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2005/03/05

色物の時代

最近、筑摩の増田健史と話していた時、
現代は「色物」が多い、ということに気が付いた。
 ちなみに、「色物」とは、
三省堂提供「大辞林 第二版」によれば、

寄席演芸のうち、中心にならない物。現在の東京の寄席
では落語以外の漫才・音曲・曲芸・奇術などをいい、大
阪では漫才以外の落語などをいう。

とある。

 私は東京の寄席に子供の頃から親しんでいる
ので、「色物」という言葉の理解は、東京風である。
 もちろん、落語でも笑うわけだから、そんなに
かしこまっているわけではないが、どこか
裃を着けている気分がある。
 落語が終わって、漫才や曲芸の人たちが
出てくると、裃がとれて「何でもあり」の
世界になるというか、にぎやかしになるというか、
天の岩戸という感じになる。

 大阪では逆になる、というのは本当である。
 時間があれば、なんばグランド花月に行くことに
しているが、
 あちらは漫才が主流であり、時々落語家が
出てくると、「あーっ、色物だ」という
感慨が込み上げてくる。
 かといって、「さあ、ここからは何でもありの
世界だ」という開放感があると言えば、そうでも
なく、むしろ、ちょっとシュン、とする
感覚である。
 大阪人は、最初から何でもありの世界に
生きているのかもしれない。

 現代が色物全盛だというのは、東京の寄席の
意味においてであって、
 つまりは裃を着けた作品の流通量が少ない、
あまり注目を浴びない、ということである。
 『電車男』などは典型的な色物だし、
 あらゆるジャンルで色物が大はやり。
 本寸法の古典落語は絶滅寸前である。

 だからどうだ、というわけではなくて、
そう整理すると、寄席の雰囲気を熟知
している私としては、「ああそうか」と腑に落ちる。
たまには古典落語を聞いてみたい気もするが、
色物は色物として楽しむことができる
気がしてくる。

 ちなみに、東京の寄席の色物でピカ一は
「ボンボンブラザーズ」である。
 紙を鼻の上に載せるあの芸を、もう数年は見て
いないので、
 こんなことを書いていたら、また見たく
なってしまった。

 丸山真男、柄谷行人、大塚久雄などの
本寸法をここのところ移動中に読んでいたので、
対照として、現代の書店をにぎわす諸作品が
全部色物に見えたのかもしれない。

 色物でないものも生産され続けているの
であろうが、
 残念ながらあまり話題にもならず、
消えていってしまうのである。
 色物と本寸法のバランスがとれてこその
知的エンターティンメントなのだけれども。

3月 5, 2005 at 10:16 午前 |

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