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2005/05/23

欲望する脳 第二回

集英社 青春と読書 2005年6月号(5月20日発売)

茂木健一郎 連載 欲望する脳 第二回
欲望に内在する脆弱さ

一部引用

 保坂和志は、「現代性、同時代性というと、私はまず現象として、過剰な暴力と、登場人物の精神が病んでいることを思いつく」と書く(『新潮』2005年4月号)。保坂の指摘する通り、現代文学には暴力があふれている。暴力というものが、しばしばナルシシズムと結びついていることは、多くの人がすぐに気がつくところだ。他人に暴力を振るうということも、人間という奇妙な存在の欲望の可能態の一つだとするならば、その背後に人間の業を見ることはたやすい。文学の深みをそこに気取ることも少々才気走ったやつには可能だろう。しかし、暴力を描く者が、自他の間の圧倒的な非対称性に鈍感であるならば、暴力描写は容易に世界に向かって閉ざされた精神病理の陳腐な表現に惰してしまう。保坂は、右に引用した文に続いて「そんなことが現代性、同時代性ではないんだ」と書く。自他の間の潜在的緊張関係に気を配らない同時代性などあり得ないだろう。文学に限らず、全ての芸術と自他の関係を巡る倫理性は無関係ではない。
 大江健三郎が「ディーセンシー」(節度)と表現するものを身につけているどうかということは、ある人間の価値を決定づける分水嶺であるように思う。この点において、現代はざらざらとした荒れた印象を与える人が多い時代である。たとえば、その年頃の子供を持つ親が、したり顔に「最近の公立中学校は荒れていて、やっぱり私立に入れなくては」と言うのを耳にする時、私はその人の魂を醜いと思う。お前の子供はいいよ、じゃあ、公立中学校に行くやつらの立場はどうなるんだ、と言ってやりたくなる。自己の欲望と他者の欲望が潜在的な緊張関係にあることについて、ディーセンシーを持っていない人は、おそらく深い文学性に到達し得ないし、何よりも人間として本当の生きる苦しみと歓びを味わえないのではないかと思う。

全文は「青春と読書」で

http://seidoku.shueisha.co.jp/seishun.html

5月 23, 2005 at 07:31 午前 |

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