文脈蛙
帰りの全日空の中で、朝日新聞をもらったら、
文芸時評で島田雅彦が『脳のなかの文学』
を取り上げていてくれていた。
http://www.qualia-manifesto.com/asahishimbun20050627small.jpg
使われている写真が、いつ撮られたものか、
とんと見当がつかなかったが、
服や髪型からすると、どうやら
AERAの撮影の時に横でとったスナップ写真らしい。
島田雅彦はよく旅をしているので、
今この瞬間に地球上のどこにいるか
判らないが、
そっちの方に向かって感謝。
日本は30度だというので、飛行機の中で
Tシャツになった。
メールをダウンロードして、
仕事の多さに呆然としながら成田エクスプレス
で東京へ。
大手町の読売新聞社まで歩く。
やや遅れて、読書委員会へ。
小泉今日子さんの隣の席。
小泉さんは、ちらちらとうれしそうに
ある小説を読んでいた。
読書委員会の打ちあげが長年行われて
いた四谷三丁目の「英」が今日で閉店
というので、
角田光代さんや、松山巌さんなども
いらっしゃる。
川村二郎さんの前に座って、
たまたま笙野頼子さんの話に。
成熟/未成熟ということの意味について
考える。
川村さんは、その作品が好きかどうか
ということは別として、
笙野頼子/大江健三郎的な
うねるような知性を評価すると。
川上弘美さんが、「私は決して成熟している
というわけではありません」と言った。
皆さんの宴はこれからたけなわだったが、
私は、いろいろやらなくてはならない
こともあり、
一足先に帰ることに。
帰路つらつら思った。
全ての営みは、それがどのような文脈の中で
受容され、評価されるかを見極めなければ
ならない。
そうでないと文脈の中の蛙になる。
文脈蛙は、自分の活動が置かれている文脈を
見極めた上で、文脈の壁を壊すような
「知的な粗暴」を目指す。
これしかない。
文脈蛙の命がけの跳躍の中に人生があるのだ。
6月 29, 2005 at 07:48 午前 | Permalink
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