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2005/04/30

局所的メカニズムがグローバルな適応を支える(Research)

Spatio-temporal dynamics of the visual system revealed
in binocular rivalry.
Taya, F. and Mogi., K. Neuroscience Letters, in press.

田谷文彦(ソニーコンピュータサイエンス研究所、大阪大学)
茂木健一郎(ソニーコンピュータサイエンス研究所、東京工業大学)

 両眼視野闘争は、左の目と右の目から異なる刺激を入れた際、意識の中でそのどちらかが優先される現象であり、能動的視覚(active vision)のメカニズムや、意識の中で様々なクオリアが感じられるプロセスについて深い洞察を与えると考えられている。
 従来、両眼視野闘争の研究は、視野中の狭い領域内での二者択一的な条件下で行われることが多かった。今回、田谷と茂木は、動く円の刺激を用いた際の両眼視野闘争について、「時空間サンプル法(spatio-temporal sampling method)」という新しい手法を用いて、眼優位性(ocular dominance)が変化する様子の時空間パターンを再現することに成功した。
 得られた時空間パターンは、あたかも円の動きを予言するかのような複雑な適応的振る舞いを見せる。その一方で、眼優位性の時間変化は、円の動きに先立つのではなく、むしろ少し遅れて現れることが明らかになった。
 このような、一見矛盾するかに見える現象の背景にある神経機構を明らかにするために、単一の動く円を提示した時の局所的な目立ちやすさ(saliency)に基づくモデルから、複数の円を提示した時の眼優位性の振る舞いがどの程度予測できるかを検証した。その結果、円の複雑な動きに合わせ、高度の適応を見せているかに見える眼優位性の時空間パターンは、局所的なメカニズムの積み重ねで説明できることがわかった。
 両眼視野闘争は、大脳皮質の限られた計算資源を競合する刺激に対して割り当てるプロセスであると考えられる。今回、一見複雑な適応性が局所的なメカニズムの積み重ねで説明されることが明らかになったことは、能動的視覚(active vision)の研究だけでなく、意識の神経機構の謎にも多くの示唆を与える。

pdf file

http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/publications2005/tayamogi2005a.pdf

4月 30, 2005 at 01:54 午後 | | コメント (3) | トラックバック (0)

報酬の期待値に対して中立的な人間の行動について(Research)

DYNAMICS OF BETTING BEHAVIOR UNDER FLAT REWARD CONDITION
Onzo, A. & Mogi, K. International Journal of Neural Systems. 15, 93-99. (2005)

恩蔵絢子(東京工業大学、ソニーコンピュータサイエンス研究所)
茂木健一郎(ソニーコンピュータサイエンス研究所、東京工業大学)

 生物の脳にとって、食物などの報酬をどのように得るかということは、重要な課題である。従来、「強化学習」(reinforcement learning)などの理論を通して、報酬を得るために脳が発達させてきた認識、行動のメカニズムが明らかにされてきた。
 一方、現実の多くの状況下では、報酬関数は必ずしも明らかではない。それでも生物は何らかの行動を取らなければならない。このような認識の下、不確実性の存在下で、人間がどのように判断し、行動するかを研究する神経経済学(neuroeconomics)の研究が、近年注目されてきた。
 恩蔵と茂木は、被験者がどのような行動をとっても、期待される報酬は一定であるという「平坦報酬条件」(flat reward condition)の下での人間の行動についての実験を行った。行動にかかわらず期待される報酬は一定であることから、外的報酬だけでは最適な行動は定義されない。行動選択がランダムになる可能性も示唆されるが、実際には、人間の行動は過去の履歴を反映した、特定の傾向を示すことが判った。被験者の多くは、自分がそのような行動をとっていることに対して意識的ではなかった。
 平坦報酬条件下での行動パターンに、大きな個人差があることも見出された。これらの結果は、外的な報酬条件と緩く絡み合う、脳内の報酬系を中心とする内部ダイナミクスを反映していると考えられる。
 「どの売り場で宝くじを買うか」「どの銀行に預金するか」など、我々の日常生活の中には、報酬の期待値がほぼ一定であるにもかかわらず、人々がランダムではない行動パターンをとる事例が多く見られる。今回の結果は、このような平坦報酬条件下での人々の意図的振る舞いを支える神経機構についての示唆を与えるものと考えられる。
 木村資生が「分子進化の中立説」で明らかにしたように、適応度と弱い結合しかもたないダイナミクスが、進化の上で重要な意味を持つことがある。脳の感情のダイナミクスの進化においても、中立的属性が重要な意味を持つかもしれないことを、本研究は示唆する。

pdf file
http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/publications2005/onzomogi2005a.pdf

4月 30, 2005 at 01:49 午後 | | コメント (1) | トラックバック (1)

衝突の中の文学

文學界 2005年6月号(2005年5月7日発売)

茂木健一郎 「脳のなかの文学」第15回
衝突の中の文学

一部引用

 約6500万年前、小惑星が地球に衝突し、恐竜たちが絶滅した。地球内部の地殻のひずみによる地震によってさえ、大変な災厄がもたらされるのである。ましてや、天文学的スピードで地球とは独立した運動をする天体が衝突した時の衝撃は、想像を絶する。絶滅は、地質学的に見ればあっという間に起こった。数ヶ月から数年、もっとも極端な学説では、数時間のうちに恐竜たちは死に絶えたとされている。その結果、古い世界は消えてしまった。廃墟の中から、新しい生物の種が次々に誕生した。その中に、私たちの祖先となった哺乳類たちがいた。(中略)
 衝突が風景を一変させるのは、天体現象だけの話ではない。惑い、流れ、うごめきながら生きる私たちもまた、衝突によって人生が一変することを、何度も経験している。「衝突」こそが、人生を描く文学の究極のテーマの一つだと言っても過言ではない。(中略)

 ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、向こう側が高い崖の木立で、その後がはでな赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光をとおしてくる。女はこの夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでいる低い陰から見ると丘の上はたいへん明るい。女の一人はまぼしいとみえて、団扇を額のところにかざしている。顔はよくわからない。けれども着物の色、帯の色はあざやかにわかった。白い足袋の色も目についた。鼻緒の色はとにかく草履をはいていることもわかった。(夏目漱石『三四郎』)

 三四郎の人生の軌跡と、美禰子のそれが「衝突」するこの場面にこそ、『三四郎』という作品を成り立たせているものの全てがある。(中略)日本列島の上に固定された仮想の視点から、三四郎と美禰子を表す点の動きを見てみよう。三四郎を表す点は、ずっと熊本で動いている。美禰子のそれは、東京をさまよっている。そのままでは、二つの点はとても接近しようがない。
 やがて、三四郎の点が、日本列島を東に向かって移動し始めるのが観察される。移動の途中で、様々な点と衝突する。衝突した相手は、名古屋の旅館で同宿した女や、プラットフォームの「美しい」外国人のカップルや、それと知らずに出会った広田先生などである。これらの衝突も、三四郎の内部にそれなりの波紋を引き起こすが、熊本に置いてきた旧世界を絶滅させるまでには至らない。
 やがて、三四郎は大学に着く。午後四時頃、弥生門から理科大学に野々宮君を訪ねる。小使いが、「おいででやす。おはいんなさい」と言う。三四郎は、野々宮君に、光線の圧力の実験を見せてもらう。三四郎は、「光線にどんな圧力があって、その圧力がどんな役に立つんだか、まったく要領を得るに苦」しむ。言われるままに、望遠鏡を覗く。度盛りが動くのを見る。「丁寧に礼を述べて穴倉を上がって」外に出ると、まだ日はかんかんとしている。三四郎は、池のはたにしゃがむ。そこで、名古屋で同宿し、「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言われた女のことを思い出し、赤面する。ふと目を上げたところで、右に引用したように、美禰子に出会う。(中略)
 現実の世界は、三四郎の内面のドラマなどを顧慮してくれはしないはずだ。日本列島の上に固定された仮想された神の視点から見れば、上京し、理科大学の辺りをふらついていた三四郎が、美禰子というもう一つの「天体」に出会ったのは、全くの偶然に過ぎない。二人が出会ったのを必然と呼ぶならば、出会わなかった可能世界もまた同じ権利を持って必然であったはずである。現実世界の軌跡と、可能世界の軌跡は、同じくらい神に愛されている。どちらが起きなければならないという理由はどこにもない。野々宮君がもう少し三四郎を引き留めておけば、衝突は起きなかった。美禰子が、病院に見舞いに来なければ、三四郎が見上げた時、そこにあるのは丘と、池と、高い崖の木立で、はでな赤煉瓦のゴシック風の建築だけだったろう。迷い羊(ストレイ・シープ)は生まれなかったかもしれないのである。
 しかし、実際には三四郎は美禰子に出会ってしまったのであり、衝突は波紋を拡げてしまったのである。『三四郎』は、全体としてこのファースト・インパクトの余波を追った作品であると言っても良い。三四郎の人生という惑星に落ちた超弩級の小惑星がもたらした波紋を、漱石は丹念に追ったのである。

全文は、「文學界」6月号で。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm

4月 30, 2005 at 07:55 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

セレンディピティと観察

最近、「観察」(observation)
ということが面白くなって、 
 電車に乗った時など、人の動きなどを
じっくり見ることがある。

 大学院に入った時、指導教官だった
若林健之さんに、科学者というのは
何を観察して研究ノートに書くかが全てだと
教わった。

 だから研究ノートには良いものを使え、
と言われた。
 若林さんは、ケンブリッジのMRCに
留学していて、
 その当時からの慣習で黒と赤の背表紙の
ノートを使っていた。
 数年後、私自身がケンブリッジに留学すると、
みんなこのノートを使っていた。
 読売新聞の「著者来店」の写真で
私が持っているノートがそれである。

http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20050426bk01.htm 

Black n' Red といって、
イギリスでは文房具店で普通に手に入れることが
できる。

 「観察」というのは、つまり、自分の主観では
用意できないものを外から取り入れる行為である。
 だとすれば、当然「セレンディピティ」(serendipity)
(偶然幸運に出会う能力)と関係する。
 セレンディピティという概念を思いついたのが、
「経験主義」の国、イギリスのHorace Walpole
であることには深い含意がある。
 自分の思いこみにとらわれて、虚心坦懐に
観察することを知らない人にはセレンディピティは
訪れない。

 観察といっても、必ずしも外部から入力する
刺激だけが対象ではない。
 時には、自分の内部状態(ちょっとした引っかかり
や、違和感、うれしさ、希望、記憶、etc.といった
感覚)を観察することも、同じくらい
重要になる。
 
 こう考えてみると、「観察」という
こと、あるいは「経験主義」ということの
潜在的意味は存外広い。
 経験主義対観念論の対立的図式で
片づけられることではない。

 ここのところ、夏目漱石の『三四郎』が
好きで仕方がないのだが、
 読み返してみると漱石が観察の人だったことが
よく分かる。

4月 30, 2005 at 07:41 午前 | | コメント (4) | トラックバック (2)

2005/04/29

内藤礼 東京芸術大学 特別講義

Lecture Records
内藤礼 美術解剖学 特別講義 
東京芸術大学 2005年4月28日

85 minutes. MP3 file. 38.9MB

http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/geidai2005/reinaitogeidai20050428.MP3

4月 29, 2005 at 09:32 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

歴史的瞬間

 内藤礼さんは、シャイな方で、
大学でレクチャーするというのは
初めてだということで、
 昨日はまさに歴史的瞬間だった。

 第3講義室を埋めた120名以上の
学生たちも、きっと満足したことだと
思う。

 内藤さんのすごいのは、繊細で、
傷つきやすく見えながら、
 実は強靱で揺るがないものを内に
秘めていることで、
 それは質疑応答を聴けば明らかだと
思う。
 
 精緻で磨き上げられた言葉をもって
細い線を描きつつ、
しかししっかりと本質を織りなす太い線も
視野の中にとらえている。
 類い希な人である。
 
 歴史的瞬間に立ち会えたことを
幸運に思う。

 終了後、恒例により、東京都美術館前
あたりの公園でカクテルタイム。
 昨日は風も涼しく、さわやかで、最高だった。

 講義前、蓮沼昌宏、植田工、杉原信幸、藤本徹の
「芸大美術解剖学4人組」は、特別に
内藤さんと昼食会を持った。
 ああいうのは絶対に良いeducationである。
 場所をとってくれた藤本くん、ありがとう。
 
 内藤レクチャーにはいろいろな人が
来た。
 ギャラリー小柳の深澤千絵さん、MCプラニングの
薄羽美江さん、美術評論の橋本麻里さん、電通の
佐々木厚さん、東大広域科学の池上高志、鈴木健、
布施英利さん、「もう一つの万博」の渡辺真也さん、
その他。。。

 授業終了後、教室で、公園で、
内藤さんはずっと学生たちに囲まれて大変だったと
思う。
 内藤礼さん、本当にありがとうございました。

4月 29, 2005 at 09:29 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Introduction to Psychology. Lecture 3

Lecture Records

Ken Mogi
Waseda University
Introduction to Psychology

Lecture 3 Social Cognition. The Mirror test. Small world network.
(27th April 2005)

90 minutes. MP3 file. 41.2MB

http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/waseda2005/psychology20050427.MP3

4月 29, 2005 at 09:28 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/28

本日 美術解剖学 内藤礼 特別講義

本日 美術解剖学 内藤礼 特別講義

2005年4月28日(木)本日!!! 
午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

(美術解剖学の履修生でない方もどうぞご参加
ください)

お問い合わせは、茂木健一郎
kenmogi@qualia-manifesto.comまで。

ーーーーーーーーーーーーーーー
本日
聖心女子大学 臨床心理学特講18
(第三回)
心の理論を中心とする社会的知性の復習、
身体性、アフォーダンス

4月 28, 2005 at 06:28 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

忙しさの内実

ここのところ、早稲田での授業の
前後にリーガロイヤルホテルで人と
お会いするのが通例となっている。
 昨日も、いくつかミーティングがあった。
いつの間にか、オフィスになっている。
 
 まずは
 東京財団の野崎裕司さん。
新しく立ち上がる「キャラクター創造力」
の研究会について。
 続いて、兵庫県保険医協会の
広川恵一先生と、高山忠徳さん。
 講演会について。
 最後に、フロンテッジの
三浦鉄也さん、永嶋英和さん。
 あるプロジェクトについて。

 人と会って話すのは、大変勉強に
なるので、楽しい。
 それぞれの人に、異なる
バックグラウンドと専門性がある。
 その中で、コミュニケーションを
とっていくということは、大変
脳に良い。
 
