2005/08/31
「脳」整理法 できる
博士3年の柳川透、
小俣圭の研究の進捗状況の
talk throughをやる。
何をやっているのか、一通り
話してみる。
そのことによって、聞いている方が
判ることはもちろんだが、
不思議なことに本人も判る。
他人に話すことで、自分も
思考が整理できるのである。
小俣はポルトガルであるInterspeechでも
発表するので、その予行もかねていたが、
予行はそこそこに、最近の
SOMを使った研究の話に入っていった。
柳川と小俣が研究室見学に来たのが、
ついこの間のような気がする。
もう5年も経とうとしているのだ。
人生うかうかしてられないよ、全く!
増田健史が 「脳」整理法 の
見本を持ってきてくれた。
この本は、いろいろな工夫がしてある。
まずは著者近影。
一番下の「写真プロデュース:桑原茂一[クラブキング])に着目!

章扉のイラストは、芸大の油絵科から布施英利研究室に
進んだ蓮沼昌宏クンが担当している。

文章は、「です、ます」調で、重要な箇所が
太字になっている。

増田健史が、本当に苦労して作った本
である。
この本には、幸せを掴んで欲しい!
増田健史が「いやあ、茂木さん、やっとできましたよ」
と言って見本を渡した現場には、NHK出版の
大場旦もいた。
大場旦は、ぎょろっとした目でこっちを見て
「よく来れましたねえ」と言う。
仕事をしていないことをオオバタン流の
ドスの利いた声で皮肉っているのである。
私は、「いやあ、まあ、その」と誤魔化そうと
したが、やはり逃げ損なった。
しかし、オオバタンは小林秀雄賞のお祝いに
ルーペをくれた。
いいヒトなのである。
秋だ! 仕事をせねばなるまい。
たまにはうまいものも食いたい。
8月 31, 2005 at 08:36 午前 | Permalink
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2005/08/30
小林秀雄賞
朝夕が涼しくなって、夏の終わりの気配が
漂うようになった。
お台場の科学未来館に行く。「メガスター」
の大平貴之さんと対談する。
学研の『大人の科学』の企画。
特別に、メガスターの星空を上演して
いただく。
そんな中、「星空をバックにした写真」
をとるためか、不思議な撮影をする。
星空の下、30秒間静止していて、
その間フラッシュを焚く、という方式。
面白かったのは、肉眼で見える6等星以下の
明るさの星を提示するかどうかで
論争がある、という大平さんの話。
サブリミナルのような話で、
大平さんによると、あるとなしでは
明らかな質感の差異があると言う。
満点の星空の下、なぜ人は星空を
美しいと感じるのかを議論して、楽しかった。
夕刻、新潮社の葛岡晃さんから電話。
「これから話すことは重要なことです」
と前置きされて、小林秀雄賞の受賞を知る。
『脳と仮想』に対して。
今からホテル・オークラに来いという。
候補になっていること自体、全く
知らなかったので、大変驚き、
オークラに向かうと、金寿煥さんが
いきなりリュックをとる。
「そのドアを明けると、もう会見場ですから」
と言う。
入ると、30名くらいの記者の
方々がいて、びっくりした。
写真を撮られながら、受賞の思いを
お話する。
質問も沢山出て、受賞会見というのは
こういうものか、と思った。
別室に、審査委員の
加藤典洋、関川夏央、堀江敏幸、養老孟司さんが
いらした。
養老さんには久しぶりにお会いしたけれども、
何だか以前に増してお元気で、若返ったように
さえ感じられた。
バーで、お世話になった新潮社の方々
と乾杯。
『脳と仮想』の元となった連載「仮想の系譜」
を「考える人」に連載することを薦めて
くださった松家仁之さん。
連載中に担当して下さった、葛岡晃さん。
単行本化にあたって装丁など、お世話になった
北本壮さん。
南直哉さんとの対談などを担当して
下さっている金寿煥さん。
そして、小林秀雄の担当を長年に渡って
されていた、池田雅延さん。
皆さんの顔を眺めていると、
感謝の思いで一杯になった。
本当にありがとうございました。
帰路、池田さんとお話する。
小林秀雄の講演は志ん生に似ていると
以前から思っていたが、
実際志ん生が好きで、特に『火焔太鼓』を
繰り返し聞いていたという。
あるお祝いの席で、パーティーに遅れて
いった人たちが、会場から志ん生の落語が
聞こえてきたので、「おい、豪勢だな。
志ん生が来ているぞ。」と感心した。
しかしおかしい、よく考えると
志ん生は最近死んでいる。
中に入ると、小林秀雄がお祝いの言葉を
述べていたのだった。
その時のスピーチは、まさに一つの
完成された落語だったと言う。
そんな話を池田さんに伺いながら
眺めた夜景の美しさは忘れられない。
(お祝いのメールをお送り下さった方々、
ありがとうございました!)
8月 30, 2005 at 06:23 午前 | Permalink
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2005/08/29
あすへの話題 ニュートンの「アハ!」体験
あすへの話題 ニュートンの「アハ!」体験
茂木健一郎
人間の脳の素晴らしい特徴の一つは、ふとしたきっかけで新しいことに気付くことができることである。
ニュートンが、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したエピソードは余りにも有名である。ニュートンのような天才たちのひらめきが、人類の歴史を創ってきた。
英語では、「ああ、そうか!」と気付いた時の感覚を「アハ!という言葉で表す。このため、一瞬のうちに何かに気付くプロセスは、「アハ!」体験とも呼ばれる。
最近の研究によって、「アハ!」体験のような創造的なプロセスも、広い意味では学習の一部であることが判ってきた。学習と創造性は直接には結びつかないような印象もあるが、実際には両者は深く関係しているのである。
「アハ!」体験を生み出す脳のメカニズムは、「一発学習」とも呼ばれる。一度気付けば、もう二度と忘れることがないので、「一発」で完結する「学習」だとされる。
一発学習に関する研究によると、「アハ!」と気付いた時、脳の中では0.1秒ほどの短い時間、神経細胞が一斉に活動するらしい。この活動の結果、神経細胞の間の結合が強められ、一瞬で学習が完結するのである。
学校時代の勉強を振り返ってみても、学んでいることを本当に「納得」する瞬間には、「ああ、そうか」というひらめきがあった。能動的な学習は、ニュートンの「アハ!」体験と共通の脳のメカニズムに支えられている。
学ぶことは創造性と直結している。一生能動的に学び続けることで、人生を豊かなものにすることができるのである。
(日本経済新聞2005年8月25日夕刊掲載)
8月 29, 2005 at 08:09 午前 | Permalink
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笑いを支える安全基地
ヨミウリ・ウィークリー
2005年9月11日号
(2005年8月29日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第67回
笑いを支える安全基地
一部引用
今やすっかり遠くなった感のある「昭和」という時代を代表するお笑い番組、ドリフターズの『8時だヨ! 全員集合』でも、天井からやかんが落ちてきて頭に当たるなど、危険と隣り合わせのコントが笑いを誘っていた。ドリフターズはプロだから、怪我をしないようにいろいろ工夫をしているのだろうという信頼感が、茶の間の笑いを誘っていたのである。
笑いには、心の安全基地が必要である。一見危険に見えるドタバタも、鋭いツッコミも、本当は安全で、コンビの仲も良いのだと信じているからこそ、笑うことができる。怪我をするかもしれない、相方と本気で喧嘩しているのかもしれないという疑いが少しでもあれば、笑っていることなどできない。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
8月 29, 2005 at 08:05 午前 | Permalink
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3人のじいさん
進化学会で東北大学に日帰りした。
会場近くに顔を出すと、池上高志が、
「お前、来ないと思っていたよ〜」と叫んだ。
驚天動地のことに、郡司ペギオ幸夫が
一ヶ月前に煙草をやめていた。
沖縄に行って、一日買えなかったのがきっかけ
だったそうである。
しかし、アロハを着ているのは変わらなかった。
何回もあっているメンツだが、
話は何回聞いても面白い。
池上高志が、マジメに座長をやって
いたので笑ってしまった。
文脈に合わせようと思えば合わせられるんだなあと
しみじみ思った。
面白かったのは、みんなで入った
昼食での郡司である。
池上が、荒川修作の最新作の建築のことを
話していて、
「居間からトイレに行くのに15分かかるんだって
よ。ははは」
と言うと、郡司が「いやあ、そういうのを、建築と
して作ってしまうとダメなんで、面白い
ことは日常の中に沢山あるよ」と口を
挟んで、次のような話をした。
「オレがこの前喫茶店に入っていたら、
80くらいのじいさんが3人入ってきたんだ。
3人ともよぼよぼで、暑い中を歩いてきたんで
皆だらーりと汗を流しているんだよ。
そいつらが、テーブルに腰掛けたんだけど、
そこはアイスコーヒーとかをセルフサービスで
持ってくる店で、
勝手が分からないらしい。
「この店は、一体どうすればいいんでしょうね」
なんて、3人で話しているんだ。
ああいう、一秒ごとがつらい、
というような生を生きているという感じが、
オレにはいいなあ。」
「それで、そのうち、その3人のじいさんの
うちの一人が、立ち上がって、コーヒーを
取りにいったんだ。そのじいさん、足が
悪くて、それで、テーブルに残った二人の
じいさんが、「ああ、足が悪いのに、あの
人にコーヒーを取りにいかせてしまった」
なんて話し合っているんだ。
それでも、本人たちは、一向に立ち上がろうと
しないで相変わらず椅子に腰掛けて、だらーりと
汗をかいているんだよ。」
オレと池上はゲラゲラ笑いながら
聞いていたが、
それからしんみりした。
東北は郡司の出身校で、伝説の
「郡司モヒカン登りの電柱」があるだろ、
お前、と池上が郡司に言っていたが、
今回は確認できなかった。
ちょっと無理めだったが、仙台に
行って良かった。
世の中に本当に面白いもの/人は
少ないが、
そのようなもの/人に出会うと、
それは福音になる。
オレたちも80歳になったら、
3人のじいさんになって、夏の暑い盛りに
喫茶店に行って汗をだらーりとかいてみたい。
8月 29, 2005 at 07:55 午前 | Permalink
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2005/08/28
(本日)日本進化学会(東北大学)
2-B2 意識の進化
企画者:池上高志 (東京大学総合文化)
現代の人の脳の研究を押し進めてもなかなか意識全貌の解明には至れない。ここでは意識の問題を進化的な観点から議論することで、原初的意識はどんなものか、意識そのものはダーウィン的進化の対象か、意識を持つための必要十分条件はなにか、人間の意識は特別か、人工的な意識状態はつくれるのか、といったことを新しく問い直してみたい。
講演予定者
・茂木健一郎(Sony CSL)
・岡ノ谷(理研BSI)
・郡司幸夫(神戸大理地球)
・池上高志(東大総文)
使用言語:日本語
2005年8月28日(日)午前11時〜午後1時
東北大学川内キャンパスB会場(講義B棟2階)
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/evol2005/index.html
8月 28, 2005 at 06:40 午前 | Permalink
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淡い
眠る前に考え事をすると、
たくさん夢を見る。
意識と無意識、現実と非現実が入り交じって、
モザイクのように感じる。
時差がある時は、それがはなはだしく
なりやすい。
どうにも不思議な夜だった。
現実が、パーコーレーション相転移で
単連結になった状態ならば、
つながりそうな、つながらないような、
そんな淡いの時間である。
淡いも何も、どうも時間がない。
いつも何かやっていないと済まない
というのは幸福なような不幸なような。
本質につながりそうで、つながらない。
そんなサスペンションの状態に、
すっかり慣らされてしまった。
ヘタにエッセンスにつながった、と思うと、
これが勘違いになって、悟っていっちょ
あがり、ということになるから、
人生は難しい。
8月 28, 2005 at 06:39 午前 | Permalink
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2005/08/27
観察者と当事者
早朝、空港に向かうタクシーの中で、
まだ夜も明けきらないのに仕事に向かう
人たちを見ることがある。
そんな時、旅行者の目でしか見ていなかった
土地を、
生活者の視点を擬した心で見ることが
できるようになるのだ。
ラコリューニャでも、
まだ暗い街に、
開いている新聞スタンドがあり、
道を急ぐ人の姿があった。
バルセロナ、ミュンヘンを経由して、
ルフトハンザで成田に向かっている。
食事をしながら、Woody Allenの
Melinda and Melindaを見る。
一つのエピソードから、二人の劇作家が
それぞれ悲劇と喜劇を創り上げる。
入り組んだ恋愛関係を洒落た台詞で
描く技量は、さすがにWoody Allenだ。
しかし、同時に、Woody Allenのような
「インテリ」の立ち位置というものについて
考えざるを得なかった。
それは、見知らぬ土地への旅行者の
立ち位置にも似ている。
つまりは、当事者ではないのだ。
事態に巻き込まれ、必死にもがいている
者ではない視点から、初めて見えてくる
ことはある。
だから人は旅行者になろうとするのだろうし、
映画の作家になろうとするのだろう。
小津安二郎が人生の当事者としてどのような
ドラマの中を通過していたか、私たちは知らない。
たとえ、それが土壌になっていたとしても、
芸術家としての小津の技量は、人生の事態
から自分をディタッチして、冷静に観察することが
できることに依存している。
『東京物語』を撮影中、助監督をつとめていた
今村昌平に、「君、脳卒中で死ぬ時はこんなもんだろう」
と言ったエピソードは有名だ。
今村は、ちょうど、自分の母親が危篤でかけつけて
帰ってきたばかりだったのである。
Woody Allenが、人生の当事者として
何を経験して来たのか、彼の作品から想像はつくが、
それは映画作家としての彼の資質に直結
するものではない。
人生は当事者として生きれば十分で、
それと離れた観察者としての人生は、おまけの
ようなものなのかもしれない。
表現者として生きている人たちに時々
感じる一種の胡散臭さは、彼らの魂が
二つの相容れない態度の間で軋んで立てている
音なのだろう。
表現者としてうんぬんは、どうせエクストラ
なんだから、
まずは当事者として人生を全うするのが良い。
1時間半ほどで成田に着く。
ボーイングからネットにつながる時代。
便利になりました。
8月 27, 2005 at 08:44 午前 | Permalink
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2005/08/26
漂泊の思いとの再会
あと2時間すると、空港に向かう。
ある時期までの私は、
センチメンタルで、
旅行で訪れた土地を去る時、
名残惜しく感じた。
気に入った風景を目に焼き付けようと
何回も振り返ることもあった。
最近はあっさりしている。
帰ることは、新しいフェーズの
始まりだと、さっさと去る。
しかし、昔のはあれはあれで良かったのかな、
とふと思う。
名残惜しさの中に一瞬見えた何かが、
強度と純度のうちに秘めていたものに
心惹かれるのだ。
田森佳秀は一足先に帰り、
最後の晩餐を食べようと田谷文彦と
歩いていて、
そうだ、自分が求めているのはインド料理だ!
