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2005/05/31

追悼 二子山親方

二子山親方(元大関貴ノ花)は、特別な存在だった。
 あの華奢な身体で、大きな力士に土俵際まで
追いつめられても、
 懸命にこらえて、時にはエビぞりになって、
うっちゃりをしたり、そのまま倒れたり、
胸をきゅんと締め付けるような悲壮感のある
相撲をした。

 大関になってもなかなか白星を重ねられず、
「9勝6敗」が続いたので、「96(くんろく)大関」
と呼ばれた。

 その貴ノ花が、1975年春場所で初優勝
した時、私は小学校6年生だった。
 千秋楽の優勝決定戦をテレビで見ていた。
 「にくらしいほど強い」と言われ、
何度も打ちのめされてきた
北の湖を寄り切って、勝った。
 しかも、本割で負けて追いつかれた後だったの
である。

http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_shobu/taka1-kitaumi.html
(上のURLに動画あり)

 あの時の場内ほど、熱い感情が爆発した
瞬間を見たことがない。
 会場の人々も、どうしたらいいのか
判らなかったのだろう。
 めったやたらに、何時までも座布団が舞った。

 いろいろな相撲を見て来たけど、
私の生涯で印象に残る勝負と言えば、
あれに尽きると思う。

 少年時代の私にとってのスポーツ
ヒーローとは、詰まるところ王貞治と
貴ノ花だったのだなあ、と改めて思う。

 二子山親方逝去の報に接し、心からの感謝の
念とともに、ご冥福をお祈りいたします。

5月 31, 2005 at 07:10 午前 | | コメント (0) | トラックバック (2)

島田雅彦とビール

相変わらずの綱渡りの生活。
 ぎりぎり仕事を終え、午後3時からの
ゼミに。
 今日は、柳川透の最近の神経回路網自発発火の
研究について、みんなで聞いて検討する。
 その後、関根崇泰が、「自分で幻肢が動かせる」
患者が、「右手」と「左手」で違う動作を行った
時にちゃんと「干渉」が起こるという論文を紹介。
「自分で幻肢が動かせる」というconsistentな
感覚が生じるためにはどのような脳機構が必要か
ということを議論。
 来年の東工大の受験を検討している
埼玉大学の大戸暢雄さんと、電気通信大学の
石丸秀行さんが見学に来た。

 ゼミ終了後、少しだけ五反田の「あさり」へ。
私は仕事があるので、あまり飲めない。
 大戸さんとか、石丸さんとか、こういう時には
いつも「部長」役の関根くんに、「まあ、飲め飲め」
と薦めながら、自分はビールほんのちょっぴりだった。

 仕事といっても楽しみである。島田雅彦との
対談だったからである。
 BRIOで島田さんがホストの対談連載が始まる
らしく、
 第一回目のゲストに私が呼ばれたのである。

 実は少し算段があった。島田さんは、どうせ着いて
すぐ酒を飲むに違いないから、
 私も少し飲んでいても大丈夫だろう。
 すぐに「じゃあ、私も」と言って飲み始めれば、
着く前に飲んでいたのか、着いてから飲んだのか、
判らなくなるだろう。
 そう思ったけれども、やはりあまり飲むのは
止めた。

 東京タワーの下にあるイタリアンの奥の
個室で対談は始まった。
 案の定、島田雅彦の前には、すでに空に
なったグラスがあった。
 私も安心してビールを頼む。

 こういう仕事なら大歓迎である。
ビールを飲みながら四方山話を楽しくして、
無事終了。
 続いて、隣の串揚げ屋さんで
BRIO編集部の齊藤素子さんと、川原田朝雄さん
を交えて飲み、食べる。

 明けて今朝は再び静かに仕事。
 島田さんも、大学の授業のある月、火を除いては、
「家で光合成をしている」由。
 脳の光合成は光がなくてもできるように一瞬思うが、
実は思考を支える神経回路網の発火に伴って
必然的に電磁波は出るのであった。

5月 31, 2005 at 06:53 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/30

30

野球の試合で、
終了すると選手たちがあっけなく引き上げて
しまうことを、
 何となくものたりなく思っていた時期があった。

 もっと何というか、余韻を楽しんでそのあたりで
うだうだしていればいいじゃないか、
 そんな風に思っていた。
 優勝決定はもちろん、様々な節目の試合では
もちろんファンに挨拶などするが、
 さっと道具を持ってさっと引き上げる、
あれは寂しいなあと思っていた。

 しかし、あれがプロの動作というものだな、
と最近思うようになった。
 プロの動作には無駄がなくきびきびしている。  
 試合中はもちろん、終わった後も同じである。

 自分自身をふり返り、周囲の人たちを観察
すると、
 「プロ」の領域になるほど、無駄な動きが
なくなっていくことが了解される。
 素人はうだうだ無駄が多い。
 もちろん、プロでも悩むことはあるが、
そのエッセンシャルな逡巡をするための時間
(スペース)をつくるためにも、普段の
業務はきびきびと無駄なくやる必要が
あるのである。
 
 結局、このような「引き締まった感じ」
があるかどうかで、その人の作る出すものの
クオリティも決まるのだな、と思うようになった。
 みんな職人なのである。

 母親の退院前の見舞いも最後かもしれない。
おそらく今週中には無事釈放か。
 見舞いのお返しが大変だと嘆いていた。
30名来たそうだ。 
 もともと交際範囲が広いのでそうでは
ないかと思っていたが。
 行きはニコラス・ハンフリーのインタビューを
聞き返し、
 帰りはヘンデルの『メサイア』を聞いた。
 夜は、柳川くんと小俣くんの推薦状書きなど。
 無駄なくきびきび動いているつもりだが、
どうにも仕事は終わってくれない。

5月 30, 2005 at 06:51 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/05/29

創造性のインフラ整備

ヨミウリ・ウィークリー
2005年6月12日号
(2005年5月30日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第55回

創造性のインフラ整備

一部引用

 ペンローズ教授が研究するオックスフォードは、美しい街である。通りを歩けば、オックスフォード大学に学ぶ者たちが集う「カレッジ」の由緒ある建物が建ち並ぶ。テムズ川沿いの各カレッジのボートハウスの前では、エイトたちがコックスの励ましに合わせて一生懸命ボートを漕いでいる。
 それを横目で眺めながら歩いていくと、イギリスの首相を13人輩出したことでも知られるクライスト・チャーチ・カレッジに所属する緑豊かな牧草地が広がってくる。年を経て味わいのある形に成長した大木が、吹く風にざわざわと葉を震わせている。こんなに美しい環境の中で学ぶ者は、幸せだなと心から思わされれる。
 数学者の藤原正彦さんは、「優れた数学者は、美しさの前に跪くことを知っている土地から生まれる」という説を唱えている。自然の風景にせよ、人工物にせよ、人知を超えた美しさを感じさせるものを前にして、人々は数学のような秩序の美に精神を開かせられるというのである。

 
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

5月 29, 2005 at 07:36 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

巨大タンカーの船長ほどにも

朝ご飯を食べていなかったので、
空港でトンコツラーメンと
めんたいこご飯を食べ、
 空路東京へ。

 夕刻、久しぶりにぶらぶら歩いて
果物屋さんに言った。
 いつもながら
会話をしながらいろいろ買うのが
楽しみなのである。

 おいしそうなイチゴがあったので、
「これは何ですか?」と聞いたら、
 「やよいひめ」という新品種で、
今年初めて収穫されて市場に出てきた
ばかりなのだと言う。
 JAたのふじ
 JA全農ぐんま
という表示がある。
 ちょっと細身のうつくしい姿である。

 家に帰って、さっそく一粒食べた。
 ほんのりと酸っぱさが底にある
甘いイチゴである。

 果物屋に行く途中、いつもの
ツバキの木をチェックしたら、
アカスジキンカメムシの終齢幼虫の
抜け殻があった。
 もう少しすると、金属光沢の緑色
に輝く成虫が姿を見せるだろう。

 子供の頃、大人の生活を想像して、
ずっと生きるための仕事をし続けるのは
いやだ、
なんだか重苦しい、と思ったものだが、
 実際にそうなってみると、案外
楽しいものである。
 とぎれることなく仕事をし続ける
中でも、
 その中にめんたいこがあり、やよいひめ
があり、アカスジキンカメムシがある。
 それらもみな絶えざる生命作用の結果
この世に生み出されてきたものである。

 そもそも意識から見て「休んでいる」
というのは勘違いなのであって、
 脳の中のプロセスは止まることがない。
 「仕事をしている」という記述の
仕方自体が荒いのであって、
 巨大タンカーの船長ほどにも
私たちの意識は脳内のそして体内の
プロセスを制御してなどいない。

 そんなことを書いていたら、
やよいひめをもう一粒食べたくなった。

5月 29, 2005 at 07:28 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/28

千葉県精神科医療センター開設20 周年記念学術集会

日時:平成17 年6 月4 日(土)
13:00〜17:40
会場:障害者職業総合センター
千葉県千葉市美浜区若葉3−1−3
内容:千葉県精神科医療センター開設20 周年記念学術集会
第1 部20 周年報告会13:00〜13:50
第2部第5 回幕張ブレイン&マインド14:00〜17:40
シンポジウム「現実(リアリティ)とは」
座長伊豫雅臣(千葉大学教授)
シンポジスト
茂木健一郎(ソニーコンピューターサイエンス研究所・クオリア理論)
佐々木正人(東京大学教授・アフォーダンス理論)
計見一雄(千葉県精神科医療センター)
コメンテーター
木田元(哲学者)
池田清彦(早稲田大学教授)
司会浅野誠(千葉県精神科医療センター)
第3部レセプション(懇親会) 幕張プリンスホテル18:30〜20:30
参加費:第1 部・第2 部参加費2000円
レセプション(懇親会)参加費6000円

http://www.cswchiba.com/study050510.pdf

5月 28, 2005 at 02:47 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

名作ブックレビュー 小林秀雄の「奇跡の年」

週刊新潮2005年6月2日号(通巻2499号)
p.134

茂木健一郎 小林秀雄の「奇跡の年」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』

一部引用

 昭和17年は、小林秀雄の「奇跡の年」であった。
 「当麻」、「徒然草」、「無常という事」、「西行」と珠玉の随想が次々と雑誌「文學界」で発表された。これらの作品は、散文の精華として永く読み継がれていくだろう。
 前年の12月、日本はアメリカと戦争を始めていた。戦後、「利口な奴はたんと反省するがよい。私は馬鹿だから反省などしない」と嘯いた小林が、いったいどんな覚悟を秘めてこれらの文章を綴ったか。作品に全てを語らせ、後は黙するという芸術家の矜持がそこにある。

