宝船
いわき市立美術館において、
二日間にわたって行われるワークショップの
ために来た。
朝7時上野発のスーパーひたち。
絶対に間に合わない、というくらい
ぎりぎりだったが、
全力疾走して何とか間に合った。
到着15分前まで仕事をしていたが、
最後に稲穂を見て弛緩していたら
いつのまにか眠ってしまって、
はっと気付いたらもう着いていた。
布施英利さんが、まず光と影
に注意してのデッサンのワークショップ。
面白い。
光の位置によって影は変化するが、
ものの形は変わらない。
不変に焦点を当てるか、
あるいは変化するものに注意を向けるか。
午後は私がレクチャーしたが、
鋭い質問が沢山出て、
どんどん高度な内容になっていった。
おそるべし、いわき市立美術館。
レクチャー終了後、いわき市で
「日々の新聞」を発行されている
安竜昌弘さんと、大越章子さんと
一緒に海辺のレストランへ。
ビールをゆったり飲みながら、
よしなしごとを話す。
布施さんも合流して、
寿司屋へ。
地元の魚を食べて、
幸せな気分になった。
布施さんの言うことは、やはり面白い。
「マルセル・デュシャンは変化球を
投げていると思っていたが、
実は直球を投げているのではないか。
そのように思うことでしか、21世紀は
生きられない!」
と言う。
寿司屋のテレビからは、折しも
「世界一受けたい授業」が流れ、
いささか恥ずかしかったが、
私は壁に飾られた
色紙や宝船がどうしても気になってしまった。
デュシャンが良い、というのは、
現在の私たちにとって見れば、
確かに脈絡があり、真実のように思われるが、
それは、歴史的に脳内報酬系のダイナミクスと
記憶と認識系がぐるぐると回って、
現在そのようなエッジが立っているだけの
話ではないのか。
今の私たちから
すればダサク思われる、壁の上の宝船が
サイコーに「かっこいい」ものになる。
そのような歴史も、実はあり得たのでは
ないか。
つまりは、私たちのcontemporary artの
美意識は、
単に西洋近代という歴史的条件に影響
されて発展してきた成長点なのではないか。
そんなことを考えていたら、
中央と周縁のかんけいについて、
いろいろな想いがこみ上げてきて、
久しぶりにシミジミと考える
気分になった。
どこにいても、結局身一つ。
中央だろうが、周縁だろうが、
有限の人生を生きることには
変わりがない。
デュシャンが良いと言うか、
それとも宝船の復活にかけるか。
実入りの問題だけではなく、
とてつもなく難しいことがそこにある。
オレの人生の選択はどうなっているのか。
雨が降って、星も月も見えなかった。
9月 25, 2005 at 08:31 午前 | Permalink
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コメント
>つまりは、私たちのcontemporary artの
美意識は、
単に西洋近代という歴史的条件に影響
されて発展してきた成長点なのではないか。
まさにしかり。
この歴史的条件を抜け出せたら
ほんとうの『美』というものや、ほんとうの『感動』があるのかもしれない。
でも歴史の呪縛からはなかなか逃れられません。
それが人間ということなのか。どうなのか。
投稿: Yuri | 2005/09/27 15:48:53
いわき市立美術館でのワークショップありがとうございました。ウオーホールの前で夫婦漫才をやり、最後にペンローズのことをお尋ねさせていただいた者です。植木屋です。不景気です。
初日の文脈主義とクオリア、一人称、二人称、三人称のところをもう少し考えたいと思いました。
クオリアが一人称に関連し、文脈主義が三人称に関連するというご説明の中で、個人と時代性を腑分けして考えるのはおかしいのではないか、それは未分化に関連するものではないか、という発言があり、私は、二人称はどうなのか、二人称で考えるのが大事ではないかと発言しました。
私は、一人称も三人称も二人称の事後形態ではないかと思っています。
私という個(一人称)が確固としてあって、そのペア関係(二人称)があって、それらが集まった集団や外部(三人称)がある、という視点は、全部外部から俯瞰視線です。
「私」という一人称の意識は単独で出来するものではなく、なんらかの出来事に反照するものとして浮かび上がると思います。その状態が「二人称」と呼べるものなのではないでしょうか。その経験は対象化不可能なものであり、数値化も出来ませんが、これが一人称の核にあるように感じています。
クオリアとは出来する「私」のことではないかと思っています。
科学が、数値化できないことは語り得ないのだとすれば、あるいは数値化の限界を描いているのだとすれば、もう生きて日々を送る当事者としての私には、「美」の問題しかないように思えます。日々の一瞬の。
クオリア日記はそういう実践の場として面白く拝見しています。
この度はお忙しい中お越し下さいましてありがとうございました。
投稿: 松吉 | 2005/09/25 22:50:37
宝船が、サイコーにカッコよかった時代か…。いま見りゃダサくてしょうもない宝船のような芸術も、少なくとも昭和の中ごろまでは、世の人々は宝船のようなものをナウい(古い表現ですいません!)というか粋なモノととらえていたのかもしれない。庶民の福招きの必須アイテム、という1面も当然あるだろうけど…。
生命の本質もしくは宇宙を貫く生命のリズム、それ自体は永遠なのだが、人として生まれて、生きて居ることはやはり有限なのだ。
そんな有限な人生において、私ならば、まずマルセル・デュシャンをよいというよりも、現在となってはダサいシロモノにしか見えない「宝船のような文化」の復活にかけてみたい。
投稿: 銀鏡反応 | 2005/09/25 12:36:03