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2005/08/26

漂泊の思いとの再会

 あと2時間すると、空港に向かう。

 ある時期までの私は、
センチメンタルで、
 旅行で訪れた土地を去る時、
名残惜しく感じた。
 気に入った風景を目に焼き付けようと
何回も振り返ることもあった。

 最近はあっさりしている。
 帰ることは、新しいフェーズの
始まりだと、さっさと去る。

 しかし、昔のはあれはあれで良かったのかな、
とふと思う。
 名残惜しさの中に一瞬見えた何かが、
強度と純度のうちに秘めていたものに
心惹かれるのだ。

 田森佳秀は一足先に帰り、
 最後の晩餐を食べようと田谷文彦と
歩いていて、
 そうだ、自分が求めているのはインド料理だ!
と思った。 
 何しろ、着いてからずっとこの地方の料理
(ガリシア料理)しか口にしていないのだ。
 うまいことはうまいが、
さすがに身体が別のものを求め始める。

 ところが、歩けども見つからない。
 そう気付いてみると、街で東洋人やインド人
を見かけない。ほとんどスペイン人しかいない。
 ここは、スペインの田舎、スペインらしさの
芯のような所だったのだ。

 30分かけてやっと「タジ・マハール」
という店を見つけた時はうれしかった。
 しかし、その前に歩いて目にした街の
風情の方が、私の心に何らかの作用を
もたらしたのかもしれない。

 もし、この街でずっと暮らすことに
なったら。。。。
 そんな眼で、食料品店や、
バールや、パン屋さんを眺めた。

 昔私がセンチメンタルだったのは、
そのような漂泊の思いのなせるわざだったのだろう。
 自分が、今までの人生の軌跡とは
違う方向にいってしまうかもしれない、
という可能性がリアルに感じられて、
それを見知らぬ土地の風景に重ね合わせ、
共鳴していたのだろう。

 漂泊の思いが自分の中に全く
なくなってしまったか、というと、
そんなことはない。

 子供から大人になって、
社会の様々な網に絡め取られ、
自ら飛び込む。
 モメンタムが増大し、
イナーシャが勝手に軌道を描く。
 何しろ、やることが多すぎるのだ。

 しかし、
 プラクティカルで機能主義的な
振る舞いを何層もかき分けていくと、
 積み上げられられたブロックの
隙間に、
 まだちゃんと息づいている
「どこに行くか判らない」という
漂泊の思いを見つけるのだ。

 「おお、お前はここにいたか」
と、
 久しぶりの再会に
私の魂は狂喜し、
 ビールの泡の中で踊る精霊たちを
眺めていた。

 スペインの片田舎で見つけた
インド料理屋でのほんとうに
小さな出来事である。

8月 26, 2005 at 11:43 午前 |

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コメント

  あなた様と丸山健二氏との再会は、何時何処で・・・何だか想像するだけで生きている甲斐があります。
 丸山氏が、次回作一千枚以上の小説を書かれた事、梯久美子さん著書への書評、更に続く作庭、これらについてあなた様のコメントが欲しくて溜まりません。
 私は丸山氏に拘泥しているのではなく、彼から伸びていく様々な枝葉の選択肢の役割をあなた様に希求しているのであります。
 近々のどんな形でもよいのです、再会を熱望している、田舎中元暮らしの日出登居士である吾輩なのです。
 

投稿: | 2005/08/29 9:29:00

この前、読んだ本で、例えば人が自然の環境の中に入っていく時に、何かを「する」モードから「ある」モードに切り替わる事が大事なんだというようなフレーズに出会ったのですが、それこそ、偶有的な自分に出会うという事なんだろうかと感じました。
「ただ、そこにいる自分」を客観的に感じられるのも、異国の空の下にいる事の素晴らしさかもしれませんね。

投稿: | 2005/08/27 0:08:38

度々失礼致します。
上のコメントを書いた理由です。

何故上のコメントを書いたかというと、
「SONY」というひとつの世界、それも「SONYのエレクトロニクス」という狭い文脈の中にいるひとりひとりにとって、単純に「SONYのエレクトロニクス部門復活」とは、果たして本質的な幸せに繋がるのだろうか、という素朴な疑問がある日、私の頭の中で沸きあがってきたからなのです。
たしかに、エレクトロニクスが復活すれば、会社としては嬉しいですし、何より社員さんたちも嬉しいでしょうし、SONYフリークを自認する私としても、これ以上の喜びはないでしょう。
しかし、それはSONYにつながりのある人全ての人生の上では、いっときのことで、永続的な幸福とはまた別なのかもしれません。
たとえいっとき、そういう幸せな瞬間が訪れたとしても、時が経てば、同じ事態にまたもやSONYは遭遇するやもしれません。そのとき、SONYにかかわる個々人(役員、社員、ファン、など)としてはいったいどうすればよいのか、ひとりひとりがいわゆる「SONYスピリット」とはべつの、きちんとした哲学をもつことが必要なのか否か――そうした疑問から上述の質問をさせていただきました。
本日はいきなりきつい質問(質問の文体を呈していないのですが)で申し訳なく思っております。
茂木先生のご見解を是非お願い致します。

投稿: 銀鏡反応 | 2005/08/26 20:48:39

今晩は。またお邪魔します。
全然違うコメントで申し訳ないのですが、茂木先生は、同じSONY CSLの土井先生や所先生とは違い、ある意味「SONYらしくない」人に見えるのです。でもそれは、「SONY」という「ひとつの世界」から縛られ過ぎていない、言うなればいい意味での「SONYらしくない」ということなのです。
ところで最近疑問に思っていることがあります。
それは、「SONY」の復活、といえば「エレクトロニクス部門」の復活ばかり論じられている風潮です。
たしかにエレクトロニクスの復活は、同社にとっては喫緊の課題でありましょう。しかし、だからといって、そればかり望んでいる今日の風潮は私にはもはや理解できません。エレクトロニクスさえ復活すれば、あとは如何でもいいということなのでしょうか。
SONYがもし、エレクトロニクスで復活できなかったら、他の道もある、と世間は何故、考えないのでしょうか。エレクトロニクスがだめでも、他があるさ、という余裕をもった考えが、何故世の人々は出来ないのでしょうか。
SONYグループ全体の人々の、本当の幸せとはいったい、何なのでしょうか。エレクトロニクス部門さえ復活すればSONYのみんながみんな、「本当に幸せ」になれる、と私はどうしても単純に考えることができません。

投稿: 銀鏡反応 | 2005/08/26 19:57:24

健一郎さんの気持ちって僭越なんですけど、わかりすぎるくらいわかるんです。わかるって何かはわからないのですが。
子どものときは健一郎さんみたいな人になりたかったの。でも、何かがそうさせなかったの。だから、健一郎さんを見ているとスゴく気持ちイイの。文体も、メディアでも。
疑われそうな、表現ですけど、気持ちよくしてくれて、ありがとう。アハ!って。
ずっと応援していました。これからもがんばってください。

投稿: tatar | 2005/08/26 15:03:19

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