 しばらく前、確定申告の書類を
書いている時は空しかった。
 忙しいといっても、人に会って
話すので忙しいのはまだ良い。
 書類書きで忙しいのは最悪だ。
 脳に何も実質が蓄積して行かないから
である。

 結局、自分が興味があるのは絶えざる
学習だ、
 と気付いたのはどれくらい前のことだろう。
 本居宣長のもとに参集した商人たちが、
自分たちはさんざんあらゆる道楽をやって
きたが、
 いやあ、学ぶことほど楽しいことはない。
 こんなに面白い道楽があるとは
思わなかったと感嘆したと、
 小林秀雄が講演の中で言っている。

 昨日、広沢虎造の「清水次郎長伝」
のCDが安く売っていたので、一気に
9枚買ってしまったが(こういうのを
「大人買い」というのだろうか)
音楽プレーヤーにデータを移し、
 移動しながら、珠玉の名編
「石松金比羅代参」と「三十石船」
を聞くことを思うとわくわくする。

「飲みねえ、飲みねえ、寿司を食いねえ。江戸っ子だってねえ」
「神田の生れよ」 

 何回聞いても飽きない。
 虎造の天才の秘密を探ろうとすれば、
これほど奥深い学習の機会はない。

 学習というのは、別に答えの決まった
ドリルをなるべく早くやる、という
ことではなくて、
 人生の一回性の中、あっ、そうか、
と気がつく創造性もまた
 one-shot learningだというのが
最近の脳科学の成果である。

 だとすれば、学習機会など至るところに
転がっている。
 昨日も、野崎さんや、広川先生や
高山さんや三浦さんや永嶋さんに会って
話しながら、
 あるいは早稲田の学生とmirror testや
small-world networkの話をしながら、
 one-shot learningがたくさんあった。

 タダで世の中のことがだんだん判って
くるんだから、こんなに楽しいことはない。 
 その楽しさがもっと世間に文化として
伝われば、
 視聴率至上主義の民放の番組も
内容が変わってくるはずだ。

 視聴率至上主義は経済原理だから、
別に悪いこととは思わない。
 問題は、何を楽しいと思うかという
文化の方である。
 義務教育は誰でも受けるわけだが、
そこで、学ぶということは楽しいことだ
ということを教えることに失敗しているのだろう。

4月 28, 2005 at 06:23 午前 | | コメント (3) | トラックバック (1)

Assignment 1

Introduction to psychology.
(Waseda University)
Assignment 1
(to be handed in in the 18th May class)

List 10 examples of small-world networks.
(Use your imagination!)
On a A4 paper, write your
Name Student Number
and then
1.
2.
3.
......

(You have to just list the small-world network
examples. You need not give the reason why they are likely to be s.w.n.)

4月 28, 2005 at 05:56 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/27

Introduction to psychology. Lecture 3

早稲田大学国際教養学部
2005.4.27.(本日) 13:00〜14:30
7号館419教室

Introduction to psychology. Lecture 3.
The mirror test. Small world network.

Following the arguments about "theory of mind" last week, we look at the way the cognition of the "self" is formed through the interaction with others. We discuss the implications of the "mirror test" experiment conducted by Gallup. We also discuss the "small world network" concept as it is relevant to the self-nonself interactions in an internet era.

4月 27, 2005 at 06:33 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

見出しの問題

山手線のホームで、夕刊フジに奇妙な
見出しを見つけた
 「運転士、ゲーム脳か?」
とある。
 「か」は小さくなっている。

 買って読んでみたら、なんのことはない、
日本大学の森昭雄さんが「ゲーム脳の症状に
似ている」とコメントしていることだけを
根拠にした見出しだった。
 運転士がゲームを愛好していた、という
話でさえない。

 「おい、これひどいぜ」
と学生たちに社会勉強のために渡した。

 仕事をいくつか済ませて、再び駅で
キオスクを見たら、
 「運転士 異常行動」
と見出しが変わっていた。
 さすがに、夕刊フジ編集部もまずいと
思ったのであろう。
 あるいは抗議があったのかもしれない。
 私も、時間があったら編集部に電話して
「あれはちょっと・・・」と指摘しようと
思っていたところだった。
 夕刊フジの勇み足とメディアとしての良心
についてしばらく考えた。

 毎日、腹が立つこととか、いろいろあるが、
あまり気にしないようにしているのは、
つまりは理想に殉じたいからで、
 ノイズは理想と関係ない。
 世の中にはいろいろな考えの人が
いるわけで、 
 その中にはトホホもあるが、
それは生態系の豊かさの現れであって、
 そういうのをいちいちモグラ叩きしていると、
無菌状態を求める脅迫観念になりかねない。

 だから、あまり個々の事象に目をとらわれないで、
 自分の理想を追い求めるのが
吉である。
 そして、理想というのは別に言葉で書けるものでは
なくて、
 様々な行為の包絡線から次第に見えてくるもの
なのだろう。

 こんなことを書くのも、自分がむかっ腹を
立てるタイプだと判っているからで、
 いわば自己暗示のために書いているのである。

4月 27, 2005 at 05:55 午前 | | コメント (1) | トラックバック (2)

2005/04/26

美術解剖学 内藤礼 特別講義

2005年4月28日(木) 午後3時35分〜午後5時
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟
第3講義室(2F)

(美術解剖学の履修生でない方もどうぞご参加
ください)

お問い合わせは、茂木健一郎
kenmogi@qualia-manifesto.comまで。

4月 26, 2005 at 10:41 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

リゲインの新CM

リゲインの新CMにはびっくりした。
 最近のCMの中では、抜群にインパクトがあった。
 最初に見た時は、自分は一体どんな映像を見ている
のか、一瞬わからなくなった。
 リゲインのCMは、伝統的に新しい時代の
気分を定義するのがうまいと思う。 

http://regain.jp/jiten/cm/index.html 

4月 26, 2005 at 07:28 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

共苦(compassion)という原理

今回の尼崎の福知山線の事故のようなことがあると、
他の全てのニュースがぶっ飛んでしまう。
 あまりにも思いがけない事態に、
呆然として黙るしかない。

 「共苦」(compassion)とか、
「愛」(love)とか、
 そういうものを原理(principle)として
生きていれば、大体人間間違いない。
 東アジアというのは自分が生まれ育った所
ながら、奇妙な場所で、
 共苦とか愛の価値が文化として根付いていない。
 だから、中途半端な価値に目が眩んで
うろうろする人たちが出てくるわけで、
 プッチーニの『トゥーランドット』のラスト、
愛の原理で一撃されてしまうような隙
が生まれてしまうのである。

 道を説く人は多けれど、
一通り承った後で、
 お前の言いたいことはわかったけど、
 それがお前のプリンシプルだということで
いいんだな、と正面から目を見すえて
言ってやりたい。

 キリストという人が自然人として
本当にいたかどうか
判らないけど、
 絶対者である神がわざわざ人間の肉体を
帯びてこの世に生を受け、
 死すべき人間の苦しみを「十字架」という
究極の形で体験した、
 という「共苦」を基本に置いている
ところは宗教構造としてすごい。

 「共苦」をプリンシプルにおいていれば、
昨今の東アジアのようなことはないはずだ。

 一人一人が胸に手を当てて、
一体、生きていく上で大切な原理とは
何か、考えてみたらどうか。

 原理がしっかりしていないやつは、
どんなに饒舌で人生を泳ぐのが巧みでも、
結局人の心を深いところで動かすことが
できないと、最近つくづく思う。

4月 26, 2005 at 07:23 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2005/04/25

「劇場型」英語克服法

ヨミウリ・ウィークリー
2005年5月8−15合併号
(2005年4月25日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第51回

「劇場型」英語克服法

一部引用

 「あ」「い」「う」「え」「お」などの母音の数は、言語によって違う。アメリカの幼児を対象に、中国語にはあるが、英語にはない母音を教える研究が行われた。その結果、目の前で中国人の研究者がおもちゃなどで遊びながら発音してくれた方が、単にテレビで中国語の発音を聞くよりも、はるかに学習効果が高いということが明らかにされたのである。
 テレビからの映像と、生身の人間の差はどこにあるのだろうか? テレビからの映像は、ただ一方的に受け取るだけである。一方、現実に目の前で起こっていることに対しては、こちらから積極的に働きかけることができる。中国語の先生に向かって声を出したり、身体を触ったり、いっしょにおもちゃをいじったりすることができる。そのように、自分から能動的に働きかける可能性がある時、人間の脳はより活性化して、学習効果が高まるようなのである。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

4月 25, 2005 at 07:06 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

著者来店

昨日(2005年4月24日)の読売新聞
読書欄「著者来店」にて、「脳と創造性」(PHP研究所)
を取り上げていただきました。

http://www.yomiuri.co.jp/book/author/ 

にも、近日中に掲載されるものと思います。

文化部の待田晋哉さん、ありがとうございました。

4月 25, 2005 at 06:57 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

団まりなさんの家での田植え

承前。

 田植えをした。
 大場旦と並んで、苗を土中に差した。

 苗は、びっしりと密生したマットのような
形になっており、 
 それを適当な大きさにちぎって、まずは
田んぼのあちこちに投げておく。

 それから、適宜の間隔で苗を植えていく。
 これが、案外難しかったが、
 難しさは想像していたのと違う点にあった。

 まず第一に、田んぼの土の底というのは
均一ではない。
 かたいところもあれば、やわらかいところも
ある。
 かたいところで十分深く差さないと、
しばらく立って苗がふわっと浮いてきて
しまう。
 やわらかいところは、差しすぎて、
苗が濁った水に隠れて見えなくなる。

 自分の歩いた後の土面がぼこぼこの穴だらけ
になるというのも盲点だった。
 後ろずさりしながら植えていくと、
ぼこぼこになったところに植えるところに
なる。 
 うまく土が残っているところを探り当てて、
しかし、苗の配列の規則性をあまり壊さない
ように植えなければならない。

 ならば、前進しながら植えればいいでは
ないかということになるけれど、そうなると
苗を植えた後のエリアをうまく歩いていかなくては
ならないことになる。
 これはこれで難しい。
 
 だから、田植えは体重の軽い人の方が向いている
のだろう。
 田植え風景というと、女の人を連想するのは
そのためか。 

田植えをする大場旦(NHK出版、左側)
と茂木健一郎(右側)

 団さんの田んぼは、端の方がちょっと
他のところと違っていて、沼地のような底に
なっており、
 そこが格段に難しかった。
 植えても手応えがなく、ずぶずぶもぐって行く。
それでも、苗が余り気味だったので、
 なんとか植え終わった。

 田んぼも自然なのだから、
いろいろ予想外のことがある。
 それは下手なシミュレーションではとても
扱えないような複雑系である。 
 農業にたずさわる人が謙虚になるのは当然だ。

 田植えを終えた水田のさわやかな
希望に満ちた風景の味わいを知る。
 自分が植えればなおさらである。

 帰りの「さざなみ」で、大場旦とビールを
飲みながら
 よしなしごとを話し合った。
 考えてみると、大場旦とのつきあいも5年になる。
 今年は一冊予定しているので、時満ちれば
またもや
 怒濤の追い込みを覚悟しなければならない。

 田植えのようにひょいひょいと行きたい。
 収穫するには、植え付けなければならない。
 人生の一粒万倍日はきっと来る。

4月 25, 2005 at 06:51 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/24

「科学大好き土よう塾」収録

NHKで、
「科学大好き土よう塾」の収録。

 今回のテーマは、「ハイスピードカメラ」
久しぶりに中山エミリさんに会う。
 子供たちが交代して、美里さん、シオンくん、照也くん
の三人に。

 室山哲也さんは、春の野の若草のような
ベストを着ていた。
 収録を終え、
 テレビマンユニオンの花野剛一さんも
ほっとした様子。

 シオンくんが自分の顔をぴしゃりと叩いたのを
ハイスピードカメラで撮った映像が抜群に
面白かった。
 波動が、ほっぺたの上を伝搬していく。
 このような短い時間の事象は、私たちは
知覚できないし、
 それに対処するようには脳の神経系は
つくられていない。
 なすがままである。

 以前、BBCか何かで、
 テントウムシが葉っぱの上に落ちて、
跳ね返る映像を見たことがある。
 この時も、テントウムシは物理法則のなすがままで、
玉のようにくるくると回転しながら飛んでいった。

 きわめて短い時間の出来事に関しては、
生物の自律性はいわば封印されて、
私たちはなすがままになる。
 その「なすがまま」感を、ハイスピードカメラが
とらえる。

 東京駅のミクニで「フォアグラ丼」
を食べ、
 19時30分の
 特急 ビューさざなみ17号
で館山へ。
 生物学者の団まりなさんのお宅。
 NHK出版の大場旦が、てらてらとワインを飲んで
待ちかまえていた。

 団さんのお宅はすばらしい里山の環境の
中にある。
 明けた今日、大場旦ともども田植えをする。

 田植えをするのは実は初めてである。

 この項続く。

4月 24, 2005 at 03:06 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/23

他者を癒しのよすがとして。

朝日カルチャーセンターで取り上げたのは、
仏像の問題である。

 国宝の早来迎もそうだが、なぜ、私たちは
人間の姿をしたものに、「癒し」のよすがを
求めるのか。
 他者の心とは、つまりは、もっとも
不可視で不確実なものであり、
 それを一度経由した形で初めて
「癒し」が成り立つというのは、
不可思議でおそらくは大切なことであろう。

 興福寺の「無著」や、中宮寺の「菩薩半跏像」、
広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」・・・・
 その表情から、考えていることは容易に読み取れず、
モナ・リザの微笑みと同型の曖昧さがある。 
 その曖昧さに、私たちは惹きつけられる。

 Baron-Cohenのtheory of mindの論文(1985)
を取り上げ、
 「神々の黄昏」のブリュンヒルデの自己犠牲と
「東京物語」を見た。

 ちくま書房の増田健史が来て、PHPエディター
ズグループの石井高弘と「編集つーのはつまり
どんな営みであるか」というバトルをしていた。
 その横で、私は涼しい顔をしてビールを
飲んでいた。 
 とにかく忙しい一週間だったのである。
 ビールくらい飲んでも、バチは当たらないだろう。
 
 いろいろなことが詰まっていて、
一週間のスタートだった月曜日は、そのいろいろな
ことの山の向こうの、遙か昔だったような
気がする。
 これでは、一年が飛ぶように過ぎていく
はずである。
 
 そういえば、しばらく前のNatureに、
「なぜ大人になると月日が早く過ぎるのか?」
というような記憶に関する本の書評が出ていた
ような気がする。
 後でチェックして見ようかしらん。

