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2005/04/06

『新しい人間観の研究』の会

PHP研究所で行われた
『新しい人間観の研究』の会に呼んで
いただき、1時間喋る。

出席メンバーは、渡部昇一、土居健郎、谷沢永一、
木村治美、松田義幸の各氏。

そろぞれ大先生だけあって、ディスカッションの
時に、いろいろ
私の知らないことを教えていただいた。

例えば、渡部さんは、Aha! experienceは、
ドイツ語のAha-Erlebnisの方が早いんじゃ
ないか、とか、戦前の日本の辞書には、
ちゃんとconstitutionのところに
written constitutionとunwritten constitution
の別が書いてあったとか、戦前は
ブレンターノからマルティーに至る思想の
流れが随分人気があったものだがとか、
マズローはsafe baseのことをfeeling of security
と言っていたはずだとか、いろいろ
指摘下さった。
岡潔も、「創造は想起に似ている」と言っている
そうである。

谷沢さんは、「漢語」というのは翻訳されると
一人歩きする。憲法というのもそうだし、
哲学というのもそうで、西周が「哲学」
という言葉を作ると、ああ日本には本当の
哲学がない、などと深刻に悩む人たちが
出てくる、などと含蓄に富んだ話を
してくださった。

土居さんと言えば「甘えの構造」であるが、
学識は大変に広く、落ち着いた声で
鋭い指摘を下さった。

木村さん、松田さんの話も心に残った。

「末席を汚す若造」モードというのは実に
楽しいものである。
 「末席を汚す若造」モードの
時間がもっとあれば良いのにと思う。

最後に、渡部さんが、『脳と仮想』を取り上げて、
小林秀雄の思想の意義をこのような形で
議論しているのは、説得的であった、
と言っていただいたのがありがたかった。

PHP研究所が用意してくださった
帰りの
タクシーの中で思ったこと。

ケンブリッジの恩師Horace Barlowが、
大切なことをあまり言わなかったのは
なぜだろう。
およそ思想や哲学に類することは
あまり口にしない。
科学とはなんぞや、などということは
およそ言わない。
ただ黙々と現実的な行為やアレンジメントをする。
こいつに会え、この会議に行け、
などとサジェストする。
ディナーをアレンジする。
気がつけば、その現実的な行為やアレンジメントを
結ぶ線上に、言わずとも思想が浮かび上がってくる。

あの叡智は何なのだろう、と思いながら、
いつのまにかそのような人生の処し方に
親近感を持ち始めている自分に気がつく。

がたがた言うんじゃない、ただ、
黙ってやればいいんだよ。
ただし、考えないで手だけ動かせ
とかいう、
日本の研究者にときどきいる気持ち悪い
やつらのことを言っているんじゃないぞ。

最高の教養を身につけ、もっとも深い思想を
抱け。
ただし、作品として世に問う時以外は、
黙って日々の行為をせよ。
その行為の包絡線上に、その叡智がシミジミと
にじみ出てくるようにせよ。

そして、いざ思想や哲学の言葉を吐くときは、
命がけでそれに寄りかかれ。
そして、さっと忘れちまえ。

うん、人生はきっとそうだ。

タクシーのラジオからはナイター中継が
流れていて、
巨人がまた負けそうだった。

4月 6, 2005 at 05:54 午前 |

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コメント

うん、そうだと思う。

Media artのようなメタファーじゃなくて、
むしろ一見古くさいメタファー、しばらく
ひっくり返されていない小石の下に
隠れているメタファーの中に、
とろさんの言っているようなことと
つながるものが隠れているように
思います。

投稿: | 2005/04/07 6:59:58

> その行為の包絡線上に、その叡智がシミジミと
> にじみ出てくるように

 いいですね。

 表現行為というのは、それをおこなう人と外界との境面で起こる
浸透圧の問題であるはずで、にじみ出てくるという言葉はなんだか
とてもしっくりくる感じがします。作品を発表するというのとは少しちがう。

 “expression”と“presentation”、そこにある微妙なずれの
重みをどう捉えるのかというあたりがどうにも今は見過ごされがちで、
そのことがたとえば現代芸術全般において、もてはやされる作品に
ありがちな皮相感に通じているようにも思うのです。

 いかがでしょう。

投稿: とろ | 2005/04/06 7:27:28

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