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2005/09/02

あすへの話題 一回だけの体験

あすへの話題 一回だけの体験
茂木健一郎

 夏が終わった。海や山、見知らぬ街。思い出に残る様々な体験があったのではないか。
 人間の脳は一生変化し続ける。繰り返し体験することも大切であるが、時には、たった一回の体験が忘れがたい刻印を残すことがある。
 私の場合、高校1年の時にカナダのバンフで見たオーロラが強烈だった。ちょうど太陽の黒点活動が盛んな時期で、全天に舞う光のカーテンを見ることができた。最初はかすかに空に現れた光の筋が、やがて空全体にコーヒーに溶かしたクリームのように広がっていく。あの夜の時間の流れを、忘れることができない。
 一日の出来事のうちでも、なぜか覚えていることと、忘れてしまうことがある。脳は、体験したことを記憶するかしないか振り分ける仕組みを持っているのである。感情をつかさどる脳の部位が、記憶の中枢と連動して、何を記憶するか、無意識のうちに選択する。
 一生に一度あるかないかの印象的な体験は、私たちの感情のシステムを刺激し、忘れがたい記憶として刻印される。脳の神経細胞のつながり方が変わり、しっかりと定着されるのである。
 一回だけの印象的な体験は、何時やってくるか判らない。時には、他人がふと漏らした言葉が心に響いて、忘れられないこともある。偶然目にした風景や、手にした本、街角の光景など、記憶のシステムに強烈な刻印を残す体験との出会いは、人生の至る所に待っている。
 一回だけの体験が、人生を変えてしまうこともある。それが何時どこで訪れるか判らないからこそ、この限りある生は一瞬一瞬が大切になるのである。

(日本経済新聞2005年9月1日夕刊掲載)

9月 2, 2005 at 07:05 午前 |

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受信: 2005/09/02 8:48:32

コメント

限りある人生のうちで、何時やってくるか分からない、一回こっきりの体験、それもこれで人生が明日から変わってしまうかもしれないほど強烈な印象を残す体験は、本当に貴重極まるわが人生のかけがえのない財産となって、自分の中に蓄積されて、「私」という存在を豊かなものにしてくれるような気がします、いい悪いは別としても。
私個人の場合、高校時代ブラスバンド部の合宿でみた夜空は極めて印象深いものでした。漆黒の夜空に銀の砂粒のような星々が、無数にちりばめられた文字通りの「星空」は、私が生まれて初めて見る美しいものでありました。
その印象は20数年たった今日でも私の脳裏から離れることはありません。以後の私は、この時見た夜空ほど美しい夜空にめぐり合っていません。家の窓から見上げる夜空は星もまばらにしか見えず、街燈の所為でヘンに青っぽく見えるだけで、美しいもへったくれもない代物でしかありません。
またも長いコメントになってしまいました。

投稿: 銀鏡反応 | 2005/09/02 18:40:44

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