竹内薫が3月8日の日記
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で言及していた「クローズアップ現代」
2005年3月7日
「ブンガクに異変アリ!?〜台頭する若手作家たち」
を私もスゴ録で録画して見た。
私はそれほど多くの「若手作家」を読んでいる
わけではないが、
この中でも取り上げられていた島本理生さんは
良い作品を書くと思う。
一度書評で取り上げたこともある。
作品に対する評価は、それがどのような文脈に
置かれているかではなく、読んだ
後の言葉に出来ない独特の感覚、
すなわちクオリアによるしかないと考えるのが、
「クオリア原理主義」である。
その意味で、「ブンガク」を書く若手作家の作品
の中から、素晴らしいものが出てくる
可能性は必ずあると思うし、偏見を持たずに
読んで行きたいと思う。
ライトノベルとか、ミステリとか、そのような
「文脈」には回収できない体験の質を持っている
作品があったら、これからも読んで行きたい。
ただ、これはあくまで私の個人的な嗜好であるか
もしれないが、世界のことをろくに
知りもしないくせに、「おれがおれが」
の「ナルシシズム」の匂いが
する作品は私はどうもダメである。
それと、単純な「計量の法則」を最初に
設定して、人間の生という本来根源的に
予測不可能なものをその設定した規矩にむりやり
おしこめる、という作品もダメである。
(プロットの都合に合わせて人を殺す
ミステリが典型)
何作かの「若手作家」の作品を読んで、
私は上のような点で「ひどい目」に合っている
ので、
あちゃー、という感じがしてしまう
のは仕方がないだろう。
「クローズアップ現代」で引用、朗読
されていた作品の中にも、「あちゃー、
そこまでナルになるかよ!」と耳を
覆いたくなるものがいくつかあった。
もっとも、断片を聴いて判断するのは
フェアじゃないから、機会があったら
いくつかの作品は読みたいと思っている。
それと、これは当たり前のことだが、
コンテンポラリーの作品に比べて、時を
経て古典として残っている作品は、やはり
それなりの質を持っている。
その意味で、私は「ブンガク」という制度を
信頼している。
カフカの「城」にせよ、ナボコフの「ロリータ」
にせよ、
ブンガクのプロが「素晴らしい!」と認める
ものはやはり素晴らしい。
クオリア原理主義において、素晴らしい。
コンテンポラリーのものが質において雑多なのは、
これは仕方がないことだ。
我々の生そのものが、百年経ったらどうなるか
判らない雑多なものではないか。
古典的な作品にのみ基準を置くと、生の躍動を
殺してしまうことになる。
とりあえず、自分の生の文脈を一人称的に
引き受けて、その中で生成してみるしかないわけで、
その結果が素晴らしいものになるどうかは
宝くじだから、二の次だ。
そんなことを、PHPエディターズグループ
から今月中旬に発刊される
『脳と創造性』では書いたつもりである。
今の若手作家が、あまり世界のことを知らなくて、
マンガとかテレビとかしか見ていないとしても、
それは彼らの生の文脈だから、
そこから生み出されるものが彼らに
とっては切実なものだ、ということは確かなんだろう。
後は、宝くじに当たるといいね、とお祈り
するしかない。
私自身を言えば、もう広い世界を知ってしまった
から、現代日本の風俗に埋没するわけにも行かず、
猛勉強をするしかない。
ただ、ナルな若者を自分が面倒みなくちゃ
いけないことになったら、それはもはや仕方が
ない、一生懸命面倒を見る、くらいの雅量は
持っている。
孔子が書いているように、人間というものは
変わるものだしね。
逆に、彼らにしか見えていない現実も
きっとあると思うから、それは学びたいと
思う。
3月 9, 2005 at 06:48 午前 | Permalink
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