩人。言葉の使い方に
センスが光る。
北爪さんの「アハ! センテンス」は、
「息をとめているほど、商品がふえる」
「ヒント」は、この日記の最後に。
北爪さんには、詩集「青い影 緑の光」を
いただいた。
会場には電通の佐々木厚さんを
はじめ、NHKの近藤浩正さん(「科学大すき
土よう塾」)、同じくNHKの対馬菜採子さん
(「英語でしゃべらナイト」)、朝日出版社の
仁藤輝夫さんなど、濃いメンバーが。
中華料理屋の二階で打ち上げ。
近藤さんと、15日収録の土よう塾
の打ち合わせをする。
近藤さんは、そのまま西明石へ。
桝水さんに、「ショコラティエ・エリカ」
を頂いた。
ありがとうございました。
Cafe & DiningのAssoで二次会をしていたら、
白洲信哉から電話があり、「これから
襲撃する」とのこと。
松尾貴史さんと一緒に来た。
信哉と松尾さんのご子息が同じ学校に
いっている縁なり。
松尾さんのウィットがさえていて、
はははと笑っているうちに、
徳川宗家19代の徳川家広さんも
いらした。
家広さんは翻訳をしていて、
「新上海」(集英社)、「戦争で儲ける人たち」
(幻冬舎)の二冊の訳書を頂いた。
なんとなく親近感を抱いてしまうのは、
姿が私の親友、塩谷賢に似ているからだろうか。
話し方も彷彿とさせる。
「おい、オレの家に行って飲もう」
と信哉が言って、
私と佐々木さん、それに芸大油絵科の
植田工で白洲邸へ。
道すがら、植田に、「おい、植田、
科学とアートは、上の方に成層圏のように
どんどんうつくしい世界が広がっていて、
たとえ普段歩いている時に必要
とするのは頭の上1.5メートルだと
しても、
その上にぐんぐんいろいろな
ものがあると思うだけで、楽しいじゃないか。
ありがたいじゃないか」
と言った。
本当にそう思っている。
今、こうして室内で机に面している
時にも、成層圏までのはるかな空間の広がり
がある。
その向こうには宇宙もある。
ありがたい。
とっとと寝てしまった信哉の横で
私もうつらうつらしながら夢見ていたのは
成層圏のことだったのだろう。
先の「アハ! センテンス」の
ヒントは、
「海女さん」でした。
10月 10, 2005 at 10:13 午前 | Permalink
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2005/10/09
はじめてのおつかい
ヨミウリ・ウィークリー
2005年10月23日号
(2005年10月8日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第73回
はじめてのおつかい
一部引用
先の衆議院選挙で、若くして当選した議員の言動がテレビで話題になった。「料亭に行ってみたい」、「鉄道に乗り放題」などといった素朴な言動がワイドショウの恰好のネタになり、「ふさわしくない人まで議員になるのはいかがなものか」と顔をしかめる識者もいた。
民主主義は、国民が政治に参加するプロセスを保証するものであって、結果まであらかじめ決めておけるものではない。たとえ、どのような人が当選したとしても、現行の制度の中で正当な手続きでそのような結果になった以上、それが「民意」である。ふさわしくないから辞退せよとか、そういう人は当選させるべきではないと言いたくなる気持ちは判らないでもないが、ぐっとがまんすべきところであろう。
民主主義という制度は、時として「意に添わない」結果がもたらされることも、あらかじめ予定しているのだと考えるしかない。資質の良い人から議員にしたいのならば、他のやり方があるはずである。
ところで、世に「地位が人をつくる」という。大丈夫かな、と思っていても、実際にやらせてみると案外うまくやる。そのようなことはしばしば見られることである。人間の脳の適応力は驚くべきもので、他人が余計な心配をしていても、本人の脳が順応してしまって、予想外の仕事をする、ということはごく普通にある。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 9, 2005 at 08:25 午前 | Permalink
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(本日)「未来からの教室 VII」
(本日)「未来からの教室 VII」
講師 茂木健一郎
2005年10月9日(日)13時30分〜16時30分(13時開場)
北沢タウンホール 男女共同参画センター“らぷらす” 11階研修室3
小田急線/井の頭線「下北沢」下車南口より徒歩5分
主催 特定非営利活動法人 表現リテラシー開発研究所
詳細のURL
10月 9, 2005 at 08:20 午前 | Permalink