 全文はただいま発売中の「週刊新潮」で。

5月 28, 2005 at 02:39 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

りんご1個

九州大学のスーパーCOE、ユーザーサイエンス
機構(USI)の設立1周年記念の公開シンポジウムに
伺った。

会場は九州大学医学部百年講堂で、隣には
九州大学病院があり、その隣に高層の新病院が
建てられつつある。

シンポジウムが始まる前、都甲潔さんと
久しぶりに話す。
大変お元気で、エネルギッシュである。
味覚センサーなどの会社を複数立ち上げている
とのこと。

シンポジウムは、
まず私が話させていただいて、その後
パネル討論会になった。

松永勝也さんは、反応時間の平均値からの
ずれについて、大変興味深いデータを示された。
平均値にすればone-offで消えてしまうような
振る舞いも、
たとえばブレーキのかけの遅れを
通して事故につながる可能性がある。

rare eventが認知プロセス上重要な意味を
持つ。そのようなことは事故以外にも
ありそうで、考えさせられた。

沈壽官さんは島津家の官窯(薩摩焼)の十五代目。
陶芸というのは、火山の噴火で出来た石が長い間かけて
土になったものを、また火を入れて石に戻す行為
だと言われた。
自分の焼き上げた作品の評価において
「一尺の見切り」と「一間の見切り」
というものがある。
前者は、作品をつくっている自分から
見た価値で、
後者は、その作品が愛蔵家の居住空間に
置かれた時の価値である。
「花活け」の意匠は、何にでも使えそうに思える
ものだとかえって何にも使えず、
かといって活け方を強く指定するものもダメで、
その頃合いが難しいと。

水田祥代さんは九大病院長として、現在
進んでいる「明るく楽しい小児病棟」の
新築計画について話された。
そして、大倉冨美雄さんは、イタリアに
10年いてデザインをされた経験から、
日本の現状に対する提言をされた。

シンポジウム終了後、懇親会。
いろいろな方とお話することができた。

綿貫茂喜さんも加わって、
櫛田神社裏あたりにある、上川端の
せいもん払いへ。
糸井久明さんの行きつけの店とのこと。

デザインの仕事をされている平松暁さんご夫妻も。
平松さんは、私の「最初のペンギン」の話を聞いて、
ペンギンの陶器をもってきてくださった。

小倉出身の私の母親が、子供の時数の子をどんぶりで
食べていた、という話をしているうちに、
突然、母の父(私の祖父)が月に一回
リンゴを買ってきて兄弟姉妹がそれぞれ
丸ごと一個食べることができるのが
楽しみで、駅まで迎えにいった、
という話を思い出してしまった。

昔は日本は貧しかった。飽食の時代は何時まで続くか。

時代をまたいで対峙すれば、私たち一人一人が
実はジョージブッシュではないか。

薩摩焼酎のおいしさを認識した。

5月 28, 2005 at 09:25 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/27

内藤礼 聖心女子大学講義

Lecture Records

内藤礼 聖心女子大学講義
2005.5.26.
音声ファイル MP3, 35.1MB, 77分

http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/geidai2005/reinaitoseishin20050526.MP3 

5月 27, 2005 at 07:06 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

サプライズ

自分の体験をふり返っても、大学の時の授業
というものは、少数の例外を除いて、
 明示的に思い出すことのできる「記憶」としては
残っていない。
 
 もちろん、そのような暗黙知で良いわけだけど、
時には「スクラッチ」があるのも良いと思う。
 何かが心にひっかかって残る。
 10年後にそれがふと思い出さればいいのでは
ないか。

 聖心女子大学の授業に、サプライズで
内藤礼さんが来た。
 数日前にお願いしたのだが、快く引き受けて
くださった。
 内藤さんが「なににもならなくていいよ おいで」
の作品(恩寵)を持ってきてくださって、
 一人一人にそれを取りに来させた。

 「現代美術」というものは、それを知らない
人にとっては何だかよくわからないし、
 一度知ってしまえば、はっきりと良いものが
分かる不思議な分野でもある。
 内藤さんが、そうか、現代美術を受け入れるには、
子供のような予断のない心に戻らないといけないんだ、
と言っていたのが印象的であった。

 昼食を取りながら、ポプラ社の矢内裕子さん
野村浩介さんとお話する。
 野村さんは『グッド・ラック』を大ヒットさせた
張本人である。
 抜群のセンスをもった勝負師と見た。
 人生の要諦は、リスクをうまくとることである。

 赤坂の日本財団ビルで、「キャラクター創造力
研究会」の第一回。
 東京財団が主催である。
 東京財団の野崎裕司さんが仕掛け人で、
 牧野圭一、船曳建夫、清谷信一、陸川和男、
鎌田東二の各氏とお話することができた。
 船曳さんとはエンジン01以来で、
鎌田さんとは自由大学以来である。
 とても楽しかった。

 今日は九州へ。

5月 27, 2005 at 05:40 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/26

授業告知

本日の東京芸術大学 美術解剖学
の授業は、都合により休講とさせていただきます。

本日の聖心女子大学、臨床心理学特講は、
予定通り行います。

5月 26, 2005 at 06:54 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

「脳のなかの文学」最終回を書く。

午前、ソニー教育財団の評議委員会。
 午後1時、早稲田大学。
 午後3時、日本テレビ。
 午後4時、電通。消費者研究センター研究会

 せっぱ詰まりのピークで、
電車に乗る閑がなく、全部タクシーで移動
しながら仕事をしていた。
 タクシー文豪。
しかし、
 こんな生活をずっと続けるのは
イヤである(笑)。

 文學界の「脳のなかの文学」は、何回で
終わりと大川繁樹さんから明確には
伺っていなかったが、書いているうちに
今回の内容が最後にふさわしいと思うように
なり、
えいやっと今回のを
「最終回」と自分で決めて、原稿の
最後に(了)と書いた。

 単行本にする分量としても、
25枚×16回=400枚、もう十分な
はずである。

 16回、何だかとても大変だった。
 終わってしまうと、とても寂しい
のは事実である。
 山下奈緒子さん、ありがとうございました!

 いろいろな作家、とくに現代の作品について
考えようといろいろがんばってきて、
楽しかった。
 でも、最後は夏目漱石に回帰してしまった。
 ここのところ、『三四郎』のあの作品世界の
ことばかり考えていて、
 できれば自分も『三四郎』の中に入って
あの頃の東京を歩き回りたいものだ
というくらいに思う。

 しかし、最終回に引用したのは『吾輩は猫である』
だった。
 第一回で取り上げたのも漱石だし、
漱石に始まり漱石に還ったことになる。

 電通の研究会は、佐々木厚さんがお誘い下さった。
終了後、新橋のBier Reise '98で乾杯。
 楽しかった!
 しかし、私はあまりにも疲労していて、
少し早めに切り上げた。

 そして、昨日は9時間眠った。
 この数ヶ月、なかったことである。
よほど疲労がたまっていたのだろう。
 仕事もほどほどにするが良い。
とりあえず、歩きながら『三四郎』の世界に
浸るくらいの逃避は良かろう。

5月 26, 2005 at 06:40 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/05/25

Introduction to psychology. Lecture 5

早稲田大学国際教養学部
2005.5.25. 13:00〜14:30
7号館419教室

Introduction to psychology. Lecture 5.
How to deal with uncertainty.

In this lecture, we learn from the penguins how to deal with the uncertainties encountered in life.

5月 25, 2005 at 12:19 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

束芋さん、オメデトウ!

ギャラリー小柳での、束芋さんの展覧会(指弁)
のオープニングに行く。
 会場で、Traumarisの住吉智恵 さん、
ナフタレンを使ったアートの宮永愛子さん、
原美術館の安田篤生さんとお話する。

 終了後、小柳敦子さん主催の夕食会。
束芋さんを囲んでみんながお祝いした。
 森美術館の片岡真実さん、都築響一さん、
一色與志子さん、椹木野衣さん、
京都造形芸術大学の田名網敬一さん、
伊藤圭司さんとお話する。

 大変楽しい時間だった。
 束芋さん、オメデトウ!

 

5月 25, 2005 at 07:04 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/24

忙中閑。ニコニコ

 午前2時30分に起きてずっと
やっているのに仕事終わらず。
 そのうち、東京駅に向かわなければ
ならない時間になったので、
 とっくり思案してタクシーにして、
その中でもキーボードを打ち続けた。

 私は神経がずぶとく出来ていて、
どんな環境でも大抵仕事できる。
 新幹線の中でもひたすら仕事を
続けて
 (途中、仙台牛タン弁当を食べたけれど)
 仙台に到着する直前、無事終えて、
 メールの向こうで待っているKさんに
送信。

 ソニー仙台に向かうタクシーの中で、
Kさんからの「届いた」というメールを
無事受け取った。

 ソニー仙台は楽しかった。仕事を終え、
10名くらいの方々と食事をする。
 仙台で仕事をする楽しさ、苦労など
いろいろ伺った。

 再び新幹線の人へ。
 仕事のための本を読み始めたが、
もはや限界である。
 降りるとき、眠り込んでいるうちに
本がお尻の裏に回り込んだらしく、
 あやうく忘れるところだった。

 父に電話。母の石、追加で二個とれた
よし。
 忙中閑。ニコニコである。

5月 24, 2005 at 07:50 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/05/23

欲望する脳 第二回

集英社 青春と読書 2005年6月号(5月20日発売)

茂木健一郎 連載 欲望する脳 第二回
欲望に内在する脆弱さ

一部引用

 保坂和志は、「現代性、同時代性というと、私はまず現象として、過剰な暴力と、登場人物の精神が病んでいることを思いつく」と書く(『新潮』2005年4月号)。保坂の指摘する通り、現代文学には暴力があふれている。暴力というものが、しばしばナルシシズムと結びついていることは、多くの人がすぐに気がつくところだ。他人に暴力を振るうということも、人間という奇妙な存在の欲望の可能態の一つだとするならば、その背後に人間の業を見ることはたやすい。文学の深みをそこに気取ることも少々才気走ったやつには可能だろう。しかし、暴力を描く者が、自他の間の圧倒的な非対称性に鈍感であるならば、暴力描写は容易に世界に向かって閉ざされた精神病理の陳腐な表現に惰してしまう。保坂は、右に引用した文に続いて「そんなことが現代性、同時代性ではないんだ」と書く。自他の間の潜在的緊張関係に気を配らない同時代性などあり得ないだろう。文学に限らず、全ての芸術と自他の関係を巡る倫理性は無関係ではない。
 大江健三郎が「ディーセンシー」(節度)と表現するものを身につけているどうかということは、ある人間の価値を決定づける分水嶺であるように思う。この点において、現代はざらざらとした荒れた印象を与える人が多い時代である。たとえば、その年頃の子供を持つ親が、したり顔に「最近の公立中学校は荒れていて、やっぱり私立に入れなくては」と言うのを耳にする時、私はその人の魂を醜いと思う。お前の子供はいいよ、じゃあ、公立中学校に行くやつらの立場はどうなるんだ、と言ってやりたくなる。自己の欲望と他者の欲望が潜在的な緊張関係にあることについて、ディーセンシーを持っていない人は、おそらく深い文学性に到達し得ないし、何よりも人間として本当の生きる苦しみと歓びを味わえないのではないかと思う。

