ネット上の正負の法則
ネットの発達によって、
どんなテーマに対しても、誰でも自由に
意見を表明できるようになった。
その結果、ある事項に対して、ポジティヴな
評価だけでなく、ネガティヴな評価も
必ず混じって書き込まれるようになる。
情報操作や管理をすることなど、
どんな権力者でも不可能で、
書きたい人はとにかく書く。
小林秀雄が、「愛するということからしか
創造性は生まれない」と言っているように、
私はイヤなこと、醜いことはさっさと
忘れてしまうことにしている。
実生活で、時折、とてつもなくイヤなグルーヴを
出している人にあったりするが、
そのような時は全力疾走でだーっと
逃げて、忘れてしまうことにしている。
ネット上の書き込みもそうで、
自分自身や、自分にとって大切な
人、ものに対するイヤな感じの書き込み
(とりわけ、筆者自身のルサンチマンが
濃厚に漂っているもの)に出会うと、
うゎーつとは思うけれども、
さっと忘れて私にとっての
太陽の方向を見ることにしている。
愛すべき偉大なものはこの世に
あって、それに向き合っているだけで
人生などあっという間に過ぎてしまうからだ。
さらに進んで、ポジティヴとネガティヴが
入り交じって初めてあるものの個性が
際だつ、ということがあるのだな、と
最近思っている。
神経細胞のネットワークで、
興奮性結合と抑制性結合のバランスが
とれて初めてある神経細胞の機能が
成り立つように、
社会における評価もポジティヴと
ネガティヴが入り交じるのが一番良い
のではないか。
熱烈な
支持と、猛烈な反発をくらうくらいの
方が大物であり、本物なのではないか。
ネットはそのあたりを如実に
視覚化する。
親友の竹内薫の薫日記には、
ネット上でネガティヴ・オーラを
発している人に対して怒り/哀しみ/嫌悪
が時々書かれているけれども、
実はそういう人たちがいて社会というのは
立体的になっているのかもしれないと
思う。
高度に情報化した社会では、
ネガティヴな評価は、
実は致命傷にならない。
それが、ここ数年様々な事象を観察して
私が達した結論である。
無視されるのが一番の「マイナス」
で、
全部ポジティヴというのは
どこかおかしく、
ネガティヴとポジティヴが混ざり合うのが
一番くっきりとその対象の個性が際だつ。
インターネット上は特にそうである。
どうやらそんな、「ネット上の正負の法則」
が成立しそうだ。
私自身は愛に生きたい。
憎しみやルサンチマンは、何も
生み出さない。
小学校5年生の時、ブルーバックス
の『アインシュタインの世界』を読んで
感じた何か。
たとえばそのようなものを大切に
して行けば、
人生はきっと誤らないと思う。
9月 24, 2005 at 04:41 午前 | Permalink
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コメント
高度に情報化した社会では、ネガティブな評価は、実は致命傷にならない。
この事について思考してみると、自分はおかしな考え方をしているのではないか・周囲の人間や職場の人間の大多数に嫌悪されたり、避けられたりするのは私が悪いからではないか。このように他の原因や理由を考えなくなる思考停止状態に陥った時に、インターネットで探せば、千差万別と表現できるほどの、
色々な趣味・嗜好・ものの考え方をもっている人間がいると言うことを知る事が出来る。自分やこれまで関わってきた人間が全てではないと感じられる。
自分の居たい場所、自分が望む人を自分の手で探すことが出来る、そのためのヒントを知ることが出来る。このようなプラス面があると考えました。
自分へ好意を抱いてくれている人が少数であっても、その人々との接触を得る事が可能な社会が、高度に情報化された社会であることの大きなプラス面の1つと考えました。私がおぼろげに頭に浮かんでいた言葉を分かりやすく表現して下さり、ありがとうございます。
投稿: memagurusii | 2007/07/02 12:34:26
私は、インターネット書店などの書評欄に書評を書いた事がないことを前提に、一つ地方に住む人間の立場で言わせて頂ければ、ネットで本の一冊を買うのにも結構「気合いが入る」という部分があります。例えば、東京在住の人なら会社帰りなどに大きな書店に立ち寄れば大抵の本が揃っていて、充分に下読みをしてから買うことが出来ます。ところが、私達が地方で手に入りにくい本を買う時には、ネットで検索しながら「こっちがいいか、あっちがいいか」などと迷い検討しながら選ぶ訳です。そういう過程を経て、注文して一週間位して宅配で本が送られてくる。