 時間は早く過ぎていくが、とにかく
大切なこと/難しいこと/愛すべきこと/
真理に通じること/だけを見つめて
いれば良いのだと思う今日このごろである。

4月 23, 2005 at 06:55 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/04/22

脳と癒し 第2回

本日 朝日カルチャーセンター講座
「脳と癒し」第2回

午後6時30分〜 朝日カルチャーセンター新宿
教室

http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture19.html

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0504koza/A0301.html

4月 22, 2005 at 06:26 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

同じカテゴリーでも実はいろいろ

ゆえあって、
 スペインのExtremadura州の人たちの話を
聞いた。
 部屋の中にいるスペイン人たちの姿を
見ながら、
 一口に「ヨーロッパ」といっても、
本当にいろいろだなあ、と思った。
 アングロ・サクソン系の人たちと、
この人たちは、本当に違う。
 どっちがどっちというのではなくて、
とにかく違う。
 キリスト教とか、オリーヴ、ワインとか
さまざまな共通点があるにせよ、
 「ヨーロッパ」という同一カテゴリーの
中の変異は驚くべきものだと改めて思った。

 カテゴリー内変異は、カテゴリー間
変異に比べて無視できる、ということは
決してなく、
 とにかくいろいろである。
 そのことさえ忘れず、想像力を失わなければ
たいてい間違えないのではないか。
 
 聖心の授業が終わったあと、所要のあった
六本木ヒルズまで歩いて抜けた。
 有栖川宮記念公園を過ぎたあたりの静かな
住宅地が、
通り過ぎる人がみな外国人で、
 「このあたりは異様に外人比率が高いなあ」
と思った。
 
 谷を下ったところにある小さな公園でも、
ほとんど外国人の子供たちが親たちと
戯れていた。
 ぽかぽか陽気で、みんな楽しそうだった。

 その先の小さな路地に、急に警官が
立ち始めた。
 なんだろうと思って歩き続けると、
中国大使館があった。

 その先の道路は大渋滞で、
街宣車のヴォリュームが大きかった。

 六本木ヒルズに着くと、人々が
談笑している。
 ふたたび、太陽の光がやわらかく感じられる。

 東京といっても、エリアによって
本当にいろいろだなあ、と思う。
 新宿や秋葉原だけを東京といわれても
困る。
 遠い国も同じこと。
 だから、騙されてはいけない。

 ニュースの映像は、フレームで切り取るから、
空間の中の多様性にまで及ばない。
 当たり前の話なのだが、
フレームの中に映ったことを見るのと同じくらい、
 フレーム外にあるはずのものを想像することが
重要である。

 多様性(いろいろ)は、きっと神から人類への
贈り物なのだ。

4月 22, 2005 at 06:08 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/04/21

『脳と創造性』増刷

『脳と創造性』(PHP研究所)は増刷が決まりました。
ご愛読に感謝いたします。

4月 21, 2005 at 06:35 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

東京芸術大学 美術解剖学 4月21日、28日

東京芸術大学 美術解剖学の本日の授業
(4限(15:35〜17:00)、美術学部
中央棟 第8あるいは第6講義室)
は、休講とさせていただきます。

来週(4月28日)は、内藤礼さんをお招きし、
ご講義いただきます。

ーーーーーーーー
本日の聖心女子大学 臨床心理学特講18
の授業は通常通り行います。 

4月 21, 2005 at 06:30 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Introduction to Psychology. Lecture 2

Lecture Records

Ken Mogi
Waseda University
Introduction to Psychology

Lecture 2 Social Cognition. "Theory of Mind"
(20th April 2005)

80 minutes. MP3 file. 36.5MB

http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/waseda2005/psychology20050420.MP3

4月 21, 2005 at 06:24 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

登龍門

新学期が本格的に始まり、
 修士一年生たち
(大久保ふみ、箆伊智充、星野英一)が
ゼミに参加するようになってきた。

 昨日は、インテリジェンス・ダイナミックス・ラボの
田中文英さんをお呼びして、
 ヒューマノイドと人間のインタラクションに
ついてお話いただき、議論する。

 そのあと五反田の「あさり」に移動して、
新入生歓迎会をした。
 情けないことに、ずっと仕事に追われていて、
乾杯のあと、彼らが盛り上がっている中、
雑誌のゲラをチェックする。
 後刻、テレビマンユニオンの花野剛一さん、
高橋才也さんたちが来て、打ち合わせ。
 しかしその間、ちゃんと談笑する時間も持てた。

 しばらく前に
思い出したことがある。
 電車の中に立って、自分が修士の時どんな
感じだったか、記憶をよみがえらせていた。
 あの頃は、とてつもなく不安だった。
 将来がどうなるのか、
自分がどんなことができるのか、
 形にならないもやもやを抱えていた。

 今でも不安やもやもやは抱えているが、
あの頃とは違った文脈に入っている。

 それで、どんな人にも、「変化の時」
が来るのだと思う。
 昔の人はよく人間を観察していて、
鯉が龍になるという、「登龍門」のメタファー
など、すばらしい。
 ばーっと内部で何かが変化して、
つかんで、登って、今までに見えなかった
風景が見える、ということは確かにある。
 そうなると、周囲の自分を見る目も
変わってくる。
 大学院の時というのは、そういうことを
誰でも体験する。
 大した龍じゃなくても、
とにかく鯉の時とは違う自分になり、
異なる風景が見えてくるのだ。

 だから、修士の一年たちには、
登龍門の滝を一生懸命昇ってほしいと
思う。
 
 別に滝は一つじゃなくて、一つ終わると
また次のが待ちかまえているから、
 滝から滝へ、どんどん昇って
いきゃあいい。
 オレもこれから昇ってまだまだ
変化するから、
 君たちも一つガンバッテくれたまえ。

 これが、「あさり」では言えなかった。
はなむけの言葉です。

4月 21, 2005 at 06:21 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/20

『脳と創造性』発刊記念講演会

三省堂 神田本店のHPには、近日詳細が掲載
されるものと思いますが(下のURLをご参照
下さい)、以下のイベントで、「脳と創造性」の
問題についてお話させていただきます。
関心のある方は、ぜひご参加ください。。

茂木健一郎『脳と創造性』発刊記念講演会&サイン会

講演テーマ:脳と創造性−「この私」というクオリアへ
日時:5/9(月) 18:30開始〜20:00終了
場所:三省堂書店神田本店 8階会場 千代田区神田神保町1-1 
お申し込み方法:定員50名 要整理券、店頭でお問い合わせください
(お問い合わせTEL本店代表03−3233−3312)


http://www.books-sanseido.co.jp/shop/kanda/kanda_sign.html?MBR_NO=@MBR_NO&SESSION=@SESSION 

4月 20, 2005 at 09:14 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

Introduction to psychology. Session 2.

早稲田大学国際教養学部
2005.4.13.(本日) 13:00〜14:30
7号館419教室

Introduction to psychology. Session 2.
The social aspects of cognition.

In this lecture, we look at some salient features of social cognition. Although this particular theme will be pursuied throughout the entire the semester, some important concepts will be introduced today.

4月 20, 2005 at 07:28 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

青春と読書 欲望する脳 連載第一回

集英社 青春と読書 2005年5月号(No.345)
茂木健一郎 連載 「欲望する脳」 第一回

一部引用

 ティーンエージャーの頃、私は孔子よりも老子の方が好きだった。高校のクラスメートで、「論語」を愛読している宮野勉という男がいて、老荘思想にかぶれていた私と何時も議論になった。私が、孔子は世俗を説くだけじゃないかと言うと、宮野は、老子は浮世離れしていて役に立たないと言い返す。「世間知」と「無為自然」の間はなかなか埋まらない。妥協の仕方が見つからないままに、時は流れ、宮野は弁護士に、私は科学者になった。やはり三つ子の魂百までか、というと、人間はそんなに単純でもない。
 私は、孔子が次第に好きになってきたのである。社会に出て人間(じんかん)に交わるようになって、「論語」の持つ思想的深みが味わえるようになってきた。しかも、単なる処世知として評価するというのではない。「私」という人間の存在の根幹に関わるような根本的なことをこの人は言っている、と孔子を見直すようになった。人間を離れて、世界の成り立ちについて考える上でも、孔子の言っていることを避けて通ることができないと思い定めるようになってきた。逆に宮野は、孔子の知は、時に余りにも実践的過ぎて鼻につくこともあると近頃漏らすようになった。人生というのは面白い。正反対から出発して、いつの間にか近づいて行く。やはり、中庸にこそ真実があるのだろう。
 そうは言っても、忙しさに取り紛れて「論語」を真面目に読み返すこともできないでいた。ただ、「論語」のことが、半ば無意識のうちにずっと気になっていた。ある時、私は地下鉄のホームに立って、ぼんやりと現代のことを考えていた。人間が自らの欲望を肯定し、解放することで発展してきたのが現代文明である。自らの欲望を否定し、押さえつけることほど、現代人にとって苦手なことはない。現代人の脳は、欲望する脳である。昨今の世界情勢の混乱も、現代人の野放図な欲望の解放と無縁ではあるまい。そんなことを考えながら電車を待っていた。
 突然、何の脈絡もなく、論語の「七十而従心所欲、不踰矩」という有名な言葉が心の中に浮かんだ。私は雷に打たれたような気がした。この「七十従心」と呼ばれる文の中で、孔子は、とてつもなく難しく、そして大切なことを言っていることがその瞬間に確信されたように感じたのである。
 ・・・・・

全文は、「青春と読書」で

http://seidoku.shueisha.co.jp/seishun.html

4月 20, 2005 at 07:10 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

骨太のセレンディピティ

 夜、
 「ヨミウリ・ウィークリー」編集部の
ご招待で、東京ドームに巨人×阪神戦を
見に行った。
 二居隆司さん、ありがとうございました。

 巨人が5−8で負けた。
 途中まで0−8の一方的な展開だったが、
8回の裏に5点が入って、なんとかゲームになった。


 心に残ったプレーは、8回裏の1アウト満塁
での清原の内野フライである。
 テレビの野球ニュースの映像では判らなかったが、
あの打球はドームの天井に当たった。
 跳ね返って落ちてきたのを内野手がとった。
 その打球の軌跡に、
清原という凡打しても魅力的な選手の本質を見た。

 その他、いろいろ思ったことがあるが、
せっかくだから「ヨミウリ・ウィークリー」連載
で書こうと思う。
 
 昼には、『視点・論点』の収録が
あった。
 解説委員室にうかがうと、舘野茂樹さんと、
室山哲也さんがいらして、
 しばらくお話しすることができた。

 創造性とコミュニケーションは、コンピュータ
にはできない。
 創造性は、自分と異質の他者と
わたりあうことで育まれるのであって、
 そのことを、学校教育の現場や、
社会生活において忘れてはいけない。
 この点を伝えたかった。

 やはり、みな、近隣諸国とのことが
気になるのだろう。
 たとえ、隣人に違和感を抱いたとしても、
彼らとのいきかいを創造性のきっかけにしたい。

 自分と異質なもの、やっかいなもの、
そのようなものこそを鏡としたい。
 共感や一体感も重要だが、
違和感や反発も同じくらい重要だ。
 世の中にはいろいろな人がいるが、
そのいろいろな人はきっと意味があって、
この世界に、
 そして自分の前に現れた、と考えることが
骨太のセレンディピティであろう。
 
 部屋の中に置いてある植木の山桜の
花も散ってしまった。
 一年のうちでいちばん良い季節である。
 沖縄言葉で言えば、「うりずん」だ。
 しかし、酷寒も猛暑も、
何時でも今が一番良い季節だと
思うことこそが本当なのだろう。

4月 20, 2005 at 06:57 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/19

視点・論点 「創造性と脳の関係」

NHK教育テレビ 本日(2005年4月19日)
午後10時50分〜午後11時

視点・論点 茂木健一郎 「創造性と脳の関係」

http://www3.nhk.or.jp/hensei/bangumi/ch3-20050419-156.html

再放送 総合テレビ 翌(4月20日)
午前2時30分〜2時40分
http://www3.nhk.or.jp/hensei/bangumi/ch1-20050419-112.html

4月 19, 2005 at 06:58 午前 | | コメント (4) | トラックバック (1)

国際物理年 光で世界を結ぶプロジェクト(本日)

東京の人は、今日(2005年4月19日)
の夜8時17分から二分間、
部屋の電気を消して、そしてまた点灯して
ください。

うまく行けば、
地球上を、光の波が伝わっていく様子が、
衛星から見えるはずです。

国際物理年(アインシュタイン奇跡の年から
100年を記念)のイベントです。

(光で世界を結ぶプロジェクト:WYP2005 in Japan)

光の波は、2005年4月19日の午後8時から
9時まで、日本にとどまっています。
住んでいるところの経度によって、消灯する二分間の
時間は異なります。
下のwebpageで自分の住んでいるところの
郵便番号等を登録すると、どの二分間に消灯すれば
いいのか、教えてくれます。

詳細は、

http://www.ils.uec.ac.jp/WP2005/wplight.htm

4月 19, 2005 at 06:46 午前 | | コメント (4) | トラックバック (4)

金剛石のような知性

地球シミュレータセンターの佐藤哲也所長が
いらして、いろいろ議論させていただいた。
 
大変楽しかった。プラズマ物理のご専門
で、質問やコメントが大変鋭い。

やはり本物の知性というものはいいもの
である。

夜は、電通の石山さんのアレンジで
一橋大学の阿久津聡先生と議論。
ポスト・ブランドについていろいろ
模索する。

私には、ある時期、反知性主義の傾向が
あった。
今は回帰して、金剛石的なゆるがない
知性へと向かいたいと思っているが、
一時期はそうではなかった。

もっとも、反知性主義といってもいろいろ
ある。
イギリスの労働者たちの反知性主義とも
違うし、
民放のバラエティのそれとももちろん違う。
私の場合、強いて言えば、ワグナーの
オペラの主人公たちのような反知性主義
だった。
 このあたり、話せば長くなる。

 今は、知性でいい、と思っている。
ただ、知性にはパラドックスがある、
という感じは依然としてある。

何年か前に、朝日新聞の日曜版が「ホタルの木」
を特集した。
インドネシアなどのジャングルに、ホタルが
何十万匹と集まる木がある。
そのことを書いた記事が出た翌週か翌々週の
誌面に、
元日本軍の兵士からの手紙が掲載された。