全文は「青春と読書」で

http://seidoku.shueisha.co.jp/seishun.html

5月 23, 2005 at 07:31 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

科学の恵み

Popular Science日本版
連載 Do You Know[脳]
茂木健一郎 科学の恵み
2005年6月号(5月2日発売)

一部引用

 日本では、科学離れが相変わらず心配されているようだが、どうやら風向きは少し変わってきているようでもある。私の周囲だけかもしれないけれども、科学的なことへの関心が、別に科学技術立国のためにそうしなければならないという義務感からではなくて、徐々に戻ってきているように感じるのである。
 (中略)科学の恵み。それは何よりも、とびきりの知性がもたらす恵みである。日本では、日常生活の感覚で分かりやすい科学が取り上げられがちだが、そんなことでは科学の恵みの本当の深い味わいなど判らない。フォン・ノイマンがシャンパンを飲む手をふっと止めて、遠くを見る目をしている時に何を考えているか、そう簡単に判ってたまるかなのである。(中略)
 今年は国際物理年である。1905年にアインシュタインが相対性理論をはじめとする数編の画期的な論文を発表して、世界の見え方を変えてしまってから100年。私たちが忘れてはならないのは、科学の恵みをまさに体現したアインシュタインが、いかに変人だったかということである。そもそも大学で落第生で、まともな研究職に就けなかった。相対性理論の画期的な論文を発表したら、すぐさま世間は拍手喝采、ベルリン大学か何かから招聘がくるだろうと思ってしまうが、彼は何とさらに1909年まで特許局で働いているのである。
 歴史の事実は小説よりも奇なり。アインシュタインは、「特許局で、街の発明家の変な話を聞いて、それを論理的にまとめる訓練が大変役に立った」と言っているが、なんのことはない、自分自身が街の発明家と大して変わらなかったのである。

全文はPopular Scienceで。

http://www.popsci.jp/

5月 23, 2005 at 07:13 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

時間

病院の中にいる間の時間というのは、
独特の感覚を持っている。
 母親はすぐにでも退院したがっているが、
まだ石が少し残っているというので
明日もう一度内視鏡で手術することに
なった。

 主治医もよくしてくれていて、
不満はないが、
 システムとしては、日本の医療は
入院期間を最短にするという配慮は
欠けていると思う。
 検査や措置の体制など、
見ていると随分ノリしろがある。
 あれでは、患者も家族も
もっと何とかなるだろう、と
思わざるを得ない。
 それだけベッドに余裕があるのだろうか。
 イギリスのNHSは逆に医療のリソースが
足りなくて、
 常に順番待ちだから、
 とっとと退院させないと回らない。

 身内が入院した時の切なさというのは
どちらかというとこういう点にあるのであって、
無駄に流れているように時間が、
本当に医療的意味があるのか、それとも
単なる不作為なのか、そう簡単には納得が
いかない。
 もっとも、それは医者にとってもそうなの
であろう。

 母親の隣にいる女子大生は、
ちょうど就職活動の時期で、
見舞いにきた友人たちに向かって
リクナビが見たい、などとかなり深刻
そうだった。

 オレが病院経営者だったら、
病状の許す患者にはネットの設備を用意する。
 テレビがあるのだから、同じことである。
 要するに病院の閉鎖環境が、
治療的配慮なのか、それとも不作為=怠慢
なのか、
 見極めがつかない。
 
 私の現実の生活は完全に時間破綻して
いて、
 あまりにも多くの仕事が山積みになっていて
ただひたすら働いている。
 いつも餌を探している千鳥のようである。

 今日は仙台に日帰りの仕事がある。

5月 23, 2005 at 03:06 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/05/22

九州大学 講演会

九州大学ユーザーサイエンス機構設立一周年記念公開シンポジウム

■ 日 時  平成17年5月27日(金)午後1時30分〜午後5時45分

■ 場 所  九州大学医学部百年講堂
〒812-8581福岡市東区馬出3丁目1番1号(九州大学 馬出病院地区内)

茂木健一郎 「技術、そして感性」(60分)

詳細は、
 
http://www.kyushu-u.ac.jp/topics/index01.php?id=219 

5月 22, 2005 at 12:07 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

「愛国無罪」は本物の愛か

ヨミウリ・ウィークリー
2005年6月5日号
(2005年5月23日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第54回

「愛国無罪」は本物の愛か

一部引用

 基本的に利己的な脳の働きが、例外的に「利他的」になるのが「愛」であると、科学者たちは考えている。進化論の枠組みにおいては、血縁関係にある者どうしの利他主義が研究されてきた。お互いを助けることで、一見自分にとって不利に見える状況の中でも、結果として自分の遺伝子が残る結果になるのである。
(中略)
 仲間への「愛」が、他者への反発や攻撃に転化する時、もはやそれは「愛」以外の何ものかに変質してしまっている。愛国心はあくまでも同胞に対する助け合いの精神が本義であって、他者への攻撃性となって現れる時、それはもはや科学的に言えば「愛」ではないのである。

 
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

5月 22, 2005 at 12:01 午後 | | コメント (0) | トラックバック (1)

白洲信哉のおもてなし

夕刻、白洲邸にでかけた。
インデックス・マガジンの
 wa.sa.bi.が「白洲信哉のおもてなし術」
の取材をするというので、
 私はもてなされる役を務める
というわけである。

 とは言っても、白洲さんが刺身を
持ってほら、と見せているところをのぞきこむ、
など写真を2、3枚とっただけで、
 あとは普通に酒を飲んで喋っていた。

 生のシラスの酢の物、大きなスズキを
一夜干しして炭火で焼いたもの、
 スズキの刺身、スズキのキモの
串焼き、コノコ、コノコおにぎり、
鱧しゃぶ。
 うまい。もっと気の利いた言い方を
したいけれども、 
 とにかくうまい。 
 鮮烈な味の記憶が残っている。

 「本居宣長」のお銚子で、
井戸のぐい飲みで飲んだ。
 熊谷守一の「喜雨」を鑑賞し、
その後、最近手に入れたという
 宗達の「軍鶏」の絵を見せてもらった。
 久しぶりにゆっくりと楽しかった。 
 
 白洲信哉が、Men's Exに
6回連載した英国旅行記を読んだ。
 白洲次郎さんはケンブリッジに、
そして信哉さんはロンドンに遊学している。
 何となく、イギリス好きというのは気が合う。
 もっとも、信哉さんがロンドンで訪れている
John LobbやClaridge's には私は縁が
なかった。

 シンデレラの時間をとっくに回ったので、
帰ることとした。
 「私も戻ろうかな」
と立ち上がった白洲明子さんがもっていた
緑の小さなポシェットがかわいかった。

5月 22, 2005 at 09:56 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/05/21

意識の流れ

ほとんど、間隙というものが
ない一日だった。
 朝から、午後5時に研究所を
出るまで、
 数えてみるとミーティングが7件あり、
そのうち1件はビデオ撮影を伴う取材だった。
 お昼は、
 日経サイエンス編集部の方々と久しぶりに
お会いして、本当に楽しかった。
 日経サイエンスは大切にしなくては
いけません。

 夜になり、朝日カルチャーセンターの
講義が終わったあとは、さすがにいささか
呆然となった。
 イギリスは遠くなりにけりである。

 新宿の雑踏を歩きながら、エッセンシャルな
問題について考えた。
 結局、人生に関する感傷というものは、
何かをしながら/通りすぎながら
ふと持てばよいものであって、 
 感傷の中にどっぷりと浸るのはよくない。

 それが、オックスフォードで、
テムズ川沿いをクライスト・チャーチ・カレッジ
に向かって歩いていた時によぎった洞察である。

 昨日のスケジュールがとくにむちゃくちゃ
だったとは思わない。
 ただ、やるだけのことである。
 そのやることが、他者との関わり、コミュニケーション
に基づくものか、
 それとも自分で文脈を設定して、自己を規律
してやることかという違いがあるだけだ。

 ずっと、行為し続けているだけ。
 endless action in the stream of consciousness
 それでいいや。

5月 21, 2005 at 11:16 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/20

セイラとミリツァのビデオ撮影ボランティア募集

「もう一つの万博」を進めている、渡辺真也さんから依頼された
メッセージを掲示します。

ーーー以下、渡辺真也さんからのメッセージーーー
セイラとミリツァのビデオ撮影ボランティア募集

セイラとミリツァは、東京にて新作の為のビデオ撮影を行います。そこで、撮影のク
ルーを募集したいと思います。
1.日時:21日(土)〜26日(木)の間で空きのある人(1日でもOKです)
2.デジタルビデオを所有しており、できれば映像作品の撮影経験のある方(美大生
が理想です)

お手伝いできる方は、私のメールアドレスまで早急にご連絡して頂けましたら光栄で
す。
w_shina@hotmail.com
ーーー以上ーーーー

「もう一つの万博」の詳細は、

http://blog.goo.ne.jp/spikyartshinya


5月 20, 2005 at 04:43 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

脳と癒し 第3回

本日 朝日カルチャーセンター講座
「脳と癒し」第3回 (途中からの参加もできます)

午後6時30分〜 朝日カルチャーセンター新宿
教室

http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture19.html

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0504koza/A0301.html

5月 20, 2005 at 07:37 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

束芋 東京芸術大学 美術解剖学 授業

束芋 東京芸術大学 美術解剖学 授業
Lecture Records
束芋 東京芸術大学 美術解剖学 授業
2005年5月20日 東京芸術大学 美術学部 第三講義室
音声ファイル (mp3, 97分、44.3MB)

http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/geidai2005/tabaimogeidai20050519.MP3

5月 20, 2005 at 07:37 午前 | | コメント (3) | トラックバック (2)

束芋さん、もう一つの万博

束芋さんが、芸大の「美術解剖学」の授業に来て、
話してくださった。

 5月24日から、銀座のギャラリー小柳で
個展を開き、それに合わせてグリム童話を
テーマにした絵本をリリースするとのこと。
 また、デンマークでは、アンデルセン生誕
200年を記念する展覧会に出品することのこと。
 忙しい中、いらしていただいて本当に感謝である。

 束芋さんの意向で、過去の作品をふり返りながら
解説をしたあとは、基本的に会場との対話
形式の授業になった。
 とりわけ、制作者としての生き方、姿勢を
巡る対話が深いところまで降りていった
すばらしいものになった。