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dictionary 106
10月 9, 2005 at 08:18 午前 | Permalink
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小林秀雄賞 選評、スピーチ
2005年10月7日
ホテルオークラ別館 地下二階 アスコットホール
主催者挨拶 新潮文芸振興会理事長 佐藤隆信(新潮社社長)
小林秀雄賞 選評 河合隼雄(文化庁長官)
受賞者スピーチ 茂木健一郎
(続く桜井よし子さんの冒頭まで)
音声ファイル
(MP3、14分4秒、6.7MB)
10月 9, 2005 at 07:50 午前 | Permalink
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命がけの跳躍への。
小林秀雄賞と新潮ドキュメント賞の
贈呈式と祝賀パーティー。
ホテルオークラにて。
新潮文芸振興会(新潮社社長)の佐藤隆信さんの
ご挨拶の後、
河合隼雄さんが選評をお話下さった。
続いて、私がスピーチ。
小林秀雄さんを恐山で降ろしてもらった
話をして、
それから「思い出すこと」の大切さについて話した。
新潮ドキュメント賞を受賞された
中川一徳さんの「メディアの支配者」
の選評を桜井よし子さんが話され、
続いて中川さんが賞を受けられた。
パーティーには本当に沢山の方々が
来て下さった。
会場の中を回りながら、知り合い同士を
紹介しようとするのだが、
すぐに捕まってしまって、
名刺交換になってしまう。
この日のために、裏に「volcano whale」を
あしらった名刺を新調した。
まだ名刺はあるので、
この名刺が欲しい方は、会った時にご請求ください。
このイラストは、6月30日の東京財団の
研究会の時に思わず描いてしまったものである。

火山鯨があちこちらに散らばりながら、
パーティーが進んでいく。
8時にて、めでたくお開きになった。
恵比寿のアイリッシュ・パブで二次会。
二次会にいらしたのは、(敬称略)
白洲明子(小林秀雄の娘さん)、
白洲信哉(小林秀雄のお孫さん)
白洲千代子(小林秀雄のお孫さん)
松家仁之(新潮社)
北本壮(新潮社)
金寿煥(新潮社)
足立真穂(新潮社)
池田雅延(新潮社)
山田憲和(文藝春秋)
佐々木厚(電通)
加藤典洋(文芸評論家、選考委員)
関川夏央(作家、選考委員)
堀江敏幸(小説家、選考委員)
増田健史(筑摩書房)
磯知七美(筑摩書房)
伊藤笑子(筑摩書房)
有吉伸人(NHK)
小池耕自(NHK)
河瀬大作(NHK)
住吉美紀(NHK)
井上智陽(イラストレーター)
河村隆夫(兜仏研究家)
花野剛一(テレビマンユニオン)
その他の方々。
途中で、小池さん、河瀬さんと
何やら激論したような記憶が
あるが、はて、何についてだったかしらん。
本当はもっと飲んでいたかったのだが、
明日の朝早い。
午前2時近く、渋谷の
NHK前にある渋谷東武ホテルに
チェックイン。
明けて土曜日、午前4時過ぎに
起きて、
午前5時、NHKの西口玄関へ。
ソニー広報の中谷由里子さん、
NHKの谷卓生さん。
報道スタジオに行くと、先日打ち合わせで
いらした時とはうって変わって「テレビの人」
になった星野豊さんと滝島雅子さんがいた。
青一色の背景の前で、星野さん、滝島さんと
「気付き」について話す。
「おはよう日本」の中の一コーナー。
後ろに脳や隠し絵が出るという
空間アレンジメントに慣れると
面白さが立ち上がった。
全てが終わり、部屋に戻る。
緊張しながら取りだしたのは、
白洲明子さんに「副賞」としていただいた
本居宣長の直筆の書の掛け軸。
吉野山長歌。
小林秀雄さんが『本居宣長』を書いていた頃、
居間にこの掛け軸がかけてあって、
小林さんはその前のソファーで、寝ころんで
レコードを聴いていたという。
そんな大切なものをいただけるとの
お申し出を明子さんから
いただいた時にはおそれ多いと、一日迷ったが、
お心を汲んで、
ありがたく頂くことにした。
贈呈式の前に、控え室でいただいた
つつみを解いて、
しばらく佇む。
恐山で始まった「思い出す」旅が
完結したような気がした。
さすがに今までの
疲れが出たのか、
一日中ほとんど寝ていた。
日記も書く気にならなかった。
今朝は、
身体の芯から力がわいてきて、
命がけの飛躍ができるような気がしてくる。
10月 9, 2005 at 07:37 午前 | Permalink
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2005/10/07
