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2005/06/03

思考の補助線 第1回 世界をその中心で統べるもの

筑摩書房
月刊ちくま 2005年6月号 (第411号)

[思考の補助線]1・世界をその中心で統べるもの―茂木健一郎 p.28〜30

一部引用

 1983年、浅田彰の『構造と力』がベストセラーになったことで火がついた「ニュー・アカデミズム」のブームは、私たち自然科学や数理科学を専攻していた人間にとっては、確かに、対岸の火事に過ぎなかった。しかし、それは同時に奇妙に神経を苛立たせる光景であった。何よりも恐ろしいことは、浅田氏をはじめとする思想家たち本人の意図を超えて「ニューアカ」的なスタンスが、知の基盤の腐食、フィロソーフとしての生き方の変質に力を貸してしまっているように思えたことだった。
(中略)
 自然科学者としての卓越性の基準と、思想家としてのそれは違う。これが、今日に至るまで私を悩ませている問題の根にある認識である。伝統的な意味での自然科学の中にとどまり、思想家たちが直面している真摯な問題群に目を向けず、科学としての卓越性を追求している限り、恐らく悩みは少ない。一方、自然科学における厳密さや普遍性を、社会構成主義やエクリチュールの相対主義の枠組みで片づけ、それ以上反省しない思想家にも悩みは少ない。
 純粋培養の自然科学者にも、思想家にも、恐らくは世界全体を引き受けることなどできない。人が人として生きるということの困難さの核心、この世界を成り立たせている根本原理の神秘、ゲーテの『ファウスト』に言う、「この世をその中心において統べているもの」を把握するためには、自然科学の卓越でも、思想の卓越でも足らない。両者の間に、思考の補助線を引かなければ、全体の構図は見えて来ないのである。
 小林秀雄が講演の中で現代の知識人を揶揄して使った言葉、「悩みも悟りもしないやつら」にならないためにも、一見両立させようがないように見えるものの間を結び、そこに気付かなかった風景を見たい。何時間かけて考えても解けなかった幾何学の問題が、たった一本の補助線を引くだけで見通しがつき、一挙に解決に向かうように、何らかの新しい視点を得る努力をしてみたい。そのような思いを胸に抱いて、この連載を始める。
 科学と思想の間に補助線を引くこと。それは、心脳問題について考えることとも無縁であるはずがない。バブル以降の浮ついた日本の気分にケリをつけ、返す刀で自分にとって最も切実な問題である心脳問題の解決に近づくための思考のヴィスタ(景観)を模索したいと思う。


全文は「ちくま」で。

http://www.chikumashobo.co.jp/web/mokuji.html

6月 3, 2005 at 08:13 午前 |

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» [脳内編]クオリア/出来事/廃墟 トラックバック 千人印の歩行器(walking gentleman)
 茂木健一郎氏の半年前の『クオリア日記』での『思考の補助線』はとても大切な基本線だと思う。月刊ちくま411号(p28〜30)に掲載されたものですが、「世界をその中心で述べるもの」に向かうという探求は自然科学者であれ、思想家であれ、メイン通りは違っても、行こうとする場所は同じでしょう。自然科学の卓越でも思想の卓越でも足らない謙虚さは必要であろう、両者の間に思考の補助線を引かなければ全体の構図は見えない、そこから、茂木さんのクオリアへの冒険旅行は始ったのでしょう。  浅田彰氏らしい人のコメントが挿入する... [続きを読む]

受信: 2005/12/28 10:28:32

コメント

はじめまして。リベラルアーツカレッジで数学と宗教学・哲学を並行して学びました。茂木さんの言われる問題意識に似たものをずっと僕も感じています。自然科学をやっている人には、どうも根本的な所で懐疑的な精神が欠けていて、「君は数学のユーザだけど、数学の正しさの根拠をどこに求めるのか」と物理の人に聞いても、そもそもそういう事柄に関心さえあまりないようです。

一方で哲学の人には、自然科学や数学の持つ「個人の思想」を超えた普遍性の感覚はなかなか伝わりがたいようです。どうも過去の偉大な思想家や哲学者と一体化することや、あるいは社会構成主義的な立場に分かれてしまうようで…。

僕自身は、数学というのは確かに構成されたものだけども、それは将棋や碁のように、人の脳が面白さを感じずにはおれないような形式的なゲームであって、そこに普遍性の根拠があるのではないかと感じています。

長文のコメントで失礼致しました。

投稿: sheaf | 2005/06/03 23:08:42

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