 しばらく時間をおいたあと、1番教室で
「もう一つの万博」のシンポジウム。
 渡辺真也さんの熱意を、木幡和枝さんの研究室の
実行能力が支えて実現した。

 セイラ・カメリッチが一流のアーティスト
であり、人間的にも立派であることを認識した
ことと、
 渡辺真也さんの熱意が、日本という文脈では
どのような意味をもつかを把握できたという意味で、
個人的にはとても意義深いシンポジウムとなった。

 ただ、いろいろな意味で久しぶりにバランスを
崩しそうになって、
 車屋の懇親会ではおとなしくしていた。
 最近は、「あっ、くるな」と思った時、
それを適当に散らして、ポジティヴな回路に
つなげていくことを学んだ。
 
 何事にしろ、理想を持ってそれにむかって
困難をクリアしていく人は好きだ。
 チンケな理想しかもたない人や、
 自分は何もしないで人の文句ばかり言っている
人ばかりが多すぎる。

 内藤礼さんが、「一番うれしいのは、他人の
中に美しい心を見つけた時だ」と先日の
dictionaryの対談で言っていた。
 そのことの意味を再確認した日。

5月 20, 2005 at 07:27 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/19

もう一つの万博(本日)

国際シンポジウム(同時通訳つき)

<もう一つの万博:国民国家を超える新世代の芸術家たち>

主催 東京芸術大学美術学部(美術解剖学教室/先端芸術表現科/油画科)
協力 「もう一つの万博実行委員会」

日時 平成17年5月19日(木) 18:00 - 20:00(予定)
東京芸術大学 上野校地 美術学部中央棟1階第一講義室

パネリスト:
セイラ・カメリッチ
ミリツァ・シモノビッチ
茂木健一郎
渡辺真也

*本シンポジウムは全編英語にて開催され、日本語へ同時通訳します。

http://spikyart.org/anotherexpo/

5月 19, 2005 at 07:36 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

心理学の残された問題

聖心女子大学 臨床心理学特講18
(第4回)本日、予定通り行います。

心理学の残された問題

5月 19, 2005 at 07:34 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

美術解剖学 束芋 特別講義

2005年5月19日(木) 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

(美術解剖学の履修生でない方もどうぞご参加
ください)

お問い合わせは、茂木健一郎
kenmogi@qualia-manifesto.comまで。

5月 19, 2005 at 07:32 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

西早稲田オフィス

成田から荷物を送って、成田エクスプレスで
東京駅へ。
 列車の中で授業の準備をする。

 午後1時、早稲田大学の授業。
 今日はoutstandinng problems in psychology
としての心脳問題へのintroductionで、
 physicalism, functionalism, identity theory,
dualism, mysticiansなどの考え方を紹介。

 午後3時、読売新聞 待田晋哉さん、
鵜飼哲夫さん、リーガロイヤルホテルにて。

 午後5時、NHK有吉伸人さん、細田美和子さん。
リーガロイヤルホテルにて。

 午後6時、游学社の久野勇さん。
「ダ・カーポ」の取材。リーガロイヤルホテルにて。

 毎週水曜日はリーガロイヤルホテルが
「オフィス」と化している。

 結局、授業から連続6時間喋りっぱなしだった。

 今朝は寝坊してしまった。
さすがに疲れていたのだろう。
 また日常に戻る、である。

 しかし、考えてみれば、何気ない
日常ほどありがたいものはない。
 そのことは小津映画の輝きで知っている
はずであるが、
 時々改めて思い出さないとついつい
バカだから忘れてしまう。

 日常と言っても、人間は
時々刻々少しずつ変化し続けていて、
 とどまるところがない。

 私も、イギリスに行く前と行った後では
別の人間になっているはずだし、
 リーガロイヤルホテルでロイヤル・ミルクティーを
飲む前と後でも違っているはずだ。

 今日は芸大に束芋さんが授業に来てくださり、
その後「もう一つの万博」のイベントがある。

5月 19, 2005 at 07:06 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/05/17

ヒースロー空港

今回のイギリスへの旅は終わった。
ヒースロー空港のラウンジで仕事を
しながら、エスプレッソを飲み、
ウォーカーのビスケットを食べ、
オレンジ・ジュースを飲んだ。

 仕事をしている時はどこにいても
変わらない。内なる宇宙に沈潜している。
 内なる宇宙は世界のどんなところにも
つながってぐるぐると私の人生をつくって
いく。
 
 そろそろ外の宇宙に出て、搭乗口に向かおう。

5月 17, 2005 at 09:03 午後 | | コメント (0) | トラックバック (1)

Introduction to psychology. Lecture 4

早稲田大学国際教養学部
2005.5.18. 13:00〜14:30
7号館419教室

Introduction to psychology. Lecture 4.
The outstanding problems in psychology.

Psychology, needless to say, is a subset of science in general. Science is concerned with the mysteries in the universe. What are the unsolved problems in psychology? What possible approaches could we take to solve these enigmas? In this lecture, I will touch uppon several outstanding problems in the science of the mind, and discuss the relevance of present day cognitive science research in answering these questions.

5月 17, 2005 at 02:07 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Roger Penroseと会う

St. Giles streetのmathematical instituteに、
Roger Penroseを訪ねた。

Penroseに会うのは、田谷文彦くんと
Oxfordを訪問して以来、数年ぶりになる。

大著The Road to realityを書き上げた
Penroseはとても元気で、
独特のexquisite charmは今も変わらない。

quantum gravityのレベルと、脳のシステム
論的性質のレベルをどう結ぶのか、
その時、「統計的」な性質がどのように
関わってくるのか。
これらの問題について、Penroseが
今何を考えているのかを知りたいと思った。

Penroseは、脳の認知プロセスの本質は、
subcellular levelにあるとまだ信じている
と言った。
そして、意識が波動関数の収縮を起こすのでは
なく、Objective Reduction(OR)のうち、一部の
ものが意識的プロセスを起こすのだろう、
という考えは変わらない、と言った。
 
microtubuleやcentrioleなどにおける
ORが、実際に私たちが体験する意識に
かかわるには、スケールの差異を乗り越える
ための何らかのしかけが必要になる。

The Road to Realityには、Andrew Dugginsに
よる、the binding problemにおける
Bell's inequalityのviolationを観測しよう、
というアイデアが出てくる。

scaleを超えた理論をつくるには、このタイプの
検証が必要なのではないかと言ったら、
Penroseもそう思う、と答えた。
ただ、Dugginsの実験は実際的困難に直面して、
その後進んでいないとのことである。

面白かったのは、統計的議論に関する
ことだった。
現在の脳科学、認知科学では、認知プロセスの
本質を解析する上で、Bayesian statisticsの
ような統計的議論を用いるが、
このようなアプローチについてどう思うか、
と聞くと、
「判らないけど、私は、統計的議論が
どうも得意じゃないんだよ」
と困ったように言った。

Penroseは、はっきりとした美しい構造
を持った幾何学的システムについて
考えるのが好き/得意で、統計的議論
を行うことがあまりできない、というのである。

「知っての通り、アインシュタインは
統計的議論が得意だったんだけどね」
とPenroseは言った。

Penroseの統計的議論に対する距離感は、
その美意識と関係しているような印象がある。
統計的議論に、美しいものはあまりない。
そう思っているのではないか。

最後に、twistor formalismにおける
波動関数のある性質について、
昨晩思いついた!
というアイデアについて説明してくれた。

場所よりも時間よりも、
この人、という人との接触こそを大切にしたいと
思うような人生のフェーズを迎えた。
この、類い希なる頭脳とまた接することが
できたことに感謝したい。

Wadham collegeのPenrose tilingを見て、
Penroseに
別れを告げる。

車に乗り、M40からM25へ。
HeathrowのHertzで返却し、新潮社の
北本壮さん、菅野健児さんと
タクシーでPaddington近くのホテルへ。

HeathrowからCambridgeに直行して
そのまま帰ることが続いていたので、
Londonは久しぶりである。
車窓から見える景色に、なんだか
「うゎーっ!」という感じだった。

本当は、The Ivyに行きたかったのだが
近年ますます人気が出たらしく、
予約不可能。
それでも、Leiceter Squareから
Covent Gardenにかけての私の大好きな
エリアを歩いていたら、仕事に
一段落付いたこともあって、本当に
嬉しくなってしまって、歩きながら
きゃっきゃきゃっきゃとはしゃいでしまった。

見るもの聴くもの全てが懐かしい。
折しも、
Picaddily Circus近くで、Red Carpetが敷かれ、
George Lucasも来て、Star WarsのPremierを
やっていたが、そんなone-offのeventが
どうでもいい、と思えるくらい、
あのエリアが好きだ。

嬉しかった理由はもう一つある。
Penroseと話している最中に日本から
電話があって、母の総胆管結石の
除去手術が無事成功したという知らせ。

Penroseが良いニュースをもってきて
くれた。

The Ivyには直接店にいって「キャンセルないか」
とトライして、店の人も検討して
くれたが、果たせず。
結局、The English National Opera近くの
Giobanni'sでイタリアンを食べた。

何回も来た店だが、オーナーのPinoと喋ったのは
始めてだった。
Giobanniというのは、55年前に店を始めた
Pinoのおじいさんだそうである。

通りに面してガラスからテーブルが見えるが、
入り口は裏の細い路地にあって、
中に入るとろうそくに照らし出された
落ち着いた空間が広がっている。
オススメである。

Giobanni's
10 Goodwin's Court
off 55 St Martin's Lane.
London WC2N 4LL
telephone 020-7240-2877

少し無理をしてもイギリスに来て良かった。
すっかり元気になった。
日本という文脈の中でも
その海に飛び込んで泳いでいけそうである。

5月 17, 2005 at 02:00 午後 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/05/16

イギリスは美しい

日曜は室内仕事日で、ほとんど部屋の中で
本を読んだり、考えたり、ノートを取ったり、
ものを書いたりしていた。

 その間、新潮社組は、オックスフォードの
カレッジなどの撮影に出かけていた。

 途中で、気分転換に一時間ほど散歩した。
 滞在しているOxford Spires hotelから細い
道を歩くと、テムズ川河畔に出る。
 そこは、各カレッジのボートハウスがあるところで、
8がcoxに叱咤激励されながら、
 必死になって漕いでいた。
 
 大きな橋につき、右側におれると、そこに
Christ Churchの大きな緑地が広がっている。
 Christ Church collegeの建物まで、
緑の中を歩いた。

 イギリスは美しい、と改めて思った。
見慣れた光景のはずだが、改めて気付いて見ると、
本当に美しい。
 自然の景観と人工的な設いが渾然一体となって、
歩いているうちに次第に陶然としてくる。
 他に、何もいらない、という気分になってくる。