と思った。
何しろ、着いてからずっとこの地方の料理
(ガリシア料理)しか口にしていないのだ。
うまいことはうまいが、
さすがに身体が別のものを求め始める。
ところが、歩けども見つからない。
そう気付いてみると、街で東洋人やインド人
を見かけない。ほとんどスペイン人しかいない。
ここは、スペインの田舎、スペインらしさの
芯のような所だったのだ。
30分かけてやっと「タジ・マハール」
という店を見つけた時はうれしかった。
しかし、その前に歩いて目にした街の
風情の方が、私の心に何らかの作用を
もたらしたのかもしれない。
もし、この街でずっと暮らすことに
なったら。。。。
そんな眼で、食料品店や、
バールや、パン屋さんを眺めた。
昔私がセンチメンタルだったのは、
そのような漂泊の思いのなせるわざだったのだろう。
自分が、今までの人生の軌跡とは
違う方向にいってしまうかもしれない、
という可能性がリアルに感じられて、
それを見知らぬ土地の風景に重ね合わせ、
共鳴していたのだろう。
漂泊の思いが自分の中に全く
なくなってしまったか、というと、
そんなことはない。
子供から大人になって、
社会の様々な網に絡め取られ、
自ら飛び込む。
モメンタムが増大し、
イナーシャが勝手に軌道を描く。
何しろ、やることが多すぎるのだ。
しかし、
プラクティカルで機能主義的な
振る舞いを何層もかき分けていくと、
積み上げられられたブロックの
隙間に、
まだちゃんと息づいている
「どこに行くか判らない」という
漂泊の思いを見つけるのだ。
「おお、お前はここにいたか」
と、
久しぶりの再会に
私の魂は狂喜し、
ビールの泡の中で踊る精霊たちを
眺めていた。
スペインの片田舎で見つけた
インド料理屋でのほんとうに
小さな出来事である。
8月 26, 2005 at 11:43 午前 | Permalink
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2005/08/25
入試でも漢字を書かない男の実在について
学会よりも何よりも、
田森佳秀が一番面白い。
昨日の「漢字を書かない同盟」に
ついて、若干の疑問点があったので、
ラコリューニャの街を歩きながら問いただして
みた。
「おまえさ、きのう、中学校の時
ひらがなしか書かなかったと言ってたよな。」
「うん、そうだよ。」
「テストの時はどうしたんだ?」
「こまった。でも、やっぱり書かなかった」
「!・・・・。でも、国語とか、「このひらがなを
漢字になおしなさい」とかいう問題あるじゃん」
「うん、だから、そういう時は、こういうわけで
漢字は書きません、と答案に書いた。」
「社会の時とか、歴史上の人物とかもか?」
「うん、そうなんだよ、困ったんだよ。」
「・・・それで、それ、いつまでやったの?」
「高校一年の時まで。」
「高校入試の時もか?」
「うん。。。それで、20点くらい損したかも
しれない。それでも、オレの高校は500点中
400点取っていれば入れたから、それでも
大丈夫だった。オレ、450点くらいは
取っていたから。」
「・・・・」
「ああ、でも、ちょっとだけ日和ったかな。
オレさあ、名前だけは漢字で書かないと落とされる、
と先生に脅かされて、高校には入りたかったから、
答案の名前は漢字で書いた。でも、後から考えたら、
あれはうそをついて脅かされていたんだよな。」
「おまえなあ。。。」
「いや、何しろ、英語を知った時に、これは偉い、
と思ってしまったんだよな。文字が26通りしか
なくって済むんだもんね。」
上の文章を読んで、「そういう問題じゃないだろう!」
と思ったあなたは、正しいリアクションです。
しかし、タモリヨシヒデを前に、そのような
「普通」の感覚は通用しないのである。
思えば、田森と最初にあったのは、1992年
理化学研究所。
あれから、13年の月日が流れたのだった。
13年来の親友にして、まだ知らない
ヘンジン・ネタがあるのだから、
田森佳秀恐るべし、である。

漢字を書かない青春だった。ー田森佳秀ー
夜、バールに田森と田谷文彦と一緒にいて
飲んでいたら、
なぞの酔っぱらいオジサンが現れた。
アメリカ、ノー!
ハポン、イエス!
ウィスキー、イエス!
などと絡んで、田谷にウィスキーを
おごらせていた。
酔っぱらいオジサンがトイレに立った
隙に逃走した。
田森も変人で、
酔っぱらいオジサンも変な人だが、
変のベクトルが異なる。
田森のヘンさは、スルメのように
噛めば噛むほど味が出る
ヘンさである。
夕食前には、田森は、正三角形と
正五角形を折り紙で折る方法について
うんちくを垂れていたのであった。
ヘンジンのおかげで世界は面白く
なる。
ああヘンジンくん、ありがとう。
8月 25, 2005 at 02:40 午後 | Permalink
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2005/08/24
面白いこといろいろ。
学会(ECVP)は、ラコルーニャの
PLAXCOというところで
やっている。
海沿いのコンベンション・センター
である。
レジストレーションをして立っていたら、
ケンブリッジ時代の恩師、ホラス・バーロー
(Horace Barlow、愛称バロバロ)がやってきた。
リンダ・ブラウンズ(Linda Browns)
とのGlass patternに関する研究発表を聞き、
リンダ、ホラスと食事をしながら
話し込む。
発表をしたリンダが、「ああ、ほっとした、
ワインがおいしいわ。昨日は、午後2時まで、
発表の準備と練習で眠れなかったから」
とうれしそうである。
ホラスは、田谷文彦が渡した、私との
共著の両眼視野闘争の論文を食い入るように
読んでいる。
バロバロ、まっしぐらという感じである。
86歳なのに、学問に対する
情熱が全く衰えないのは、スゴイことだと
思う。
リンダは準備をするが、私はしない。
もちろんパワーポイントはつくるけど、
何を喋るか、一切事前には考えない。
呼ばれて、登壇して、その瞬間に
即興で話し始める。
記憶に基づいて何かを喋るのが、
あまり好きではないのだ。
今回は被験者355名という変な実験
についての発表だったが、
おもしろがってもらえたのではないかと
思う。
普通の視覚心理は、ある一定の時間内で
はっきりとした結果が出る領域を扱っている。
私は、そこが「失敗」した後の、
「いつ来るか判らない」アハ!体験の方に
興味がある。
この二つの過程の分離は、被験者数を
増やさないと実現できない。
355名でも足りないくらいで、
「隠れ図形」の中で、もっとも
5分間正解率の高い「地中海」(71%)
で、かろうじて、「いつ来るか判らない」
ランダムなひらめきが見えてくる。
5分間正解率の低い「キリスト」(9.3%)
では、その分離はサンプル数として
明らかではない。
どこかで、被験者数、数千人とかの
実験ができれば見えてくるかもしれないの
だけれども。。。
「地中海」のデータで、ランダムなひらめきは、
どうやら単位時間あたりある一定の確率
で起こる「ポアソン」プロセスのような
構造を持っていることが見えてきた。
その前のある特定のアルゴリズムに
基づく「速い」プロセスとは様子が違う。
このあたりが、「ニュートンのリンゴ」
のような創造性のプロセスと関係する。
自分の発表が終わって、リンダほどでは
ないが、少しはほっとした。
これで、とりあえずデータ解析を終えて、
他の仕事ができる。
やはり、学会での発表には、「その前は
そのこと以外はやりにくくなる」という
それなりのプレッシャー効果はある。
特に今回のようなongoing researchで、
考えることが沢山ある時はそうである。
共著者の田森佳秀と久しぶりに会って
ゆっくり話したが、やっぱりこいつは面白い!
バールで田森の話を聞いて、笑い転げていた。
いつも、「まだあったか!」と驚く
ほど、隠しネタを持っている。
今回は、田森が中学生の時、2年間
漢字を書くのをボイコットしていた、
という話を聞いた。
英語を学び始めて、英語というのはスゴイ、
アルファベット26文字だけで表せる。
日本語だって、ひらがなだけで本当は
書けるはずなのだから、漢字を書くのは
無駄だ!
