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2005/03/21

ネットワークの外を思うこと

黒田恭一が解説するFMの音楽番組を
聴いていたら、
 突然チャイムが鳴ってアナウンサーが
喋り始めたので、地震を知った。
 
 小倉や福岡は母の出身地で、子供の時から
何回も行っていてなじみが深い。
 自分は半分は九州人だと思っている。
 今年は九大の客員で数回は行くことになると
思うから、
 ますますなじみがある。

 一日中気に掛かっていた。

 ライブドアとフジテレビの問題には、
あまり関心がない、
 というか、パッションがかき立てられない。
 あのようなことにムキになるタイプ
の人と、そうでない人がいると思うが、
 どちらかと言えばムキにならない
人の方が、私の友人には多いと思う。
 郡司ペギオ幸夫や池上高志が、
ライブドアの問題について
熱く語る、などということは考えにくい。

 どうしてかと言えば、判りきったことだから
だろう。
 たとえば、ネットワークが出来たとする。
そのネットの中で出来ること、展開すべきことは
たくさんある。
 インターネット上でやることは、そりゃあたくさん
ある。
 しかし、だからと言って世界がその中に
閉じこめられるわけではない。
 ネットに接続しないおじいさんだって
いるだろうし、
 空を飛ぶヒバリもいる。

 僕や、郡司や池上は、きっと、おじいさんや
ヒバリの方が気になるのである。
 最近、柳川透とスモール・ワールド・ネットワーク
についていろいろ議論して、
 研究プロジェクトも立ち上げているが、
じゃあ、その数理が「グレート」という領域
に達しているかと言えば、
 そういうことではない。
 WattsとStrogtzの論文にしても、別に
グレートというわけではない。
 ネットワークの内部から、グレートな
ものが出るわけではない。

 柳川とやろうとしていることのねらいは、
むしろ、ネットワークの数理を語りつつ、
ネットワークの外を取り込むことなのだが、
これからクレッシェンドで取り組んでいくことに
なるだろう。

 ニッポン放送の社員が文句を言っているのも、
要するに報道の本質はネットの外にもあるだろう、
ということじゃないかと思う。
 それはその通りだと思う。
 早い話が、地震が来るかどうかネットじゃ
わからないだろう。
 ネットを使って、ぐちゃぐちゃやりたい
やつは、勝手にやれば良い。
 それで金もうけしても、別にかまわない。
 あまりそういうことに、興味がない。

 夕暮れ、仕事に目途をつけて、
近くの公園に行き、
 何気ない斜面の草や石ころや棒きれの
様子を眺めていると、
 一つ一つの石ころに小宇宙があり
(こいつらはどこから来たのか、どうして
こんな形になったのか、異なる数種類の
草は、どうやってこのような密生分布を
獲得するに至ったのか)
 飽きもせぬが、それとネットワークは
関係ないだろう。

 私は別にラッダイトではない。ネットは
ヘビーユーザーだし、モバイルしまくりだし、
ライブドアが新サービスを立ち上げてくれれば
使いまくるし、ちゃんと金も払うし、
 地上波テレビがなくなったって別に
いいけど、
 そういうことには興味はあまりないんだよね。

 最近、ロジャー・ペンローズと必要があって
メールをやりとりした。
 「一ヶ月前から日記がなくなっていて、
スケジュールが決められなくて困っていたが、
ケンブリッジのある友人の庭から出て来たので
良かった」などととぼけたことを書いている。
 ライブドアに話題をかっさられている
東京とは違う空気が流れているようである。

 ペンローズがネットがどうのといった
ことに興味があるとは思えない。
 それでも、ペンローズが広い世界を
見ていない、ということにはなるまい。
 むしろ話は逆だろう。 

3月 21, 2005 at 06:34 午前 |

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コメント

レスポンスありがとうございます。まあ、私たちにとっては、どうでもいいようなことですが、そうは言ってもあのエゴン・シーレと同時期に美術学校を落第してそれを受容できなかったヒトラーなんかの「個人的印象」が当時あそこまで操作されてしまうと---という感想もあります。また、ブッシュも、あらゆるシリアスな政治的テーマに対して、結局何一つ本気ではないという不真面目な人なわけですが、結構「人懐こい眼差し」をしているところも厄介だと思います。他方、本当に歴史を動かしているのが実は必ずしも大衆受けしている政治家ではなかったりするところも、現実の政治、歴史の複雑さだと思います。例えば、どうみてもライスの眼差しは人懐こさの対極ですが、それだけに彼女だけがある意味怖い「本気の眼差し」をしていて、実際、聞くところによると、ラムズフェルトすらも全然本気ではない中で、「彼女だけが本気」なのだそうです。イラクにしても、パレスチナにしても---あくまで思い通りにやり抜く、自分にはそれだけの力も資源(ブッシュという「君主」も含めて)もあるのだと。

投稿: 永澤 護(zero-alpha) | 2005/03/21 20:37:19

永澤さん、こんにちは。

確かに、メディアの中でのある個人とある個人の対立のpublic imageは、論理や道義と同じくらい、その人の個人的な印象で決せられるところが
ありますね。政治家の間の論争もそのようになってしまう、ということをいかに先回りして取り込んでいくか、ということがmedia politicsになっているわけですが。。。。

投稿: 茂木健一郎 | 2005/03/21 19:27:07

お久しぶりです。本日ようやく貴著「脳と創造性「この私」というクオリアへ」が届きましたので、さっそく明日から読むのを楽しみにしています。ところで、世間は相変わらず堀江氏の物語というか活劇騒ぎですが、歌舞伎を観ているようなものでしょうか。それとも、「久々に面白い個人」というもの、言い換えれば、「「ホリエモン」というクオリア」に触発されているといったらよいでしょうか。これも結局、茂木さんの「クオリア」というテーマでキャッチ可能な事例に過ぎないのだと思うのすが---。それから、一昨日でしたか、私のブログで以下のように書きました。以下に引用します。
「たった今、養老孟司氏が、「テレビ画面上の勝負では堀江氏の勝ち=日枝氏の負け」つまり、「(トータルな意味での)<顔>勝負では、完璧に堀江氏が勝ちで日枝氏がいかにも---ということで完敗」という趣旨の、予てから私が最大のポイントだと思っていたことを語っていた---。」
さすがに、養老氏は一点の曇りもないなと思いました。<顔>という「「この私」のクオリア」の勝負において、日枝氏はいかにも「旧体制」の典型で、「個」というクオリアとしてホリエモンに対抗し得なかったのではないでしょうか。こういったことはすべて、本当に、どうでもいい話のようですが、ちょっと恐ろしい気もします。

投稿: 永澤 護(zero-alpha) | 2005/03/21 12:44:09

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