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2005/05/04

脳のモノカルチャー

大きな仕事を始めて、最初は大質量の機関車の
ごとくなかなか動かず、
 次第にスピードがついて、
やっと動き出すと、もうそのことしかできないし
考えられない。
 
 それはそれで良いことのように思える
けれど、一方でモノカルチャーだなとも思う。
 All work and no play...というのは
まさにその点を衝いている。
 何かに集中して、そればかり考えている
というのは良いことのようでもあるし、
 脳内の生態系がモノカルチャーになって
しまっていることでもあると思う。

 そんな時は、散歩が気散じである。
 きのう、近くの公園を歩いていたら、
今年初めてアカスジキンカメムシの
幼虫を見つけた。
 私の人生と「衝突」するまでは、
こいつは一体何をしていたのだろうと
考えると不思議である。

 昆虫と人間の最大の違いは、人間は
多くの文脈を引き受けることができる
ということで、
 だとすれば引き受けてしまえばいいんだと
思う。
 連休中で、アポイントメントもほとんどなく、
心おきなく仕事に集中してみると、
かえって普段人に次々とあってもみくちゃに
されている状況がなつかしくなる。
 あの時、私の脳は間違いなく様々な
文脈を経由して引き受けて鍛えられている
のだと思う。

 モノカルチャー的な時間の経過の
中で集中してやらなければできない問題は
間違いなくある。
 その一方で、さまざまな文脈を
経由していかないとわからないことも
ある。

 そんな風に人生のphase spaceを描いてみると、
やはりどうも時間が足りそうもない。

 連休明けからイギリスに行くことを
予定していて、
 イギリスの恩師のHorace Barlowに連絡を
とった。
 まだ元気だということだが、1921年生まれ
だからもう84歳である。
 メールを送る際に、どきどきするようになった。

 Horaceは去年も、Journal of Visionに
first authorの論文を出しており、
 チャールズ・ダーウィンのGreat-grandson
はまだまだ元気であるが、 
 10年、20年先はまさにわからない。

 Horaceと話したいことはたくさんあれども、
その文脈は普段日本で一生懸命やっていることと、
「科学」という文脈においては通じていても、
 その他の点では随分異なる。

 文脈を思い切って変えてみると、
普段自分がいる大きなモノカルチャーが
見えてくる。
 つまり、モノカルチャーといっても
実は階層的であるということであって、
地球周回軌道を外れた宇宙飛行士に
だけ見えたモノカルチャーもあったに
違いない。

5月 4, 2005 at 06:25 午前 |

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