そう思いこんだ田森少年は、
「漢字を書かない同盟」をつくって、
友達を誘ってひらがなだけでノートを
とっていたというのである。
「それで、どうだった?」
と聞いたら、
「苦しかった・・・」
と田森。
こいつは、真性のバカである。
だから、好きなんだ。
最近、その当時の「漢字を書かない同盟」
の同級生に会って、
「あの時、お前のせいで!」
とぼやかれたと言う。
本当にやってしまって、
友達を巻き込んでしまうところが偉い。
いろいろ面白いことがあって、
まだたった一日しかいない、ということが
信じられないくらい堪能した。
タクシーを呼ぶときに、相手がスペイン語で
まくしたててきて、
数字でさえ英語で言ってくれない
不条理な状況にも、何だか慣れてきてしまった。
そう思えば、世界はスペイン語でできている
ような気すらしてくる。
8月 24, 2005 at 02:01 午後 | Permalink
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2005/08/23
文脈の中でしか生きられない
ヨミウリ・ウィークリー
2005年9月4日号
(2005年8月22日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第66回
文脈の中でしか生きられない
一部引用
以前、学会に参加するために、イタリアを訪れていた時のことである。
学会は斜塔で有名なピサで開かれていた。まる一日空いたので、フィレンツェに列車で向かった。急行に乗るつもりが、間違えて各駅停車に乗ってしまった。いつまで経ってもフィレンツェに着かず、次第にあせり始めた。まわりはイタリア人ばかりで、訳の判らないイタリア語が飛び交っていた。
そのうちに、いたたまれないほど重苦しい感覚に襲われ始めた。それまでの私は、旅行者としてイタリアを楽しんでいた。イタリア人に囲まれることで、突然、自分がイタリアそのものの中に投げ出された気がした。これからイタリア語で仕事をして、イタリア語で恋をし、イタリア語で家族を育てなければならない。そのような逃げ場のない状況の中に自分が追い込まれてしまったように感じたのである。
帰るべき母国があってこそ、旅行者としての楽しみが可能になる。普段の生活とは違った「文脈」の中で、旅する人の役割を「演ずる」ことにこそ喜びがあるのである。異国という文脈が唯一のものになってしまうと、そこに現れるのはむしろ逃げ場のない生活である。そうなってしまうと、苦しい。私がイタリアの列車の中で感じたのは、その重苦しさだった。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
8月 23, 2005 at 02:57 午後 | Permalink
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大切な鏡
ヨーロッパというのは不思議なところで、
当たり前だが、国境を越えると雰囲気が一変する。
フランクフルト、マドリッドを経由して
ラコルーニャまで来たが、
乗り換えの時に、ゲルマンから
ラテンへの雰囲気の変化は、空気の
温度が一気に何度か上昇するような
気分だった。
ラコルーニャのタクシー乗り場で、
誰も並ぼうとしない。
適当にそのあたりにたむろしていて、
適当に乗ってしまう。
ふわーっと煙草を吹かしていた
女性が、一番あとから来たのに
真っ先に乗った。
たまたまお目にかかった
産業技術総合研究所の永井 聖剛さんと
乗り合わせでホテルに向かいながら、
「ひょっとしたらあれはレディー・ファースト
だったのか?」
と思った。
スペインにはスペインのやり方が
あるに違いない。
バールに入り、ビールを注文して
様子を見ていると、
身のこなし方がイギリスのパブとは
全く違う。
ラコルーニャには有名なサッカーチームが
あるそうだが、なるほど、サッカーは
上手そうである。
ぴちぴちとイキの良い魚のように、
上半身をくいっ、くいっと
動かしてくる。
日本の居酒屋の身のこなしが
懐かしい。
異質な他者は、「私」を映し出す
大切な鏡である。
ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、
イギリス・・・・
これだけ性格の違う他者が狭い地域に
ひしめき合っていたことが、
ヨーロッパ文化の発展の礎だったことは
間違いない。
私たちも、中国人や韓国人を大切にしよう。
ネットでニュースをチェックすると、
駒大苫小牧高校は、せっかく二連覇
したのに野球部長の暴力事件で
いろいろな催しものが中止だという。
高知の高校が出場できなかったという
ニュースもあった。
この集団主義には、首をひねる。
悪い意味で、戦前の日本のようである。
高野連というのは、よほどご立派な
おじさま方によって運営されているに
違いない。
2005年のこの時代に、
恐るべき集団主義を墨守する
ひとたちはまさに違和感を覚える
異質な他者であるが、
この鏡はあまり大切にしたいとは
残念ながら思わない。
小泉じゃないけど、誰か
あの組織を
ぶっこわしてあげたらどうか。
飛行機の中はずっと解析をしてきた。
雑事が消えて、すーっと集中する
感じが良い。
やっぱり、研究は楽しい。
ホテルで、田谷文彦と
inattentional blindness、
change blindnessまわりのことに
ついて議論した。
バールにはそれから行ったのである。
田谷はサッカーファンで、もうすでに
スタジアムの下見は済ませてあるという。
8月 23, 2005 at 02:52 午後 | Permalink
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2005/08/22
忙殺と栄養ドリンク
Rising Sun Rock festival は最高に
面白かった。
さそってくださった桑原茂一さん、
本当にありがとう!
須田さん、吉村さん、
good sessionでした!
クラブ・キングのみなさん、お疲れ様!
アーティスト・エリアのカフェテリアに
行ったら、氣志團の人たちがあの恰好で
ストレッチをしていた。
氣志團にはストレッチが似合う。
東京に帰ってきた後は、ECVPの
データ整理や関連論文整理で忙殺。
栄養ドリンクを2本飲む。
あと少しで、ルフトハンザでヨーロッパに向かう
ために家を出ます。
飛行機の中でネットが使えればいいのだけれども。
ECVPでは、次の発表をする予定である。
他にも私たちのグループから二件の発表がある。
(田谷文彦さんと、Zhang Qiさん)
それえでゃ、行ってまいります。
Slow and fast processes in visual "one-shot" learning.
Ken Mogi, Takayasu Sekine, & Yoshi Tamori
Sony Computer Science Laboratories,
Tokyo Institute of technology
Kanazawa Institute of Technology
A striking example of active vision is when it takes a while to realize what is hidden in a seemingly ambiguous bi-level quantised image. Famous examples such as "the Dalmatian" and "Dallenbach's cow " are visual teasers in which naive subjects find it difficult to see what is in the figure. Once the subjects realize what is in the picture, there is a one-shot perceptual learning, and recognition of what is in the image is possible after the passage of a considerable amount of time. These visual "aha!" experiences or "one-shot" learning processes are interesting for several reasons. Firstly, the combination of low-level spatial integration and top-down processes involved provides important clues to the general neural mechanism of active vision (Kovacs et al. 2004 Journal of Vision 4 35a). Secondly, the temporal factors involved in this process, such as the brief synchronization of neural activities (Rodoriguez et al. 1999 Nature 397 430-433) provide crucial contexts for the integration of sensory information.
Here we report a series of experiments where the temporal factors involved in the one-shot visual learning are studied. The subjects were presented with several bi-level quantised images, and were asked to report what is in the image. We measured the time required in delivering the correct answer. We found that there are at least two distinct cognitive processes involved. In the "fast" process, the subjects almost immediately realize what is in the image, with the report time distribution decaying in an exponential manner. In the "slow" process, the realization occurred in a quasi-Poisson process, with the moment of realization evenly distributed over time. Thus, the visual system seems to employ at least two different strategies in deciphering an ambiguous bi-level quantised image. We discuss the implications of our result for the neural mechanisms of dynamical cognition in general.
8月 22, 2005 at 05:12 午前 | Permalink
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2005/08/20
ロード生活
ロード生活に入っている。
昨日は研究所からNHKに行き、
BS2の
ガンダム特番に出て、
それから品川プリンスホテルに
チェックインして、
仕事をして仮眠を取った。
午前1時30分に赤坂の
TBSに行って、
極楽とんぼのラジオ番組で話して、
ホテルに戻ってビールを飲んで
眠った。
今日は札幌に向かい、ライジング・サン・
ロックフェスティヴァルに行き、
桑原茂一さんのコメディのテントで
須田泰成さんとイギリスのコメディの
話をして、
そのまま(おそらく?)日の出を
見て明日東京に帰ってくる。
月曜の朝早くスペインに向かう。
ECVP (European Conference for Visual Perception)
で発表するためである。
その前に、最終的なデータの整理を
しなくてはいけない。
27日に東京に帰ってきて、
28日には、池上高志がオーガナイズした
東北大学の進化学会のシンポジウムで話す。
関係者の方々、そのようなことですので、
メール以外のやりとりがしばらく
できないかもしれません。
考えたいことがいろいろあって、
しかし時間がないので、最近は移動しながら
小型メモにいろいろ書きつけている。
本を読むより考えたい、というモードに
入っている。
8月 20, 2005 at 09:40 午前 | Permalink
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無題
相変わらず空白のことを考えている。
何時もは移動中も何かやって
いるけれども、
山手線に乗って研究所に
向かうとき、
ドアの横に立って
珍しくぼんやり外を眺めた。
外は暑いが、クーラーの利いた
車内は涼しく、
まるで自分が上京して
観光している人のように
思えた。
山の手線のゆったりとした
カーブに身を委ねている時、
ふと、「今、この瞬間が
オレの夏休みだ!」と思った。
夢とか希望というのは、空白に
対する一つの認識なのだろうと
思う。