そして、ワクワクしながら箱から本を取り出して読み始めます。その時に「俺がイメージしていた本と違う」なんて感じてガクッとくる時があります。
何が言いたいかといえば、やはり、ネガティブな書評もないと、期待過剰になって、却ってその本に対するイメージが悪くなる事もあるという点でしょうか。もちろん、読む側の責任もあるのでしょうが、書く人の立場でも、どんな人に読んでほしいのかという明確な設定意識がないと、お互いにズレが生じる部分が大きくなるのではないかという気が、私はします。
投稿: 水瓶座 | 2005/09/26 18:24:27
そういう点において、自分と先生はつくづく対極の位置にいるのだと思い知らされました。
それで世の中が立体的になっているといったところで、自分がその側にいなければならない責任などどこにもなく、さらに、自分以外のものの責任によって、自分はこの強烈な負の引力によって人生を磨耗している事に、ゴッホの「もう、どうしようもない」という言葉を思い出します。
どうぞ、先生はこの書き込みを忘れてください。自分は忘れられませんが。
投稿: cosmos | 2005/09/25 22:22:26
http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka
このリンクで起こる感覚は、脳内の各処理分野の処理時間の差異による効果であるとして、
しかし、この根本的問題が、
脳内の処理分野AB回路の距離の違いによる電子の相対的理論による時間の差異による効果であるならば、
特異点を解かない以上、クオリアを説明できないことになる。
そうでないと、それこそ、まず馬鹿げた考えである宇宙の外側は私達の意識だったということになりかねない。
感覚と不均質な接続からくる現状の認識と、私達のこの意識は関連してるが、
そこで発生するこのクオリアは全くの別次元の問題だ。そう、クオリア自体とは関連はない。
私は得たいの知れない贋作よりも、時間をかけて創られた微かな現実を重んじて生きたいと思う。
投稿: ななつぼし | 2005/09/24 23:37:37
>熱烈な支持と、猛烈な反発をくらうくらいの方が大物であり、本物なのではないか。
社会における評価が両極端な人物や事象や集団が、この地球上にはいくつあるかは知らないが、確実に存在する。そして、そういう存在があってこそ、世の中が立体的に味のあるものとして成り立つ。そうでなければ世はおかしなものになるのでしょう。
*ネット上の節度については、私自身も思い当たることが多々あるので、心していきたいと思っています。
特に他人のブログやHPでの書きこみやトラックバックをするには、ネガティヴなグルーヴを与えるようなコメントはしないように注意したいと思います。
投稿: 銀鏡反応 | 2005/09/24 14:40:13
私は最近、個人のホームページは文字通り、その人の家だと思わなければいけないという気がしています。特に、こちらが自分の本名を名乗らない関係においては、節度が大事になると思います。私の友達で、趣味のホームページを持っている奴がいますが、相手がこちらを特定できる場合とそうでない場合の区別は明確にしなければいけないと思います。また、不特定多数の多くの人に見られる家があるというのは、それだけ、何か、そこから自分の参考になるヒントを得たいという気持が強いからではないでしょうか。ひたすら脇目もふらず、突っ走れる「何か」を持っている人なら、そんな寄り道も不要なのでしょうが、実際、その道さえも見えない人間は、文字通り、右往左往しているのが実態です。そして、書き込みは、黙って立ち去るより「見せて頂きました」というメッセージのようなものではないでしょうか。
後は、家に来る人に対してどんな対応をしようと、その家の主人の自由だと思います。
無視と言えば、一番、いじめできついのが
「無視」だと聞いたことがあります。
クラスメート全員が、その子がそこにいないように振る舞う。中には、そこに教師が混じっていたというケースもありました。
酷い学校もあったものですよね。
投稿: 水瓶座 | 2005/09/24 12:19:44