 藤原正彦さんが、「世にも美しい数学入門」
の中で、偉大な数学者が出るのは、風景が美しくて、
美の前にひざまずくことを知っている土地だ、
という説を唱えていらしたが、
 なるほど、そうかもしれない。
 イギリスは多くの数学者と自然科学者を輩出したが、
そのことと藤原さんの仮説はconsistentだ。

 「行為における美」という命題について考えながら、
ホテルに戻った。

 午後6時に新潮社組が帰ってきて、
北本壮さんと打ち合わせ。
 再びテムズ川河畔に出て、
 ボートハウスを真向かいに見る岸に腰掛け、
「心脳問題の見取り図」について話し合う。

 部屋に戻って、終わらせなければならない
仕事に没入していると、いつのまにか8時を
回った。

 「終わった!」とテムズ川のほとりを歩いて橋の
たもとのイタリアンへ。
 北本さんや、菅野健児さんと冗談を言い合い
ながらパスタを食べる。

 帰りの河畔は、街灯もなく暗かった。
ただ、三日月の明かりだけが道を照らす。
 夜のイギリスも美しい。
 昼の数学とは違う、夜の数学ができるに
違いない。

 睡眠時間は短かったが、
起きてしまったので仕事を始めた。

5月 16, 2005 at 01:21 午後 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/05/15

もう一つの万博 東京芸術大学

国際シンポジウム(同時通訳つき)

<もう一つの万博:国民国家を超える新世代の芸術家たち>

主催 東京芸術大学美術学部(美術解剖学教室/先端芸術表現科/油画科)
協力 「もう一つの万博実行委員会」

日時 平成17年5月19日(木) 18:00 - 20:00(予定)
東京芸術大学 上野校地 美術学部中央棟1階第一講義室

パネリスト:
セイラ・カメリッチ
ミリツァ・シモノビッチ
茂木健一郎
渡辺真也

*本シンポジウムは全編英語にて開催され、日本語へ同時通訳します。

http://spikyart.org/anotherexpo/

5月 15, 2005 at 08:50 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

「わからないこと」を楽しみたい

ヨミウリ・ウィークリー
2005年5月29日号
(2005年5月16日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第53回

「わからないこと」を楽しみたい

一部引用

 日本のテレビ番組における科学の扱われ方には以前から不満があって、気付いたことがあるとその場で局に電話をしていたりしていた。そのせいで、周囲からはおせっかいな人間だと思われることもあったが、本人は至ってマジメである。
 日本のテレビの最大の問題点は、科学を「ネタ」だとしか思っていないことにある。白衣を着た科学者が出てきて、変なことを言ってスタジオのタレントにいじられる。このような日本のテレビでおなじみの「文法」は、科学の本質を伝える上では邪魔になるだけである。(中略)テレビの専売特許である「わかりやすさ」にサヨナラすれば良い。わからないことこそが科学者の知的探究心をかき立てる。10年間も判らない問題があったら、それこそが飛び切りの研究テーマである。CMに行く前の1分間で判ってしまう問題など、科学の本質と関係がないのだ。
 
全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

5月 15, 2005 at 08:42 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Horace Barlowとの議論

Horace Barlowの家にいって、議論した。

 真っ先に
 Daisy Barlow(犬!)がお出迎えしてくれて、
ドアを開けたMirandaが、上にいるわよ、と言った。
 MirandaはHoraceの妻で、University of Cambridge
でTechnology transferの仕事をしている。
 MirandaとHoraceは、Mirandaが本を編集して
いる時に知り合った。

 Horaceの家には、Wedgwoodのfamily treeが
ある。
 中心から周辺にむかって放射状に延びている。
 この円形の書き方は、typicalなのかと
Horaceに聞いたら、
 そうではないだろう、と言った。
 Horaceは、Wedgwood家と、Charles
Darwinの両方につながっている。

 Horaceとの議論で一番面白かったのは、
statistical learningについてである。
 人間の学習については、一回だけの体験で
学習が成立する、one-shot learningが
あるが、
 Horaceに言わせれば、このN=1の場合も
statistical learningである。
 いや、N=1から学習しなければならない
時こそ、もっともsophisticatedな
statistical learningが必要なのである。

 Horaceは学生の時にFischerの統計学の本を
読んで感銘を受けたが、Fisherの本ほど、
人々の反応が極端に二分されるものは
ないと言う。
 脳がやっていることが、statistical learning
であるという証拠は過去数十年の間に
徐々に蓄積してきた、というのが
Horaceの立場で、
 そのことは、例えば言語の起源にも
関連しているだろう、と言った。
 
 洞察に基づく、認知的なone-shot learningは人間に
だけ見られるように思われるけれども、
 例えば蜂に刺されてそれ以来蜂を避ける
というようなone-shot learningは、広く動物に
見られる。
 この二つのプロセスの間にどのような関係
/transferが起こったのか、大変興味深い
ところである。

 Horaceは、意識の起源について、それは
基本的に他者とアイデアを共有できる
ということのためにあるのだろう、と言った。
 無意識のプロセスの方が占める割合が
大きいが、それはfor internal consumption
onlyなのであって、
 意識されたものだけが、言語を
通して相手にexplicitに伝えられる。
 そのことが重要なのだろう、と言った。

 Horaceの志向は、統計的なもの、
そして進化論的なものである。
 
 Horaceのお母さんは、祖父である
Charles Darwinの進化論について大変
熱狂的な関心を持っていて、それが子供の
時のHoraceに影響を与えたのだろうと言う。

 私自身は、統計的、進化論的議論と
一見相容れないように見える
qualiaに象徴されるphenomenal aspects
of consciousnessを巡る問題が、
 実はcompatibleであると可能性が
最近見えて来ているように思う。
 おそらくそのあたりにbreakthroughが
あるだろう。

 その意味でも、
 Horaceとの議論は楽しく、尽きなかったが、
残念ながら時間が来てお別れすることと
なった。
 Horaceは8月のECVP(European Conference
for Visual Perception)に来るというので、
 その時に再会できれば、と思う。

 新潮社の北本壮さん、菅野健児さんは
まだcollegeの撮影が少しあったので、
 GrantchesterのThe Orchardでお茶を
飲みながら、Roger PenroseのThe Road
to Realityを読む。
 合流して、The Red Lionで遅めの昼食を
取り、そこからWimpole Hallを経由して
A1、M25,M40のルートでOxfordに
移動した。

 北本さんがLe petit blancに電話したら、
9:15からしか取れないというので、
仕事をしながら待つ。
 モダンなデザインで、料理も素晴らしかった。
 タイトなスケジュールなので、イギリスに
来てからものすごく長い時間が経っている
ような気もするが、そうでもない。
 
 母は状態が落ち着いていてしかし石が
まだあり、その内視鏡手術は月曜になった。

5月 15, 2005 at 03:27 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/14

Nicholas Humphreyとの議論

午前中は静かに仕事をしていた。
空気はchillyで、外にいるのはつらいので、
室内の止まった空気のなかにいる。

午後早く、Nicholas Humphreyの家にいった。
Cambridge Univerity Botanical Gardenのすぐ
横にある。

Nickは、London School of Economicsの
school professorであるが、Cambridgeに
住んでいる。

 ハンフリーの本はいくつか訳されているので
読んだ人も多いだろう。

 私が最初にNickを知ったのは
ケンブリッジに留学していた95年から97年
の頃に読んだSoul Searchingを通してで、
その頃、Nickはscepticの立場からparapsychology
を調査する活動をしていた。

『獲得と喪失』(The mind made flesh)が
最新の翻訳である。

 この中で、ハンフリーは、氷河期に描かれた
洞窟絵画について、現代人で言えば自閉症のサヴァン
に相当する能力によって描かれたのではないかという
説を提出して物議をかもした。
 ある考古学者から、「考古学をやっていることの
楽しみの一つは、ありとあらゆる奇妙な考え方に
出会うことができることだ」と揶揄されるなど、
大変controversialなのだが、その話を
まずした。

 それから、ハンフリー自身のmind-brain problem
についてのstanceについて聞いた。
 ハンフリー自身は、Daniel Dennetのように
functionalistであるが、しかし、dualismを信じる
こと自体が、進化論的に見て適応的なのだろう、
という考え方だった。

 Dennetのように、「魂と物質が別だ」
と考えるのは、機能主義的に見て、
むしろ恐ろしい間違いだというのである。

 人間が単なる物質の塊ではなく、
精神を持ち、ひょっとすれば死後の世界を
持つと信じることで、 
 人々は自分や、他者を大切に扱い、
そのことが文化活動を含む様々な人間の
ユニークさにつながった、というのが
ハンフリーの基本的立場である。

 もし、「自分たちが単なる物質であり、
精神などなく、死後の世界もない」という
認識が生じると、人間は、他の動物と違って、
完全な絶望に陥る可能性があるとNickは言った。

 懐疑主義者としてのparapsychologyに
対するスタンスでも、むしろ、『奇跡』を
信じるという人々の態度が、宗教の起源に
おいて一定の機能主義的な役割を果たしたの
だろう(キリストを含めて)というのが
ハンフリーの考え方だった。

 人間の意識の起源自体を、Nickはmetacognition,
いわゆる"inner eye"というメタファーで説明
するが、
 その意義もまた機能主義的文脈において
とらえる。
 つまりは、他人とのコミュニケーションにおいて、
他者の『心の理論』を立ち上げる上で
 そのような認知プロセスが必要だったのだろう、
というのである。

 Botanical Gardenに移動して、話を続けた。
ここには、ニュートンのリンゴの子孫があり、
Trinity Collegeの前にあるものよりも
大きく、花を沢山つけていた。

 それから、Nickのallotmentに行った。
allotmentというのは、申請すれば誰でも
借りる権利がある農地のことで、
 年間10ポンド払うとかなり大きな土地を
耕す権利をもらえるのである。

 Nickに別れを告げたあと、
Grantchester Villageの中にあるThe Orchardに
行って、紅茶を飲んだ。
 たくさんのリンゴの木があり、
その中に緑のテーブルと椅子が散在している。
 となりには、作家のJeffrey Archerの
家もある。

 日曜日に、CambrdigeからGrantchester meadow
を歩いてきて、このOrchardでお茶を飲んだり、
あるいはGreen ManやRed Lionといったpubで
ビールを飲み、食事をする、というのが
伝統で、
 Bertrand Russel, Ludwig Wittgenstein,
Allan Turing, Virginia Wolf, Stephen Hawking
といった人たちがいろいろものを考えながら
この辺りを歩いた。

 風邪は大分良くなってきた。
 今泊まっている少し郊外のホテルの窓からは、
野ウサギが走っているのが見える。

5月 14, 2005 at 02:32 午後 | | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/05/13

科学大好き土よう塾

科学大好き土よう塾

一瞬(しゅん)の動きはどうやって撮影(さつえい)しているの?