おはよう日本
2005年10月8日(土)
NHK総合 おはよう日本
午前6時30分〜「特集」内で、
「現代人にとっての脳の整理」 茂木健一郎
http://www3.nhk.or.jp/hensei/ch1/20051008/frame_05-12.html
10月 7, 2005 at 07:49 午前 | Permalink
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あすへの話題 まだ見ぬクオリアを求めて
あすへの話題 まだ見ぬクオリアを求めて
茂木健一郎
現代の科学では、意識の中で感じる様々な質感を「クオリア」と言う。ここ十年、脳科学の急激な発展により、いよいよ人間の意識もその探究の対象になってきた。世界的に、「クオリア」をはじめとする意識の問題に科学的方法論で取り組もうという機運が高まってきている。
クオリアは科学的テーマとしては難解だが、私たちに身近な概念でもある。味覚の秋。新しい食べ物を口にする時のワクワクする感覚は、新しいクオリアとの出会いでもある。
京都の有名な料亭で初めてすっぽん鍋を食べた時には、未だ口にしたことがないクオリアに胸を躍らせた。魚でもない、獣でもない。まさに異次元としか表現のしようのない滋味は、記憶に鮮明に焼き付いている。
身体の維持、成長に様々な栄養素が必要なように、私たちの脳が育っていく上でも、様々なクオリアとの出会いが必要である。インターネット全盛の今日だからこそ、「本物」を体験することが大切になる。
高価なもの、高級なものだけが本物のクオリアなのではない。さわやかな秋の一日、身近な雑木林をのんびりと歩けば、他の体験では得られないクオリアが得られる。ふと見上げた夕方の空にかかるあかね雲は、どんなに豪華な宝飾品よりも、見る者に感銘を与える。
心をゆさぶるクオリアが、日常のあらゆる場面に存在している。その恵みに気付くことは、人生を豊かにしてくれる。
クオリアに満ちた私たちの意識は、脳の中の一千億の神経細胞の活動からどのように生み出されてくるのか? この人類にとっての究極の謎に、これからも取り組んで行きたいと思う。
(日本経済新聞2005年10月6日夕刊掲載)
10月 7, 2005 at 07:42 午前 | Permalink
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小林秀雄賞贈呈式
関係の皆様へ
第四回 小林秀雄賞
第四回 新潮ドキュメント賞
贈呈式ならびに祝賀パーティー
2005年10月7日(金)
18:00〜20:00
ホテルオークラ別館 地下二階 アスコットホール
10月 7, 2005 at 07:39 午前 | Permalink
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コーヒーに一滴
ホテル・ニューオータニ近くで、
カラフルぴあの原田富美子さん、
三枝成彰事務所の西山さん
研究所にて、
NHKの谷卓生さん、星野 豊さん、滝島雅子さん。
D3の柳川透と小俣圭の博士論文が
追い込みに入ってきて、
私もいろいろ心配している。
投稿論文と違って、博士論文は
いろいろ「余計なこと」を書かなければならない。
その分野の従来の研究をレビューしたり、
メソッドを詳細に書いたり、
雑誌に載る論文にプラスして、
様々な事柄を書き込んで行かなければならないのだ。
普通の論文が効率良く情報を他人に
伝えることを目指すのに対して、
博士論文は、博士を受けるのに
ふさわしい「学識」を自分が
持っていることを証明する、
という側面がある。
それを書く過程は、ディテールの積み重ね、
debuggingだから、職人のごとく
こつこつとやっていかなくてはならない。
早くしないと間に合わない。
早め早めに前傾姿勢で行きましょう。
わかりましたか、柳川くん、小俣くん。
どんなに大きなことも、ディテールの
積み重ねだというのは常々思うことで、
それが判った時、人生が随分
豊かになったように感じられた。
若い時は「今すぐ全てを!」と
Sturm und Drangで行きたいと
思ってしまうのだけれども、
職人でいる時間が長いことが
大切だ。
インスピレーションは、コーヒーに
最後に一滴垂らすミルクのようなもので良い。
人生のほとんどは、ほろ苦い液体で
良いのだ。
そのほろ苦さに身を浸すことが、
何とも心地よい季節となった。
それでいて、時に命がけの跳躍を
夢見たりもするのだ。
10月 7, 2005 at 07:36 午前 | Permalink
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2005/10/06