戦争中、自分たちの見た光る木が何だったのか、
数十年不思議に思っていたが、
記事でようやく判ったというのである。

私はこの一連の流れを掛け値なしに美しい
話だと思い、
映画にすればいいんじゃないかと
思ったのだが、
このエピソードには知性のパラドックスが顕れている
ようにも感じた。

ホタルの木だと判ってしまう前に、
あの光る木は何だったのだろうと不可思議に
思っていた、
その心もまた大切だと思うからである。

月が岩の塊だと判ってしまって見上げるのと、
何も判らずにただ見上げているのと、
そのどちらが良いかと言えば、実は判らない
のだと思う。
荘子の混沌の話ではないが、
結局、知性が進むにつれてトレードオフが
起きて、
トータルのエラン・ヴィタールは何も変わらないの
かもしれないと思う。

知性を金剛石のごとく磨くと同時に、
それで判ってしまったと思わないで、
何も判らない、という不思議な感覚を
持ち続けること。
これを忘れてしまうと、単なるこざかしさに
なってしまう。

虚数のiをめぐるオペレーションが判ったり、
ガウス平面での表記が判ったからと言って、
虚数の不思議さがなくなってしまうわけではない。
月を、それがニュートンの法則で運動する
岩であると片づけてしまうのではなく、
何も知らない幼子のような心で見上げるがごとく、
虚数iや、自分の心臓の鼓動や、水の冷たさに、
原初的な不可思議さを感じていたい。

そのようなことができると判って、初めて
私は金剛石のような知性を目指している自分を
受け入れることができたのだった。

4月 19, 2005 at 06:34 午前 | | コメント (5) | トラックバック (0)

2005/04/18

AERA 2005.4.25.号

今週のAERAの表紙に載せていただきました。

http://www3.asahi.com/opendoors/zasshi/aera/

4月 18, 2005 at 12:29 午後 | | コメント (5) | トラックバック (0)

英字紙の効用

しばらく前から強まった
 英字新聞を読みたい、という願望は
精神のバランスをとるためだったのかも
しれない。
 宅配にしようと思ったが、すでに
2紙とっていて、さらにとると
郵便受けがあふれるので断念。
 時々キオスクで買うことにしている。

 世間の人は、朝日と産経では対照的
だと思っているのかもしれないし、
 読売、毎日、日経、・・・・と選択することが
一つのpolitical statement だと思っているのかも
しれないが、
 実は日本語の言論圏の中で流通している
思想はおどろくほど似通っている。
 翻訳などの装置があると言え、
やはり日本語で流通している概念や暗黙の
前提は
 ある程度閉じたスペースの中でインキュベーション
されているわけで、
 世界から見れば、
 朝日も産経も似たようなものである。。

 そこに、英字新聞を読む意味があるわけで、
いま世を騒がせている中国の反日デモの
問題でも、
 そもそも報道のスタンスが違う。
 日本語の中に埋もれていると
気づかされないことが沢山ある。

 一番好きなのはHerald Tribuneなのだが、
日曜は売っていないので、大阪でJapan Timesを
買った。
 日本のサブカルが特集されていて、
そのスタンスが、魅惑されつつも、
ちょっとコバカにしているというか、
奇妙な昆虫を見ている感じというか、
 別にJapan Timesの責任ではないけど、
やはりあまり面白くない。

 英語圏のメインストリームが日本という
国をどう見ているかなど先刻承知だが、
 日本語の中に埋もれているとそういうことも
忘れてしまう。
 くそ、ばかやろうと
そういえば今までの人生の中で何十回と思った
なあ、と思い出すだけでも効用がある。

 中国語ができれば中国語の新聞でも読みたい
とおもう。
 バベルの塔で分裂してしまった
世界の中で、
 必死になって普遍を求めるキモチが
尊いと思うことには変わりがない。

 だから、気が遠くなるほどの多様性を
超えて普遍を模索している
バチカンはなんだかんだ言っても
偉いと思う。
 「国」にこだわっていては、
普遍性を見失う。
 だから、 
 くそ、ばかやろうというキモチは
Japan Timesを読み終わって3分も経てば
霧消霧散してしまって、
 党派性を人生の基礎にしようなどとは思わない。

 ずいぶんなやつらだな、と思う
相手との交渉の中に、いかに
共有できる普遍性を見出していくか
という試みこそ尊いと思う。

4月 18, 2005 at 04:50 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/17

脳から見たヴァカンスの効用

ヨミウリ・ウィークリー
2005年5月1日号
(2005年4月18日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第50回

脳から見たヴァカンスの効用

一部引用

 フランス人の言う「ヴァカンス」は、何もしないことである。砂浜やプールサイドにずっと寝ころがっている。時間になればワインを飲み、ゆったりと談笑して、ぶらぶらと散歩し、また寝ころがる。日本人にはなかなかまねのできない芸当である。
 ゆったりとヴァカンスをとる効用を知らないわけではない。以前、インドネシア、バリ島のリゾート・クラブに行った時は、本当にのんびりした。フランス人の設計したヴァカンス村には、のんびりした空気が流れていて、さすがの私もせかせか動き回るわけにはいかず、昼からワインを飲み、ぶらぶらしていた。
 そんな時間を、2日、3日と続けているうちに、意外なことが起こった。身体の芯から、熱いものが込み上げてきたのである。社会生活を送る中で、ずっと忘れていた若いころの夢や野心、ひそかに抱いていた希望などを、久しぶりに思い出した。その瑞々しい若さの気配に、自分の中にまだこんなものが眠っていたかと、本当にびっくりした。そして、ああこれがヴァカンスの効用か、と思った。


全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

4月 17, 2005 at 01:57 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

美と真実の前に跪く

東京工業大学のOB会組織である
「蔵前工業会」の関西の会に
呼んでいただき、脳の話をした。
 名刺を、21枚いただいた。
 会場の中央電気倶楽部は
使い込んだ木の質感がすばらしいクラッシックな
建物で、
 中にいる時間が心地よかった。

 東工大の校歌を初めて聞いた。
「逝くものは 斯くのごときか」で始まる。
三好達治 作詞
諸井三郎 作曲
である。

 懇親会終了後、中心メンバーの
方々と二次会でお話した。
 「蔵前工業会」という名前は、東工大の
前身が以前は蔵前にあったことで
名付けられたらしい。
 いろいろ勉強になった。

 一夜明け、ニュースを見ていると、
相変わらず反日デモをやっている。
 あまりかかわりあいたくないと
思う。
 吉野の桜は見に行きたい。

 新幹線の中で、藤原正彦/小川洋子の
「世にも美しい数学入門」(プリマー新書)
を読みながら来た。
 なるほど、これは美しい本である。
 このような本が売れるのならば、日本も
まだ捨てたものではないのじゃないか。

 生きている以上、いろんなものが
呼びもしないのに向こうから勝手に
やってくる。
 ならば、美と真実だけを見つめていれば良い。
 どうせ、純粋培養とはいかない。
 美や真実を知るひとは、謙虚な
ものである。
 自分の立場が100%正当であるという
思い上がりを押しつけなどしない。
 
 セルフ・ダウトのない人は醜い。
 藤原さんは、数学の天才というのは
美しいものの前に跪くことを知っている
地域から生まれるという。
 藤原さんの言っていることは、数学
だけの話にとどまらない。

4月 17, 2005 at 07:13 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/16

思ったことを口に出し、真っ先に手を挙げよう。

先日、六本木駅で乗り換えをしていて、
エスカレーターの右側(周知の通り、東京では
左側に人が立ち、右側を急ぐ人が歩く。大阪では
逆)を歩きながら、週刊文春を読んでいたら、
突然、後ろから大きな声が聞こえた。

 Hey, read your magazine later! I am in a hurry.

 一瞬、なんやねんと思ったが、後ろを
ふり返ると、
 雲を突くような大男がいる。
 アメリカ人である。

 実は、私はかなりのスピードで歩いていた。
つまり、二宮金次郎だったのであって、
 彼も同じスピードで歩いており、
急いでいたとしても、迷惑は受けていないはずだ。

 いずれにせよ、私は、すぐさま
 I AM walking. You see.
と答えた。
 すると、彼は、さらに、
 I know. But you can read your magazine later.
と言った。

 ちょうどその頃エスカレーターの乗り換えになった
ので、
 私は彼に道をゆずった。
 そうしたら、彼はのっしのっしと先を
歩いていて、
 私はその後を相変わらず二宮金次郎だったのだが、
 結局、同じ時刻に乗り換え口に着いた。

 このエピソードを面白いと思ったわけは、
その人が思ったことを瞬時に口にしたことで、
 実は少しはむっとしたけど、基本的に好意を持った。

 思ったことをすぐに口に出せる人は、
きっといい人だと思う。
 計算とか、見栄えとか、そんなことよりも、
衝動が先に来てしまうのだ。

 ノーベル物理学賞を受賞した
リチャード・ファインマンの自伝
 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』
の中に、面白い話がある。
 大学時代に、講堂に催眠術師が来て、
催眠術をかけられるボランティアを募集した。

 ファインマンは、これはてっきり満場の
学生たちの多くが手を挙げるに違いない
と思い、気が気ではなかった。
 それで、司会をやっていた教授が、
「さて、誰かボランティアはいないか・・・」
と言いかけると、
 ファインマンは、大声で「Meeeeeeeeee!」
(私私私私!!!!!!)
と叫んで手を挙げた。
 
 ところが、会場で叫び声を上げたのは
実はファインマン一人で、
 静寂の中に大声が上がることになったのである。
 教授は、苦笑いして。
 Yes, Mr. Feynman. I knew you would volunteer.
I was wondering if ANYBODY ELSE would also
like to volunteer と言ったのである。

 (記憶で書いているので、正確なところは
本を読んでください)

 ファインマンは、いい人だったに違いない。
 うだうだ考えないで、手を挙げちまえばいいのである。

 みなさん、思ったことは口に出してしまい、
真っ先に手を挙げてしまう人になりましょう。
 そういう人が少なすぎるのが、日本の
問題点であると愚考します。
 さて、私は大阪に向かいます。ごきげんよう。

4月 16, 2005 at 06:42 午前 | | コメント (7) | トラックバック (0)

2005/04/15

脳と癒し

本日 朝日カルチャーセンター講座
「脳と癒し」第一回

午後6時30分〜 朝日カルチャーセンター新宿
教室

http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture19.html

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0504koza/A0301.html

4月 15, 2005 at 04:26 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

第18回関西蔵前講演会

2005年4月16日(土)

平成17年4月16日(土) 13:30 〜 16:30
中央電気倶楽部大ホール 大阪市北区堂島浜2−1−25

http://vs.kuramae.ne.jp/kansai5/kouen/sub/18kouentuuti.html

白川英樹先生は、ご都合でいらっしゃれなくなり
ました。
私が「基礎編」「応用編」の二部に分けて
お話します。

蔵前工業会は、東京工業大学OBの会です。

4月 15, 2005 at 04:18 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

難しい方を選択する人生

聖心のキャンパスを歩いたのは
初めてだったが、綺麗なところだった。

授業開始前に、
記憶の研究をされている高橋雅延先生
とお話する。
高橋先生のご専門は、とりわけ、
false memoryの問題で、
これには私も大変興味を持っているので、
いろいろお伺いする。

脳科学における記憶研究は、
そのencodingにおいてもretrievalに
おいても、いささかmechanisticな
ところがあるので、
臨床心理的な視点を導入した
研究が必要なことは明らかである。

来る途中に見た美しい日本家屋は、
昭和天皇の皇后がお住まいになって
いたところで、そこからお嫁入り
されたのだという。

広尾駅近くのChez Mortierで、
Popular Science編集部の
勝亦美栄編集長、廣川淳哉さん、佐藤浩志
さんと会食。
佐藤さんはソフトバンク・パブリッシングから
最近移籍された。
IT関係のベンチャーの現況をうかがったが、
大変興味深かった。

コンセプト・ワーク(絵を描くこと)が
大切である。

上野駅で筑摩書房の増田健史と待ち合わせ、
東京芸術大学に歩きながら打ち合わせする。

芸大の授業も始まった。
何だかうれしい。
配置(configuration)の問題を議論。
植田も、蓮沼も、藤本も、杉原も、ゆうなちゃんも、
名取くんもみんないた。
新しい人たちもいた。
布施英利さんも教授会が終わった頃にいらした。

布施さんが引用されていた養老孟司先生の一言。
「人生の分岐点で、先が見える選択肢と、
どうなるか判らない選択肢の二つがあったら、
不確実な方を選びなさい」
布施さんを通して養老さんが降臨された
ところで第一回の授業は終わり。

難しい方を選択する人生を続けたいと思う。

4月 15, 2005 at 03:38 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/04/14

美術解剖学(I)

本日
東京芸術大学 美術解剖学授業 第一回
4限(15:35〜17:00)  
美術学部 中央棟 第8講義室(教室は変更
される可能性があります)

創造の基礎 創造支援学 大脳と小脳
引き込みとノイズ 飛躍と連続
クオリアと文脈 傷を付けること/受けること
文学と芸術
今年度の授業curation予定 その他
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
聖心女子大学 
臨床心理学特講 第一回
2限  10:40〜12:10
「心理学とは何だろうか?」
ー計算と関係性についてー

4月 14, 2005 at 06:46 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

配置と関係性

「本当に英語でやっていいの?」
と聞いてから始めた。
早稲田の国際教養学部のIntroduction to psychology
の授業の第一回。
本当に出席者全員が英語を理解しているのか
心許なかったが、留学生や帰国子女で何人か
完璧な英語の人たちがいて、
そういう人たちがいると、英語で丁々発止
という一種の演劇空間が生じて、
あとの方々もそれを楽しめる、ということが
よーく判った。

主な内容は、Computation, cognitive science,
contextual judgment, Flynn's effect, I.Q.,
algorithm.

