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2005/05/02

「集中」の恵み

昨日は午前6時に起きて、9月30日から
10月2日に台北で行われる
 International Conference on Neural Information
Processing (ICONIP)の、関根崇泰と
小俣圭との論文を「仕上げた」
 日記を書くのと朝食をとる以外は
ほとんどそれに集中して、
 まずは関根の論文を「仕上げ」、onlineで
投稿し、
 そのあと小俣の論文を終えて投稿しおわり、
ふーっとため息をついたのが
 午後2時だった。

 関根も小俣も優秀だが、英語で論文を書く、
ということに関してはまだ独り立ちという
わけにはいかない。
 ちゃんと「通る」ように修正し、完成した論文を
学習シグナルとしてなにがしかを感じて
もらうのも、大学院の指導教官としての
つとめである。
 もちろん共著者だから、別に不正
(ghost writing)をやっているわけではない。 

 何かに集中してやっていると、小学校の
時、学生科学展で自分だけ休日の学校に行って
理科の先生とずっと発表資料を作っていた
時のことを思い出す。
 小4の時、朝8時に学校にいって、そのまま
午後6時までやっていたことがあった。
 あのような時は、時間が白くなって飛ぶ。
 同時に、集中しないとたどり着けない
領域に行くことができるのも事実だと思う。

 インターネット時代の難点は、気が散る
ことである。
 ネットサーフィンなどは典型で、集中が
細切れで飛ぶ。
 時には、ネットを絶って、ずーっと集中しないと
脳が腐る。
 そうでなくては、行けない場所がある。

 もっとも、集中といっても、「この道一筋」
というのではいけない。
 適当に散らなければならない。 
 ベートーベンを聴けば判る。
 髪を振り乱して音楽に魂を捧げている
イメージがあり、実際にそうだったのだろうが、
曲想は飛びまくる。
 「第九」を聴けばわかる。これは一体
何なんだ、というくらい曲想があっちこっちに
行く。
 その脈絡のなさが、最後の合唱まで、ちゃんと
一つの生命体になっているところが
天才の天才たる所以である。

 ネット・サーフィンの気散じは外部から誘因
されたものだが、
 ベートーベンのは内発的である。
 内発的な気散じをしつつ、ぐっと集中するのが
良い。
 今日も仕事に一山あるので、ぐっと集中しようと
思う。

5月 2, 2005 at 06:04 午前 |

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コメント

判断がないというのは、これほどもろい物なのか?
雑多だよ。
つながっていかない。
つながってきた私達とは、違うもの。
選択がされていない、選別がされていない。
むちゃくちゃなもの、めちゃくちゃなもの。
どうでもいいもの。
しかし、それは、私達には取り込めない。
私達は選択してきた。
正と死、善と悪。、醜と美
悲しいことに、死が無ければ、正はなく、
悪がなければ、善が無い。
私達は、ただ、両極を意識しているだけだよ。
意識する必要があるものに、両極があるだけで、
気にしないものにも、両極があるのかもしれないが、
存在すら知らないのだから、知る由もない。
私達の処理上に載らないだけ。

クオリアシリーズは技術を通り越して、全体の感覚の底上げの為にのみ存在していると言っても過言ではないもの。
あのPSPのボタンはないだろう。
視覚、聴覚と関わってきた本物と自覚する技術者が、こと触角について、
あまりにも無知とは、本物と自覚する技術者とは程遠い。
底上げではなくて、ただ、上下に薄く延ばしただけではないのか?

あるシンボルの下で風化した状態で、新しい血を入れないというのは、
これほど、もろい物なのか。
生物がどうして、違うコードをあれほどまでのリスクを犯してまで、
取り込もうとするのか、身にしみました。
揺ぎ無いクオリアのエピソードとして、メタ認知した最近です。

投稿: バターロール | 2005/05/02 9:10:07

余裕が無い。
つながりが少なく弱い。ほとんど、つながっていない。
切れるか。
そう、つながらない。
つながらないんだから、適当にもがくしかない。
脳はつなげることしかできない。
切れていれば、つながっていない。
ゾウリムシのように原始的に動くしかない。
暑い場所から逃れるには、体毛を動かすしかない。
暑く無くなれば、体毛の動きを止める。
単純な仕組み、私達と同じ。パニックになった私達と同じ、モガクダケ。
ゾウリムシは、自分の場所は認識できていないだろう。
自分が動いていることさえ知らないだろう。
自分の形さえ知らないだろう。
生きていることさえ知らないだろう。

つながらないのだから、どうしようもない。
適当に動くしかない。

勝手に作り上げた質感にすがっても、結果は100%ではない。
しかし、確立は非常に生きている。
つながってないより、つながったもの。
クオリアはヒストリーだよ。
ヒストリーそのものではないが、ヒストリーと思えるヒストリーではないのか?
人はそのヒストリーの上で、淘汰を行ったものが、創造性。
だから、存在してもいないのに、まるで、すでにもう目の前にあるかのように、
まるで、見てきたかのように、確信できるのかもしれない。

投稿: バターロール | 2005/05/02 8:46:52

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