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2005/04/26

共苦(compassion)という原理

今回の尼崎の福知山線の事故のようなことがあると、
他の全てのニュースがぶっ飛んでしまう。
 あまりにも思いがけない事態に、
呆然として黙るしかない。

 「共苦」(compassion)とか、
「愛」(love)とか、
 そういうものを原理(principle)として
生きていれば、大体人間間違いない。
 東アジアというのは自分が生まれ育った所
ながら、奇妙な場所で、
 共苦とか愛の価値が文化として根付いていない。
 だから、中途半端な価値に目が眩んで
うろうろする人たちが出てくるわけで、
 プッチーニの『トゥーランドット』のラスト、
愛の原理で一撃されてしまうような隙
が生まれてしまうのである。

 道を説く人は多けれど、
一通り承った後で、
 お前の言いたいことはわかったけど、
 それがお前のプリンシプルだということで
いいんだな、と正面から目を見すえて
言ってやりたい。

 キリストという人が自然人として
本当にいたかどうか
判らないけど、
 絶対者である神がわざわざ人間の肉体を
帯びてこの世に生を受け、
 死すべき人間の苦しみを「十字架」という
究極の形で体験した、
 という「共苦」を基本に置いている
ところは宗教構造としてすごい。

 「共苦」をプリンシプルにおいていれば、
昨今の東アジアのようなことはないはずだ。

 一人一人が胸に手を当てて、
一体、生きていく上で大切な原理とは
何か、考えてみたらどうか。

 原理がしっかりしていないやつは、
どんなに饒舌で人生を泳ぐのが巧みでも、
結局人の心を深いところで動かすことが
できないと、最近つくづく思う。

4月 26, 2005 at 07:23 午前 |

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[http://d.hatena.ne.jp/renpoo/20050603:title=先日の記事]で「デジタル化」についてさらりと引用した。其の時にふと想ひ出したのが『究極のデジタルはアナログ』という一文である。大學時代にこころの中に祕めてゐた自家製のアフォリズムである。しかし今ふり返つて見ると本当にさうだらうか?と感じたりする。 當時は科學史や科學哲学の授業の影響を受けながら、情報科學專攻として幾らかの基礎理論に觸れていた。3DCGの基礎理論を中心に画像處理やロボット工學を獨學で勉強していた... [続きを読む]

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コメント

“共苦”ですぐ思い出すのが,学生時代にハマった高橋和巳の小説に出てきた“共苦の絆(Mitleiden)”という表現。昔の雑記帳がどこかに行って作品名まで確認できないのですけれど。

投稿: シェーマ | 2005/04/28 23:09:39

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