なんだか、とても楽しい感じだったので、
来週から楽しみに英語の丁々発止を
しようと思う。

授業の前は、新潮社の
『考える人』の松家仁之編集長、
北本壮さん、K's officeのの門崎敬一さんと打ち合わせ。
リーガロイヤルホテルにて。
次号は、「心と脳」をおさらいするという特集である。

夜、銀座のギャラリー小柳へ。
文學界の大川繁樹編集長、山下奈緒子さんを、
内藤礼さんにお引き合わせする。

内藤さんの作品がギャラリーの中に並んで
ある様子を眺めていると、突然、「配置」
ということが猛然と気になりはじめて、
配置のことばかりを考えていた。

Aが、Bに対してある関係にあること。
AはBとの関係性に包まれ、BはAとの
関係性に包まれ。
二項関係が、さらに三項関係、空間関係と
拡張して行き、個物には還元できない
独自のリアリティを持ち始める。

これだ! ということだけはわかるが、
未だに名付け得ない何か。

そのことだけを考えていても、
一生退屈しないで生きていけそうだ。

「配置」(configuration)。
保坂和志の小説にも、当然関係して。

そのことを言ったら、内藤礼さんは、

配置はわたしには特別なものです。
もしかすると一つのものを作ることよりも、
位置を見つけること、空間を作る(?)
ことのほうに、喜びを感じるかもしれない。

と答えてくださった。
 内藤さんには、4月28日(木)の
芸大の「美術解剖学」の授業でお話いただく
予定である。

小柳敦子さんがいらして、杉本博司さんの
「劇場」シリーズの新作について、興味深い
お話を伺う。

会食の終了間際、筑摩書房の増田健史が
やってきた。
「原稿追い込み」のワザを目撃した大川繁樹さんが、
「これは参考になる、これからこうしよう!」
としきりに頷いていたので、
原稿が遅い作家の方々はお気をつけください。

増田健史のキモチはよ〜くわかる。
しかし、私は須藤珠水と小俣圭が出すInterspeech
の論文も見なければならない。
昨日の朝は、European Conference on Visual Perception
abstractも書いていたのである。

4月 14, 2005 at 06:36 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/04/13

サッカー脳vs野球脳/現代の肖像「天外伺朗」

現在発売中のAERA 2005年4月18日号
の「サッカー脳vs野球脳」の記事の中で、
いくつかの点についてコメントしています。

また、

現代の肖像「天外伺朗」
の記事で、天外伺朗さん(土井利忠さん)
についてのコメントも掲載されています。

4月 13, 2005 at 06:43 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

Introduction to psychology. Session 1.

早稲田大学国際教養学部
2005.4.13.(本日) 13:00〜14:30
7号館419教室

Introduction to psychology. Session 1.
The dynamical aspects of cognition.
In this lecture, we will look at some dynamical aspects of cognition in our daily life, which point to some fundamental characters of the human cognitive system.

4月 13, 2005 at 06:33 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

養老孟司は座談の名手である

養老孟司は座談の名手である。

 横浜の、グランドインターコンチネンタルホテルで
養老さんと合同の講演会があった。
 まず、私が喋って、その後養老さんが喋った。
 NHKの高尾正克さんも聴きにいらした。

 座談というのは、講演会の前の昼食の時と、
終了後の夕食の時のことである。
 横浜だというので、ジモッティの竹内薫夫妻も参加。
 ソニー広報の上原さんも同席される。

 もちろん、多数の聴衆を前にして講演
される養老さんは、抜群におもしろい。
 座談の時、講演と何が変わるかというと、
不特定多数の人にわかってもらわなければ
ならない、という配慮が消えて、
 瞬発的なひらめき、
寸鉄人を刺す勢い、
 そして気合いが現れる。
 まるでひらりひらりと飛ぶ
蝶のごとく。
 実に面白い。

 今週号のアエラに、ローマ法王死去「やり残した
対中和解」という面白い記事が載っている。
 中国とバチカンの間に、ちょうど日本の
靖国神社の問題と同質の対立があるというのである。
 19世紀末の「義和団事件」の犠牲者だった
宣教師たちを、「聖人」に列した(列聖)ことに
対して、「帝国主義の道具を聖人にするなら歴史の
改竄である」と中国が激怒したという。

 私は、これは実に重要な記事だな、
と思ったので、
 養老さんにその話をしたら、即座に、
「日本はバチカンと組めばいいんだよ」
と言って、あとは煙草を吹かしている。

 フジテレビの日枝社長とホリエモンの
ことも、
 「だいたいテレビやっているやつが、
日枝社長とホリエモンの顔を並べてみたら、
一般視聴者がどっちに好感を持つのか、
わからないはずがないだろう。日本のテレビは
本気で作ってねえんだよ」とバッサリ。
 養老さんのこういう時は本当に
面白い。
 少人数で聴いているのがもったいない
くらいである。

 あとは虫の話。
 養老さんは「行くととんでもないことになるから」
アマゾンにまだ行っていないというので、
 是非養老孟司をアマゾンに連れていく
企画をやりましょう、
 と盛り上がる。
 盛り上がりすぎて、バス・ペール・エールの
入ったビールグラスを倒して割ってしまった。

 きっと、あれは縁起が良い、という
ことに違いない。
 横浜駅近くの「ガジュマル」でのことである。

 養老さんたちが帰ったあと、竹内薫、かおり
夫妻と横浜駅地下で少し話す。
 「おじさん温泉」を復活させて、
つきましては悪だくみをしようじゃないか、
と語らう。
 
 養老孟司さんの座談が次にいつ聞けるか、
楽しみである。

4月 13, 2005 at 06:23 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/04/12

遠くを見て、本気で信じろ。

どうも、近くのことばかり考えていると
あまりポジティヴな回路に至らないようだ。
それに近視眼になってしまいそうだし、
脱亜入欧でもまあいいか!
という気分になってしまう。

イギリスの総選挙の映像で、ブレア
が前に立って、その前でいろいろな
議員がお気楽に議論している
ところなど見ると、
楽しそうだし、実質的なことを
議論しあっているようだし、
まだまだ日本は(アジア全般は)
ヨーロッパに学ぶところが沢山あるんじゃ
ないかと思う。

もちろん、どっちが上とか下とかいう意味では
なくて、自分たちとは異なるカルチャーを
持っている人たちからの方が、
多くのものを吸収できるのではないか、
という意味である。

だから、イスラームとか、南アメリカとか、
遠くのことを真剣に考えてうーんと
隔たったものに魂を飛ばしたらどうかと
思う。

夜、代官山のSUPERSTARSでパーティー
のようなものがあった。
 桑原茂一さん、吉村栄一さん、白洲千代子さん、
それに田谷文彦も惨上。
 SUPERSTARSというのは、
私がイギリス留学以来の悪癖を捨てて、
10年ぶりにヘアカットしてもらった
お店である。

 私が店の1Fで仕事をしている間、
桑原さんとかは2Fでシャンプーやヘアカットを
してもらっていた。
 極上の体験だった由。

 SUPERSTARSオーナーの佐藤民生が呼んだ
人たちも何人かいて、その中に、電通の古川裕也
さんがいた。
 古川さんはCMディレクターとして
大成された方であるが、桑原茂一さんと一緒に
「ピエールとカトリーヌ」という曲の作詞も
している。

 SUPERSTARSやATAKのweb designも
担当された
 セミトランスペアレント・デザインの
柴田祐介さんがいらしていて、
 茂木さんは霊はいると思いますか、
としきりに聞く。

 私は、「いると思うんだったら、それを
本気で信じればいいんじゃないか」と答えた。
 科学主義の立場から、霊がいない理由を
並べ立てることなど簡単である。
 しかし、もし死んだ人もどこかに消えて「無」
になってしまうのではなくて、
 何らかの方法で自分と交感できると
思うのだったら、
 それを本気で信じて、何かやってみれば
いいと思う。
 恐らくはとても苦労すると思うが、
まあそんなことはいい。
 本気で信じてみろ。

 世の中の問題は、本気で信じていないくせに、
ああだこうだと自分と人を騙す輩が後を
絶たないことである。
 だから似非宗教ができる。
 小林秀雄のように、本気で信じてみれば
よい。
 そうしたら、そこから出るものは、
きっと科学主義と矛盾しないよ。
 中途半端に霊がいるなどと信じるから、
科学と矛盾してしまうんだ。

 この問題は、脱亜入欧でも何でもいいけれど、
自分の生活圏の実感から遠く隔たった世界の
ことをどれくらい本気で思えるかということにも
通じている。
 思い切り遠くを見て、
 あまり近くのゴタゴタばかりに目を奪われていると
精神が腐るから、そして本気で信じりゃあ
いいんだよ。
 オレはそう思う。

4月 12, 2005 at 06:35 午前 | | コメント (2) | トラックバック (2)

2005/04/11

岡田准一×茂木健一郎 text 記録

J-Wave
岡田准一 Growing Reed
ゲスト 茂木健一郎 
2005年4月10日放送

岡田さんのファンが文字化したサイト

http://blog.livedoor.jp/m-63_00311/archives/18577200.html

4月 11, 2005 at 07:18 午前 | | コメント (3) | トラックバック (1)

私の家は山の向こう

有田芳生さん
からいただいた
『私の家は山の向こう テレサ・テン十年目の真実』(文藝春秋)
を読了。

有田さんの日記で、この本をいかに苦労して執筆
されたかを知っていたので、
私にしては珍しく、ちゃんと机に向かって
読んだ。

1989年6月4日の天安門事件の直前に、香港の
ハッピーヴァレー競馬場で開催された、民主化を求める
野外コンサートで歌われた「私の家は山の向こう」
の録音と、1992年7月に有田さんがテレサ・テンに
インタビューした音声が特別付録CDとして添えられて
いる。

有田さんがこの本の中で書かれた題材について、
様々な思いを抱いたことは想像に難くない。
しかし、本書は、あくまでもテレサ・テンの
生涯を事実に基づいて禁欲的に描いている。
その素描の一本一本の線の背後に、
多くの取材と思索、素材の取捨選択の
苦労があったことは間違いないが、
徒らな感傷を述べず、
あくまでも事実に語らせることで、
かえってテレサ・テンという希有な人物の
人生の重みがずしんと感じられるように
思う。

プロの仕事というのは、こういうものを
指していうのだろう。

台湾、香港、シンガポール、そして中国本土。
東アジア〜東南アジアにおける華僑世界
の広がりは、日本人にはなかなか想像できない
(そして手が届かない)インターナショナルな
顔を持っている。
テレサ・テンのスターダムが日本の例えば
美空ひばりのそれと比べてよりゆるやかで深い
広がりを持っているとすれば、
それは彼女の資質はもちろん、上に述べた
華僑世界の厚みと無関係であるはずがない。

そのようなことに気づかせてくれる点に
おいても、有田さんの本は現代日本の状況に
対するすぐれた批評性を持っているように
思う。

東アジア情勢は沸騰しているが、
一番大切なのは、熱く思想を語ることよりも、
まずは事実を押さえることではないか。
日本、韓国、北朝鮮、台湾、中国、チベット、
ベトナム、フィリピン、香港。。。。
これらの地域において、何年にどのような
ことが起こったか、きちんと年表にでも
して押さえることからしか、
事態の把握もできないし、打開もできない
ように思う。

たとえば、天安門事件の記憶が昨今の中国の情勢と
どのような関連性を持っているのかを
考えるだけでも随分違ってくる。

事実を押さえることが、歴史認識のまずは
本質だと思う。
歴史から自由になったと思った瞬間に、
実は無意識の深いところで歴史的条件にとらわれて
しまっている、ということは実際にあるのだから、
自分の置かれている歴史的文脈をちゃんと
わかっているということは、
現代人にとっても無関係ではない知の
嗜みではないかと思う。

深夜、サッポロ黒ラベルを飲んだ。
仕事は終わっていません。

4月 11, 2005 at 07:11 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/10

身近な生態系に手を伸ばす

Popular Science 2005年5月号(4月4日発売)

連載 Do you know(脳)? p.42〜p.43

身近な生態系に手を伸ばす

米国のアリゾナ州ツーソン郊外には、巨大な温室の中に地球環境を再現した、『バイオスフェア2』と呼ばれる施設がある。スペースコロニーの建設やエコロジー関連技術への応用を目指して、閉鎖生態系についての研究が行われてきた。1991年から1993年にかけては、何人かのクルーが2年間外部との接触を絶ってバイオスフェア2の中で研究を続けるミッションが試みられた。しかし、二酸化炭素の濃度が上昇し、酸素濃度が低下したため、閉鎖実験は中断された。コロンビア大学の実験施設として使われた後、2005年1月現在、売りに出されている。今後どのような運命を辿るかわからないが、フロンティア精神に満ちた、興味深い試みの場となってきた施設である。
 ツーソンには国際会議などで時々訪れるので、バイオスフェア2にも何回か行ったことがある。見たこともない巨大な温室だったが、それほど巨大でも、その中で自己充足的な生態系をつくることの困難さは、想像できた。私は、子供の時に蝶の採集をセミプロ並みにやった人間である。たった一つの生物種を巡っても、どれほど多くの自然の要素が加わらなければ全体として必要十分なシステムができあがらないか、身にしみて判っている。
 だから、バイオスフェア2の売店で「エコスフェア」という球形のガラスの中に閉じこめられた小さなエビと藻の生態系が売られているのを見たときには、驚くとともに、目が離せないくらいに魅せられた。

(近況コラムもあり)

全文はPopular Scienceで。

http://www.popsci.jp/

4月 10, 2005 at 09:51 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Growing Reed

J-Wave (81.3MHz)

岡田准一 Growing Reed
ゲスト 茂木健一郎 

本日(2005年4月10日)午前0時〜1時
(日付は代わって4月11日)

http://www.j-wave.co.jp/original/growingreed/

若者ならではの素朴な疑問を武器に知の巨人と60分のガチンコ勝負をくり広げるV6の岡田准一。 今回の相手は、東京工業大学大学院客員助教授でソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、脳科学者の茂木健一郎(もぎけんいちろう)氏。

「心は脳が作り出すもの」と語る茂木氏に興味津々の岡田准一。現代科学で脳がどこまで解明されているのか茂木氏を質問責めにする。そして、話題は茂木氏が今、最も関心を持っている「セレンディピティ(=思わぬものを偶然に発見する能力)」へ。「偶然を必然にするのは脳の能力なんですよ」という茂木氏の言葉が岡田准一の好奇心に火をつけた!

http://www.j-wave.co.jp/blog/archives/2005/04/10/

4月 10, 2005 at 07:53 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

モーツァルトと長嶋茂雄の作り方

ヨミウリ・ウィークリー
2005年4月24日号
(2005年4月11日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第49回

