国家とお金
竹島については、日本も韓国もそれぞれの
言い分があるようだ。
こんな時は、コイントスで決めたら、
と言っても、「国家」が絡むと
そうもいかないということなど判っている。
自分の身体の範囲さえわからず、
セルフ・タッチを通して模索していく
新生児の立場にたちかえれば、
国家などきわめつきの人為だということ
くらい判っている。
人工衛星から見れば国境線などないことも
判っている。
しかし、「国家」というものが、その起源は
アーティフィッシャルだとしても我々の
脳の中で強烈なリアリティを持ってしまって
いることもまた事実である。
結論として、
国家というパトスに対しては、認知的距離を
持って接しようと思っている。
靖国神社参拝の問題にしても、
自分がどのような態度をとるか、ということよりも
(それは畢竟一億分の一の問題に過ぎないから)
なぜ、人々が(日本も韓国も)この問題について
パッショネットになるのか、ということを
考え、分析することが私のやるべきことだと
思っている。
お金も同じで、私はお金のプロになろうとは
思っていない。
お金に対しては認知的距離(detachment)を
保ちたい。
お金の運用について、パッショネットに
なろうとは思っていない。
自分の預金についても、残高は確認するけど、
それ以上何かしようと思ってはいない。
お金のことを考えるのがイヤなのである。
私の友人には、似たようなのが多くて、
郡司ペギオ幸夫は、なぜか銀行のキャッシュカード
を家に置きっぱなしで、いつもクレジットカードの
キャッシングで下ろしている、とかわけの
わからないことを以前言っていたが、
今でもそうなのだろうか。
ワグナーは「反ユダヤ主義」で知られるが、
ワグナーの「ユダヤ」は民族でも宗教でもなく、
つまりは拝金主義だった。
若き日に、パリでヒドイ目に遭ったのである。
お金というものが、人心を動かし、
人々の行動を支配する、そのような構造自体に
対して反発した。
『ニーベルングの指環』では、自然の中から
収奪したラインの黄金が、
ワルハラ城の建設に対する謝礼に向けられる。
この「錬金術」が全てのドラマトゥルギー
の起源になるわけだが、
そのワグナーがお金ばんざいの拝金主義に
対してどんな態度を取っていたか、そんなことは
作品を見ていれば判る。
もっとも、お金と縁を切るわけにもいかない。
「根岸の里のわびずまい」と最後につければ
なんでも川柳になる、とは良く言われることだが、
「それにつけても金のほしさよ」
とつけえれば、どんな上の句でもリアリティを
持つ。
つまりは、誰もお金と無縁では生きてはいけない
のであって、
それはワグナーも一緒だった。
少なくとも、お金について考えることが
人生のプライマリーな関心事になる、
そんなことにはオレはなりたくない。
資本家になったら、始終「あの金をどういかそう」
「あの借金をどう返そう」「キャピタル・ゲインは
いくらだ」とかんがえていなければならない。
ヒグラシじゃあるまいし、「カネカネカネ」
はいやだ、というのが、私の本音である。
島田雅彦が「金では買えない快楽」にこだわるのは
あんがい深い哲学的意味を持っているのだと思う。
国家とお金。この二つのパッションの淵源に
対してどのような態度をとるか。
実に難しいが、時々は考えてみようと
思う。
もちろん、プライマリーな関心事、という
わけではない。
企業経営、買収にはお金以外の
要素もある、などということは当たり前だが、
最後はお金の収支になるということを、
プロは判っているはずだ。
お金が血液や生き物に見えてこないと、
プロの資本家などになれるはずがない。
昨日、必要があって小林秀雄の「モオツァルト」
を読み返してみたら、
やはり掛け値なしに素晴らしかった。
朝起きて、「さて、今日はあの金をどう生かして
やろう」と思案する資本家の生活よりも、
やはりこっちの方がオレにとってはいい。
3月 28, 2005 at 07:30 午前 | Permalink
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コメント
うだうだも言って研究もして、小林秀雄を読んで「やはりこっちの方がオレにとってはいい。」と言うのに対して、私もそっちの方がいいと言う。
投稿: tatar | 2005/03/28 19:26:12
うだうだいっていないでいいかげんけんきゅうしたらどうだい?
投稿: Quasi | 2005/03/28 11:23:36