「わからない」という至福
新潮社の雑誌『考える人』が、
今度の号で心脳問題を特集するというので、
ここのところ
北本壮さんにいろいろ質問されている。
その中で、白と黒のパターンの中に、
それと気が付けば絵があるような「だまし絵」は、
もっとないのかとたずねられた。
「ダルメシアン」
や
「ダレンバッハの牛」
が有名であるが、他にはないのか、というの
である。
金沢工業大学の田森佳秀が、いろいろな
写真から「ダルメシアン」タイプの絵をつくる
アルゴリズムの研究をしている、と以前に
聞いていたので、
田森にメールを送ってみた。
すぐに返事が来て、自分でつくったやつは、
事情があって出せないが、こんなものも
あるよ、と二つの図を送ってきてくれた。
これが、私の時間を奪うことになるとは
お釈迦様でもご存じなかったろう。
二つの図のうち、一つの方は5分くらいで
判ったのだが、
もう一つの方が、なかなか判らない。
折り悪く、やらなくてはならない仕事が
沢山あるのに、
気になって仕方がない。
コンピュータの画面の上にあるその図を、
ずーっと眺めては、これは何だろう、
何だろう、と考え続けた。
内田百間(門に月)が、「お腹が空いている」
のは一番好きな状態の一つである、と書いているが、
私の場合、「判らない」というのは一番好きな
状態の一つである。
早い話、クオリアの問題はもう10年「判らない」
だから、絵が何なのか、判らない状態は
好きなはずなのだが、
どうしてもそれが気になって仕事に手がつかない。
それは、プラクティカルに言えば困ったこと
だった。
断続的に二時間見て、それでも判らない。
脳がものすごい勢いで可能性をサーチ
しているのが感じられて、
そのこと自体は愉しくて仕方がないのだが、
なにせ、時間は経っていくし、片づけなければ
ならないことも山積している。
仕方がなく、緊急の仕事だけはして、
研究所に向かって移動した。
途中で、心配になって、田森に
電話した。
間違いなく正しい図を送っているんだろうな、
上下は合っているんだろうな、と探りを
入れたのである。
何の絵か判らなくても、「答がある」と保証
されれば、安心する。
クオリアについては、答があるかどうか、
現時点では神様しか知らないが、
すくなくとも、この「だまし絵」については、
神様ならぬ田森佳秀が、答があることを
保証してくれた。
昼食の時、ふっと他のことを考えていて、
ぱっと見たら、その瞬間に判った。
判ってしまえば、それ以外のなにものにも
見えない。
ここまで苦しかったが、
もう大丈夫だ。
一体、私の脳みそはこれまで何をやっていたのか、
おろかだったが、ご苦労さまと肩を
(脳みそに肩があるのならば)叩いて
やりたい気持になった。
やっぱり、判らないということは好きである。
世の中に判らないことはまだまだ沢山あるので、
そのことを考えていたいと思う。
考えていると、酸欠状態になるけれども、
それはそれで好きでたまらない。
3月 23, 2005 at 06:22 午前 | Permalink
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