東京芸術大学 美術解剖学
東京芸術大学 美術解剖学
の授業(後期第一回)は、
2005年10月20日(木)
に行います。
10月 6, 2005 at 08:56 午前 | Permalink
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『考える人』2005年秋号
『考える人』2005年秋号
2005年10月4日発売
目次
小林秀雄賞 選評&インタビュー
10月 6, 2005 at 08:40 午前 | Permalink
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『脳と仮想』8刷
新潮社『脳と仮想』はおかげさまで
増刷(8刷)が決まりました。
ご愛読に感謝いたします。
10月 6, 2005 at 08:36 午前 | Permalink
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明けて今日
恐山から降りて、娑婆に還ってきた。
ご一緒したのは、新潮社の北本壮さん、金寿煥さん、
菅野健児さん。
それに、テレビマンユニオンの花野剛一さん、
吉田さん、大泉さんのクルー。
初めて眼にする恐山は、想像していた
よりもシンプルで、純粋で、そして深いところ
だった。
住職代理を務めていらっしゃる
南直哉さんを訪ねていったのだが、
南さんの言うとおり、
あそこは、人々の思いが形になっている
場所。
「なつかしい人に会いたい」という
気持ちがストレートに表れるので、
余計な虚飾がない。
人々の魂が裸になれる場所なのだ。
座禅もしたし、対談もした。
星明かりの中、かすかに白く光る
道筋を頼りに、
極楽浜まで歩いた。
風車がキューッと回り、
水辺で鳥がきゅんきゅん鳴いた。
伝説によれば、周囲では夭折した
子供たちが
功徳のために石を積み、
それを鬼が追いかけているはずである。
恐ろしいかといえばそうでもなく、
むしろ、懐かしく、
心が安まる気がした。
最後の朝、イタコの小笠原ミヨウ
さんに小林秀雄さんを降ろしていただいた。
北本壮さんと横に並んで、
頭を垂れて神妙にうかがった。
故人かどうかの確信、確証など
あるはずもない。
しかし、
とてもなつかしい感じがしたことで、
胸がいっぱいになった。
恐山のことは、『考える人』で書く
ことになると思う。
東京に戻り、羽田空港の手荷物受取所を
出たところで、文藝春秋の山田憲和さん。
文學界の連載『脳のなかの文学』を
まとめた『クオリア降臨』の
ゲラについて、打ち合わせ。
そのまま広尾のみなもと忠之さんの
スタジオに向かい、
表紙用の写真を撮影する。
山田さんの「アートディレクション」で、
いろいろサプライズと仕掛けの
ある装丁になりそうである。
みなもとさんが、巨大なポラロイドで
次々と写真を撮っていくうちに、
今まで知らない自分がそこに立ち現れて
くる気がした。
偶然二つ横にあった「オープティパリ」
で食事。
山田さんに、「ここは学生時代に来ていたんですよ」
と説明。
奥の部屋のガラス天井に雨が当たり、
パラパラと大きな音がしたことがある。
十年以上ぶりに訪れた。
青山5丁目の「ステア」で、
精神科医の名越康文さんとお会いする。
TOKIONの西村さんやBAMVIの今井さん、
それに『ソラノ』(近日公開)を監督された山岡信貴
さんなど。
明けて今朝、恐山はすでに遠い。
恐山では二つ大切なインスプレーションを
得たが、
その一つは、過去は死者と同じ世界にある
ということである。
お堂に祀られた故人の写真を見ているうちに
ああ、この人たちのいるところは、
オレの過去がいるところと同じだ、と思った。
中学校の修学旅行で、新幹線の中、仲間たちと
ひょうきんに騒いでいた私は、すでにこの世の
ものではない。
本人はまだ生きているじゃないかと言っても、
そうは行かない。
過去は動かし難く、手の届かないものとして、
恐山のお堂に祀られた死者たちと同じ場所にある。
恐山にいた3日間は、すでに死者の世界に行った。
一秒前とても同じこと。
生きるということは、常に死者たちの世界と
向かいあうことでもあるという、
当たり前のことを思う朝。
そう思えば、私は確かに恐山から死者たちを
連れてきてしまったのかもしれない。
10月 6, 2005 at 08:33 午前 | Permalink
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2005/10/03
「未来からの教室 VII」
「未来からの教室 VII」
「脳のしくみを探る…人生を開く“気づき”のための脳の使い方」
現代人は、脳をどのように使って生きていけば良いのでしょうか?