これから一ヶ月、一切何の
予定もない、
というようなことがあったらどんなにか
良いだろう。
きっと、それは、沖縄に行って、
ビーチに行き、次第に時計や
シャツといった文明の印を脱いで
いってしまう感じに似ている。
8月 20, 2005 at 07:18 午前 | Permalink
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2005/08/19
郵政民営化
郵政民営化の「反対派」に対する
対立候補の擁立などが、メディアで
おもしろおかしく論じられているが、
一つ判らない点がある。
賛成するにせよ、反対するにせよ、
民営化は小泉自民党の前回衆議院選挙の
「マニフェスト」に記され、
前回総裁選も民営化を唱えて
当選したのではなかったか。
政党という制度に基づく民主的プロセスの
ロジックとして、「反対派」の議員の
行動は筋が通らない。
私にとっては、論点はこれに
尽きるように思われる。
その他のゴタゴタは枝葉末節である。
8月 19, 2005 at 08:21 午前 | Permalink
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あすへの話題 脳から見た英語上達法
あすへの話題 脳から見た英語上達法
脳科学者 茂木健一郎
日本人は英語が下手である。特に、話したり書いたりして、自分を表現するのが苦手である。英語教育が外から情報を取り入れて吸収することに重点を置いてきたからだろう。
脳の記憶のメカニズムから見た英語上達法ははっきりしている。当たり前のようだが、英語のシャワーを浴びるしかない。英語に接する「エピソード」をどれくらい脳の側頭葉の記憶のアーカイヴに蓄積できるかで、英語力の厚みは決まってくる。
日本語をどのように習得したか、思い出して欲しい。単語の意味を辞書で調べることなど、むしろ例外である。脳の中に蓄えられた豊富な「エピソード記憶」から、それぞれの単語の「意味記憶」が自然にできあがってくる。「あたたかい」という言葉を何回も聞くうちに、自然にその意味がわかってくる。一つ一つの「意味記憶」を多くの「エピソード記憶」が支えているから、ネイティヴは応用が利くのである。
日本の英語教育のように、中学校で勉強する単語の範囲はここまで、と最初から区切ってしまうのは、根本的に間違っている。言葉は開かれたシステムであり、どんな単語が飛び込んでくるか判らない。それでも、過去のエピソード記憶の蓄積からその意味を類推してしまうのが、本当の語学力なのである。
英語は何も試験のためにあるのではない。インターネットの発達によってグローバル化した世界で、自分を表現するためにあるのである。日本人の顔が見えないと言われて久しい。今からでも遅くないから、英語のシャワーを浴びて、脳に沢山の英語のエピソードを蓄積しようではないか。
(日本経済新聞2005年8月18日夕刊掲載)
8月 19, 2005 at 07:38 午前 | Permalink
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意識的に空白をつくりその中に飛び込まなければならない
朝日カルチャーセンターの
レクチャーに小学生が6人来ていて、
話はどうしても彼ら/彼女たち向けになった。
昨日の朝日新聞で、保坂和志が空白の
ことを書いていた。
子供には、大いなる空白がある。
その空白こそが贅沢だし、希望だ。
大学に進学したり、
新しい分野に参入したり、
誰かと会ったりした時の
キラキラは、
空白のなせるわざなのだろう。
そのキラキラの空白が、次第に
手あかがついてくすんでいく、
そんな様子を見ると哀しくなる。
いつまでも最初のキラキラの空白を
忘れたくないし、
常にそのような空白をつくり続けなければ
いけないと思う。
部屋の掃除のことを考えれば
判るように、
空白というのは最初から存在するものではなく、
自ら能動的につくるものなのだ。
小学生は自然に空白の中にいるけれども、
大人は、意識的にvoidをつくり、その
中に飛び込まなければならない。
そんなことを思った。
8月 19, 2005 at 07:28 午前 | Permalink
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2005/08/18
TBS ラジオ 極楽とんぼの吠え魂(だま)
TBS ラジオ 極楽とんぼの吠え魂(だま)「頭ん中って、どうなってるの!?」〜金曜JUNK
8月18日(金)深夜(8月19日早朝)A.M. 1:50〜3:00頃
http://www.tbs.co.jp/radio/topics/200508/002001080500.html
8月 18, 2005 at 06:35 午前 | Permalink
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8月19日 BSアニメ夜話スペシャル
2005年8月19日(金) NHK BS−2
BSアニメ夜話スペシャル 「まるごと! 機動戦士ガンダム」
[タイムスケジュール]
後7・30〜8・30 第一部 スタジオ生放送
[出演者]
第一部 スタジオ生放送
[出演]
声楽家・錦織健、作家・福井晴敏、
脳科学者・茂木健一郎、活動弁士・山崎バニラ ほか
[司会] 友近、里匠アナウンサー
http://www.nhk.or.jp/omoban/main0819.html#20050819003
8月 18, 2005 at 06:29 午前 | Permalink
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(本日)夏休み科学の学校 脳を本当にきたえる方法
8月 18, 2005 at 06:25 午前 | Permalink
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宮本武蔵、二刀流開眼
やることが発散して、ついには
二台のPowerbookを使って同時並行に
仕事をしたり(ファイル作業などの
時間待ちの時を利用)
さらには、メモ用紙に書き込む
「三刀流」になったり、
あるいは、部屋の中を歩きながら
画面を見て作業をするという技を
あみ出してしまった。
そうしているうちにも、
「あれはどうなっていますか」
「はやくしてください」
といろいろなところから催促が来る。
どう考えても絶対に無理である。
宮本武蔵は、巌流島の戦いに
たどり着けるだろうか。
そんな中で、Sudokuを一問
解いたら楽しかった。
パズルには、独特の楽しさがある。
イギリスなどでは、静かにゆったりと
解くパズルが人気である。
パズルにもスローパズルと
ファーストパズルがあり、
日本ではファーストパズルが人気が
あるのはお国柄だろうか。
脳の活動レベルを図ったら、スローパズルは
おそらくファーストパズルに比べて
活動が低いだろう。
川島隆太さんの研究でも、難しい数学の
問題を考えている時には、脳活動がむしろ
低下するとある。
脳活動の上昇=脳を鍛える
とはならない理由の一つがここにあると
思う。
http://websudoku.com/
8月 18, 2005 at 06:20 午前 | Permalink
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2005/08/17
脳と仮想 5刷
8月 17, 2005 at 08:33 午前 | Permalink
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ラブ&ピース!
大雨が降り、地震があり、迎えた
夕刻は不思議なさわやかさに満ちていた。
花野剛一さんと広尾で待ち合わせて、羽澤ガーデン
まで歩いた。
住宅街の向こうに正面の門が見え、そこから
ゆるやかに曲がる坂道を上っていった。
すでに桑原茂一さんと吉村栄一さんは
いらしていて、
庭では、撮影の準備が進んでいた。
しばらくして、坂本龍一さんがいらした。
赤いTシャツに黒いカーディガンを羽織り、
なんだか森の中の古木が歩いているようだった。
坂本さんとは初めてお会いしたが、
とても繊細な印象にうたれた。
その声がひそやかで、小さく、
しかしちゃんと伝わってくるのが
不思議だった。
今思えば、森の小鳥のさえずりの
ようでもあり、
梢を渡る風のようでもある。
撮影が終わった後、茶室でお話する。
桑原さんのつくっているfree paper dictionaryの
企画。
デジタルとは何か、
デジタルで表現され、記録される
音楽の本質とは何か、という
テーマから始まって、
坂本さんの活動のフィールドでもある
ポップスの話になった。
坂本さんほどの人でも、アメリカの
ポップスの牙城を打ち破るには苦労するという。
ビルボードのチャートを見てください。
ほとんどがアメリカとイギリスの
グループばかりでしょう、と坂本さんは言う。
それでなるほどと思った。
ポップスは、クラッシックやジャズのような
スタイルが様々なことを規定していく
ジャンルではなく、
一般の人々の欲望がむき出しになる
「野獣」のフィールドである。
現代に放たれた野獣が暴れるポップスの
世界では、
それこそ、「People」誌に載る
ようなあからさまなポピュラリティの
領域があって、
そこに「東洋人」が入り込んでいくことは
難しいのだろう。
似たようなことは科学の世界でもある。
テクニカルなブレイクスルーを
報告するだけならば、クラッシックや
ジャズのようなものだから良い。
しかし、パラダイムを変革するような
メジャーな寄与となると・・・
お話をしながら、
私は、坂本さんの音楽に共通する
ある「クオリア」が気になっていて、
それを突き止めようとしていた。
聴けば誰かと判る、シグネチャーの
ようなものがある。
そのようなものを通して、
人は他者を理解し、作品はマーケットの
中で流通して行く。
しかし、もちろん、それを生み出す本人は、
常に揺れて震える魂なのだ。
対談終了後、レストランに席を移して
食事をする。
庭にはかがり火が炊かれ、
テーブルの上でランプがゆらゆら揺れた。
西表の話、ニューヨークのこと、
そして、しなやかで美しい野獣たちの
話。
植物も生きている。
ジャイナ教の不殺生。
バーに移って、坂本さんが若い時
真性の野獣だった頃の話を聞く。
今でも、不条理にはきちんと
怒る! とのこと。
はははと笑った桑原さんが、
実は野を独り行く一番の野獣である。
半月夜の野獣くらべは面白かった。
さわやかな夕暮れから始まった
一日を締めくくるにふさわしい
楽しい時間だった。
桑原茂一さんのご厚情に感謝します。
一夜明け、今の気分はラブ&ピース!
どんな仕事でもして見せましょう。
8月 17, 2005 at 08:15 午前 | Permalink
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2005/08/16
初ホッピー
終戦記念日の夕刻、矢来町の新潮社へ。
北本壮さん、金寿煥さんを相手に、
「ひらめき」(aha! 体験)
について2時間ほどお話する。
北本さんがとって下さった会議室は、
本館の2階で、革表紙の本が沢山ある。
といっても世界名作全集ではなく、
全て新潮社の本である。
発行部数が10万部を超えると、
革表紙に製本して、この「栄誉の殿堂」
に保存されるのだ。
一部は著者に献呈されると言う。
眺めていると、池波正太郎や、
司馬遼太郎はさすがに強い。
私の本は、もちろんまだない。
終了後、金さんオススメの店へ。
「茂木さん、ホッピーって飲んだことありますか?」
「いえ、ないです。小学校に行く道に「ホッピー
あります」と出ていて、何だろう、と興味は
持っていたけど、飲んだことないです。あれは
一体なんですか。」
「昔ビールは贅沢品だったでしょ。だから、
ホッピーと焼酎を混ぜて飲んだんです。」
「はあ。」
「飲みやすいけど、あとでがつんと来ますよ。安く
酔っぱらえて、あれはいいもんですよ。ホッピー
があれば、人生の幸せ20%増しですね」
「そうですか。20%増しですか!」
という会話をしながら、そのモツ焼き屋の店へ。
最初は空いていたが、そのうち、ここは昭和30年代
かと思うくらい、満員の店は熱気に満ちた。
みんなが大声で喋るので、うゎんうゎんとこだまする。
私と北本さんは、さすがに最初の一杯は
ビールにしたが、金さんは最初からホッピーである。
ホッピーは瓶に入ってきて、それとは別に
氷の入った焼酎がくる。
ホッピーをグラスに投入して、準備OKである。
「このホッピー一本で、何杯飲むのか、というのが
ポイントですね。2杯の場合もあるし、3杯の
場合もある。」
「はあ。」
「ホッピーのことを「外」、焼酎のことを「中」と
言って、中がなくなると手が空いていれば自動的に
注ぎ足してくれるところも多いですね。」
「そうですか。」
「昔、子供のころ、歌を聴いたことがあるなあ。
ホッピー、ホッピー、ゆかいなホッピー」
「あの金さん、それはホッピーじゃなくて、
確かロンドンではなかったですか。」
北本さんの発言が一向に登場しないが、
もちろん北本さんもいろいろ突っ込んだ話していたの
である。
しかし、結果として、
当夜は、「ホッピー大王」としての
金さんのパワーの前に、すっかり私と北本さんは
すっかり圧倒されてしまったのである。
昼間、新潮社に来る前にも
やっかいな仕事をいろいろやった後
だったので、初ホッピーの味はしみじみ旨かった。
金さんは、南直哉さんの担当編集者で、
今度南さんに会いに一緒に恐山に行くことになっている。
恐山にはさすがにホッピーはあるまい。
The Qualia Journal
Transparent runner on the second base!
