花發多風雨,人生足別離。
昨日の日記の最後のセンテンス
「補助線だけが人生だ」
は思いついて、書いて、コーヒーの
お代わりをしに台所に立った時に、
そういえば井伏鱒二の「厄除け詩集」に
コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
という言葉があったなあと思い出した。
井伏の言葉は深く美しい。オレが女だったら、
そんな詩を書く男がいたら、それだけで
興味を持つのではないか。
以前ニューカレドニアに行った時、
ヌーメアに「ビルボケ」という花に包まれた
美しいカフェがあった。
そこでぼんやりするのは至福の時間だったが、
それ以来、ぼんやりすることを「ビルボケ」
と言うことにしている。
あまりにも忙しかったので、ビルボケした。
ソファに寝ころがって文藝春秋(2005年4月号)
を読んでいたら、いつの間にか眠った。
白川静さんの「皇室は遙かなる東洋の叡智」
という論文が大変興味深かった。
白川さんの東洋についての膨大な知識に
裏付けられた、精緻な論考。
とりわけ、中国、日本、西洋の関係についての
洞察は深く、鋭い。
(引用)相異なる文化を持った民族によって征服
され、そのたびに異質の文化が対立する、という
パターンは、中国の歴史において、幾度となく
繰り返されます。対立する思想は、たがいに
自らの正統性を主張し、普遍性を競ってきました。
それが中国の文化にダイナミズムを与え、その思想
に深みを与えてきた。(中略)そうした試練によって
鍛えられたがために、中国の文化、文学というものは、
社会的、政治的にきわめて深く真摯な考察を積み重ねて
きたのです。
(引用)これは、江戸中期のことでしたが、新井
白石がイタリーから密入国した宣教師を取り調べた
とき、西洋の科学、西洋の技術に非常に簡単しました。
ところがひとたび、宗教の問題になると、処女懐胎
などの説明を聞いた白石は唖然とする。なぜ、
あれだけの物質文明を持ちながら、そのような幼稚な
ことを信じているのか。精神文明においては
東洋の敵ではない、と考えたのです。
続いて、白川さんは、「天皇が続いているという
事実そのものが尊い」と主張する日本主義は、
一種の思考停止だったと指摘する。
思想としての普遍性が欠けているというの
である。
白川さんの言う「東洋の叡智」は、現代
中国にもきっとあるのだと思う。
都知事のように、情緒的な中国批判をしても
仕方がない。
自分の情緒的な反応を、無知で正当化
するのは一番まずいパターンである。
自省を込めてそう思う。
現代社会では、よほどの猛勉強をしなければ
まともな素養など身に付かない。
自分は文系だから、理系だからと
無知を正当化するのは論外で、
そういう情緒に付き合う必要はない。
「対角線論法」を知らない「文系」に世界の深さを
語る資格はないし、
日本が明治維新の時に独立を保てたのは、
別に日本が特に優秀だったからではなく、
アメリカが南北戦争で忙しかったからかもしれない、
というような可能性を考えられるほどにも近代史を
知らないやつにも、
ナショナリズムを語る資格はない。
ものを知らないやつが自分の情緒で
うだうだいうのが一番やっかいである。
マスメディアがそういう無知なうだうだを
助長してきたのが過去10年なのではないかと
私は懸念する。
白川さんの言う「東洋の叡智」については、
もっと勉強しなくてはなるまい。
そういえば、井伏の「厄よけ詩集」の
「花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが
人生だ」は、于武陵の「勸酒」
の訳であった。
勸君金屈卮,
滿酌不須辭。
花發多風雨,
人生足別離。
3月 20, 2005 at 08:16 午前 | Permalink
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コメント
カントール位、当たり前じゃないと何もできませんよ。
なんで茂木さんはこんなに優しいのでしょうか。それが不思議です。
抑圧しまくってください。
バカにバカって言っていいんだって最近気づいたバカです私は。
白川静マンセー!
クオリア爆裂!
投稿: tatar | 2005/03/20 8:40:57