私が生きた時間はどこに行ってしまうのか
文學界 2005年5月号(2005年4月7日発売)
茂木健一郎 「脳のなかの文学」第14回
私が生きた時間はどこに行ってしまうのか
一部引用
内藤礼や堀江敏幸の作品世界は、大きな力、ともすればある特定の文脈を人間に押しつける粗暴なものに対する最良の美的抵抗なのだろう。そればかりではない。どうすることもできない時間の流れという、人間存在の絶対条件に対する、ささやかでしかし力強い対処でもあり得る。
どうしてそうなったか、彼は自分でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女の足もとへ突き飛ばされたような気がした。彼は泣きながら、彼女の膝を抱きしめていた。最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真っ蒼になった。彼女はぱっと立ち上がって、ぶるぶるふるえながら、彼を見つめた。だがすぐに、一瞬にして、彼女はすべてをさとった。彼女の両眼にははかり知れぬ幸福が輝きはじめた。彼が愛していることを、無限に彼女を愛していることを、そして、ついに、そのときが来たことを、彼女はさとった。もう疑う余地はなかった・・・
ドストエフスキー『罪と罰』工藤精一郎訳
「罪」を償うための「罰」を受ける流刑地で、ソーニャの膝を抱きながら、ラスコリーニコフの魂は何をつかみ、どのような世界に接続したのだろう。
『罪と罰』の結末に近い、このきわめて印象的な場面で起こっていること。その、ソーニャにも、ラスコリニーコフにも、読者にも、そしてドストエフスキー自身にも完全には把握しきれない何らかの事態の進行を、「後悔」や「悔悛」、「罪」、「罰」といった大きな言葉によってでなく、ラスコリーニコフのまつ毛の間から流れる涙の粒や、ソーニャの髪の毛をなでる風や、読者の両眼に輝く光の粒子といった小さなものから掴もうとすること。そのようなささやかな試みこそが、「私が生きた時間はどこに行ってしまうのか」という人生の切実な問いについて考える一つの有効な方法なのではないかと、私は考える。
4月 7, 2005 at 06:58 午前 | Permalink
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