« セレンディピティと観察 | トップページ | 報酬の期待値に対して中立的な人間の行動について(Research) »

2005/04/30

衝突の中の文学

文學界 2005年6月号(2005年5月7日発売)

茂木健一郎 「脳のなかの文学」第15回
衝突の中の文学

一部引用

 約6500万年前、小惑星が地球に衝突し、恐竜たちが絶滅した。地球内部の地殻のひずみによる地震によってさえ、大変な災厄がもたらされるのである。ましてや、天文学的スピードで地球とは独立した運動をする天体が衝突した時の衝撃は、想像を絶する。絶滅は、地質学的に見ればあっという間に起こった。数ヶ月から数年、もっとも極端な学説では、数時間のうちに恐竜たちは死に絶えたとされている。その結果、古い世界は消えてしまった。廃墟の中から、新しい生物の種が次々に誕生した。その中に、私たちの祖先となった哺乳類たちがいた。(中略)
 衝突が風景を一変させるのは、天体現象だけの話ではない。惑い、流れ、うごめきながら生きる私たちもまた、衝突によって人生が一変することを、何度も経験している。「衝突」こそが、人生を描く文学の究極のテーマの一つだと言っても過言ではない。(中略)

 ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、団扇を額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い足袋の色も目についた。鼻緒の色はとにかく草履をはいていることもわかった。(夏目漱石『三四郎』)

 三四郎の人生の軌跡と、美禰子のそれが「衝突」するこの場面にこそ、『三四郎』という作品を成り立たせているものの全てがある。(中略)日本列島の上に固定された仮想の視点から、三四郎と美禰子を表す点の動きを見てみよう。三四郎を表す点は、ずっと熊本で動いている。美禰子のそれは、東京をさまよっている。そのままでは、二つの点はとても接近しようがない。
 やがて、三四郎の点が、日本列島を東に向かって移動し始めるのが観察される。移動の途中で、様々な点と衝突する。衝突した相手は、名古屋の旅館で同宿した女や、プラットフォームの「美しい」外国人のカップルや、それと知らずに出会った広田先生などである。これらの衝突も、三四郎の内部にそれなりの波紋を引き起こすが、熊本に置いてきた旧世界を絶滅させるまでには至らない。
 やがて、三四郎は大学に着く。午後四時頃、弥生門から理科大学に野々宮君を訪ねる。小使いが、「おいででやす。おはいんなさい」と言う。三四郎は、野々宮君に、光線の圧力の実験を見せてもらう。三四郎は、「光線にどんな圧力があって、その圧力がどんな役に立つんだか、まったく要領を得るに苦」しむ。言われるままに、望遠鏡を覗く。度盛りが動くのを見る。「丁寧に礼を述べて穴倉を上がって」外に出ると、まだ日はかんかんとしている。三四郎は、池のはたにしゃがむ。そこで、名古屋で同宿し、「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言われた女のことを思い出し、赤面する。ふと目を上げたところで、右に引用したように、美禰子に出会う。(中略)
 現実の世界は、三四郎の内面のドラマなどを顧慮してくれはしないはずだ。日本列島の上に固定された仮想された神の視点から見れば、上京し、理科大学の辺りをふらついていた三四郎が、美禰子というもう一つの「天体」に出会ったのは、全くの偶然に過ぎない。二人が出会ったのを必然と呼ぶならば、出会わなかった可能世界もまた同じ権利を持って必然であったはずである。現実世界の軌跡と、可能世界の軌跡は、同じくらい神に愛されている。どちらが起きなければならないという理由はどこにもない。野々宮君がもう少し三四郎を引き留めておけば、衝突は起きなかった。美禰子が、病院に見舞いに来なければ、三四郎が見上げた時、そこにあるのは丘と、池と、高い崖の木立で、はでな赤煉瓦のゴシック風の建築だけだったろう。迷い羊(ストレイ・シープ)は生まれなかったかもしれないのである。
 しかし、実際には三四郎は美禰子に出会ってしまったのであり、衝突は波紋を拡げてしまったのである。『三四郎』は、全体としてこのファースト・インパクトの余波を追った作品であると言っても良い。三四郎の人生という惑星に落ちた超弩級の小惑星がもたらした波紋を、漱石は丹念に追ったのである。

全文は、「文學界」6月号で。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm

4月 30, 2005 at 07:55 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 衝突の中の文学:

コメント

コメントを書く