2005年5月14日(土)NHK教育 9:15〜9:59

にて、解説いたします。
 
http://www.nhk.or.jp/daisuki/next/index.html

5月 13, 2005 at 05:26 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Horace Barlowとの再会

Fitzwilliam Museumの前に立っていると、
Horace Barlowの車が止まって、クラクションを
鳴らした。
 私が助手席に乗り込むと、Horaceはそのまま
Trumpington Streetを北上していって、左折し、
Trinity CollegeにRiver Cam側から入って、
いつもの駐車スペースに泊めた。

Fellowと同行する人しか歩くことのできない
芝生の上を歩き、Dining Hallのドアを入ると、
Horaceは、メニューの前で、
「さて、何があるか見よう」と言って、
それから、High tableに入っていった。
 
メインはSoleで、それとapple juice、vegetables,
Pudding with custardを食べた。

さっそく、いろいろ研究の話をして、
いくつかarrangementの相談をした。
Horaceが最近興味を持っているのはeye movementに
伴うmotion perceptionの問題で、
いつも目は動いているのに、
V1においてfourier transformが行われ、
それがより高次の視覚野に向かう中で、
安定した知覚が得られるのはabsolute marvelだと
Horaceは言った。

具体的にどのような実験を計画しているのかを
話した。

食事を終え、Horaceが「家でコーヒーを飲もう」と
言って、
Horaceの家に行った。
Horaceの一番上の息子、Oscarが、gap yearを
フランスで過ごした後に、今年大学に入って
Philosophyをやるのだと言った。
今には、IdaとPapitaの二人の娘が
数学コンペでmedalをとったcertificateが
飾ってあった。
娘たちの方がmathematicalなようである。

Horaceの家には犬がいて、すぐに私の
ところに来て甘えた。
「新しく来た人のところに来て甘える
というのは、何か適応の意味があるのでしょうか」
と聞くと、
「彼女は、どんなにかわいがってもらっても、
enough attentionを得たとは言えない。
新しく来た人は、attentionをくれると判っている
から、行くんだと思う」
とHoraceが答えた。
確かに、Horaceが犬をかわいがり始めると、
犬はHoraceの所に行った。
重要な属性は、「新しく来る」ということではなく、
「沢山attentionをくれる」ということだったの
である。

コーヒーを飲みながら
さらに詳しく研究上のarrangementの話を
相談して、Horaceのところを辞した。

私は感動していた。
Horaceは今年84歳である。
ところが、アタマは全く衰えていないどころか、
ますます鋭い。
視覚心理のプロジェクトも進めようとしていて、
その情熱にはアタマが下がる。
恩師が、元気でいてくれるというのは心強い。

ホテルで、資料を読み、仕事をする。

River Cam沿いにあるUniversity centerの
barで、Adar Pelahと会う。
Adarは、Horace Barlow labに一緒にいた仲間
で、
Cambridgeから歩いて30分のGrantchester村に
住んでいる。
最近はYork UniversityやHarvard Universityにも
ポジションを持っているけれども、
CambridgeのEngineering departmentにも
ラボをセットアップしようとしている。

Adarは、もともと視覚心理を研究していたのだけれども、
最近になってVirtual Realityに興味を持っている。
いろいろな研究テーマについて議論して、
それからちょっぴり「あいつは今どうしている」
などとgossipをした。
Adarと喋っている間に、
新潮社『考える人』編集部の北本壮さんと、
新潮社写真部の菅野健児さんが来たので、
ホテルに戻った。
私が、今回、いろいろな人と会って議論をするの
に「便乗」して、それを『考える人』の
「心脳問題」特集の記事にするのである。

8時をまわり、すでに暗くなっていたが、
River Camへの道や、
King's College、Trinity College、St. John's college、
The Eagle pub、The (old) Cavendish Laboratory
などを廻って、
主な撮影ポイントを指摘する。

私が仕事をしている間に、北本さんたちが
撮影をする算段である。
いつの間にか9時を廻ってしまい、
パブの食べ物がなくなったので、
タイ料理に入る。
私の風邪は悪化して、
熱はないのだが、いろいろな粘膜が痛い。
仕方がないので、イギリスの「民間療法」
のような、Lemsipという薬をお湯に溶かして
飲んだ。

Paracetamolが650mg入っている。
最初にCambridgeに2ヶ月滞在した時、
下宿のフランス人のおばさんに、「風邪の
時はこれを飲め」と教わったのである。
あまり効いた気がしない、不思議な薬である。

5月 13, 2005 at 01:09 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/05/12

Cambridge 入り

食事をしたあとは、爆睡して、
起きたらずっとNicholas Humphreyの
The Mind made flesh. (Oxford University Press)
を読んだ。

 多重人格の章が面白い。事実にもとづいた
記述が続いたあとで、最後に仮説のジャンプがある。
 心脳問題に関する章にも、一つきらめく
アイデアがあった。
 Humphreyはmetacognitionという言葉こそ
使っていないが、まさに意識の本質はmetacognition
である。
 
 空港で車を借り、BBCのRadio 4を聴きながら
M25からM11へ。
 新生児の突然死に関するプログラムにも、
やはり認知的距離(detachment)の偉大な
伝統を感じる。
 Popular Scienceというのは、裾野が広くて
初めて強くなるものなのだろう。
 日本のメディアは良くも悪くも情緒的
である。

 二年いたのだから、M11から
Cambridgeshireという標識を見て、
そこからTrumpington
Streetへと入っていくとやっぱり懐かしい。
 すぐに同じpostdoc仲間だった
Adar Pelahに電話し、打ち合わせ。
 AdarはYork大学にも職があるが、ケンブリッジ
郊外のGrantchesterに住んでいる。 
 それから、良く行っていたRegent Streetの
インド料理屋へ。
 ホテルに帰ってきて、
柳川透のSociety for Neuroscience
のabstractを書くと、もうグロッキーである。

 Black Adder IIIの再放送をやっていたので
見たが、いつの間にかねむっていて、
こちらの午前3時過ぎという変な時間に起きる。
 ちょっと風邪気味で、睡眠時間をとった
方がいいに決まっているので、
 少し仕事をしてからまた眠ることに
する。

 ホテルの向かいのChemistryの建物
の灯りはまだついていた。

5月 12, 2005 at 12:25 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/11

石とabstract

今、成田空港。父から電話あり、母はそのあと
痛みがとれてぐっすり眠ったという。
人騒がせな石である。

NEXの中ではモバイル社会に関する原稿を
仕上げておくり、その後Society for Neuroscience
のabstractを書いている。二件終わって、
あととりあえず二件は書かなければならない
予定。
イギリスに持ち越すかもしれない。

睡眠不足のせいか、周囲にへんなものが一杯
ある気がする。
空港ターミナルビルの
薬局の前で。二人の店員が「いらっしゃいませ〜」
と嗄れた声で言っていたので、へんだなあーと
思った。妖怪の声の録音に聞こえるのだ。

ところが、目薬を買ったら、普通の若い女の
声だった。

店を離れると、また妖怪の声が聞こえてきた。
向こうが変わっているのか、こっちの
アタマが変なのか判らない。
SfNのabstractはきっとちゃんと書けている。

BA006は睡眠のためのゆりかごである。

5月 11, 2005 at 09:29 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

なぜナショナリズムは相互理解されないか

茂木健一郎 
なぜナショナリズムは相互理解されないか
「中央公論」2005年6月号 p.76-p.83

http://www.chuko.co.jp/

5月 11, 2005 at 03:39 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

大学授業休講のお知らせ

2005年5月11日(水)早稲田大学国際
教養学部 Introduction to psychology

 2005年5月12日(木)聖心女子大学
臨床心理学特講18

 2005年5月12日(木)東京芸術大学
美術解剖学

は休講とさせていただきます。

 来週のそれぞれの授業は予定通り
行われます。
 2005年5月19日(木)の東京芸術大学
美術解剖学
 の授業は、束芋さんをゲストにお迎えして
お話いただく予定です。

5月 11, 2005 at 03:34 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

サンゴの産卵

石が動いたらしく、また痛がっている
という父からの連絡を受けながら、
 とりあえず今朝は成田に向かう。

 MRCPはとったようだから、
確定診断は出て方針は決まるだろう。
 それほど難しい手術ではないわけだから、
うまくいく、と信じて仕事を
することにする。

 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」
の中で好きなエピソードがある。
 第二次大戦後、大学に就職したファインマンは、
「この日までにいらしてください」と事務に
言われて、到着の朝、受付に着くなり
「授業はどこですか? 何時からですか?
教室はどこ?」と聞いた。
 受付の人が、ぽかんとして「あの、授業は
一週間後からですけど」と言うので、
ファインマンが「じゃあ、なぜ今日までに
来るようにと通知が来たのですか?」
と聞くと、受付の人が、済まなそうに
 「授業が始まるまで、一週間くらい
落ち着く時間が必要だと思ったものですから・・・」
と言ったというのである。

 つまり、ファインマンはそれまで原爆開発の
マンハッタン計画の中で、時間に追われて
一分一秒を惜しむ雰囲気の中で生きてきたから、
世間の「普通」の時間感覚を忘れていたという
わけである。

 なんだか慌ただしくて時間がない、
というのは人工的で非人間的のようにも
思えるけど、
 実は自然の中には「締め切り」が
あふれている。
 サンゴが満月の夜にいっせいに産卵したり、
夕暮れ時のわずかな時間に飛び立って
パートナーを探したり、
 「ある一定の時間にやらなくては、
生命活動としての意義が失われる」
ということは、沢山ある。

 だから、締め切りとか、
時間に追われるというのはそんなに
悪いことでもないんだ、
 そう思いたい。あまりにも無茶苦茶だから。

 飛行機の中では爆睡して行こうと
思う。
 18日朝、9時頃帰国します。
メールは読めると思います。ごきげんよう。

5月 11, 2005 at 03:30 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/05/10

「脳と創造性」刊行記念講演会

Lecture Records

「脳と創造性」刊行記念講演会
三省堂神田本店 20050510

「モーツァルト問題」
人と作品になぜギャップがあるのか?

