他人が自分に入ってくる
他人の話を聞いているのが好きだ。
とりわけ、その人の世界観、パーソナリティーが
直接伝わってくるような話だと、
まるでその人が自分の中に入り込んで来ている
ようなキモチになる。
それも、なるべく意見が遠い人だと良い。
なぜこの人はこのような発言をしているのか、
その切実さ、必然性のようなものは、
ちょっと想像してみればおおかた見当が付く。
同じ人間なんだから、だいたいこのような
道筋であんなことを言ったり、やったり
しているのか、と推測することができるのである。
このような、他者の心の推定は、普通の
認知科学の言葉で言えば「心の理論」
であるが、
より一般的な視点から見れば「メタ認知」
である。
そもそも私は全ての意識表象は
原理的にメタ認知であるという立場をとる
ので(『脳内現象』参照)、ここで言う
メタ認知は、その一般的なメタ認知の特別な
インスタンスだということになる。
先日、品川駅を降り立ったとき、
コンコースに紙の袋をもった変な女の人が
いた。
おそらく五〇歳くらいだろうか、
コンビニの前に立って、流暢な英語で
crazy woman, dangerous.....
などと同じフレーズをくり返していた。
紙袋を両手に持ってバランスをとっている
ところとか、
通行人の流れに対して直角に向いているところ
とか、
ふらりふらりと揺れているところとか、
なんだか幾何学的センスのようなものが
感じられた。
アタマがおかしい、と片づけるにはもったいない
いろいろな興味深いものが、その人の振る舞いからは
伝わってきた。
本当はしばらく見ていたかったのだけど、
仲間だと思われてにこりと笑われたりすると
ちょっと困るので、そのまま歩いて来た。
雨の中、派手に転んで傘の柄を折って
しまったのは、その後の事である。
傘が守ってくれて、小指の第一関節を
ちょっとすりむいただけで助かった。
今考えてみれば、
crazy woman, dangerous.....
の言葉のリズムが頭の中に残っていたとしか
思えない。
つまりは、どんなに極端な言説を
吐いている人にも、右から左まで、
品行方正から品性下劣まで、
その言説の依って立つところ、
パーソナルな必然性は何となく推測
できる。
crazy woman, dangerous....が
アタマの中に入ってくるくらいだから、
わかることは判る。
モンダイは、極端な人たちがしばしば
自分のそのような言説がどのような切実さ
から来ているのか、自覚しないところだろう。
メタ認知は、人を自由に、そしておそらくは
謙虚にする。
自分を相対化することは、決して
自分を大切にし、自分にこだわることと
矛盾することではない。
3月 13, 2005 at 07:24 午前 | Permalink
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コメント
よく、そこから、切り返せますね。
人なのですから、怒りはあるでしょう。
まあ、まだ余裕があるということなのではないでしょうか?
しかし、人が怒りや喜びをその源泉からコントロールできるようになれば、それは、廃人なのかもしれません。
源泉が無いアイボと同じと言う事でしょうか。
無の境地なんですから、存在が無いんです。
自分の意識が無いわけですから、自分の存在が無いんです。そうなれば、他人の存在もありません。
好き勝手なことを書きすぎました。
投稿: バターロール | 2005/03/13 16:44:32
茂木先生、
いつも読ませて頂いております。
昨日といい、今日といい他者に寄り添う視点での文章、素晴らしいです。新境地なのでしょうか。
多くのヒントを頂きました。
有難うございます。
投稿: 美春 | 2005/03/13 13:04:08