勉強や仕事はもちろん、人生をよりよく生きるための脳の使い方に
ついて、最新の脳科学の研究成果をご紹介しつつ、いっしょに考えていきます。
脳の中の記憶のふしぎなメカニズムや、一瞬のひらめき、人との出会い、創造性、といった、
私たちに関心の深い問題について、脳の仕組みを探っていきましょう。
講師 茂木健一郎
2005年10月9日(日)13時30分〜16時30分(13時開場)
北沢タウンホール 男女共同参画センター“らぷらす” 11階研修室3
小田急線/井の頭線「下北沢」下車南口より徒歩5分
主催 特定非営利活動法人 表現リテラシー開発研究所
詳細のURL
10月 3, 2005 at 07:11 午前 | Permalink
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東京のシーシュポス
東京に帰り、
街中を歩いていて、
カウンターだけのラーメン屋や、
牛丼の店、
一杯飲み屋の横を通り過ぎた。
学生だった頃の自分が、バイトの
帰りなどに、そんな店で一人食事をし、
飲んでいるような気がした。
一人カウンターに向かう若者たちの
姿を見ながら、
あの頃の自分がそのあたりにうろうろ
しているように思えた。
どんなに自由に行動できていても、
「今、ここ」にいるということは、
「今、ここ」以外の生き方が
あり得たかもしれないという可能性性
を全て否定し尽くすことであり、
その意味で、人は、自由を満喫して
いているように見えても、
本質的にカミュの「シーシュポスの神話」
で岩を永遠に持ち上げている男と変わらない
のだと思った。
シーシュポスの男が不自由ならば、我々も
また不自由であり、
彼が自由なのならば、我々もまた自由である。
私たちは、東京の街をふらつきながら、
岩を持ち上げ続けているのだ。
池上と、大阪のワークショップの間
話していた「オレたり、単一文脈の中にいると
飽きちゃうんだよな」を突きつめていくと、
シーシュポスの神話に通じるのだと
気が付いた。
今日から恐山に行く。
新潮社の金寿煥さんによると、
ネットはもちろん、ケータイも通じないところ
らしい。
ネットやケータイが通じる状態は、
実は通じない状態と同じだと見切ることが
カミュの精神に殉じることだと思うけれども、
とりあえず関係者の方々、ご承知おきください。
南直哉さんにお会いする。
人生で大切な時間になるような
予感がある。
10月 3, 2005 at 04:31 午前 | Permalink
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2005/10/02
『脳の中の小さな神々』増刷
柏書房
『脳の中の小さな神々』
が増刷(2刷)となりました。
ご愛読に感謝いたします。
10月 2, 2005 at 08:00 午前 | Permalink
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自分の脳を整理する
ヨミウリ・ウィークリー
2005年10月16日号
(2005年10月3日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第72回
自分の脳を整理する
一部引用
私は、身の回りの整理が苦手で、自宅でも研究所でも、仕事机の前は大変なことになっている。
そんな私に、「私の整理術」というテーマで原稿の依頼が来たのは3年前のこと。周囲は、お前が整理術について書くなんて冗談だろう、止めておけとからかうことしきりだった。整理ができない人間がそんな原稿を書けるはずがないというのである。私は反論する代わりに、「脳の整理」をテーマにして原稿を書いた。『わたしの整理術』(岩波アクティヴ新書)に収められている。
簡単に言えば、私は、身の回りの「モノ」よりも脳の中の「情報」の整理を優先させているので、身辺が片づかないのである。(中略)脳内の記憶を整理し、編集したいという欲望を誰でも持っている。旅行に行って、見知らぬ風物に接して様々なことを感じ、心を動かされるのも「脳の整理」である。人と会話をしているうちに今までにない考え方に接するのも「脳の整理」である。脳の中の情報を整理することは、懸命に、清々しく生きるという生活の知恵と結びついている。そのようなことを、最近出た『「脳」整理法』(ちくま新書)に書いた。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
10月 2, 2005 at 07:58 午前 | Permalink
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サイエンスという文脈
京都から大阪に移動。
新快速に乗っていると、関西人に
なった気分になってくる。
千里中央のライフサイエンスセンターへ。
JST(独立行政法人科学技術振興機構)
主催の「ナノとバイオの融合」
のワークショップ。
大阪大学の柳田敏雄さんのお誘いで参加した。
柳田さんが総合コーディネーターで、
私と相田卓三さん、柴田直さん、難波啓一さんが
サブコーディネーター
まず、16名の参加者が5分ずつプレゼン
する。
様々な視点からのアイデアを聞くのは
面白い!
