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2005/06/06

「自分にとって」と「世界にとって」

 人間は、どうしても自分というものを
基準にものを考えがちである。
 意識体験は、自分の脳の神経細胞によって
引き起こされるのだから、 
 とりあえずは自分の中で閉じている。
 その体験の切実さに寄り添うことは
人生の要諦だと思うが、
 同時に、「世界」から見ると自分の
体験はどうなのか、と相対化することも
必要だと思う。

 アインシュタインは、「ある人の価値は、
彼が自分自身からどれくらい解放されているか
によって決まる」という言葉を残している。
 これはいわゆる倫理に言及したものと
解釈することもできるが、
 より一般に、科学的思考、
さらには生きる上での哲学的態度を
表したものでもある。

 何かをする時、それが自分にとって
初めてだというのは、確かにうれしいこと
である。
 しかし、それが同時に人類にとって
初めて、ということはあまりない。
 人類にとって、世界にとって
どうなのかという視点がないと、
いろいろ失敗する。

 文学を書きたい、という人は
相変わらず多い。
 小説を書くということが、
自分にとって初めて、というのは
確かに自分にとっては意味があるだろう。
しかし、世界にとって意味があるかは
判らない。

 グランド・キャニオンに初めて
行くと、感動する。
 それは自分にとっての初めてであって、
その体験は同時に過去の何千万人という訪問者の
中の一つに過ぎない。

 人生の大切な
教訓の一つは、
 「自分にとって」の切実さを引き受ける
ことも大切だけど、
 同時に、「世界にとって」という視点を
持つべきだ、ということである。
 その方がうまくいく。
 プロになれる。

 同時に、それは、厳しくも寂しい
世界観の中に自分を置くことを意味する。
 そうやって、人間は楽園を追われるのである。
 漱石の則天去私がこのような問題と
無関係だったとは私には思えない。

6月 6, 2005 at 03:48 午前 |

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コメント

私は、茂木さんはクオリアの持つ一回性であったり、希有な体験から来る、上質感のようなものに、より関心を持っておられるのかなと思っていました。
 元々、クオリアというのは、一人称でしか語れないものですよね。それを、言葉にした時点で、理性が混じってくるので、質感とは離れていきます。そして、その質感は、その瞬間にその人だけが感じられるものだから、それが個性となって、それを表現したいという感性から素晴らしい芸術なども生まれるという事ですよね。だから、人は出来れば、自分だけのクオリアを求めて生きていきたいと思っているのではないかと・・・。
 例えば、冒険家が犬ぞりで北極圏をめざしたり、ヨットで世界一周をしたりするのも、その瞬間、その人にしか感じられないクオリアがあるから、その高揚感を求めて命がけの挑戦も出来るような気ももします。過去に似たような状況を経験した人がいたとしても、その瞬間のクオリアは、その人だけのものです。それ程、高い次元にいかなくても、自分がより高い幸福度を得られるクオリアを体験できる仕事を人が求めるのは、より自然な事ではないのでしょうか。
 でも、共通性に目を向けた方が、プロとして成功するという話は、よくわかる気がします。
 誰からも共感を得られない小説が売れる訳がないですから。ただ、そこから得た成功の寂しさと言うのも、自分だけの楽園と思って、周囲を見渡したら、何処かのハウジングのように同じ型の家があちらこちらにあったというようなものでしょうか。
  結局、一般的な歴史や文化には、マンネリズムのような所があるのかもしれないですね。

 
 
 
 

投稿: 水瓶座 | 2005/06/07 2:02:52

 初めまして。
 意識とは何なのかに興味を持つ中で、茂木先生を知った者です。

 やはり、生まれてきたからには、世界にとって初めてな事、つまり、世界にとって価値のある事を成したいと思います。
 しかし、最近、その為に学ばねばならない事の途方の無さに圧倒され、世界にとって初めてな事とは何なのか、どうすればよいのか、見えなくなってきたところもあります。

 「客観性を磨くことによって、主観がより磨かれる」と聞いた事があります。どちらかを洗練させるとどちらかが失われるのではなく、関連しあいながら洗練されるものなのかもしれません。

投稿: cosmos | 2005/06/06 23:05:52

夏目漱石は、世界に何を見いだしていた
のでしょうね。

見えたのか、ゆだねたのか、それとも
来る世界に・・・。 
則天去私・・・、私から大きな世界観へ。

たどり着きたいものです。

投稿: ston | 2005/06/06 20:47:54

「あるがままに見よ」。これは十字軍の狂気の時代の中で唯一平和を保つことの出来たフレデリコ2世の言葉です。あるがままに見ることは科学的なものの見方として最も重要でしょう。しかし、彼はその代償としてローマ教皇から2度の破門を受けています。自分の意識のみにだけ、とらわれず、自己否定をする困難な作業が必要なのでしょう。
茂木様に大変共感します。

投稿: 五十嵐 | 2005/06/06 10:45:03

拝読して、まさに我がことと痛感し、はたとわれにかえれば、我がことと、我がことばかり考える我にあいそつかせり。

投稿: 河村隆夫 | 2005/06/06 9:07:45

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