坂田栄一郎さん
土井利忠さんと、某ロボティックス関連の
書籍の内容について議論。
九州大学ユーザーサイエンス機構の
糸井久明先生、坂口光一先生が御来所。
Zhangさん、柳川透と論文の内容について
discussion。
朝日新聞本社で、坂田栄一郎さんに
写真を撮られる。
新潮社で、『考える人』の松家仁之編集長、
北本壮さんと打ち合わせ。
新潮社近くのBrusselsで、北本壮さん、
足立真穂さん、『旅』の葛岡晃さんと。
坂田栄一郎さんは、まずは30分近く
ご自身の作品などを中心に立ち話を
されて、それからおもむろに
ハッセルブラッドでかしゃかしゃ
撮り始めた。
一つのマガジンに12枚のフィルムが
入っており、
それを10巻くらい使った。
いろいろな方向を向きながら、かしゃかしゃ
撮っているうちに、
ある瞬間、「あっ、それですね」などと
言われる。
私は次第に春の陽光の当たる桜の
花びらのような気持になっていった。
坂田さんの肖像写真の秘密を、体験した。
世間に出るのは、一月後くらいのようである。
写真を撮られる、ということに
ついて、私は落ち着かないものを心の
中に抱えている。
見る/見られることの歓びと哀しみについて、
以前文學界の連載で書いた。
(「文學界」連載 脳のなかの文学
第6回 見られることの喜びと哀しみ
(2004年9月号))
その時、太宰の文章を引用した。
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
(中略)まったく、その子供の笑顔は、よく見
れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪
いものが感ぜられて来る。どだい、それは笑顔
でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。
その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く
握って立っている。人間は、こぶしを固く握り
ながら笑えるものでは無いのである。猿だ。
の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺を寄せているだけ
なのである。(太宰治『人間失格』)
太宰は、見る/見られるということの
歓びと哀しみに自覚的な人だったのだろう。
私も、ティーンエージャーの時に、
太宰のように道化を演じていたことがある。
しかし、太宰のようにそのエレメントを
人格の中心に持ってくるには至らなかった。
この文學界の論説の中で、私は
キリストに対するEcce Home(この
人を見よ)を経て、最後は神の視点
にたどり着かなければならなかった。
そうしないと、落ち着かなかった。
太宰には、人間(じんかん)にまみれ、そこに
とどまる胆力ないしは怠惰があったように
思う。
私には、人間(じんかん)にとどまることは
どうもできないらしい。
平家物語の小宰相も、怪我をした子供も、人間が
泣くのは、他者の視線を意識した時である。人間は
泣きながら生まれ、泣きながら死んでいく。その涙
が乾き、命が尽きる時、他者の視線の向こうから、
広大な天然が浮かび上がってくる。そして、その時
になってようやく、私たちは頼りなく危なげに感じ
ていた他者の視線もまた、母なる宇宙そのものであ
ったことに気付くのだろう。
(「見られることの歓びと哀しみ」より)
写真スタジオは地下だった。
朝日新聞の地下にあった輪転機の群れが、
夏目漱石の『坑夫』の青年が
見た地下の坑道のように思い出される。
3月 16, 2005 at 06:33 午前 | Permalink
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コメント
涙、、、そうですね。
よく、人の心理として、用いられますが。
でも、それほど、複雑ではないように思います。
最初のブレークスルーであり、基本であるのは、間違いないですが。
他人が、鼻水を垂らしていても、息がつらいんだろうと思いません、人意外は。
どうして、鼻をたれしていたら、息がつらいとわかりますか?
それは、自分が鼻を垂らしていると認識できなければなりません。
苦しい事は、まあ、どのような生物でも比較的基本的な感覚で分かるでしょう。
自分が鼻を垂らしていて苦しいというエピソードを経験していなければなりません。
自分が鏡でも見て、鼻が垂れていて、苦しいと分からなければ、なりません。
しかし、現在ならまだしも、縄文時代ぐらいにならないと、鏡は現れません。
そうです。自分が鼻を垂らしていることが分からなかったんです。
次に、何か、液体が邪魔をしていると分かっても、それを見たことが無いので、
相手と同じ状態だということを認識、認知できません。
そうです、相手が、鼻を垂らして、苦しくしていても、それを自分に置き換えて、
認識、認知することができません。
事象を関連付けるエピソードにならなかったのです。
(距離の問題なんですが、確率的に)
しかし、涙は、違います。
目の前の涙は目に見えます。(というか、にじむので確認できます。)
目に遺物が入るなど、同じ目にあった時、(漢字に隠れているんですね)
相手が涙を垂らしているときに、自分も涙を流せば、それは、鏡を使わなくても、
目の前に見えるのです。
そうです。
一番単純でやさしい、パターン認識しやすい状態だったんです。
(距離の問題なんですね、確率的に)
なんか、ロマンがないような、あるような・・・
このように、人の意識は、その対象に連結するエピソードに支えれらています。
赤を赤く感じるのも、赤い物のエピソードに支えられています。
当たり前といえば当たり前なんですが。
脳の機能は、配線するしかありませんからね。
赤が、赤いわけでは、ないんです。
赤は、赤い赤ということでしょうか?
コメントしているのが、僕ばっかりですね。
ずうずうしく、物を書くための啓発材料に使わせてもらっていますが、いいのでしょうか?
わざとらしいですか?
投稿: バターロール | 2005/03/17 19:44:17