池上高志や、谷藤学さん(理化学研究所)、
伊庭斉志さん(東京大学)といった親しい顔も。
田谷文彦も参加。
全体で議論。
私はナノ・レベルのノイズがいかに構造化されるか
という問題を中心に議論した。
柳田先生が例によってやわらかい
口調でしかし毅然と仕切っていく。
会議は、午後9時過ぎまで続く。
よく働いた! なり。
伊庭さんや林崎良英さん(理化学研究所)
とバーで飲んだ後、
自分の部屋で池上、田谷とワインを飲む。
池上と一緒にいると、「相互作用のハミルトニアン」
で妙なモードに引き込まれていって、
それがとても面白い。
お互いくだらない冗談を言い合って、
からからと笑っている。
池上とお互いに確認したのは、
「おれたち、一つの文脈の中にいると飽きちゃうんだ
よな!」
ということ。
複数の文脈の間をいったりきたりしたり、
あるいは自分のいる文脈をメタな視点から
見ている時が、一番楽しい。
そして、それが最も創造的なことなのでは
ないかとも思う。
サイエンスという文脈をディープに満喫し、
その後池上高志とはじけた。
幸せな一日だった。
10月 2, 2005 at 07:52 午前 | Permalink
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2005/10/01
あすへの話題 月見は最高の贅沢
あすへの話題 月見は最高の贅沢
茂木健一郎
秋になると、夜空の月に心が惹かれる。満月でなくても構わない。欠けていても、ふと見上げた空にそれが輝いていると、魅惑される。心の中をさわやかな風が吹き抜けた気分になる。
菜の花におぼろ月夜と言うように、他の季節の月もそれなりに味わい深いが、やはり秋は格別だ。暑さもやっと過ぎ、収穫の時を迎えつつ、やがて来る寒さを予感する。様々な要素の「総合芸術」として、秋の月の魅力はあるのだろう。
関西に行くと、しばしば「月見人形」を見かける。ウサギが嬉しそうに月を見上げている姿は雅で、自分も仲間になりたくなる。ウサギの隣りで空を見上げたくなる。
ところで、月見が気分良くできる環境は、要求水準が極めて高い、贅沢なものなのではないだろうか。ススキの穂が揺れていなければならない。虫の音以外は静寂であって欲しい。人工光は要らない。そして何よりも、広々とした空が必要である。
都会はもちろん、田舎でも、月見にぴったりの設(しつら)いの場所を見つけるのは、至難である。マンションのベランダや電車のプラットフォームからも月は見えるが、それではもの足りない気がする。
平安時代ならばふんだんにあったであろう月見に適した場所を、現代人は持たない。月見を基準にすれば、文明は衰退しているのだろう。
一度だけ、完璧なまでに条件の揃った場所で月見をしたことがある。ススキに囲まれた縁側で酒を飲みながら見上げているうちに、ついうとうと眠ってしまった。月の光に照らされ、夜風に吹かれて聞いた虫の音の味が忘れられない。
(日本経済新聞2005年9月29日夕刊掲載)
10月 1, 2005 at 07:37 午前 | Permalink
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京都があって良かったと思う。
合宿を終え、
東京駅へ。
東京ステーションホテルで、
NHKの対馬菜採子さんと打ち合わせ。
『英語でしゃべらナイト』の件。
新幹線で京都に移動。
京都駅で、ぼんやりとメールをチェック
していると、
となりで、ペルーの人たちが
楽器の練習をしていた。
笛で同じフレーズを繰り返し
聞いている。
アンサンブルでメロディーを奏でて
いるのとは違って、
生の人間を見ているようでドキドキする。
京都造形芸術大学へ。
タナカノリユキ、黛 まどか、茂木健一郎、
山下 泰裕、椿 昇というメンバー
でシンポジウム。
黛まどかさん、山下泰裕さんと
お会いするのははじめてだった。
会場は外の芝生で、空を見上げると
星がきらきらしていた。
ろうそくがそこここに灯って、
風が心地よく吹き抜けた。
話の内容も素晴らしかったが、
会場の設い自体が記憶に残った。
宮島達男さんの先導で、
祇園のお茶屋さんへ。
豆ちほさん、里美さん、照ひなさんが
来た。
京都にはかなわないことが
沢山ある。
グローバライゼーションの嵐が
吹き荒れる中、
京都があって良かったと思う。
10月 1, 2005 at 07:32 午前 | Permalink
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