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2005/08/11

身体性とは制約である。

 どの鉄道の駅からも車で1時間かかる
場所というのは
 素敵だ。

 稲敷市は、最近合併で新しく
できた自治体で、名前の通り
 米どころ、
 早場米のコシヒカリがおいしいらしい。
 学校給食は、5日のうち2日は
家から白飯だけ持参で、
 あとの3日はうどん、米、パン
のローテーションだということ。

 私の給食は90%が食パンだった。
 もっとお米が食べたかった。

 稲敷はまた、雷が名物でもある。
 2日前に落雷があって冷房装置が
働かないという講堂は暑かったけれども、
 みなさん熱心にご聴講くださり、
質疑応答も面白かった。

 稲敷市教育研究会の方々が
呼んで下さった。
 このような熱意ある先生方に教わる子供たちは
幸せだと思った。

 帰りは成田まで送っていただく。
 川を渡って千葉県側に入ると、
なんとなく茨城とは景色が変わった。

 インターネットで一気に距離が縮まる
側面と、どうにもやっかいに空間的
距離が立ちはだかる側面がある。
 霞ヶ浦には野鳥のサンクチュアリがあって、
その場所にも近かったが、
 こういう仕事のついでに訪問したいと思っても、
なかなかそんなことはできない。
 
 東京の中でさえ、あそこに行こうと思って
いて、もう長年行っていないところなど
沢山ある。 
 サイバー空間の中ならば、どこに行こうと
あっという間だが、
 私たちの身体は相変わらずこの制約の
多い空間の中にあって、
 行きたいところに行けず、会いたい人に
会えず、
 何のことはない、本質は江戸時代と
そんなに変わってやしない。

 身体性を重視するとは、つまりは、
空間的制約を味わうということなのだろう。

 インターネットの問題点は、「どのgoogleの
駅からもどうしても1時間かかってしまう」
というような場所がないことではないか。
 もっとも、プラトン的世界の中には、まだまだ
検索されていない表象が沢山詰まっているのは
当たり前のことである。

The Qualia Journal
In the middle of rice fields

8月 11, 2005 at 07:57 午前 |

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コメント

私には「サイバー空間」という表現はピンときません。
なぜなら、インターネットは、あくまで道具の1つだと考えるからです。

インターネットで伝えられる情報って、極々わずかです。
結局は、文字と僅かばかりの絵・音だけです。

表情、視線、しゃべり方、声のトーン、場の雰囲気・・・
人間って、膨大な量の情報を持っていますが、
インターネットを使って伝えられるのはほんの少しだけだと思います。

大事なのは、「どんな道具を持っているか?」ではなく、
「持っている道具をどう使うか?」、
そして、「どうやって『素敵だ』と思える体験を実現するか?」
だと考えています。

お邪魔しました。

投稿: think-visually | 2005/08/11 20:28:04

こんばんは。
おっしゃるとおりですね。
サイバーな空間の中なら何処へ行くにもすぐですけれど、私達は江戸のころと同じように身体性という制約の中であい変わらず生きていて、
自由にスグに簡単に、何処にでも行け、誰にでも会えるわけではないですものね。
際限無く広がるサイバー空間と反比例して、生身の人間の行動範囲はなかなか広がらないのですよね。
でも、それが自然な人間のありようだと思います。江戸時代から変わらなくていいのです。

投稿: 銀鏡反応 | 2005/08/11 19:29:16

どれだけネットで
サイバー空間が広がったとしても、ですよね。。。

確かに、空間的に離れた多地点を
パラレルリアリティとして感じられるようにはなりつつあり、
意識変化は起きているかもしれませんが、
身体自体は進化しているわけではありませんものね。

たとえ意識とは違う何かで
エンタングルメントが起きているとしても、
それを意識として、感覚として、
常に持ち得ているわけではないわけで、、、

結局のところ、
行きたい所に自分はいないし、
会いたい人と自分は一緒にいない、、、
そんな物理的なさびしさが
空間の広がりに比例して
増しているのかもしれませんよね。。

投稿: akemi | 2005/08/11 14:18:34

まったくそう思います今日の日記。本当にそうですよね。

投稿: shibuya | 2005/08/11 11:28:06

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