モーツァルトと長嶋茂雄の作り方

一部引用

 モーツァルトといえば、天才の代名詞である。その一方で、モーツァルトは、多くの謎に包まれた人でもある。
 何よりも不思議なことの一つが、作品と本人の間にあるギャップである。映画『アマデウス』ではいささかオーバーに描かれていたが、あれは事実に近いらしい。なぜあんなにも美しい、完璧な作品を創る人が、こんなにも下品で、おふざけで、いい加減な男なのか。同時代の人にとっても、「作品と本人の間のギャップ」は大いなる謎だったらしく、とまどいと疑問符に満ちた証言が多く残されている。
 作品を見て、こんな人だろうと思っていたら、実は違っていた。そんな意外性に、私たちはしばしば出会う。そこには、魂の錬金術がある。赤いものから赤い作品が出てくるのならば、不思議はない。赤いものから青いものが出てくるからこそ、人は心を動かされる、大いなる宇宙の神秘を感じるのだ。
 元巨人軍監督の長島茂雄さんの人気の秘密も、あまりにも見事なプレイと、本人の言動のギャップの間にあるのだろう。なぜ、あれほど緻密かつ大胆で、天才的な野球をしていた人が、天真爛漫な発言を繰り返すのか。そのネガとポジのコントラストの見事さから、私たちは目が離せなくなってしまうのだ。
 モーツァルトと長島茂雄氏の問題を突き詰めていくと、そこには、脳という臓器の限りない神秘が立ち現れてくる。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

4月 10, 2005 at 06:59 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

それがなにものか判らないけれども

事故や何かのときに時間がゆっくり
感じられるというのは本当である。
 ひさしぶりにまとまった距離を走って、その
中盤、
 木の根に足をとられて転んだ。
 
 ただし、飴のように延びるわけでは
ない。
 物理的時間の流れが変わるわけではない。
刻みが細かくなる感じである。
 ゆったりと現象学的にふり返りながら
走り続けた。

 中国と台湾だったら、台湾の方がひいきに
決まっている。
 現在来日中のダライ・ラマには
ようこそ、と言いたい。
 単に、大きいものよりも小さいものを
サポートする、判官びいきだけかというと
それだけではない。

 中国の中にも、なにしろ、10億人もいるんだから、
自分に100%の正義がある、と疑うことを
知らないナショナリズムを、ちょっとそれは
どうなのか、と感じている人たちはいるはずだ。
 日本が朝日新聞や産経新聞だけではないのと
同じことである。

 国旗や国歌といった、わかりやすいシンボルに
足をとらわれてしまう人たちは、日本にだっている。 
 「愛国心」という、記号化されたもの
などは本当じゃない、と心ある人は
判っている。
 伊勢神宮の内宮を見たときに、存在を
揺さぶられ、深く感動するのは、
 それに名前を付けることができないからである。
 「日本」だとか「神」だとか、そんな
名前をつけて済ますことができるもんで
満足できる人は、気をつけないと
自動人形になってしまうのではないか。

 イデオロギーがダメだった根本的な
理由は、それが記号から自動人形への
ダイナミクスを促すからだろう。

 そんな中、なぜ台湾やチベットの人たち
に好意を持つかといえば、
 彼らが少なくとも国家、という制度に
ついてはオバハン的100%自己肯定に
とどまることはできないからである。
 チベットは華人がどんどん入り込んで
しまって無茶苦茶になっているし、
 台湾だって、国家の将来をおもえば
いろいろ悩んでしまう。
 そういう立場に置かれた人たちの方が、
「オレの立場は絶対正義だ」
という記号ー>自動人形の人よりも、
きっと伊勢神宮の深遠に近いところに
いられるのではないかと思う。

 ナショナリズムの問題に限らない。
名前をつけて満足しているようじゃダメだ。
 
何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる

と西行も詠んでいるじゃないか。

 本当は、木の根に転んで倒れるまでの
短い時間の間に以上のことを考えのなら
良かったのだけど、そうではありません。

 そういえば、昔トルストイの民話に
木の根を食べてお腹の痛いのを治すという
のが出てきて、その木の根がおいしそうだった。
 今度、走りながらおいしそうな根を探して
見ることにしよう。

4月 10, 2005 at 06:48 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2005/04/09

2005年度の大学での授業

今年度、私が大学で行う授業(定期)は
次の通りです。
茂木健一郎

早稲田大学国際教養学部
毎週水曜3限 13:00〜14:30(春学期のみ) 
7号館419教室

西早稲田キャンパスmap
Introduction to psychology
(授業は、基本的に英語で行われます)
シラバス

聖心女子大学
毎週木曜2限(10:40〜12:10)(春学期のみ)
臨床心理学特講18
シラバス

東京芸術大学
毎週木曜日4限(15:35〜17:00) (通年講義)
美術解剖学 
美術学部 中央棟

4月 9, 2005 at 12:22 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

東京工業大学大学院修士課程入試について

平成18年度 東京工業大学大学院 知能システム科学専攻入学試験

修士課程入試要項が発表されています。

http://www.dis.titech.ac.jp/exam.html

今年度入試において、私の研究室では若干名
の修士1年生を受け入れる予定です。
関心のある学生さんは、私に直接メールで
お問い合わせください。
kenmogi@qualia-manifesto.com
なお、現在私の研究室で行っている研究の
主なテーマは、
感情、active vision、ボディ・イメージ、記憶、
幼児の言語発達
神経経済学、視聴覚統合、神経回路網の数理
などです。
茂木健一郎

4月 9, 2005 at 11:47 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

ネットワーク思考の可能性とその限界

茂木健一郎
「ネットワーク思考の可能性とその限界」

理戦 80号 特集: ヒトの進化論

http://www.jissensha.co.jp/risen/risen.htm

一部引用

 どんなネットワークも、その起源においては無根拠に決まっている。それでも、ネットワークは、一度つくられてしまえば強固なものとなる。その「外」は確かにあるが、「外」を問うことは、強靱な無根拠性の前に多くの場合無益に終わる。ネットワークに対する批判が、ネットワークを強化してしまうのである。
 自然言語の恣意性については多くの人が自覚的だろう。自分の母国語以外にそれこそ無数の言語が世界には実際に存在するからである。危険なのは、一見その外がないかに見える、しかしその起源において無根拠なネットワークが世界を覆う時である。そのような時、多くの人がそのネットワークに無自覚かつお気楽に依存してしまう。(中略)それは、過去何回も繰り返されてきたことであり、これからも何回も繰り返されるであろう、ネットワーク思考に内在する暴力性である(中略)。
 既存のネットワークを前提に議論することは、一種の無限運動である。物理主義の枠内でも、ネオ・ダーウィニズムの枠内でも、思索の無限運動を続けることはできる。多くの人はそれで満足するのだろう。(中略)ネットワークの中で無限運動を続けることで足りると考える人間は、そうしていれば良い。世界はいろいろな志向性を持つ人間を許容するくらい広いはずである。

4月 9, 2005 at 09:54 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

インテリジェンスダイナミクス

ソニー10号館で
土井利忠さんのソニーインテリジェンス
ダイナミクス研究所のシンポジウムを聴く。
伊藤正男、正高信男、下村秀樹、銅谷賢治、
國吉 康夫、佐部浩太郎。

伊藤先生のお話の後で、会場の一番後ろから
真っ先に質問したら、
その後柳川透が立ち上がって質問したので
あせった。

こっちは百戦錬磨だが、
修士一年に入ったときはあんなにかわいらしかった
トオルくんが、こんなでかいシンポジウムで
立派に質問している。
さらに、関根崇泰まで質問したので、
大いに驚いた。

話はみんな面白かった。ノート2頁分の
アイデアができたなり。

昼休み、東工大、茂木研OBでホンダに就職した
長島久幸と、M1に入った星野英一をふくむ
8名でふらふらと品川プリンスの方に歩いていった。
あれだけの人が来ていると周辺の食べもの屋は
全部混むだろうと思ったからである。
それと、品川プリンスに新しくできた
水族館のオープン日だったので、その様子を
見たいという気持もあった。

38階で鉄道を見下ろしながらみんなで寿司を
食べ、
降りてきたら午後3時のオープンを前に
だーっと人が並んでいた。
あんなところでイルカのショウをやってしまう
というのだから、画期的である。
いったいどんなところなのだろう。

シンポジウムは大成功でしたね。土井さん
はじめ、インテリジェンスダイナミクス
研究所の皆さん、お疲れさまでした!

長島は普段は宇都宮にいる。今日は実家に
泊まるというので、
久しぶりにみんなで五反田の「あさり」に行った。
あさり名物のお兄ちゃんの顔をみて、長島が
「おお、なつかしい!」と言った。
長島、柳川、小俣圭は同期で、私が東工大で
客員を始めた時の一期生である。
修士に入ってすぐ、Kandelの内容について
テストとかやったなあ、と昔話。

じゃあ、長島が「先輩風を吹かす会」を
定期的にやろう、とその場で決定。
長島に限らず、OBは「先輩風を吹かす」特権を
持つことにする。
ただし少しおごること。

おごれるものは久しからず。春風が
本当に気持ちいい毎日だけれど、
満開の桜もすぐに散る。

今週末は火急の仕事をいくつか抱えているなり。
桜を見るのはジョギングに出かけるときくらいに
なりそうだ。

4月 9, 2005 at 07:38 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/08

脳科学はより良く生きるためのツールだ

日経ビジネスassocie
2005年4月19日号 no.063 
4月5日発売

[interview] 脳科学はより良く生きるためのツールだ
茂木健一郎 p.40-43

http://bpstore.nikkeibp.co.jp/mokuji/nba063.html 

4月 8, 2005 at 06:52 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

もうそうなっている。

竹島の問題だが、
あれは、領土をもった国家という制度に内在する
脆弱性のようなもので、
 放っておくしかないのではないか。
 どっちが正しいとかそういう問題ではなくて、
人工的に境界を区切る、というアルゴリズムに
不可避のアーティファクトだと思って
いればそれでいいように思う。

 養老孟司さんと一緒の仕事で、
いろいろお話することができた。
 まずは品川プリンスでNHKの高尾正克さんと
三人で。
 お昼のバイキングに大勢の人が
並んでいてびっくりする。

 その後は、養老さんと合同研修会の
仕事。
 私は創造性について話す。
 最近、aha! 体験についていろいろ
考えたり、
 実験をしたりして、
 この特異な認知プロセスについての
理解が随分立体的になってきたことを
感じる。

 養老さんは「バカの壁」以前からもちろん
お忙しかったが、「壁」以降は本当に
もみくちゃの状態で、その様子を見ていると
いろいろ考えさせられる。
 その言葉の多くが強く印象に
残るものであることは相変わらずで、
 aha!の一発学習と同じような
形で脳に刻み込まれる。

 夜の懇談会の後で、「これからカンヅメなのだ」
と養老先生は帰っていかれた。

 帰宅。
 身体は疲れていたが、何となくもう少し
酔ってみたくなって、
 ビールを買いにいった。

 一人歩く夜の道で、
「オレが死んだあとの世界はどうなっている
だろう」とふと考えた。
 親しい友人や家族はオレのことをどう思い出し、
世間の人々はどんな感じで、この世界を
見続けるだろう。

 その時、若い女が早足で向こうからやってきて、
その後から、千鳥足のサラリーマンがきた。

 それで、なんだ、世界はもうそうなって
いるじゃないか、と思った。
 オレの死んだ後の世界はもうここにある。
 あの二人にとって、世界がどう見えているか、
そんなことオレは知らん。
 親しい友人や家族にとって世界がどう見えて
いるかだって、
 本当は知らん。
 だったら、世界はもうそうなってしまって
いるじゃないか。

 養老先生とは、今月もう一回会う。

4月 8, 2005 at 06:44 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/07

私が生きた時間はどこに行ってしまうのか

文學界 2005年5月号(2005年4月7日発売)

茂木健一郎 「脳のなかの文学」第14回
私が生きた時間はどこに行ってしまうのか

一部引用

 内藤礼や堀江敏幸の作品世界は、大きな力、ともすればある特定の文脈を人間に押しつける粗暴なものに対する最良の美的抵抗なのだろう。そればかりではない。どうすることもできない時間の流れという、人間存在の絶対条件に対する、ささやかでしかし力強い対処でもあり得る。

 どうしてそうなったか、彼は自分でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女の足もとへ突き飛ばされたような気がした。彼は泣きながら、彼女の膝を抱きしめていた。最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真っ蒼になった。彼女はぱっと立ち上がって、ぶるぶるふるえながら、彼を見つめた。だがすぐに、一瞬にして、彼女はすべてをさとった。彼女の両眼にははかり知れぬ幸福が輝きはじめた。彼が愛していることを、無限に彼女を愛していることを、そして、ついに、そのときが来たことを、彼女はさとった。もう疑う余地はなかった・・・

   ドストエフスキー『罪と罰』工藤精一郎訳

 「罪」を償うための「罰」を受ける流刑地で、ソーニャの膝を抱きながら、ラスコリーニコフの魂は何をつかみ、どのような世界に接続したのだろう。
 『罪と罰』の結末に近い、このきわめて印象的な場面で起こっていること。その、ソーニャにも、ラスコリニーコフにも、読者にも、そしてドストエフスキー自身にも完全には把握しきれない何らかの事態の進行を、「後悔」や「悔悛」、「罪」、「罰」といった大きな言葉によってでなく、ラスコリーニコフのまつ毛の間から流れる涙の粒や、ソーニャの髪の毛をなでる風や、読者の両眼に輝く光の粒子といった小さなものから掴もうとすること。そのようなささやかな試みこそが、「私が生きた時間はどこに行ってしまうのか」という人生の切実な問いについて考える一つの有効な方法なのではないかと、私は考える。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm

4月 7, 2005 at 06:58 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

パッション(情熱/受難)

たまには現代の渇いた機能主義から
離れないとやってられんわい、と
Parsifalの第三幕を聴きながら、
窓際で目を閉じて、日の光を
感じていた。

すずかけ台につくころに、ちょうど
聖なる槍が聖杯のもとに戻ることが
できた。

パッション(passion)という言葉が
気になっている。
現代の英語では、情熱という意味だが、
もともとはラテン語でキリストをはじめとする
殉教者の受難を指す。
だから、十字架は愛のシンボルにもなる。
マタイ受難曲は、St. Matthew Passionである。
世の中には、Erbarme dich, mein Gott
(主よ哀れみたまえ)の
アリアを聴いたことがある人とない人の
二種類の人間がいる。

「受難」が「情熱」に転じる魂の錬金術には
鮮やかで深い鋭さと熱が感じられて、
自分の心の中でしばらくころがして
AからBをつくってみる。

中村清彦先生の研究室の毬山さんの博士の
中間発表。猿の道具使用に関する興味深い
モデル。

昼食の後、専攻会議があって、
さらに新修士1年に対するオリエンテーションが
あった。

私の研究室には、

大久保ふみ
箆伊智充
星野英一


の3名の方が入ってくる。

歓迎パーティーで、久しぶりに箆伊君と喋った。
大学院入試の面接の時以来である。
グレン・グールドが好きだという。
なかなかに大物の気配である。

自分が修士1年の時にどのような気持だったか、
思い起こしてみる。
将来が不安だった。
研究室のみんなが、かたく結ばれている
ような気がして、
そこに入っていけるか心許なかった。
いろいろ質問をされると、自意識過剰に答えた。
根拠のない野心に満ちていた。
学校でも社会でもない、
煉獄のようなところに入っていく気がした。

