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2005/08/27

観察者と当事者

 早朝、空港に向かうタクシーの中で、
 まだ夜も明けきらないのに仕事に向かう
人たちを見ることがある。
  
 そんな時、旅行者の目でしか見ていなかった
土地を、
 生活者の視点を擬した心で見ることが
できるようになるのだ。

 ラコリューニャでも、
まだ暗い街に、
 開いている新聞スタンドがあり、
 道を急ぐ人の姿があった。

 バルセロナ、ミュンヘンを経由して、
ルフトハンザで成田に向かっている。
 食事をしながら、Woody Allenの
Melinda and Melindaを見る。
 一つのエピソードから、二人の劇作家が
それぞれ悲劇と喜劇を創り上げる。 
 入り組んだ恋愛関係を洒落た台詞で
描く技量は、さすがにWoody Allenだ。
 
 しかし、同時に、Woody Allenのような
「インテリ」の立ち位置というものについて
考えざるを得なかった。
 それは、見知らぬ土地への旅行者の
立ち位置にも似ている。
 つまりは、当事者ではないのだ。

 事態に巻き込まれ、必死にもがいている
者ではない視点から、初めて見えてくる
ことはある。
 だから人は旅行者になろうとするのだろうし、
映画の作家になろうとするのだろう。

 小津安二郎が人生の当事者としてどのような
ドラマの中を通過していたか、私たちは知らない。
 たとえ、それが土壌になっていたとしても、
芸術家としての小津の技量は、人生の事態
から自分をディタッチして、冷静に観察することが
できることに依存している。
 
 『東京物語』を撮影中、助監督をつとめていた
今村昌平に、「君、脳卒中で死ぬ時はこんなもんだろう」
と言ったエピソードは有名だ。
 今村は、ちょうど、自分の母親が危篤でかけつけて
帰ってきたばかりだったのである。

 Woody Allenが、人生の当事者として
何を経験して来たのか、彼の作品から想像はつくが、
それは映画作家としての彼の資質に直結
するものではない。

 人生は当事者として生きれば十分で、
それと離れた観察者としての人生は、おまけの
ようなものなのかもしれない。

 表現者として生きている人たちに時々
感じる一種の胡散臭さは、彼らの魂が
二つの相容れない態度の間で軋んで立てている
音なのだろう。

 表現者としてうんぬんは、どうせエクストラ
なんだから、
 まずは当事者として人生を全うするのが良い。

 1時間半ほどで成田に着く。
 ボーイングからネットにつながる時代。 
 便利になりました。

8月 27, 2005 at 08:44 午前 |

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引越しをしよう、と思った。 いろいろな理由があるけれど、ひとつは昨日書いたよう [続きを読む]

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8/30の内田樹先生のブログ「恐怖のダブル・ブッキング」で実に「納得!」な内容が含まれていたので引用させて頂きます  さあ、どうしよう…。もうどちらの講演も会場の手配も案内もぜんぶ終わっている。講演開始もまったく同時刻。しかし、電話口の香川大学付属病院副看....... [続きを読む]

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コメント

有権者という当事者から、立候補者の顔ぶれを見ると、本当に誰に投票すればいいのか、わかり難くなってきた気がします。
例えば、華やかな経歴を持つ人の中にも、
「郵政民営化に便乗して、一度、政治家生活を体験してみようか」位の安易な意識の人がいるかもしれず、当然、そんな人には当選してほしくないという思いもあります。
本当に「最初のペンギンになって、世の中を良くしてやろう」という熱意に燃えている人を選ぼうとすると、郵政民営化に対する是非を度外視しなければいけないケースが出てくるかもしれません。
真面目に考えようとすればするほど、今回の選挙は難しいですね。

投稿: | 2005/09/02 11:31:42

突然ですが、極楽トンボのラジオを聞いて感動を覚えたものです。こういうの考えるの大好きなのでもっと脳の研究頑張ってください!!
あと脳が物質なのになぜ感情が!?ってのは小学校のときからずーと考えてました。解明されるとすばらしいっすよね。
最後に、色彩についての疑問なのですが、例えばリンゴ。リンゴは赤色になっています。しかしそれははたして他人が見ている色と同じなのでしょうか?色ってのは自分が生まれるより前に存在するもので、生まれたときリンゴをみてその色は赤と判断します。でもそれは自分個人が見ている色でもしかして隣のA君は緑に見えてるかもしれません。説明するのがものすごく難しいんですが、自分の脳はもう他の人には使えないし入れ替えは不可能です。つまり自分がみてる色と人が見ている色が色の名前は一致しているけど見ている色が違うってことです。どうなんでしょう?

文章のレベルが低くてすいません。

投稿: ARE | 2005/08/28 2:58:59

 突然失礼します。
 私は今から7年程前に茂木さんの「生きて死ぬ私」を読んで大変感銘を受けた者です。
 当時私は、大変精神的に打ちのめされていました。
 そんな時、「生きて死ぬ私」の文中の人生とは脳内のニューロンの発火により起きている脳内現象なんだということを知り、すごく精神的に楽になって、また前向きに生きていけるようになりました。
 今日は久しぶりにその頃ことを思い出して、このサイトを見つけて、いまこれを書いています。
 何だかうまく言葉になりませんが、これからもご活躍をお祈りしています。

投稿: ダイエットTシャツと私 | 2005/08/28 2:21:24

>表現者として生きている人たちに時々
感じる一種の胡散臭さは、彼らの魂が
二つの相容れない態度の間で軋んで立てている音なのだろう。

まさに、探していた言葉に出会えた! という思いです。

ただ一方で、表現者足り得たいという気持ち (表現したいという思い) は人生の当事者として生きようとする、必死さの表れでもあるような気がします。

「素敵な音を奏でたい」という気持がそこにある限り、私たちは忍耐強くあるべきなのでしょうね?

というのもアーティストたちは、彼らが観察者であることを差し引いても、私たちに夢を与えてくれるのは事実ですから。


投稿: | 2005/08/27 22:17:50

私も一時、表現者として生き抜くことが一番、と考えた時期もありましたが、それよりはまず、「当事者」として人生をまっとうするのが一番と、最近富に思うようになりました。私は私らしく、私の生きてきた「文脈」の中でその当事者として生きて行くのがメインだと。その中で時折、エクストラとしてなにがしかを表現すればいいのだと。
追伸:いつか聞いた言葉にこんな言葉があります。
「自分が変わらなければ周りも変わらない」

投稿: 銀鏡反応 | 2005/08/27 20:25:54

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