8月 16, 2005 at 08:27 午前 | Permalink
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2005/08/15
(本日)J-wave 15:40〜15:50
本日 (2005年8月15日)
J-Wave
14:00〜16:30 Rendez-Vous内
INTO THE LIFE
での「大人の自由研究」で、
私がVie Vieさんに話した
脳のよもやま話がオンエアされます。
15:40〜15:50頃のようです。
http://www.j-wave.co.jp/original/rendezvous/
http://www.j-wave.co.jp/original/rendezvous/
8月 15, 2005 at 11:24 午前 | Permalink
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文脈の自由、偶有性の空間。
筑摩書房の増田健史と一緒につくった「脳」整理法
は9月4日発売予定で、アマゾンではもう予約
が始まっている。
増田健史の発案でこの本には「著者近影」
を含めさまざまな面白い仕掛けがしてあるので、
ぜひ手にとってくださったらと思う。
最初は手軽なノウハウ本になる予定だった
この本だが、書いているうちに、やっぱりと
いうか、ずいぶんシリアスなものになってしまった。
この中で、「国家」のような公共的概念が、
その本来の「偶有性」(どのように変化
するか判らないこと)を失って、
大文字の固定的な概念になってしまう
ことの危険性を論じている。
「日本」という国家だって、「日本人」
というくくりだって、本来起源においても
未来の行く末においても偶有的なもので、
それを固定化してそれに固執する
メンタリティーが、多くの災厄をもたらしてきた。
国境だって、偶有的である。
それを固定化してきっちり決めようとするから
教条主義になる。
はっきりしないところは放っておけば良いのだ。
創造的な人は、だいたいにおいて、
偶有性(どうなるかわからないこと)を大切にしている。
そのことは、会って話していればピンとくる。
一方、教条主義の人はいわば文脈の中の蛙であって、
精神を硬くして動こうとしない。
それを自分で勝手にやっているうちには
いいんだけれども、
国家とかそういうところに関わるように
なると本当に困る。
戦争は、基本的に教条主義で行くしかない。
だって、まず「敵」、「味方」をはっきり
させなければならないし、
指揮命令系統も明確に定めなければならない。
軍紀違反は厳格に処罰される。
それは、日本だけじゃなくて、アメリカでも
イギリスでも同じことだ。
そういうのが好きな人というのは世の中に
いるものだが、
私はすぐに白けてしまう。
そういうのと、創造性は違うからだ。
しかし、本当に戦争になったら、白けている
ばかりでもいられない。
だから、文脈の自由、偶有性の空間を保っていく
ことが大切なのだ。
基本的に、戦争と創造性は相容れない。
戦争が好きな人は、創造性とはもっとも
縁遠い人だと言っても良い。
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトが
もし戦争に巻き込まれていたら、
彼はどのように事態をやり過ごしていたことだろう。
だって、やり過ごす以外に他にやることは
ないからね。
60回目の終戦記念日に、そんなことを思う。
インターネットがスモール・ワールド・ネットワーク
で世界を結ぶ時代には、
偶有性との幸福な出会いこそがふさわしい。
8月 15, 2005 at 07:44 午前 | Permalink
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2005/08/14
福山さんのひみつ
今、母に電話してわかったこと。
福山さん自身ではなくて、福山さんの
広島の知り合いで、リトル・リーグを
やっている人がとったチケットだった。
それで判った。あの席は、どう見ても
普通の人がとれる席ではない。
野球関係者とか、応援団員とか、
そういうディープな人でないと入手
できないプラチナチケットだったのだ。
広島の人は、苦労してとったチケット
なのに来れなくなり、とても残念
がっていたという。
もう二度とあんな席に座ることはないだろう。
福山さん、それから広島の人、アリガトウ。
8月 14, 2005 at 09:31 午前 | Permalink
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福山さんのおかげ
胆石の手術から回復しつつある母親が、
友人の福山さんが行けなくなったから、
と東京ドームの巨人×阪神戦のチケットを
送ってくれた。
そうしたら、これがとんでもない席だった。
福山さんが、「大切な席なんですよ」
と何回も言っていたと聞いた。
外野かあ、とあまり深く考えていなかったが、
25番ゲートから入り、57番通路から
行って驚いた。
巨人の応援団のまさにど真ん中の席だった
のである。
私の二つの上の通路には、全体に指示を
出す「応援団長」がいて、
トランペットがいて、
タイコがいて、
周囲を見渡すとみなユニフォームのレプリカを
着ている。
前はNIOKAとKIYOHARAで、
左はなんとNAKAHATAである。
そこに、チノパンと黒シャツでぼんやり
座った私はいかにも場違いで、
周囲から「こいつ何だ?」という視線をビシバシ
感じる。
これはマズイ、と思い、売店に行き、
KIYOHARAのオレンジ・タオルと
応援バットを買って、武装した。
これでなんとかゆるしてもらいたい。
応援団のど真ん中にいるというのは初体験
だったが、いろいろ面白かった。
巨人の攻撃の時は、みんなずっと立っている。
これはビールも飲めない体育会系か、
と思ったが、
一安心。阪神の攻撃中はビールも飲める。
エビスもモルツも再びエビスも飲めた。
巨人が先制して、阪神が追いつき、
その後ゼロ行進となる緊迫した好試合。
延長12回裏、無死満塁から阿部慎之助
がサヨナラヒットを打って巨人が勝った。
5位が1位を破った。
ずっと気になっていたことがある。
応援団の中にいると、一人一人の叫ぶ声が、
いかにもかぼそく、頼りない。
内野席に座って聞く、いつもの
地を揺るがすような大音響には聞こえない。
タイコの音こそ腹に響くが、
トランペットさえ何となく幽かである。
内から感じた応援団と、外から見た応援団。
この違いは何だろう、とずっと気になっていて、
今朝になって判った。
つまりは、軍隊と同じである。
うゎーつと、何万人もの軍が一気に
襲いかかってきたら、それは大変な脅威である。
しかし、軍の中の一人一人の主観に寄り添えば、
そこにはいかにも頼りなげな、揺れる魂が
あるだけだ。
集団になった人間を「マス」で見るとどうしても
見逃してしまうことがある。
それは、たとえば、一人一人の生の揺らぎ
ではないか。
私はどちらかと言うと、鳴り物応援には
批判的だった。
今でも考えは基本的には変わらないが、
少し見方が立体的になった。
たとえば、応援団の人たちは、試合展開に
対して個人的な感想をもらさない。
もっと、「なんだよ、清水」とか、
「そこだ、上原」とか、いろいろ
つぶやいたり叫んだりしていると
思っていたが、
応援行為を唯一の表現として、
私語をもらさないというのが一つの美学の
ようだ。
そこに、何かを感じた。
一人一人が緩く見ていて、自発的に
スタンディング・オベーションしたり
する大リーグ風の応援の方が私には
ぴったりくるが、
日本風の応援も一つの文化だとは思う。
昨日、私も一緒になってオレンジタオルを
振り回したりしていたことは事実だから。
福山さんのおかげで、幾つか大切なことに気付いた。
その福山さんは、もう20年以上会っていない、
母の友人である。
8月 14, 2005 at 09:19 午前 | Permalink
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2005/08/13
佐藤雅彦 × 茂木健一郎 対談
8月 13, 2005 at 10:00 午前 | Permalink
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人生、小さく前にならえ
「交詢社通り」というのは、
以前からもっとも銀座らしくて胸が
ときめく名前だと思っていたが、
調べると福澤諭吉が中心となって
結成されたクラブらしい。
その交詢社通りにある
gggで、まずは佐藤雅彦研究室
展を見て、
それから、講演会場がどこか
判らなかったので、
ビルの外に立って呆然としていると、
吉村栄一さんがやってきた。
しばらくして、桑原茂一さんも
いらした。
やっとどこか判ってエレベータで
上る。
対談始まる。
佐藤雅彦さんが、過去のご自身の
様々な作品を見せて下さり、
私がそれについて思いついた
ことを喋る、というスタイルで
進んだ。
途中で、ははあ、と思った。
佐藤雅彦さんにとって、オノマトペ
的なものとか、
リズムとか、繰り返しとか、スタイルとか、
ああいうものは、生命の衝動を
封じ込め、方向づける呪術のような
ものではないか。
アルゴリズム行進にしても、
ドンタコスにしても、
本来どのような方向にも行きうる
生命というものが、
ある特定の規矩に従うという
ところに立ち現れる快感、
エフェクトをねらっている。
アルゴリズム行進などは、機械的に
動くロボットがやれば後ろのヒトとぶつからないで
完璧に出来るが、
どうなるか判らない人間がやるからこそ
面白い。
佐藤さんの作品は、特に近年、
初等義務教育的なメタファーを強めているが、
考えて見れば小学校の教育とは、なかんずく、
本来どっちの方向にいくか判らない無定型な
子供たちの生の衝動を方向付け、秩序づけ、
整理するところに立ち現れる何か
なのではないか。
対談中、テレビマンユニオンの花野剛一
さんがハンターのようにずっとカメラを
構えていた。
「前にならえ」とか、「小さく前にならえ」
とか、
ああいうの、大人になった今から考えると
ヘンですよね。
gggの今津鎖子さんが見つけて下さった
素敵な京料理の店で、佐藤さんとそのような話を
続けた。
最後は、佐藤さんと桑原さん、そして私で
誰が一番「ヘンタイ」かという議論になった。
佐藤雅彦さんは、「前にならえ」
も「小さく前にならえ」も大好きだそうである。
人生、すべからく小さく前にならえ、で行きたい。
先頭のヒトが腰に手をあててakimboをやるのも
面白い。
ロボットじゃなくて、人間がそれを
やると、そこから必ず生命が吹き出していく。
8月 13, 2005 at 09:56 午前 | Permalink
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2005/08/12
(本日)佐藤雅彦 × 茂木健一郎 対談
本日の佐藤雅彦さんとの対談ですが、定員を
大幅に上回るお申し込み、お問い合わせを
いただき、会場の物理的大きさの都合で、
ご希望をお受けするのが難しい状況の
ようです。ご理解いただけますようお願いいたします。
佐藤雅彦研究室展
課題とその解答
■ギャラリートーク:
�
日 時: 8月12日(金) 6:30−8pm
会 場: DNP銀座ビル5階 要予約 先着70名
出 演: 茂木健一郎(脳科学者)+佐藤雅彦
http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/index.html
8月 12, 2005 at 08:30 午前 | Permalink
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あすへの話題 記憶の「編集力」を鍛えよう
あすへの話題 記憶の「編集力」を鍛えよう 脳科学者 茂木健一郎
アタマの良し悪しと言うと、真っ先に思い浮かべるものの一つが記憶力である。
記憶力を良くしたい。そんな願いは、学校の試験に苦しめられている学生はもちろん、学校を卒業して長い年月が経った大人にとっても切実なものだろう。特に、そろそろ物覚えが悪くなってきたと感じる年代の人にとって、記憶力をどうやったら維持できるかは大いなる関心事に違いない。
ところで、脳の記憶のシステムの本当の素晴らしさは、世間で言う「記憶力」とは少し違う点にあるということをご存じだろうか?