深くパッションを掘り下げている時に、
三宅美博さんがやってきて、
話しているうちにぱっと明るくなった。
三宅さんとは別府温泉の研究会の後、
大分駅でビールを飲んだ時のことが
なつかしい。

三宅さんの師匠は清水博さんである。

きっと、情熱と受難は無関係ではなく、
同じことなのだ。
そう考えれば、修士1年も教師もヘッタクレも
ない。
ただ、黙って情熱/受難を生きればよかろう。

4月 7, 2005 at 06:51 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/04/06

『新しい人間観の研究』の会

PHP研究所で行われた
『新しい人間観の研究』の会に呼んで
いただき、1時間喋る。

出席メンバーは、渡部昇一、土居健郎、谷沢永一、
木村治美、松田義幸の各氏。

そろぞれ大先生だけあって、ディスカッションの
時に、いろいろ
私の知らないことを教えていただいた。

例えば、渡部さんは、Aha! experienceは、
ドイツ語のAha-Erlebnisの方が早いんじゃ
ないか、とか、戦前の日本の辞書には、
ちゃんとconstitutionのところに
written constitutionとunwritten constitution
の別が書いてあったとか、戦前は
ブレンターノからマルティーに至る思想の
流れが随分人気があったものだがとか、
マズローはsafe baseのことをfeeling of security
と言っていたはずだとか、いろいろ
指摘下さった。
岡潔も、「創造は想起に似ている」と言っている
そうである。

谷沢さんは、「漢語」というのは翻訳されると
一人歩きする。憲法というのもそうだし、
哲学というのもそうで、西周が「哲学」
という言葉を作ると、ああ日本には本当の
哲学がない、などと深刻に悩む人たちが
出てくる、などと含蓄に富んだ話を
してくださった。

土居さんと言えば「甘えの構造」であるが、
学識は大変に広く、落ち着いた声で
鋭い指摘を下さった。

木村さん、松田さんの話も心に残った。

「末席を汚す若造」モードというのは実に
楽しいものである。
 「末席を汚す若造」モードの
時間がもっとあれば良いのにと思う。

最後に、渡部さんが、『脳と仮想』を取り上げて、
小林秀雄の思想の意義をこのような形で
議論しているのは、説得的であった、
と言っていただいたのがありがたかった。

PHP研究所が用意してくださった
帰りの
タクシーの中で思ったこと。

ケンブリッジの恩師Horace Barlowが、
大切なことをあまり言わなかったのは
なぜだろう。
およそ思想や哲学に類することは
あまり口にしない。
科学とはなんぞや、などということは
およそ言わない。
ただ黙々と現実的な行為やアレンジメントをする。
こいつに会え、この会議に行け、
などとサジェストする。
ディナーをアレンジする。
気がつけば、その現実的な行為やアレンジメントを
結ぶ線上に、言わずとも思想が浮かび上がってくる。

あの叡智は何なのだろう、と思いながら、
いつのまにかそのような人生の処し方に
親近感を持ち始めている自分に気がつく。

がたがた言うんじゃない、ただ、
黙ってやればいいんだよ。
ただし、考えないで手だけ動かせ
とかいう、
日本の研究者にときどきいる気持ち悪い
やつらのことを言っているんじゃないぞ。

最高の教養を身につけ、もっとも深い思想を
抱け。
ただし、作品として世に問う時以外は、
黙って日々の行為をせよ。
その行為の包絡線上に、その叡智がシミジミと
にじみ出てくるようにせよ。

そして、いざ思想や哲学の言葉を吐くときは、
命がけでそれに寄りかかれ。
そして、さっと忘れちまえ。

うん、人生はきっとそうだ。

タクシーのラジオからはナイター中継が
流れていて、
巨人がまた負けそうだった。

4月 6, 2005 at 05:54 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/04/05

地上に現れた新しい太陽を見上げて

風の旅人 第13号 
(2005年4月1日刊行)

茂木健一郎 都市という衝動 第12回
地上に現れた新しい太陽を見上げて

 通りを歩く度に新しい何かが目に入る都会も好きだけども、時代の流れのメインストリートから離れて、ひっそりと佇んでいるような街も私は好きだった。
 10年ほど前、学会で初めて訪れた福岡県の飯塚は、そんな街のように思えた。滞在する日を重ねていくにつれて、私の心の中には柔らかい澱のようなものが蓄積していった。
 かつて石炭の採掘で栄えた頃に、たくさんの趣味の良い料理屋ができたらしい。炭坑が閉山され、その後の時代の流れの中で少しずつ数が減ってきているとは言え、かつての繁栄の名残を残す店はまだあった。決して、大げさで派手な店が並んでいるわけではない。むしろ、ひっそりと目立たない店の中に、思わぬ歓びが隠れていた。
 九州の太陽は強い。川にかかる橋には、車道の横に歩行者用の道があり、「人道」と看板が掲げられていた。昼間町並みを歩くと、風景の中にあるもの全てが強烈な光の粒に攻撃されていることがはっきりと判った。
 太陽が沈み、暗闇があたりを包むとほっとした気分になった。ホテルの近くに定食屋があった。夏の盛りでも、夜には店の窓を開け放せば、涼しいと感じられる風が通って行く。白いタオルを首にかけたおじさんが、高い台に載せられたテレビの巨人戦を見上げながらビールを飲んでいた。店を切り盛りするおばさんが料理した総菜が何種類か鮮やかな色柄の大皿に盛りつけられ、うまそうだと思ったものを指して取ってもらった。一人でテーブルに座っていても、寂しくはならない。にせの九州弁で野球の話をすると、白タオルのおじさんが豪快に笑った。その白い色が、昼間の強烈な太陽を思い出させた。 
・・・・

(全文は「風の旅人」でお読み下さい)

http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/

4月 5, 2005 at 08:12 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

脳と癒し 全5回

朝日カルチャーセンター講座 脳とこころを考える
ー脳と癒しー
全5回 (第4回は南直哉さんとの対談)

人間とはどのような存在かを考える上で、急速に進歩しつつある脳科学を初めとする科学の知見は大切なヒントを提供してくれます。 人間はいかに生きるべきか、といった価値観にかかわる問題に、科学はどのよう な考え方のヒントを提供するのでしょうか?人々が「癒し」などの精神的な問題に興味を深めている現代において、人間を理解するためのツールとしての科学がどのような意味を持ちうるのかを、最新の脳科学の知見を中心に考えていきます。 第4回には、禅の思想を深くわかりやすく伝えて注目されている僧侶、南直哉さんをお迎えして対談いたします。(茂木記)

4/15、 22、 5/20、6/3、 17
金 18:30〜20:30 

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0504koza/A0301.html

4月 5, 2005 at 08:03 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

終わりなき「問い」をめぐって

終わりなき「問い」をめぐって
仏教と科学の対話〔後篇〕
南直哉 茂木健一郎

新潮社 『考える人』

2005年春号(2005年4月4日発売)

http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mokuji.html 

4月 5, 2005 at 07:58 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

花見のメインステージ

関根崇泰、花見実行委員長(本職は、
東京工業大学大学院博士課程2年)の活躍により、
 生まれて初めて上野公園の桜の下という
「花見のメインステージ」で
花見をすることができた。

 電通から佐々木厚さんと後藤さん、
芸大から植田工、蓮沼昌宏、津口在五も
駆けつけ、
 さらには、修士一年に入った星野英一くんも
久しぶりに顔を出して、
 とてもにぎやかで楽しい花見だった。 

 午後8時にぼんぼりの灯りが消え、
広小路に移動してこちらも久しぶりの
カラオケ。
 自分が歌ったり、他人が歌ったり
するのを見ているうちに思ったこと。
 ビートルズにはノーベル文学賞を、
尾崎豊には芥川賞をあげるべきではないか。
 Nowegian woodsの歌詞は完璧な短編小説
であるし、
 「十五の夜」には青春のやり切れない
一瞬がとらえられている。

 さかのぼって、研究所に向かう
 電車に乗っている時、ふと思った。
私たちは、一日の経験というものはその日に
起こったことで出来ていると思っているが、
実はそうではない。
 まず、明瞭に過去を思い出している
時がある。
 それから、過去にも未来にも属さない、
抽象概念について考えている時がある。

 現在と向き合っている時にも、
その時に動員している概念ツールたちは、
過去に属している。
 その過去は、必ずしも自分の人生
に属するものだけとは限らない。
 他人の経験が文化を通して「私」
に漂流する場合もあるし、
 さらには、三木成夫の言う
生命記憶もある。

 過去という巨人の肩に乗って、
私は魂をふるわせながら「現在」に
向き合っている。

 上野公園で、談笑しながらふと
桜を見上げた時、視覚の中を
よぎるのは必ずしも現在に属する
クオリアだけではなく、
 過去に積み重ねてきた無数の
体験の地層の照り返しなのだ。

 それにしても、よく歌い、よく飲んだ。
星野くんや、田谷文彦くんと何回も
握手したような気がするし、
 英語の歌を即興で日本語にして
歌うとか、
そういうこともまたやってしまった
ような気がする。
 花見らしくて良かった。
 関根くんやみんな、ありがとう。
 今年度も一年がんばりましょう。

4月 5, 2005 at 07:43 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/04

売れ行き

売れ行きが気になるのは、著者も編集者も同じこと。
運命共同体であるからして。

PHPの石井高弘さんから、「八重洲ブックセンター4Fで
『脳と創造性』が7位でした」
という気合いの入ったメールを頂いた。

あぁ私のかけらよ力強くはばたいてゆけ振り返らない
で広い海を越えて
たくさんの光がいつの日にもありますように

私の本に、ラルクの「Pieces」をはなむけに送る。


http://www.yaesu-book.co.jp/best-seller/4f.htm 

4月 4, 2005 at 10:50 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

日南海岸の恵み

幸島の岩場で、捕らえた魚を食べる猿。

コウモリが住むという幸島の洞窟。

青島近くの海岸にて、小石流星群と銀の波跡線。

4月 4, 2005 at 08:18 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

揺らぐ自己をクールに見つめる

空港で日高敏高さんの『春の数え方』
を買い、読みながら帰ってきた。

 生物の世界は、いろいろな
驚きに満ちているけれども、
 近代人であるわれわれが本当に
反省すべきことは、
 存在というものがいかに相互依存的
であるということと、
 「自己」というアイデンティティが
相対的なものであるかという
二点に尽きるのではないか。

 確立した自己に情報が入り、
出て行く、といった近代的自我の
モデルの下に問題を考えるのは
やめたい。 
 生物の世界が、性の問題を含めて、
いかに自己というものを簡単に
踏みにじって新しい自己を作って
いくかということを反省して見るべきだろう。

 とは言っても、現代思想的な曖昧模糊
とした議論をなぞるつもりは全くない。
 つまり、事実問題として、そうなっている
ということを認めるべきではないか、
 という広い意味での科学主義の話として
私はこの問題を考えている。 
 クールなロジックの内に、ホットな
メタモルフォーゼを捉えたいのである。

 「セレンディピティ」も、言い出したのが
アングロサクソンのホラス・ウォルポール
だから、一応、「近代的自我」を前提に
した話(「私」が偶然幸運に出会う能力)
となっているが、これを突き詰めていけば、
多細胞生物、有性生殖、細胞内共生といった、
同一性自体をゆるがす一連の事態につながって
いくのである。

 私は、「仕事をする」というメタファーが
キライである。
 作家などが、「何々と何々の間に何々の
仕事をして、原稿を送ってすっきりした」
などとエッセイで書いていたりするのを
読むと、春風でぶんなぐってやろうかと
思う。
 なぜかと言うに、 
 きっと、そこに、「確立した私が
何かをする」という近代の匂いをかぎ取る
からだろう。
 「私」なんて、いくら揺れても、変わっても、
領域侵犯されてもいいんだ。
 モーツァルトはきっとそんな感じで
やっていたに違いないと確信する。
 小林秀雄が評論を書くときに、「さて、仕事を
するか」「ああ、気持ちよく仕事ができた」
などとやっていたとはとても思えない。
 むしろ、一回一回が自己そのものが揺らぐ
事態であったはずだ。

 何よりも大切なのは、現代思想的曖昧模糊でも
ニューエージ的目キラキラでもなく、
 実際問題として、いかに世の中の事態が
同一性の書きかえを伴って進んでいくか、
それをくもりのない目で見つめることである。

 先日、日本テレビの方と、
セレンディピティのことを話していた時、
 日テレの人気番組『エンタの神様』、
『伊東家の食卓』は、実は最初は全く違った
番組として構成されていた、という
話を聞いて、「へえ〜。でも、やっぱり!」
と思った。
 『エンタの神様』は、最初はタレントが
どこかに出かけて面白いエンターティンメントの
情報を紹介する、という番組だったし、
 『伊東家の食卓』はほのぼのファミリー
エンターティンメントだったというのである。

 それが、いつの間にか「お笑い芸競演」
「裏技紹介」番組になったのは、たまたま
そのようなことをやったコーナーの視聴率が
高かった、評判が良かったということがきっかけで、
 番組自体の同一性が変わってしまった、
ということのようなのである。
 
 これは、「Aを求めていたら、Bを見つけて
しまった」というセレンディピティの定義に
見事に合致する話である。
 そのような番組製作を許容する日本テレビ
という組織は、なかなか素晴らしいのでは
ないかと思う。
 「Aという企画で立ち上げたんだから、
確かに面白そうなBというものも見えて来たけれども、
ここはぜひ一つAを貫いて!」とやっていたら、
人気番組は出来ないのだ。

 これは、別にフランス現代思想を持ち出す
までもなく、アングロサクソン的精神における
経験的事実なのではないか。

 「私」自体が揺らぐ熱い領域のことは、
確かにフランス現代思想が得意としてきた。
 私は、そこに、アングロサクソン流クールさ、
現実に起こっていることを冷静に観察する
科学主義的ロジックを持ち込みたい。
 その間に補助線を引きたい。
 そういうことです、筑摩書房の増田健史さん、
判りましたか。

 今日は、関根崇泰の主催により、
研究室の花見が予定されている。
 上野公園になるようだ。
 うまく雨が上がって欲しいと思う。

4月 4, 2005 at 07:50 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/04/03

桜が記憶させる柔らかな時間

ヨミウリ・ウィークリー
2005年4月17日号
(2005年4月4日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第48回