天才の創造のプロセスを脳の働きから探る

+質疑応答

音声ファイル(MP3, 30.4MB 66分)

http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/lectures/braincreativity20050509.MP3

5月 10, 2005 at 09:09 午前 | | コメント (0) | トラックバック (9)

しばしの弛緩

 奇跡的なことだけれども、
2日間で
増田健史の120枚は終わって、
 筑摩書房に送った。
 ちゃんと、全体の原稿を読んで
コンシステンシーもとれたのだから、
信じられない。
 見舞いにも行ってのことである。
 こんなペースで仕事をしていたら、
もの凄いことになるが、
 身体がもたない。
 何しろ、仮眠をとって午前2時30分に
おきて、
 それからずーっとである。
 時間が飛ぶ。
 
 ずっと緊迫して仕事をした後は、
ぼうぜんとするもので、
 いつもは本を読んだりする
電車の中も、何もしなかった。
 
 やや約束の時間から遅れて、
ギャラリー小柳へかけつける。
 桑原茂一さんのdictionaryの企画で、
内藤礼さんと対談。
 吉村栄一さんも。
 
 終了後、神田に移動。
 和樂編集部の渡辺倫明さん
とお話する。
 渡辺さんは、白洲信哉の十年来の
友人だということで、
 夜になってシンヤから「ワタナベに
あったみたいだね」
とメールが来た。

 三省堂書店神田本店で、
「脳と創造性」の刊行記念講演会。
 45分で「モーツァルト問題」を論じて、
 そのあと希望された方の本に
サインとflower pigを書いた。

 放心亭でしばしの休息。
 あまりにもタイトな時間の流れだったので、
まさに放心である。

 ビールを飲んで、しばしの弛緩。
 増田健史、風邪気味にもかかわらず
現れる。
席順のせいで、
 PHP研究所の石井高弘さんと
きちんとしゃべれずに終わってしまった。
 石井さん、今度ゆっくり。

 今日は母はなんの処置もしなかった由。
 山場はイギリスに行っている間に
なりそうで、
 お守りを置いてきて良かったと思う。

5月 10, 2005 at 07:15 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/09

『脳と創造性』 講演会(本日)

茂木健一郎 『脳と創造性』 講演会

講演テーマ:脳と創造性−「この私」というクオリアへ
日時:5/9(月) (本日) 18:30開始〜20:00終了
場所:三省堂書店神田本店 8階会場 千代田区神田神保町1-1 
お申し込み方法:定員50名 要整理券、店頭でお問い合わせください
(お問い合わせTEL本店代表03−3233−3312)

http://www.books-sanseido.com/kanda_4/

5月 9, 2005 at 03:33 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

スポーツの輝きに託される思い

ヨミウリ・ウィークリー
2005年5月22日号
(2005年5月9日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第52回

スポーツの輝きに託される思い

一部引用

 それでも、スポーツが素晴らしいのは、ルールがルールとしてきちんと決まっていることである。どんなにエキサイトしても、ルールに従ってきちんとプレイしなければならない。悔しくても、負けは負け。試合終了の合図とともに、負けを認めて気持を切り替えなければならない。ルールが決まっているからこそ、私たちはそれを受け入れる。
 脳の働きから見れば、これは奇跡的なことである。情念に駆り立てられ、予測不可能なことをしてしまいそうになっても、有無を言わせぬ壁として、ルールが立ちはだかる。むしろ、ルールが不磨の大典として存在してくれているからこそ、私たちは安心して情念に身を任せることができるのである。
 少年時代、草野球をやっていて、試合に負けて悔しかった時も、「ルールだから仕方がない」と自分に言い聞かせることが、どれほど教育的なことであったか。当時はそんなことは思いもしなかったが、時に情念が暴走する現実世界の有り様を見ていると、スポーツの「発明」が人類にとってどれほど素晴らしい福音であったかと改めて思う。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

5月 9, 2005 at 03:30 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

聖地の森にて

 母、元気になってきた。
 しかし、今週に胆石除去の(内視鏡)手術が
予想され、
 山場はこれから。
 子供の頃蝶をおいかけた神社で、
「病気平癒」のお守りをもらう。
 考えれて見れば、あの神社の森は
私のものごころついた人生の
最初の日々を育んだ聖地である。

 Meanwhile 増田健史の原稿進める。
 こちらはdeadlineとの緊迫。 
これから仕上げにかかる。
 終わっても、
 他にもいろいろ仕事あり。
 とにかく走ります。
 自分の身体も気を付ける。 

5月 9, 2005 at 03:25 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/05/08

60

母、快方。
増田健史の原稿を60枚書いた。
イギリスへの出発は、とりあえず
11日朝にした。

5月 8, 2005 at 04:32 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/05/07

そして人生は続く

おかげで肝臓や胆嚢や胆管については
ずいぶん詳しくなった。

 それと、ふだん聞けないくらいたっぷり
音楽を聴いた。
 病院への行き帰りの車の中で、
CDを聴くからである。

 思わぬ形で塩谷のフォアグラが役に立った。

 私の畏友、「おしら様哲学者」塩谷賢は
脂肪肝で、大学時代の「ご学友」で、現在
東京大学医学部感染症内科にいらっしゃる
四柳宏さんを主治医としている。
 どういうご学友かというと、
合唱団で一緒だったのである。

 塩谷と合唱団仲間、それに私で、
何回も宴席をもったことがあり、
四柳さんとはその時面識がある。

 四柳さんは、肝臓の専門家である。
 そこで、塩谷を通して、今回の母の
病気について意見を伺った。

 さすがに専門家、大変参考になった。
 
 母は、GOTなどの数値も改善し、
大分元気になって来た。
 おそらく、胆石が詰まっていた場所を
外れて、総胆管内で「ぶらぶらしている」
状態だろうということで、
 週明け、その胆石を除去する
手術を検討する、というのが入院している
病院の主治医の方針なのだけれど、
 診断も含めて、ほぼ妥当だろう、と四柳
さん。

 セカンド・オピニオンというのが
これほど心強いものだとは思わなかった。
 統計的に言えば、N=2に過ぎないはずなのだが、
 うるしを二度塗りしたような心強さである。

 いずれにせよ、今週末は経過観察で、山場は
来週ということになったが、
 気が付いてみると、ストップしていた仕事が
大変なことになっている。
 特に、ちくまの増田健史との「男の約束」を果たす
ためには、2日間で120枚の原稿を書かなくては
ならない事態になった。

 母が闘病している間に、私は闘原稿である。
 間に合うかどうか定かではないが、ベストは
尽くさなければならない。
 それに、他の仕事ももちろん沢山あるのだ。

 ということなので、みなさん、しばらく陸沈します。
 探さないでください。

 母の総胆管の中の胆石がどうにかなるまでは、
いずれにせよ心が落ち着かない。

5月 7, 2005 at 04:20 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/05/06

闘病

「闘病」というのはうまく言ったもので、
まさに、本人にとってはもちろん、周囲の
人間にとっても一つの戦いである。

 母が入院して二日目。
 医者に情報をいろいろ聞くのは当然だけれども、
本屋に走ったり、インターネットで
検索したりする。
 A型肝炎だと聞けば、関連の事項を調べる。
 二日目の説明で、どうやら肝炎よりも
胆石の可能性が高いということになった。

 肝臓から十二指腸に胆汁を運ぶ総胆管
に胆石が詰まった「総胆管結石」である
可能性が、胆管が膨張している
などのCTなどの所見から一番
あるということで、
 内視鏡的胆道ドレナージ(ERBD)を
行うことを提案された。

 胃カメラのように、内視鏡を飲まなくては
行けないので、本人はいやがったが、
仕方がない。
 約1時間かかるという、その処置を
お願いした。

 ところが、胆管、膵管の出口である
乳頭部から、うまく管が挿入できず、
また造影剤を入れても、膵管の方にだけ
入って胆管の方に回らず、
 当初の目的を達することができなかった。

 総胆管結石は、合併症さえ起こさなければ
それほど心配することはないようだが、
 いざ、胆管の中の胆石を除去する
方策というと、
 これがなかなか難しいようで、
炎症が治まると自然に取れることが
あるとも言うけれど、
 まだまだ安心できない。

 本人が苦しい、というのは
もちろんだけれども、
 闘病の切なさ、というのは別の
所にもあって、
 例えば治療で行う処置(内視鏡的胆道ドレナージ)
が別の苦痛を与える、というのもそうであるし、
 総胆道結石の確定診断を与えると期待
されるMRCPが連休中はできない、
と医者に言われたのも切なさのもとである。

 胆石さえ外れれば、案外早く退院できるか
もしれないし、とにかく快癒を祈るしかない。

 祈りというのは、無力さの自覚だとすれば、
祈ることを知っている人の方が、
知らない人よりマシだ。

 ちっぽけな石が管に詰まっただけで
これだけの苦しみ、騒ぎになるのだから、
人間というシステムは実に繊細に出来ている。
 我々の意識など無力だ。
 脳なんて、結局、内臓に養われて
普段はいい気になっているだけなんだろう。
 そして、内臓は内臓で、微生物や
食物連鎖に養われている。

 その無力な意識を駆使して、病室や待合い室で
少しずつ仕事をした。
 すっかり予定が狂ってしまったけれども、
世の中の予定など知ったことじゃない。
 しかし、それだと迷惑を被る人もいるので、
なるべく迷惑をかけないようには努力はしている。

5月 6, 2005 at 04:33 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/05

母の入院

朝、父から電話があって、母親がお腹が痛いと
入院したらしい。
 医者の話によると、あまり状態が良くないと
いうこと。

 驚いて、車に乗って1時間30分くらいかかる
埼玉の実家のある市の市立病院に向かった。

 急性肝炎のようだった。
 GOTの数値が異常に高い。
 数日前に食べたカキが原因かも
しれないとのこと。

 A型の可能性があるが、B型、C型は
すぐに判定が出るけれども、
 A型は外部に委託して数日かかるので
まだ判らないとのこと。

 エコー検査では、胆石が見える以外は
特に問題はないが、
 胆石だけでGOTの数値があそこまで
上がるということは考えられないということ。
 劇症肝炎に進展した場合、命にかかわる。

 夕方になって、GOTなどの数値は
少し改善した。

 近くの本屋で肝臓病の本を買って読んだ。
 東南アジアに旅行して、A型肝炎に
かかった人の話が書いてある。
 GOTが2000台に上がって(通常は50台)
それが徐々に下がって、退院するまで
一ヶ月かかったとある。

 まだA型と決まったわけではないが、
ひょっとしたら一ヶ月かかるかも、と母親に
言ったら、
 そんなにいるのはイヤだと言った。

 早く回復してほしいが、もともと年齢的に
何があってもおかしくないゾーンに入って
来ている。

 行き帰りの車の中でJoan BaezやBachを聞きながら、
人間のmortalityということについて考えた。

5月 5, 2005 at 06:22 午前 | | コメント (3) | トラックバック (1)

2005/05/04

脳のモノカルチャー

大きな仕事を始めて、最初は大質量の機関車の
ごとくなかなか動かず、
 次第にスピードがついて、
やっと動き出すと、もうそのことしかできないし
考えられない。
 
 それはそれで良いことのように思える
けれど、一方でモノカルチャーだなとも思う。
 All work and no play...というのは
まさにその点を衝いている。
 何かに集中して、そればかり考えている
というのは良いことのようでもあるし、
 脳内の生態系がモノカルチャーになって
しまっていることでもあると思う。