覚えたことを単純に再現するだけなら、機械にでもできる。実際、単純な再現力で比較すれば、人間の脳はコンピュータにとても敵わない。
人間の脳だけが持つ素晴らしい能力は、自らの記憶を編集して、新しい意味を見いだす点にこそある。例えば、何回か会って話をすると、次第にその人柄が判ってくる。あるいは、仕事の体験を重ねることで、そのコツをつかんでいく。このような学習のプロセスに、記憶の「編集力」が関わってくるのである。
大脳皮質の側頭葉に記憶が貯えられると、さっそく編集のプロセスが始まる。コンピュータのように何時までも同じ形で記憶が保存されるのではない。過去の他の記憶と関連付けたり、類似点や相違点を比較するなどの無意識のプロセスが進行すると考えられている。
人間らしい知性は、単純な記憶の再現ではなく、記憶の巧みな編集によって支えられている。記憶の編集力を鍛えることが、人生を豊かにする。
人生の大切な記憶の、良き編集者になりたいものである。
(日本経済新聞2005年8月11日夕刊掲載)
8月 12, 2005 at 08:20 午前 | Permalink
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また一つ・・・
夕刻、打ち合わせのためにNHKへ。
おなじみ、
有吉伸人さんに加え、
河瀬大作さん、住吉美紀さんも。
組織をどのように運営するかという
組織論において、
近年は、人の自発性を重視する
方向に向かっているのだと思う。
そうでなければ組織を
意義ある形で活かすことができない
方向に、状況が変化
して来ているのだ。
何よりも、コンピュータ、インターネット
などの情報環境の変化により、人間の
仕事がより「創造性、コミュニケーション」
方向にシフトして来ていることが大きい。
創造性やコミュニケーションは、
指揮命令系統で強制することができない
のだ。
もう一方で、ITの発達により、
具体的な数字をロジカルに積み上げる
作業も可能になった。
自発性と、ロジックや数字の積み上げ。この
二つが双発エンジンのようにあれば強い。
以上のようなプリンシプルを
具体的に実践しているある
方について、いろいろ議論した。
場所を下北沢に移してさらに打ち合わせ。
取材に出かけていた細田美和子さんも
いらっしゃる。
有吉さんの演出論が面白かった。人間の
「素」を出す方向に行くか。それとも、
素を消して、ある理想的なスタイルをなぞる
方向に行くか。
「カメラの前で、人が本当の姿を
さらけ出すはずがないですよ。でも、たとえ
一瞬でも、本当の姿が見えた時に、それを
視聴者は敏感に感じ取る。なにしろ視聴者は
テレビを見るプロですからね。」
また一つ、現場発の光る言葉に出会った。
「また一つ」と言えば、住吉美紀さんは
アナウンサーで、いろいろなお仕事をされて
いるけれども、「地球!ふしぎ大自然」
http://www.nhk.or.jp/daishizen/
のナレーションも担当されている。
8月22日放送のスペシャルではレポートも
するという。
そのナレーションで、最後に、
「また一つ、地球のかけがえの
なさを見つけました」というところがあるが、
あれは水戸黄門の印籠のようなもので、
あれがないと落ち着かない。
人間は不確実性や偶有性を好む傾向を持つが、
一方で黄門様の印籠や「地球!ふしぎ大自然」の
「また一つ」のように、定型的なところに
「引き込まれる」ことをも好む。
生命作用というのは単一ベクトルでは支えきれず、
必ず一見相反する二つの原理の間で揺れ動くの
だろう。
文楽の人形のように理想のスタイルをなぞりつつ、
そこにちらりと「素」が見える時に人は
何か凄まじきものを感じるのではないか。
The Qualia Journal
"To Sir Georg Solti"
8月 12, 2005 at 08:16 午前 | Permalink
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2005/08/11
身体性とは制約である。
どの鉄道の駅からも車で1時間かかる
場所というのは
素敵だ。
稲敷市は、最近合併で新しく
できた自治体で、名前の通り
米どころ、
早場米のコシヒカリがおいしいらしい。
学校給食は、5日のうち2日は
家から白飯だけ持参で、
あとの3日はうどん、米、パン
のローテーションだということ。
私の給食は90%が食パンだった。
もっとお米が食べたかった。
稲敷はまた、雷が名物でもある。
2日前に落雷があって冷房装置が
働かないという講堂は暑かったけれども、
みなさん熱心にご聴講くださり、
質疑応答も面白かった。
稲敷市教育研究会の方々が
呼んで下さった。
このような熱意ある先生方に教わる子供たちは
幸せだと思った。
帰りは成田まで送っていただく。
川を渡って千葉県側に入ると、
なんとなく茨城とは景色が変わった。
インターネットで一気に距離が縮まる
側面と、どうにもやっかいに空間的
距離が立ちはだかる側面がある。
霞ヶ浦には野鳥のサンクチュアリがあって、
その場所にも近かったが、
こういう仕事のついでに訪問したいと思っても、
なかなかそんなことはできない。
東京の中でさえ、あそこに行こうと思って
いて、もう長年行っていないところなど
沢山ある。
サイバー空間の中ならば、どこに行こうと
あっという間だが、
私たちの身体は相変わらずこの制約の
多い空間の中にあって、
行きたいところに行けず、会いたい人に
会えず、
何のことはない、本質は江戸時代と
そんなに変わってやしない。
身体性を重視するとは、つまりは、
空間的制約を味わうということなのだろう。
インターネットの問題点は、「どのgoogleの
駅からもどうしても1時間かかってしまう」
というような場所がないことではないか。
もっとも、プラトン的世界の中には、まだまだ
検索されていない表象が沢山詰まっているのは
当たり前のことである。
The Qualia Journal
In the middle of rice fields
8月 11, 2005 at 07:57 午前 | Permalink
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2005/08/10
佐貫早起き
ガンダムの戦闘シーンではないが、
いろいろな方向からビーム(仕事)が飛んできて、
それを撃ったり避けたりするので
精一杯である。
研究所で、びあの雑誌、Colorfulの取材。
映画と脳の話をする。
安田講堂で平和の話をした。
伊東乾さんのキモイリで実現した企画。
60年前のこと、オレは生まれては
いないが決して忘れてはいない。
それにしても毎日暑い。
冷房を付けずに眠ると、
途中で苦しくて起きる。
今朝もそうだった。
いったん目が覚めてから、冷房をつけて
眠るということが続いている。
今日は茨城県稲敷市佐原組新田1576
あずま生涯学習センター
で「他人の心が分かる脳の不思議」
という話をいたします。
(10時〜11時45分)
それで早起きをしている。
常磐線佐貫駅から車で1時間かかる。
どんなところか、楽しみである。
野口さん帰還して本当に良かった。
無事で万歳というのはこういうことを言う。
The Qualia Journal.
There is no entry in the Qualia Journal today,
due to lack of writing time.
8月 10, 2005 at 05:10 午前 | Permalink
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2005/08/09
(本日)芸術・科学と人類の共存 シンポジウム
8月9日(火)「芸術・科学と人類の共存 シンポジウム」
会場:東京大学
安田講堂
原子野からの生還者のダイレクト・トーク 13:00-17:30
「医学徒として長崎の原子野で見たもの」 土山秀夫(元長崎大学長)
「物理学者として広島の原子野で見たもの」 五十嵐壽一(小林理学研究所最高顧問)
クロストーク 土山秀夫 + 五十嵐壽一
ラウンド・テーブル「廃墟から建築へ---意思と身体---」
青木茂(建築家)
木幡和枝(東京藝術大学教授)
北川東子(東京大学教授)
ナスリン・アジミ(国連訓練調査研究所 アジア太平洋地域広島事務所所長)
進行:伊東 乾(東京大学助教授)
シンポジウム「環境・生命・創造 サステナビリティの三階層」 18:00-20:30
1. オープニング・リマーク
文書メッセージ 北岡伸一(国際連合日本政府次席代表・特任全権大使)
追悼 一管 藤田次郎(能楽笛方一噌流)
一分間の黙祷
基調講演「日本の学術界が人類史に負うべき役割・責任」 黒川 清(日本学術会議会長)
特別講演「未来と生命倫理」 土山秀夫(元長崎大学長)
応答講演「生命の動的本質と多様性」 跡見順子(東京大学教授)
2. ラウンド・テーブル「芸術と科学の協創」
茂木健一郎
内藤 耕(産業技術総合研究所 研究計画室長) ほか
3. クロージング・リマーク「芸術・学術と人類のための60年東京宣言」
詳細、申し込みは
http://www.geijyutsu-kagaku.com/
8月 9, 2005 at 04:51 午前 | Permalink
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解散詔書
実をもうせば、というのも何だが、
私は今までの国政選挙、ないしは首長選挙、
地方議会選挙で、一度も自由民主党に
投票したことがない。
私は1962年生まれだが、
ある時期まで、「自民党なんかには入れない」
というのは、いわゆる「インテリ」の
矜持であった。
ベルリンの壁が崩壊する頃までは、
日本共産党に投票するのは、周囲
の仲間の間ではごく普通の振る舞いだったように
思う。
そのあとは、社民党や民主党が
「良識派」の投票の受け皿になってきた
ことは、皆さんもご存じの通り。
しかし、このところの政争、
とりわけ、昨日の参議院での
否決騒ぎを見ていて、生まれて初めて、
「次は自民党、というか、小泉自民党に
投票するかも」と思うようになった。
民主党には失望した。今回の事態を、
「衆議院解散ー>政権奪取」
という機会主義者(オポチュニスト)にとっての
「千載一遇のチャンス」だとしか
とらえていない。
実は、杜子春ではないが、私は、
参議院で郵政民営化法案が否決されそうに
なった時に、民主党の一部ないしは全部が
swingして賛成に回るようだったら、少しは
見所があるなと思っていた。
それが、守旧派に与して改革を
実現しない。
これじゃあダメだ。ロゴスがない。
そもそも、今回の民営化が拙速だというが、
これだけ国会で論議をして、しかも
「郵政民営化居士」の小泉が首相になってから
4年もかけて、
ようやく法案提出にこぎ着けたのに、
これ以上どう時間をかけろというのか?
政治というのはプラクティカルな
妥協の産物のはずである。
今の法案に欠陥があるというのなら、これまでの
プロセスで修正すれば良いはずのことではないのか?
その機会を逃しておいて、何を言っているのか
という感じである。
あと何年かければ良いというのか。
そういうスローな感覚だから、なるほど
日本の財政が破綻するはずである。
ピンの上に天使が何人立てるかと言った
形而上学を論じているわけでもあるまい。
反対票を投じた議員を公認しない、
という小泉の方針は筋が通っている。
アーティストの椿昇さんが、
メールで、小泉を織田信長にたとえていたが、
(つまり、公認されない可哀相なというか
自業自得の人たちは比叡山というわけです)
このようなロジックが通った、
ドラスティックなことをする人は
確かに日本の政治史上最近はなかった。
今後の政治状況がどう変わるか
判らないから、何とも言えないけれども、
とっとと郵政民営化法案を通して、他にも
重要な政策課題はあるんだから、
それらに取り組んでいって欲しい。
小泉くらいロジックの通った人が
いないのならば、
当分小泉でもいいんじゃないか。
そもそも、戦後日本は首相をコロコロ
変えてきたけれども、意味が分からない
というか、
いかにも一部の湿っぽい雨日本人の間にある
「まあ、君も、首相にまでなったんだから、
そのなんというか、首相という希少な
ポジションをだね、いつまでも
自分で独占していないで、まあ、その、
仲間にも分け与えるくらいの、そういう
度量があってもいいんじゃないかね。
2年やったんだから、そろそろ首相とか、
元首相とか言われる名誉をだね、
つまり私にも少しわけてよ、おねがい」
みたいな嫉妬と悪平等主義に基づく
わけのわからない理屈でたらい回しに
して来たのではなかったのか。
Serendipityという言葉をつくった
Horace Walpoleのお父さん、Robert Walpole
は1721年から1741年まで、20年間
イギリスの「首相」をやっている
(もっとも、この頃は非成文憲法の国らしく、
「首相」という制度自体がオフィシャルな
ものではなかった)。
近年では、日本の首相がサミットで
ころころ変わっている、という印象を与えているのは
周知の通り。
9月11日にどのような投票行動に
出るか、私にはイデオロギーも支持政党も
ないので判らないが、とにかく昨日は
以上のようなことを思ったのだった。
解散詔書が朗読される瞬間を生で
見ていたが、ああいうのは血が沸き立つ、
というか、何ともいいものですね。
案外国会議員はああいう瞬間が
堪らなくてやっているんじゃないのか。
The Qualia Journal
Japan's postal reform is halted
8月 9, 2005 at 04:40 午前 | Permalink
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2005/08/08
政策意見表明
竹内薫
http://6706.teacup.com/yukawa/bbs
と同様、私も郵政民営化に賛成である。
理由は簡単で、巨大な郵貯資金を非効率な
public sectorへの投資に回すべきでは
ないから。
民主党が反対するだけで対案を出さないのは
理に合わない。
自民党で反対している人は、単なる利権の
問題ではないかと勘ぐりたくなる。
単なる政争ではなく、プリンシプルの問題として、
ちゃんと考えて投票してほしい。
8月 8, 2005 at 09:00 午前 | Permalink
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ブラインドが開く世界
西村陽平さんとの対話は、
目が見えない、ということで
かえって開放される可能性を
めぐって
スリリングなものに。
「障害」や「ノーマル」といった
概念は文脈依存的なものであり、
文脈が変われば当然proもconもかわる。
視覚の不在が、全く別の可能性を開く
ことは、盲目の数学者として知られる
Bernard Morinの存在でも明らかだろう。
昔加藤十吉先生の授業で、Morinが
考案した「球のひっくり返し」を視覚化した
フィルムを見たことがある。
その時、加藤先生は、Morinは4次元空間が
見えるらしいと言っていた。
見えるとかえって3次元に拘束されて
しまうのだろう。
球のひっくりかえしは、英語ではsphere eversion
といって、
盛んに研究される一分野になっている。
終了後、東中野の游山楽 で懇談。
文藝春秋の山田憲和さんもいらっしゃる。
山田さんと、「脳のなかの文学」
の単行本化について相談。
山田さんは複数のタイトル案を
もってきてくださっており、
また装丁はこんな感じでどうでしょう、
と幾つかサンプルを見せて下さった。
どうも、私の本としては今までにない
感じになりそうである。
幾つか具体的な「手入れ」の方向性を
ご示唆いただく。
山田さんもNumber編集部にいらしたが、
文学界の大川繁樹編集長とはちょうど入れ替わり
だったとのこと。
この夜最大の驚きは、游山楽で見た
クローズアップ・マジックで、
ふらりと来たオーナーの知り合いの二人が
見せてくれたが、
目の前で一瞬にして10円玉が
100円玉に変わったり、
トランプの山の途中にあるものが
上にぴょこんと飛び出したり、
もちろんネタがあるのだろうが、
あれほど強いイリュージョンが生じるとは、
初めて実際に体験した。
自分が見たものを説明する一番簡単な仮説は、
二人が実際に超能力者である、ということじゃ
ないかと思うくらいに、強烈なものだった。
マジックくらい非対称なものはないだろう。
マジシャンは全てを知っているが、
観客はblindであり、だからこそイリュージョンが
生じる。
ブラインドであることが開く世界は
思いの外多様で深い。
The Qualia Journal
A world open only to the blind.