桜が記憶させる柔らかな時間

一部引用

 『東京物語』を見て一週間後、私は新幹線に乗っていた。学生だった私にとって、旅費を工面することはそれなりに大変だったが、行かずにはいられなかった。映画に出てきた尾道の光景を、自分で確かめたいという衝動を押さえることができなかったのである。
 現実の尾道は、映画以上に魅力的なところだった。千光寺公園に登ると、満開の桜に包まれた。桜の木の下に座って尾道水道を行き交う船を見ていると、時が経つのも忘れた。あの時ほど柔らかで静かな時間を過ごしたことは、これまでの人生の中でもなかったかもしれない。
 今考えてみれば、桜の季節に尾道に行けたことは、本当に幸運なことだったと思う。桜が咲いていたからこそ、あの時の記憶がこんなにも鮮明に残っていると考えられるからである。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

4月 3, 2005 at 07:12 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

幸島の恵み

春の旅行で宮崎に来た。2泊3日。
 初日はフェニックスリゾートに泊まり、
オーシャンドームの人工波の中で泳いだ。
 2日目は、まず鵜戸神宮に参拝、
運玉を投げたが入らず。
野生馬のいる都井岬まで下り、
 それから戻って、「イモ洗いの猿」
で知られる幸島を舟でぐるりと巡った。

 宮崎から日南海岸を南に下れば下るほど、
自然の気配が濃くなり、人為はまばらになって、
世界というのはこんなにも神々しく、
 そして美しい場所だったのかと、
改めて自分の日常を振り返る。

 大都会で仕事をしている中で
出会うものたちの中で、
 私が「こざかしい」「品性下劣」
「勝手にサラセン帝国」と怒る作品群は、
つまり、もともとこの地球上にあった
自然の流れにつながっていないのだな、
と納得する。
 それに対して、素晴らしい作品たちは、
一見それが離散的で人工的なものであるように
見えても、必ずや海に下っていく山々の
稜線の織りなす精神につながっている。
 その内なる補助線を私の魂も感じているのだ。

 幸島だが、「イモ洗いの文化が伝わる」
とか、そのニューエージ的展開である「100匹目の
猿」とか、そのようなものから連想されるものと
全く違った代物であったことに愕然とし、
感動し、そして反省した。
 
 周囲4キロのこの幸島は、僅かな砂浜を除けば
海からいきなり岩場を経て丸く隆起した
山林があり、こんなところに猿が住んでいるのか、
と疑問に思うくらい、コンパクトに峻厳とした
島容であった。

 親切な漁師系のおじさんの解説から私が
咀嚼するに、
つまり、人間が与えた「イモ」を洗って
食べるなどということは、この峻厳たる島で
暮らす猿にとっては、例外的なこと
なのである。
 本土側にある京大霊長類研の常駐ステーションの
研究者が、個体識別や体重測定のために
「小麦」をまく以外には、基本的にこの島の
猿は人間が勝手に規定する「文化」などとは
関係のない世界で生きている。

 さらに言えば、イモ洗いの文化などを
特に問題にするまでもない豊かで複雑な
 文化があることは、
 岩場で魚をとらえてむしゃむしゃ食べている
猿の表情を見ていれば、容易に想像できた。

 テレビ局のクルーは、島に一カ所の
砂浜でイモ洗いをしているところを
喜んで撮影していくという。 
 なんと文明にアタマが毒された人間たちは
愚かなことか。
 もっと他に撮るものがあるだろう。
 現地に来て自分の思いこみを反省し、
シナリオを変えるくらいの芸当ができないのか。

 京大霊長類研の研究者たちも、
イモ洗いなどは、猿の文化のきわめて
artificialな一部分に過ぎないということを
十分知っているに違いない。
 宣教師たちが、「土人」がナイフと
フォークを使って食べた、と喜んでいる
ようなものだ。

 幸島には、2種類のコウモリが住むという
洞窟があって、
 海面からすぐのところに、
 黒々とした入り口を見せていた。
コウモリたちの世界と、猿たちの
世界が交錯することはあるのだろうか。

 小さな砂浜、波が砕ける岩場、
こんもりと盛り上がった山の斜面に
生える木々。コウモリの住む洞窟。
 幸島は、コンパクトな中にも
様々な表情を見せて、
 約100頭の猿が厳しくも宇宙の魂に
つながって生を送るのに必要にして十分な
世界がそこに成りたっているように見えた。

 幸島の恵みは、きっと現代の文脈から
遠く離れたところにある。

 幸島の後に訪れた
 青島は以前に一回来ていて、
どんなに素晴らしいところか知って
いたので、
 確認するために一巡りしたが、
やっぱり良いところだった。
 今回はまるで人工物のように見える岩を
デジカメで撮影して回ることに集中していた。

4月 3, 2005 at 07:05 午前 | | コメント (3) | トラックバック (1)

2005/04/02

小さきものたちにこそ、地上は支えられ

ギャラリー小柳
東京都中央区銀座1-7-5

内藤礼 『地上はどんなところだったか』
(4月1日より開催中)
解説文(会場で配られています)

小さきものたちにこそ、地上は支えられ

茂木健一郎

 大きなものに力が宿るのは、当然のことである。小さなものに力が宿るのを目にする時、私たちはそこに現出している不可思議なパラドックスに心を動かされる。手のひらに載るような小さきものたちの表情の中に、大世界をも成り立たせているこの宇宙の原初的な秘密が顕れているという事実に不意打ちされるのだ。
 内藤礼の作品を前に佇むことは、変容していく自分の体験と向かいあうことである。小さきものの密やかな力が、やがて微かな光となり、私たちの魂を満たして行く。「あちら側」から小さきものたちが放っていると思っていた光が、実は「こちら側」から、すなわち自分自身の魂から発せられていたことに気づく。その美しい自己認識の瞬間が、内藤礼の作品のもたらす祝福である。その時私たちは、この愛に満ちた芸術家の生み出す小世界が、魂を、そして世界全体をさえ映し出す鏡であったことを知るのだ。
 私たちが今目にしている小さなものたちの力は、生命誕生の記憶そのものに結びついている。私たちの命は、最初は目に見えないほど微かな胎動としてこの世にもたらされたのであった。内藤礼が土をこね、魂を乗せる舟を形作り(「舟送り」)、白い紙に無数の穴を穿ち、風景を変容させるこの上なく繊細なスクリーンを生み出す時(「地上はどんなところだったか」)、そこに込められた祈りの内容をもちろん私たちは知らない。しかし、アトリエのドアが開き、その成果が世に向かって差し出される時、私たちは全ての命が最初は微かな気配のようなものとしてこの世に生み出されるものであったことを、確かな感謝をもって思い出すことができる。そして、いつの間にか、自分という存在が、母が幼子に向けるような無償の愛に包まれ、肯定されていることに気づくのである。
 大人になってしまった私たちは、日常の中で、大きなものたちに囲まれ、時には心をギスギスと荒立てて生きている。グローバライゼーションの奔流の中で、巨大な力にばかり目を奪われるのが現代人の生活である。しかし、この世界を成り立たせている根源的な作用とは、本来、小さく、やさしいものではなかったか。清少納言はかつて「なにもなにも、ちひさきものはみなうつくし」と書いた。それは単なる感傷ではなく、世界認識であったはずである。小さくてうつくしきものこそが、すべての生きとし生けるもののふるえであり、光であることを内藤礼は思い出させてくれる。だからこそ、その作品世界は小さくてうつくしいだけでなく、すぐれて現代的な意義を持つのである。
 10年以上取り組んできたというドローイングのシリーズ、「ナーメンロス/リヒト」に捉えられた、意識されるぎりぎりのあわいの中に見えてくる風景を前にした時、私たちは感謝をもって私たちがすむこの世界が本来どんな場所だったかを思い出す。
 地上は、実に、生命にあふれた場所であった。それは至るところにあって、私たちを包んでいる。カーテンから差す日の光のそばに、机の上のちっぽけな文具のまわりに、あの人のセーターのほつれの内に、ふと胸をよぎる予感の中に、私たちの/世界の生命はある。目を見張るほど巨大な物質や大文字で書かれた観念ばかりが飛び交う現代において、一つの奇跡のように現出した精神の日だまりがここにある。
 芸術が私たちの/世界の内側に秘められた生命の可能性への気づきをもたらしてくれるものであったとすれば、私たちは今もっとも小さく、そしてうつくしい芸術を目の前にしている。内藤礼の作品は、「地上はどんなところだったか」を私たちに改めて思い出させてくれる。小さなものたちこそが、この地上を支えているという真実をそっと耳打ちして教えてくれるのである。

4月 2, 2005 at 06:32 午前 | | コメント (4) | トラックバック (5)

味覚は成長する

Webマガジン en 連載
食のクオリア 第二期
茂木健一郎 「おいしさの恵み」
第1回  味覚は成長する

http://web-en.com/

4月 2, 2005 at 06:26 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

エイプリル・フール

昨日の私の日記はもちろんエイプリル・
フールです。
 もし、本気にされていた方がいたら、
ごめんなさい。
 朝ご飯の前に、コーヒーを飲みながら
30分くらいで作りました。
 でも、本当にそういうアートが
あればいいのにね。

 エイプリル・フールの日記や「ニュース」
を作るという習慣が出来たのは、1995年
から1997年にイギリスに留学していた
時でした。
 高級紙からタブロイドまで、新聞が
マジでネタをつくります。
 しかも、相当に凝っており、ありそうで
ないようなグレーゾーンをねらっていて、
 記事のどこにも「これはエイプリル・
フールである」という断りはないから、
 果たしてこれはどうなのか、ネタなのか、
本当なのかと首をひねることになります。

 BBCなどのテレビも真面目に
エイプリル・フールをやっていて、
 もともとイギリスのコメディが好きな
私としては、これはいい、と思いました。

 そのようなわけで、昨日の日記が
エイプリル・フールだとばらすのは
ちょっと気が引けるのですが、
(池上高志などは、すぐに「今年のは
気に入った」とメールをくれたけど)
 本気で信じている方がいると
それも罪かと思い、あえて記す
次第です。
 来年の4月1日もお気をつけください。

 エイプリル・フールだからと言って、
 どんなものを書いてもいいのかと
言うと、そうではなく、
 やはり基本的には読んで嫌な感じを
受けないもの、good spiritなものという
コードはあるように思います。
 なんとなく、春が来た、ということの
うれしさと関係するのかもしれません。

 クリックとワトソンのDNAの二重らせん
構造の論文は、Natureのサイトから
無料でダウンロードできますが、
 その投稿日が、1953年4月2日に
なっています(掲載は、1953年4月25日号)。
 ひょっとすると、4月1日に投稿するのは
いかにもまずい、ということで、 
 一日ずらしたのかも、と想像してみると
楽しいかもしれません。

 願わくば、いつの日か、世界を変える
大論文を書いて、
 それを4月1日に送りたいものです。

4月 2, 2005 at 06:18 午前 | | コメント (5) | トラックバック (1)

2005/04/01

動物マスク

昨日は数えてみると朝から夜まで計6件の
アポイントメントがあって、時間に追われて
あっちからこっちへと動き回る一日だった。

 品川駅に向かって歩いていた時のことである。
 道の向こうに、何やら不思議な集団がいた。
 十人くらいの男女が、道行く人に何かを配っている。
 みんな、マスクをしているのだけれども、
 そのマスクにいろいろな模様が描いてある
ように見えるのである。
 近づいていって、はっきり判ってきた。
 一人一人のマスクの上に、絶滅の危機に
瀕した動物の絵が描いてあるのだ。

 私は俄然興味を持った。
 最近、タクシーに乗った時に、運転手さんと
次のような会話を交わしていたからだ。
 「最近、花粉症の人が多いですねえ。」
 「そうだねえ、マスク屋さんは、大もうけだね」
 「あのマスクに、広告を印刷して、タダで
配ったら、いい商売になりますね」
 「一億人の30%として、3000万個、
大量にさばけますね。」
 「問題は、ガーゼに印刷しにくいことかな」
 「花粉症に効く成分を混ぜたインキで印刷
したらどうですかね。」
 「意外と、流行のファッションになったりして」
 「わはは」

 そのアイデアを、実行している人がいるの
だろうか。
 私は一個マスクをもらって、観察した。
 折りたたまれたもマスクを開けると、
小さな紙が入っていた。
 メッセージが書いてある。

 「このマスクをつけて、今日一日歩いて
ください。このマスクには、絶滅に瀕した
動物が描いてあります。東京を、今日一日、
動物たちが占領します。
 スギ花粉症は、自然の
広葉樹林を切り倒して、商業的価値の高い
スギを植林したことによって生まれました。
 人間は、自分自身の行いからしっぺ返しを
受けているのです。
 文明の罪を反省し、動物たちの地球を
取り返すためのシンボルとして、このマスクを
ご活用ください。」
 (原文のママ)

 私は、なるほど、と思ったが、道行く
人はマスクをもらいつつも、
 実際にしてみようとする人は少ない
ようだった。
 
 私のマスクは、ヤンバルクイナだった。

 「いいことをされてますね!」
 そう、マスクを配っているメンバーに
声を掛けると、マスクの人はにっこり
笑った。
 その人のマスクは、イリオモテヤマネコ
だった。

 私はヤンバルクイナになって、品川駅の
エスカレーターを上がった。
 すると、向こうから、動物マスクをした
集団が来た。
 どうやらあちこちで配っているらしい。
 修学旅行の学生たちが、全員動物マスクを
している。

 山の手線の車両に乗ったら、一車両全部の
乗客が、動物マスクだった。
 みんな、お互いにニコニコ笑っている。
 車両が絶滅危惧動物の楽園になっている。
 どうやら、組織的にオルグしているらしい。
 思ったよりも、広がりのある運動らしい。
 
 動物マスクの日ってあったっけ、
と思いながら打ち合わせ場所の喫茶店に向かうと、
 相手が椅子から立ち上がってお辞儀をした。
 口には、オオワシが描かれていた。

 これは、すごいことだ。
 マスクがハイ・レッド・センターのような
アートのメディアになっている。
 社会的メッセージ性も明確だ。
 仕掛け人は誰だろう、
 ニュースとして取り上げられるに
違いないから、それで確認しよう、
と今朝の新聞を開けてみたが、
どこにも書いていない。
 
 林野庁から圧力がかかったのだろうか。

 動物マスクの仕掛け人は誰か、
スポンサーは誰か、
 知っている方は教えてください。
 私は、何だか、感動してしまったあ。

4月 1, 2005 at 07:30 午前 | | コメント (7) | トラックバック (2)