« 科学とアート(承前) | トップページ | 『脳と創造性』見本届く »

2005/03/12

他人の心のシミュレーション

港千尋さんの研究会で訪れた海浜荘の朝、
パワーブックの電源アダプタが回収できず仕事が
できなかったので、ふとんの中に入って、
10日に、角川書店の金子亜規子さんにお会いした
時にいただいた
『野性時代』16号に掲載されていた
辻仁成さんのORIGAMI(一挙270枚掲載)
を読んだ。

 最近、何やら新しい脳の活動モードが
自分の中で立ち上がっている。
 それは、好悪といった感情の反応を
とりあえず捨象して、
 対象に対して認知的距離(ディタッチメント)を
持って接するということで、 
 小説で言えば、
 なぜこの人はこのような物語を書き、
このようなドラマトゥルギーに対して
関心を持ち、
 このような人物にこのような行動をとらせる
のであろうか、
 というようなことを、客観的な立場から、
しかし共感的に分析する、というような
脳の活動である。

 このようなことを自分が思うように
なっている、と自覚するきっかけは、
 文學界に「文学と科学の間に」を書いたことだった
かもしれない。

 辻さんにとっての切実さは私にとっての
切実さとは違うが、なぜ辻さんがこのような
物語を書くのか、その人生の軌跡を想像して
見ることは面白いことだった。
 自分の人生の軌跡などサンプル数としては
N=1に過ぎないから、
 なるべく多くの他者に出会わないともったいない。
 自分と違う人であるほど良い。

 もっとも、そのことと、自分の生の文脈を
一人称的に引き受けることは両立するはずである。

 ライブドアvsフジテレビの件でも、
ライブドアのやり方を支持し、「既得権益」
を守る側をののしる人の発言も、
 堀江さんのやりかたを「けしからん」と
怒るような人の発言も、それぞれの発言が
どのような生の必然性から来るのか
ということを想像することに、今の
私の関心は向かっているようだ。

 自分が堀江さんだったら、ライブドアの
社員だったら、フジテレビの社長だったら、
ニッポン放送の社員だったら、どのような
ことを考え、行動するか。
 それはある程度シミュレーション
することはできる。
 野次馬の心理も、ある程度は
シミュレーションできる。

 あまりかっかしないで、
自分と異なる立場の人の行動はどのような
必然性に基づいているのか、と
想像して見て、
それから自分の生の一人称性を引き受ける
ことで、新たな豊かさの次元が開かれる
のではないか。

 もっとも、こんなことを書いていても、
所詮私は血の気が多いから、
 爆発するときは爆発してしまう。
 あとから、ちょっとしゅんとして、
相手の態度の背後にあったものを
反省したりするのである。

 先回りして反省するように修業したいと
思う。

3月 12, 2005 at 06:45 午前 |

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 他人の心のシミュレーション:

コメント

補足です。
なぜ、烏賊親父と呼ばれていたかというと、
競馬場で、最初にインタビューして時に、
のし烏賊の串を握っていたからです。
その串が好物だそうです。

過去のテレビがオンデマンドで見れるようになったら、探してみようと思います。
出演していて見ていない回もあったみたいなので・・・

投稿: バターロール | 2005/03/13 16:52:10

烏賊親父

以前、とんねるずの「生でだらだらいかせて」という番組があったのですが、
そこに、競馬場に、普通に見えるおじいさんがいて、コメントと多少風貌が面白いので、スタジオに呼ばれ、コメンテータとして若い子達と討論をしたんです。
製尺者側は、ふざけ半分で、面白いコメントが聞けると思って呼んだんだと思うんですが。
今でも忘れませんが、僕の中では、人生の手本、座右の銘になった言葉を言った人でした。

愛とは何ですか?
という問題に若い人が意見を言っていましたが、その烏賊親父は、最後に、
「愛とは、信じること」ですと言い放った。
また、人生相談で、若い人たちで議論しているときに、烏賊親父は、
「それは、茶番です。
その人、その立場になって見なければ、どう行動するかは、分からない」と言い放った。
何の変哲も無いおじいさんでも、悟りは開けるものなんだなと、まだ、若いながらにも感心したものでした。
今となっては、下らない番組でしたが、
その、フレーズだけは今でも忘れる事無く、記憶しております。

投稿: バターロール | 2005/03/13 16:07:54

この記事へのコメントは終了しました。