8月 8, 2005 at 08:38 午前 | Permalink
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2005/08/07
小さな成功体験を持とう
ヨミウリ・ウィークリー
2005年8月21日・28日合併号
(2005年8月8日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第65回
小さな成功体験を持とう
一部引用
生きている中で、どうしてもうまくいかない時というのはある。自分の才能に自信を失ってしまったり、目標を見失ってしまったり、やる気が出ないということは誰にでもある。
そんな時、不安や怒り、イライラなどの負の感情が出てくることは、ある程度避けられない。誰でも、あまりネガティヴなことは考えたくないものだが、どうしようもない時もあるのである。
マイナスの気分も、脳の生理としてそれなりの意味があるから、進化の過程で残ってきた。負の感情に陥っている自分をいたずらに否定したり、抑圧しようとすることなく、自然体でいるのが良い。そうすれば、嵐はいつかは通りすぎていくはずである。
負の感情から抜け出す方法はいくつかあるが、小さな成功体験を持つこともその一つである。
ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者リチャード・ファインマン博士は、誰もが認める天才だった。その天才でも、若き日々、落ち込んでしまった時期があった。自分の中から、新しいアイデアがもはや出てこないような気がして、毎日ため息ばかりついていたという。
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
8月 7, 2005 at 10:59 午前 | Permalink
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(本日)Discussion 茂木健一郎 × 西村陽平
「脳はどのように芸術表現を生み出すか」
私達は「私」という意識をどのように持つのでしょうか? 脳をクオリア(感覚質)という概念から解き明かす試みをしている気鋭の脳科学者・茂木健一郎さんと、自らもアーティストとして活躍しつつ、視覚障害のある人達と触覚による芸術表現にも関わる西村陽平さんとが、視覚、聴覚、触覚といった知覚の認識や芸術表現という抽象的な営みをさまざまな角度から語ります。
■日時: 2005年8月7日(日)PM4:30〜PM6:00
■会場: 東京工科専門学校 テラハウス11階
JR、地下鉄大江戸線「東中野駅」徒歩2分
■講師: 茂木健一郎氏VS西村陽平氏
(2005 Summer Art School イベント)
http://www.musekk.co.jp/
の
「2005サマー・アート・スクール」ー>●美術『視覚を超える造形ワークショップ』 の頁に詳細あり。
8月 7, 2005 at 10:54 午前 | Permalink
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封印された思いが復讐するとき
コンビニに買い物にいって、
巨大なシャチの風船フィギュアが
天上からぶら下がっているのを見た時、
なぜか知らないけど奇妙な思いに撃たれた。
その思いの内実は、シャチとも風船とも
違うから不思議である。
時間の流れの中で、
かつてあったものが消えてしまう、
ということについて、人間はかならず
割り切れない思いを抱く。
しかし、その思いは、この世界の中で
機能主義的な意味において生き抜く
上では何の役にも立たない。
従って、人は、次第に、何の役にも
立たない自分の感慨を封印する
ことを学んでいくのだ。
暗闇を見つめて、その無限の広がりの
感触や、やわらかな気配に思いを寄せる
ことも、何の役にも立たない。
それは、せいぜい、夜更けに歩く
街や、
朝方のキャンプファイヤーや、ふと目が
覚めて見上げた月などに瞬間的に
感じて、さっと忘れ去られてしまえば
良いだけの何かになってしまう。
私がコンビニの天井を見上げて考えたこと。
それは、
これらの、流通主義、機能主義に封印されて
十分にその潜在性が発揮できていない思いたちは、
いつか必ず復讐しに戻ってくるに違いない、という
ことだった。
子供のころ、親と旅行にいって、しばらく
ぶりに家に帰ってくると、とても「なつかしい」
気がした。
夏になり、最初に学校のプールに入った
時、鼻がつんとするのが新鮮だった。
あの時、確かにあったあれらの思いたちは、
今はどこに行ってしまったのか、
これは人生全体にかかわるような重い問い
だと思うが、そういうものを封印して
とにかくうまく踊って見せる、
というのが現代においては適応的である。
しかし、人生の本質を考えれば、
踊りと封印された思いの、
どちらの方が本当に魂にとっては重要か
ということは明らかなのであって、
重要であるにもかかわらず踊りのために
封印された
ものは、きっといつかその本当の姿を
現すに違いない。
そして、その潜在性を十全に発揮することで、
美しい復讐を遂げるに違いない。
そのことに賭けよう、と私は思った。
そんなことを思ったのが、現代の流通
文化を象徴するコンビニの前だったという
ことには、はっきりとした脈絡があるのだろう。
The Qualia Journal
True Days of Infamy
8月 7, 2005 at 08:31 午前 | Permalink
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2005/08/06
普遍を流通から離れて定義する
NHK BSの「ガンダム」特番のための打ち合わせで
AMAZONの金直子さん、原道隆さん、平野嘉弘
さんが御来所。
著名なオペラ歌手、Nさんが実は大変な
ガンオタだという話で盛り上がる。
ゼミは、久しぶりのJournal Club。修士一年の
大久保ふみさんが論文紹介デビューを飾った。
Habit memoryの面白い論文。
学習曲線における、横軸は試行回数か、
あるいは時間か。
対象に寄り添って考えることで初めて
見えてくるものがある。
Journal Clubはそのためにこそある。
ある問題について、論文に沿って
徹底的に考える必要があるのだ。
この「考える」という作業をどれくらい
積み重ねられるかで、
その人の実力が決まってくる。
文藝春秋西館の会議室で
内藤礼さんにインタビュー。
10月からの「文學界」表紙を
内藤礼さんの作品が飾る。
内藤礼さんはどんな人か、作品をつくる
きっかけはどんなものだったか?
読者のために、きちんとfactualな
ところに遡って内藤さんに聞こうと
思ったが、
どうも不自然になってしまって、
結局、アートの本質について
フリートーキングする形に
なってしまった。
対談内容はとても面白いものになった
と思う。
「流通性」とは独立した形で
普遍に至ること、
そのとき、もっとも小さなものが、
宇宙全体と比肩できるような大きな普遍に
つながることなど。
対談が終わり、大川繁樹・文學界編集長、
山下奈緒子さんをまじえて
文藝春秋近くのPizza Miaへ。
大川さん曰く、ここはナポリ近郊の
ようなgenuineなゆるさのある店で、
しかも店員がみなイタリア人で、なぜか
日本語を話そうとしないのだ!
確かに、Number時代にイタリアに42日間
滞在したという大川さんがチャレンジャーとして
イタリア語を喋ると、店の人もイタリア語で
ペラペーラと応じ、
いっこうに日本語が出てきそうにない。
不思議な店である。Pizza Mia。しかし
味は良かった。
文藝春秋のすぐそばにある異次元。
まるで外国旅行をしているようで、
またぜひ行ってみたい。
山下さんは今日からフランス10日間
とのこと。
大川さんは、「みんないなくなっちゃうんだよ」
と嘆きながらも、夏を力強く乗り切ろうと
しているようである。
私は、内藤さんとの対談で得た
「暗闇を見つめる」というメタファーに
寄り添って、
ひたすら仕事をすることとしたい。
本当に籠もらないとまずい状況なので、
あまり探さないでください。
みなさん、ひとまずはさようなら。
The Qualia Journal
Dialogue with Rei Naito
8月 6, 2005 at 09:59 午前 | Permalink
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2005/08/05
あすへの話題 男と女の脳には差があるか?
あすへの話題 男と女の脳には差があるか?
