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2005/04/10

それがなにものか判らないけれども

事故や何かのときに時間がゆっくり
感じられるというのは本当である。
 ひさしぶりにまとまった距離を走って、その
中盤、
 木の根に足をとられて転んだ。
 
 ただし、飴のように延びるわけでは
ない。
 物理的時間の流れが変わるわけではない。
刻みが細かくなる感じである。
 ゆったりと現象学的にふり返りながら
走り続けた。

 中国と台湾だったら、台湾の方がひいきに
決まっている。
 現在来日中のダライ・ラマには
ようこそ、と言いたい。
 単に、大きいものよりも小さいものを
サポートする、判官びいきだけかというと
それだけではない。

 中国の中にも、なにしろ、10億人もいるんだから、
自分に100%の正義がある、と疑うことを
知らないナショナリズムを、ちょっとそれは
どうなのか、と感じている人たちはいるはずだ。
 日本が朝日新聞や産経新聞だけではないのと
同じことである。

 国旗や国歌といった、わかりやすいシンボルに
足をとらわれてしまう人たちは、日本にだっている。 
 「愛国心」という、記号化されたもの
などは本当じゃない、と心ある人は
判っている。
 伊勢神宮の内宮を見たときに、存在を
揺さぶられ、深く感動するのは、
 それに名前を付けることができないからである。
 「日本」だとか「神」だとか、そんな
名前をつけて済ますことができるもんで
満足できる人は、気をつけないと
自動人形になってしまうのではないか。

 イデオロギーがダメだった根本的な
理由は、それが記号から自動人形への
ダイナミクスを促すからだろう。

 そんな中、なぜ台湾やチベットの人たち
に好意を持つかといえば、
 彼らが少なくとも国家、という制度に
ついてはオバハン的100%自己肯定に
とどまることはできないからである。
 チベットは華人がどんどん入り込んで
しまって無茶苦茶になっているし、
 台湾だって、国家の将来をおもえば
いろいろ悩んでしまう。
 そういう立場に置かれた人たちの方が、
「オレの立場は絶対正義だ」
という記号ー>自動人形の人よりも、
きっと伊勢神宮の深遠に近いところに
いられるのではないかと思う。

 ナショナリズムの問題に限らない。
名前をつけて満足しているようじゃダメだ。
 
何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる

と西行も詠んでいるじゃないか。

 本当は、木の根に転んで倒れるまでの
短い時間の間に以上のことを考えのなら
良かったのだけど、そうではありません。

 そういえば、昔トルストイの民話に
木の根を食べてお腹の痛いのを治すという
のが出てきて、その木の根がおいしそうだった。
 今度、走りながらおいしそうな根を探して
見ることにしよう。

4月 10, 2005 at 06:48 午前 |

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» ダライ・ラマ 日本の報道規制? トラックバック GAKUMON
 どうも日本は嫌われている。日本だけでなく隣国と仲の悪いところは意外と多くて日本の場合、それがまた強烈というか、相手が悪すぎる感じもする。 さて、今チベット仏教の精神的指導者であるダライ・ラマ法王が来日されている。心から現在来日中のダライ・ラマにはようこそ、と言いた... [続きを読む]

受信: 2005/04/10 12:41:37

コメント

茂木さん 時々こけますね
こけるときって 普段1秒ごとしか刻んでない記憶が100分の1秒まで刻むぐらい あれこれ考えれます 
でも 先日 肋骨折ってますが
おいしそうな根っこありますよ
桜も立派だけど 手入れされた根っこは
もっと立派です
http://sakura.tokai-pro.com/neo.php

投稿: | 2005/04/11 22:28:36

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