 そんな時は、散歩が気散じである。
 きのう、近くの公園を歩いていたら、
今年初めてアカスジキンカメムシの
幼虫を見つけた。
 私の人生と「衝突」するまでは、
こいつは一体何をしていたのだろうと
考えると不思議である。

 昆虫と人間の最大の違いは、人間は
多くの文脈を引き受けることができる
ということで、
 だとすれば引き受けてしまえばいいんだと
思う。
 連休中で、アポイントメントもほとんどなく、
心おきなく仕事に集中してみると、
かえって普段人に次々とあってもみくちゃに
されている状況がなつかしくなる。
 あの時、私の脳は間違いなく様々な
文脈を経由して引き受けて鍛えられている
のだと思う。

 モノカルチャー的な時間の経過の
中で集中してやらなければできない問題は
間違いなくある。
 その一方で、さまざまな文脈を
経由していかないとわからないことも
ある。

 そんな風に人生のphase spaceを描いてみると、
やはりどうも時間が足りそうもない。

 連休明けからイギリスに行くことを
予定していて、
 イギリスの恩師のHorace Barlowに連絡を
とった。
 まだ元気だということだが、1921年生まれ
だからもう84歳である。
 メールを送る際に、どきどきするようになった。

 Horaceは去年も、Journal of Visionに
first authorの論文を出しており、
 チャールズ・ダーウィンのGreat-grandson
はまだまだ元気であるが、 
 10年、20年先はまさにわからない。

 Horaceと話したいことはたくさんあれども、
その文脈は普段日本で一生懸命やっていることと、
「科学」という文脈においては通じていても、
 その他の点では随分異なる。

 文脈を思い切って変えてみると、
普段自分がいる大きなモノカルチャーが
見えてくる。
 つまり、モノカルチャーといっても
実は階層的であるということであって、
地球周回軌道を外れた宇宙飛行士に
だけ見えたモノカルチャーもあったに
違いない。

5月 4, 2005 at 06:25 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/03

憲法と理想

 今日は憲法記念日で、新聞にたくさん
記事や意見広告が出ている。

 私の憲法に関する見解は、ヨミウリウィークリー
の連載(http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/yomiuriweekly/brainconstitutionsmall.jpg)でも書いたし、
先日の「広告批評」アンケート(
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/02/post_18.html)で
回答したのと、基本的に変わっていない。

 しかし、最近、あることを思うようになったので、
そのことを書きたい。

 私は自分ではいわゆる「愛国心」を持っている
と思う。
 何回も書いているが、伊勢神宮は大変好きだし、
本居宣長のやったことは文化勲章100個分くらいの
価値があると思う。
 その上で、現代の世に愛国心を説く人たちが
なんだかうさんくさく思えていた。
 その違和感の本質がどこにあるのか、
先日ふとわかった。

 それはつまり、現代の世の中において、
「愛国心」は果たして理想たり得るのかという
点にある。
 誰だって、自分のことや、自分の仲間は
大切にしたい。
 自分の家族や友人の幸福を願うのは
当然のことだろう。

 しかし、それは「理想」たり得るのか。
「私の理想は、私の仲間が繁栄して大成功する
ことです」という人がいたら、鼻白むだけだろう。
 だったら、愛国心もほどほどにしておくが
良い。
 日本人の愛国心の発露の結果が、中国や
韓国など、隣人にとっては不快や不幸を
意味するとしたら、
 きっとそれは「理想」とは違う。

 私は自分の人生において「理想」に殉じよう
と思っているから
 (「クオリア」問題の追及は、その一つの
軸であるけれども)、「愛国心」が理想
ではないとわかっている以上、「愛国無罪」などとは
唱えはしない。

 私の学生の関根崇泰などは、中国の反日運動に
かなり反発を感じていたようだが、
 私は関根にやさしく言ってあげたい。
 「君の言いたいことは判った。でも、それが
君の理想なのか。君は、中国に対する反発
をもとに生きていけば、それで満足なの?」
と聞いてみたい。
 
 理想としては、中国や韓国の人たちと仲良く
するのがいいに決まっている。
 自分と異質で、違和感を感じる他者ほど、
大切にすべきだ。
 その他者という鏡で、自分のことがよく
わかるんだから、感謝さえすべきだろう。

 養老孟司さんは、時々、「日本列島に住んでいる
人たちは、中国のやり方がいやになって逃げてきた
んだ」と言う。
 そうなんだろうと私も思うが、
だからこそその異質な中国の人たちを大切にすべきだ
と思う。

 憲法9条は、きっと一つの理想だったのであって、
国際政治のリアリティとか、普通の国家論とか、
そういうものとは関係がなかったのだろう。
 それだけ日本人は戦争にうんざりしていたはずだ。
 東京が大空襲を受けて、原爆を二発も落とされて、
うんざりしなければ不思議である。
 もちろん、自分たちがやったことに対する
反省もあったに違いない。

 だから、9条は、あの頃の理想であったことは
間違いない。
 理想として読めば、今でも立派である。

 私は上に引用した見解にもあるように、
憲法の「条文」の改正にはあまり関心がないし、
条文にこだわるのはできそこないの人工知能の
ようなものだと思っているが、
 9条が理想であることは、覇権国家アメリカも、
現実主義者のイギリスも、認めざるを
得ないんじゃないかと思う。
 もし日本が本気でその理想を唱えたら、
国際社会で随分尊敬されるんじゃないか。

 先日、芸大の授業で学生が現代美術を批判した
時に、内藤礼さんが「私はうつくしいもの、
それもかけねなしにうつくしいものを作ろうと
している」と言ったのはとても立派だった。

 現実は、言われなくても重々承知している。
だからこそ、美と真実を大切にしたい。
 憲法記念日に思うことはそんなことである。

5月 3, 2005 at 06:10 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2005/05/02

チョコレート巡礼

茂木健一郎 「おいしさの恵み」
第2回  チョコレート巡礼

http://web-en.com/column/0505/main2.cfm

5月 2, 2005 at 03:56 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

『脳と創造性』 講演会

茂木健一郎 『脳と創造性』 講演会

講演テーマ:脳と創造性−「この私」というクオリアへ
日時:5/9(月) 18:30開始〜20:00終了
場所:三省堂書店神田本店 8階会場 千代田区神田神保町1-1 
お申し込み方法:定員50名 要整理券、店頭でお問い合わせください
(お問い合わせTEL本店代表03−3233−3312)

http://www.books-sanseido.com/kanda_4/2005/04/post_cb2b.html

5月 2, 2005 at 03:48 午後 | | コメント (0) | トラックバック (1)

「集中」の恵み

昨日は午前6時に起きて、9月30日から
10月2日に台北で行われる
 International Conference on Neural Information
Processing (ICONIP)の、関根崇泰と
小俣圭との論文を「仕上げた」
 日記を書くのと朝食をとる以外は
ほとんどそれに集中して、
 まずは関根の論文を「仕上げ」、onlineで
投稿し、
 そのあと小俣の論文を終えて投稿しおわり、
ふーっとため息をついたのが
 午後2時だった。

 関根も小俣も優秀だが、英語で論文を書く、
ということに関してはまだ独り立ちという
わけにはいかない。
 ちゃんと「通る」ように修正し、完成した論文を
学習シグナルとしてなにがしかを感じて
もらうのも、大学院の指導教官としての
つとめである。
 もちろん共著者だから、別に不正
(ghost writing)をやっているわけではない。 

 何かに集中してやっていると、小学校の
時、学生科学展で自分だけ休日の学校に行って
理科の先生とずっと発表資料を作っていた
時のことを思い出す。
 小4の時、朝8時に学校にいって、そのまま
午後6時までやっていたことがあった。
 あのような時は、時間が白くなって飛ぶ。
 同時に、集中しないとたどり着けない
領域に行くことができるのも事実だと思う。

 インターネット時代の難点は、気が散る
ことである。
 ネットサーフィンなどは典型で、集中が
細切れで飛ぶ。
 時には、ネットを絶って、ずーっと集中しないと
脳が腐る。
 そうでなくては、行けない場所がある。

 もっとも、集中といっても、「この道一筋」
というのではいけない。
 適当に散らなければならない。 
 ベートーベンを聴けば判る。
 髪を振り乱して音楽に魂を捧げている
イメージがあり、実際にそうだったのだろうが、
曲想は飛びまくる。
 「第九」を聴けばわかる。これは一体
何なんだ、というくらい曲想があっちこっちに
行く。
 その脈絡のなさが、最後の合唱まで、ちゃんと
一つの生命体になっているところが
天才の天才たる所以である。

 ネット・サーフィンの気散じは外部から誘因
されたものだが、
 ベートーベンのは内発的である。
 内発的な気散じをしつつ、ぐっと集中するのが
良い。
 今日も仕事に一山あるので、ぐっと集中しようと
思う。

5月 2, 2005 at 06:04 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/05/01

社会的哺乳類であること

先日、早稲田の国際教養学部での
授業の時に、 
 人間はなぜ「心の理論」を発達させたのか
という話になって、
 それはきっと人間が哺乳類であることと
関係があるだろう、と言った。

 生物には、「他者」を強烈に必要とする
局面がいくつかある。
 まず絶対なのは、有性生殖のパートナー
探しである。
 哺乳類には、さらに、誕生後しばらくは
「保護者」に育ててもらわないと生きてはいけない
という事情が加わる。

 いつもはミルクをくれる母親が、
たまにミルクをくれない。
 その時、はじめて、他者が自分の延長や
道具ではなく、まさに独自の心を持った
「他者」なのだ、ということに気付く。
 そこから「心の理論」が始まる。

 人間には、さらに、社会的生存ということが
ある。
 自然環境との戦いにはほぼ勝ってしまったので、
「ひょっとしたら生きていけないかもしれない」
という恐怖は、多くは社会的文脈で起こる。
 「心の理論」が切実なものになるはずである。

 先日、清原が500号ホームランを打ち、
「敵地」の広島のファンからも満場の祝福を
受けているのを見て、
 さぞや本人もうれしかったろう、いいシーン
だなと思った。
 一歩引いて考えてみれば、あれも社会的哺乳類
ならではである。
 自分の生存に他者を切実に必要としない
生物だったら、
 他人が拍手しようが拒絶しようが、
きょとんとしているだけだろう。

 人から褒められたい、喝采されたい、
という承認欲求が強すぎて、むき出しになっている
人はつらいものであるが、 
 それもミルクをくれと泣く新生児と
同じことかと思うと、
 なんだか切なくなってくる。

 ギリシャ神話では、世界から見捨てられた
主人公たちは、
 ゼウスがあわれんで空の星座に
してくれるわけだが、 
 そのような承認の形而上学も実は
その起源において乳臭いものだと
思うと、そこに現れている
真実が味わい深い。

5月 1, 2005 at 06:28 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)