脳科学者 茂木健一郎
男と女の脳には差があるのか? 脳の話をすると、しばしばこの質問が出る。そんな時、私は、「差はないと思って生きていても、何の不都合もありません」と答えることにしている。
左右の大脳皮質をつなぐ脳梁(のうりょう)の太さなど、男女の脳には確かに差はある。しかし、だからと言って、能力や適性に差があると断言できるほど脳は単純ではない。そう簡単に性差など判らないのである。
米長邦雄さんに、以前、将棋の能力には男女の差があると思いますか、と伺ったことがある。その時の米長さんの答えに、私はしびれた。「男と女の能力には、差がないと思います」と米長さんは断言された。そして、お弟子さんの女流棋士の名前を挙げて、「彼女は、男性棋士と闘って、名人位を獲得するだけの素質があったと思います」とまで言われたのである。
将棋は、男女の棋戦が別に行われている。男女の能力差があると考えるのが普通だが、そこを敢えて差がないと断言する。そのような米長さんの姿勢を、私は素敵だと思った。
脳はまこと複雑な臓器であり、能力の優劣を安易に決めつけることはできない。極端な場合、欠点が長所になることさえある。欠点を補おうとして、回り道をすることで、かえって常人が思いつかないような独創的な発想が生まれることもあるのだ。
面白おかしく男女の脳の差をはやし立てる論を目にするが、安易な決めつけには科学的根拠などない。脳の中に潜んでいる可能性の大きさを考えると、米長さんを見習って、「男も女も同じだよ」と断言する方が、科学的にも倫理的にも正しい態度なのである。
(日本経済新聞2005年8月4日夕刊掲載)
8月 5, 2005 at 08:21 午前 | Permalink
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唐茄子屋ペギオ
春秋社の小島直人さんとお会いする。
小島さんは、青土社の『現代思想』が長く、
郡司ペギオ幸夫の担当だった。
郡司が、原稿を初めて「ペギオ」という
名前とともに送ってきたとき、
「どうしよう」と編集部で相談し、
結局そのまま「掲載」する決断を下した
のが小島さんだと聞いている。
「ペギオ」というのは、郡司の子供が
生まれた時に、奥さんに「あなた、何にもしないんだから
子供の名前くらい考えてください」と言われ、
「それじゃあペンギンにする」と郡司がいい、
「それだけはやめてください」と言われたので
仕方なく自分につけた、と聞いたことが
あるが真偽は定かではない。
いずれにせよ、そのような因縁の現場に
いらした小島さんとお話するのはとても楽しかった。
佐々木厚さんにお誘いを受けて、
電通での研究会に。
ネットワークの特質について
さまざまな視点から考察した。
ポイントは、「ネットワーク」という
インフラができた瞬間に、スパムは恐らく
避けられないものになるということ。
単一文脈性ではなく、複数文脈性こそが
ネットワークを特徴づける。
終了後、
石山さん、後藤さんも交えて
そば屋で飲む。
歴史を見ると、あるインフラが
整った瞬間にその上での大競争が始まり、
さまざまなものが進化していく。
言葉というインフラが整ったおかげで、
このblogの文字列が出現した。
アップル・ミュージック・ストアが日本でも
オープン。
自由連想で検索するとさまざまなものが
引っかかってくるので、楽しい。
記念すべき初購入は、
古今亭志ん生 『唐茄子屋政談』
29分2秒で700円。
ダウンロードは10秒で済んだ。
いくつかマイナーで欲しい曲を入れたが、
引っかかってこなかった。
100万曲でもカバーしきれない音楽の宇宙。
1000万曲、一億曲になった時初めて
入ってくるのはfringeなのだろうが、
私にとっては大切な曲があるのである。
The Qualia Journal
My first download at the Apple iTunes Music Store
8月 5, 2005 at 08:15 午前 | Permalink
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2005/08/04
ギネスのこと
夏だ
いろいろやらなくてはならないことが
あるのだけれども、
夏だということもあるのか、
どうもターボがかからない。
こういうのを夏ばてというのだろうか。
思い切って何日か休んでしまったら、
いっそすっきりするのだろう。
仕方がないので、ギネスのことでも書くことに
する。
先日、コンビニでたまたま買ったギネスの
缶ビールがあまりにもうまいので
びっくりして、また買った。
缶に、フローティング・ウィジェット
という白いプラスティック製の球型の
カプセルが浮かんでいて、
サージング(泡立ち)を起こす、
などと缶に書いてある。
原産地はアイルランドで、
サッポロビールが輸入しているらしいが、
330ml缶で315円(確か)もする。
「高級」というイメージのある
エビスビールよりもさらに高いのである。
コンビニで買ってきて、いそいそとグラスに
開けると、あまり泡が立たない。
あれ、と思って説明書を見ると、重要な
ことが書いてあった。
「缶を開ける前に最低3時間冷やしてください」
とある。
コンビニから買ってきたばかりで、
冷えについては大丈夫なはずなのだが、
持ってくる途中でぐるぐる振り回すから、
それが「落ち着く」のに3時間かかるのだろう。
ダブリンには田森佳秀と行った。
最初に入ったパブが、昼なのに暗くて、
あちらこちらにろうそくの炎があってびっくりした。
ギネスがとてつもなくおいしかった。
缶をあけると、あの感触が少しは蘇ってくる。
アイルランドにまた行きたくて仕方がないが、
イギリスからまたone hopというのはいかにも
遠い。
ダブリンに行きたしと思えども、
ダブリンはあまりに遠し。
だから、コンビニに行ってギネスの缶を
買って、少しノスタルジックになることになる。
ノスタルジーはいい。ひんやりする。
ギネスのことを書いていたら、
少しは元気になった!
The Qualia Journal
The taste of Guinness
8月 4, 2005 at 06:48 午前 | Permalink
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2005/08/03
Piet Hut再び
午前、
講談社の見田葉子さん、松岡弘城さん、
カメラマンの平松岳大さんがいらっしゃる。
「スモール・ワールド・ネットワーク」
関連の取材。
時代は「野獣だ」というテーマで盛り上がる。
午後、
プリンストン高等研究所のPiet Hutが
再び研究所に来る。
QRIOと幼児のインタラクションを
研究している田中文英さんを交えて
議論。
早稲田大学の野澤真一くんも
参加。
五反田の「あさり」に場所を
移してさらに話す。
東京工業大学の石川哲朗くんも
参加する。
話していると、いろいろな仮想の
世界が見えてくる。
その中で、現実に接地するものも
あれば、しないものもある。
脳の中で表象されるものの集合が
「今ここ」の限定から離れるためには
それが志向性を帯びることが必要だ。
クオリアは「今、ここ」のことばかりではなく、
「今、ここ」の限定を離れたはるかなものたち
をも志向する。
その志向された行き先の空間の中の
ダイナミクスがたとえneural correlateによって
支えられているとしても、
そのような志向性の存在が何らかの意味で
機能的、ないしは計算論的なadvantageを
持っていないはずがない。
それが真夏の夜の夢だとしても、
100年後には
科学が現在とは全く異なる姿になっている
可能性は大いにあるだろう。
関根崇泰と野澤真一くんが
Pietをホテルまで送っていった。
石川哲朗くんは、目の前で関根崇泰の
「部長」と「橋本聖子」の芸が見られて
うれしかったようだ。
柳川透は、実はフマキラーなのだが
ちょっと見るとアートっぽくに
見えるTシャツを、昨日も着て
自慢していた。
下はフマキラーのwebpageより。
このTシャツを来て、「ぽっくんぽっくん」
と言いながら神経回路網の自発的活動について
考えている男がいたら、それは間違いなく
柳川透です。

柳川透愛用のフマキラーTシャツ
このTシャツのクオリアも宇宙開闢以来
ずっとプラトニックな仮想空間の中に潜んでいた
のだと思うと実に不思議である。
The Qualia Journal
Piet Hut and the QRIO
8月 3, 2005 at 08:13 午前 | Permalink
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2005/08/02
芸術・科学と人類の共存 シンポジウム
8月9日(火)「芸術・科学と人類の共存 シンポジウム」
会場:東京大学 安田講堂
原子野からの生還者のダイレクト・トーク 13:00-17:30
「医学徒として長崎の原子野で見たもの」 土山秀夫(元長崎大学長)
「物理学者として広島の原子野で見たもの」 五十嵐壽一(小林理学研究所最高顧問)
クロストーク 土山秀夫 + 五十嵐壽一
ラウンド・テーブル「廃墟から建築へ---意思と身体---」
青木茂(建築家)
木幡和枝(東京藝術大学教授)
北川東子(東京大学教授)
ナスリン・アジミ(国連訓練調査研究所 アジア太平洋地域広島事務所所長)
進行:伊東 乾(東京大学助教授)
シンポジウム「環境・生命・創造 サステナビリティの三階層」 18:00-20:30
1. オープニング・リマーク
文書メッセージ 北岡伸一(国際連合日本政府次席代表・特任全権大使)
追悼 一管 藤田次郎(能楽笛方一噌流)
一分間の黙祷
基調講演「日本の学術界が人類史に負うべき役割・責任」 黒川 清(日本学術会議会長)
特別講演「未来と生命倫理」 土山秀夫(元長崎大学長)
応答講演「生命の動的本質と多様性」 跡見順子(東京大学教授)
2. ラウンド・テーブル「芸術と科学の協創」
茂木健一郎
内藤 耕(産業技術総合研究所 研究計画室長) ほか
3. クロージング・リマーク「芸術・学術と人類のための60年東京宣言」
詳細、申し込みは
http://www.geijyutsu-kagaku.com/
8月 2, 2005 at 07:58 午前 | Permalink
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Discussion 茂木健一郎 × 西村陽平(8月7日)
「脳はどのように芸術表現を生み出すか」
私達は「私」という意識をどのように持つのでしょうか? 脳をクオリア(感覚質)という概念から解き明かす試みをしている気鋭の脳科学者・茂木健一郎さんと、自らもアーティストとして活躍しつつ、視覚障害のある人達と触覚による芸術表現にも関わる西村陽平さんとが、視覚、聴覚、触覚といった知覚の認識や芸術表現という抽象的な営みをさまざまな角度から語ります。
■日時: 2005年8月7日(日)PM4:30〜PM6:00
■会場: 東京工科専門学校 テラハウス11階
JR、地下鉄大江戸線「東中野駅」徒歩2分
■講師: 茂木健一郎氏VS西村陽平氏
(2005 Summer Art School イベント)
http://www.musekk.co.jp/
の
「2005サマー・アート・スクール」ー>●美術『視覚を超える造形ワークショップ』 の頁に詳細あり。
8月 2, 2005 at 06:46 午前 | Permalink
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おいしさの恵み 第5回 塩について考える
Webマガジン en
連載 茂木健一郎 おいしさの恵み
第5回 塩について考える
http://web-en.com/
8月 2, 2005 at 06:32 午前 | Permalink
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萩尾望都「科学者とお茶を」 茂木健一郎
萩尾望都対談シリーズ
「科学者とお茶を」
ゲスト 茂木健一郎 (前編)
web マガジン ポプラビーチ
http://www.poplarbeech.com/
8月 2, 2005 at 06:19 午前 | Permalink
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偶有性を生きる
東京工業大学 知能システム科学専攻の
大学院の入試口頭試問。
すずかけ台キャンパスに朝早く
から詰めかけ、
さまざまな受験生の
方々を面接した。
人生の機微は、偶有性(ああなったかも
しれないことが、こうなったこと)が露わに
なる時に一番感じられるのではないか。
だからこそ、人は入学試験のようなことを
あくまでもフォーマルにやろうとするのであろう。
気付いてみると、やることが
あまりに多すぎて、完全に時間破産。
しかし、夏だということもあって、
あまりがしゃがしゃという風にも
身体もアタマも動かない。
できないことはできないんだから、
と割り切って、
とにかくひたすら地道に仕事を
こなしていく。
偶有性の中を生きる、という
ことが一番生きがいのあることだ
ということを近頃ますます実感する。
一つの文脈の中に適合して
それで満足していると、
化石のような存在になってしまう。
何歳になったから、もういい、
ということではなくて、
人生は、何歳になっても化石に
なるにはもったいないのではないかと
思う。
The Qualia Journal
How science makes the feeling deeper for Penguins
8月 2, 2005 at 06:14 午前 | Permalink
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2005/08/01
アンカー
もう8月だ。
金魚の水槽に、何も入っていなかったのを、
ドイトで買ってきた
水草を二つ入れた。
金魚たちは、空間の中に座標軸が出来て
安心したようで、
しきりに水草をつついていた。
南の島にいってシュノーケリングをしていると、
魚たちがサンゴのあたりに定着している。
何かのきっかけで、サンゴから離れて
砂地を泳がなければならなくなると、
必死になって素早く動いているように
見える。
何もない水の広がりは、絶対的な並進対象性の
世界であり、
その虚無と無限に耐える精神というのは
ものすごい強度を持つのではないか。
人類は、宇宙空間の真空に耐えられるのだろうか
などと考える。
地球というアンカーがあるから安心して
いられるが、
これが、至るところどこまで行っても
同じ空間の中を漂っていたらどうか。
時間も同じで、
四季があり、誕生があり、死があるから
何とか耐えられる。
7月が終わって、8月が来るから
そこにアンカーできる。
もし、何も座標軸がなかったとしたら、
そのような時間の流れはとてつもなく恐ろしい
ものになってしまうことだろう。
音楽のリズムは、時間の中にアンカーをつくって
くれる。
それは一つの福音だが、
たまには無音の虚無と無限に耐える
のも良い。
The Qualia Journal
August!
8月 1, 2005 at 05:19 午前 | Permalink
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