『脳のなかの文学』最終回
文學界 2005年7月号(2005年6月7日発売)
茂木健一郎 「脳のなかの文学」最終回
言葉の宇宙は私の人生にどう関わるのか
一部引用
人間であるということは、実に奇怪な事態である。私たちは、一人一人が得体の知れない巨大な現象の塊だ。細胞の中を見れば、そこにはミトコンドリアを始め、進化の過程で様々なものが入り込み、共生してきた確かな痕跡がある。若い女の黒髪も、顕微鏡で拡大すれば奇怪なかさかさの筒であり、心をとろけさせるその微笑みは、筋肉細胞の中の繊維同士の滑り込みによって引き起こされている。
この奇怪な世界の真相の上に、私たちは美や真実という形而上学を滑り込ませる。即物的に見れば、この世界にはやわ肌、えくぼ、あこがれ、憎しみ、正多面体、無限数列、絶望、愛、後悔といったものたちが入り込む余地は全くない。しかし、私たちの意識は、これら彼岸のものたちの助けなしに、この世界を一瞬たりともとらえることができない。
世界の奇怪さの中に顕れている胸をかきむしられそうな美しさを前にして、ある者はそれを数理的に理解しようとする。別の者たちは、言葉の宇宙に自らの狂気を託す。生の実相のカオスとの対照においては、まるできれいに整列した結晶のようにも見える紙の上の文字列に、生まれては消えていく自らの生の実感を写像しようとする。
その過程で、私たちは、決して頼りない生の現場から逃れることができない。原稿用紙に向かいながら鼻毛をむしりとって並べ、ジャムを舐め、鰻が食いたいと思う。そんな中で、生み出された作品はそれが良質のものであるほど、それを生み出した生活の猥雑を離れた形而上学性を帯びている。バッハの『コーヒーカンタータ』のように生活の猥雑がそのまま天上の音楽になる場合もあるし、猥雑がその痕跡を一切とどめないこともある。
「はじめに言葉ありき」と、世界で最も有名な書籍は記した。現代の激変する情報環境の中で、言葉の宇宙は、私たちの生活とどのように関わり、私たちの精神を豊かにして行くのだろうか。
「人間になりつつある一種の動物」にとって、柔らかな有限の生と、結晶的形而上の世界の両方にまたがって生き続けることは、やっかいなことである。しかし、そのやっかいさを引き受けることでしか、言葉の宇宙の私たちにとってのリアリティは保てない。科学が明らかにしてきた統計的真実も、文学が扱ってきた生の個別性も、皆、私たちが生活者であり、同時に生活を超えた普遍者でもあるという事情の中に根差している。
そのような真実を直視する時に、人々はこの地上における猥雑な生も、普遍の世界への死者送りを通して構築される言葉の宇宙も、その両者を心から愛して生きるための糧を得ることができるようになるのである。
(了)
6月 7, 2005 at 07:26 午前 | Permalink
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コメント
連載お疲れ様でした。
何気ない日常・生命観から、
仮想・反生命へと思考する脳
の創造力。
まだまだ、「脳の中の文学」、
私に思考させて欲しい惜別感で
いっぱいです。
作中の文学作品もメモして、
図書館で探しております。
私にとってとても深い思慮を
もたらす連載でした。
ありがとうございました。
投稿: ston | 2005/06/18 17:29:31