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2005/03/31

炎に向き合い、自らの魂を知る

大阪ガス季刊誌CEL
March 2005 Vol.72

炎に向き合い、自らの魂を知る
茂木健一郎

 たき火の形は、一瞬たりとも同じであること
はない。炎は踊り、姿を変え続ける。そのように
絶えず変化する火を見ている時に、心の中に喚
起される原始的感情の中には、有史以来の人
間の記憶が反映されている。.
 カナダの森の中で、一週間カヌーを漕いだこ
とがある。夜になると落ちている枝を集めて、
たき火をした。熊が来るというので、食料はコン
テナに密閉した。さすがに熊が来るとまでは思
わなかったが、何やら動くものの気配がする度
に身構えながら、確かなぬくもりをもたらして
くれる炎を見つめ続けた。炎から夜の湖に目を
転じると、昼間はあれほど遠くに見えた対岸の
山が、手が届くほどすぐそこにあるような感じ
がした。たき火の明かりが、対岸を照らし出さ
ないことが不思議なほどだった
(続く)

http://www.osakagas.co.jp/cel/new_cel_72.htm 

からpdfがダウンロードできます。

3月 31, 2005 at 07:42 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

分別の至り:賢いバカ

久しぶりに、芸大の植田工と会って喋った。
 あいかわらず「若気の至り」分子の
充満した雰囲気だった。

 それで、植田と喋っていたら、
何だか自分が分別がついた大人のような気分になって
来たので、 
 クソ、と思い、
 分別を外したくなった。

 バカをやる、ということも一つの芸術
である。
 若気の至りのバカと、分別がついた
あとのバカは違う。
 バカをやるにも、智慧がいる。
 分別がついた後で、若気の至りを
やっても仕方がない。
 つまりは、それまでの自分の分別の流れから
逸脱するようなバカをこそやるべきであって、
 単なるくり返しではダメなのだ。

 たまには、一世一代のバカをやる、
ということを企んでもいい。
 むしろ、どんなバカをやってやろう、
と普段からいろいろ思いを巡らせるべきだ。

 ニュートンが、リンゴが落ちるのを見て、
「月も同じじゃん!」と思ったのは、
 あれは畢竟賢いバカだとしか言いようが
ないことじゃないか。
 アインシュタインが「光を光のスピードで
追いかけたらどうなるんだ」と10年しつこく
考えたのも、超ウルトラスーパーデラックスバカで
ある。
 だとしたら、つまりこの世は賢いバカが
変えてきたということになるんじゃないか。

 分別と創造性は、おそらく縁もゆかりも
ない他人の関係である。
 分別がついちゃあ、おしまいだ。
 世の諸君、実に気をつけようじゃないか。
 
 朝日カルチャーセンターは、関根崇泰に
「助手」をやってもらって、
ある「実験」をして、
そのデータをその場でエクセルで解析させた。
 興味深い結果が出て、これは十分
飯のネタになりそうだ。

 バカから出た飯のネタ、こいつは春から
縁起が良い。
 関根くん、フォローアップの実験、解析、
サーベイをお願いします。

 しかし、分別がついたやつが、それにとらわれずに
バカをやるというのは、
 つまりは「若気の至り」、ならぬ
「分別の至り」、のようなものじゃないか。
 
 エネルギーが充満した分別は、必ず
バカに至る。
 これは一般原則、世の習いではないのか。

 みなさん、賢いバカになりましょう。
 バカへのエネルギーが充満した分別をこそ
身につけようではないですか。

3月 31, 2005 at 07:31 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/30

インターネットという場所

電子メールを本格的に使い始めてから
十余年、ホームページを立ち上げてから
6年半。
だんだん、メディアとしての
インターネットに慣れてきて、
そこがどんな場所だったのか、
つかめてきたような気がする。

一言で現せば、コントロールできない世界。
SPAMも避けられないし、時には悪意や、
妙なものや、ネジ曲がりや、変わり者や、
余計なお世話や、曲解や、トンデモや、
ナンチャッテに出会うことも回避できない
ような場所。
 それがインターネットである。

これは笑い話になるのかどうか
判らないのだが、
相変わらずSPAMが来るので、自分のHPの
メールアドレス表示を画像にしようかと、
一瞬考えた。
しかし、ふとイヤな予感がして、自分の
メールアドレスでぐぐってみたら、
たくさん出てきて、
それは無駄な抵抗であることが判った。
すでにあちこちに散らばってしまって
いるのだ。

「これからもSPAMは絶対になくらならないから、
一生SPAMと付き合っていく覚悟をもたにゃ
あかん」という名言を吐いたのは、
アーティストの椿昇さんである。
 芸大での授業の時だった。
 まさに、私たちは一生SPAM的なものと
付き合う覚悟をもって、インターネットのような
双方向メディアに接する必要がありそうである。

 ライブドアの堀江貴文さんはいろいろ
言われているけれど、
 一つ偉いと思うのは、そのblog「社長日記」に
うぁーっとついてくるいろいろな(しばしば
うざい)コメントを
そのまま気にせずに残している点である。
 もっとも、あれほど数が増えてしまうと
一個一個の「いやげコメント」の重みが
減って、
 一種の風景として観賞できる、というような
境地に達するのかもしれない。

 一般則として、「ネット上の罵詈雑言は、
どちらかと言えばその人にとっての肥やしになる」
ということが言えるのではないか。
 ライブドアの堀江さんは肥やしを一身に
浴びて成長し続けているのかもしれない。
 「こういうコメントを書かれると、
ライブドアのイメージにかかわる」といった、
広報的対応をしないことで、
 かえって社長日記のblogとしての
批評性、立体感を高めているように思われる。

 脳のメタファーで言えば、興奮性結合と
抑制性結合がバランス良く存在してはじめて
神経細胞の機能が実現するわけで、
 どこかの神経細胞がシナプスをのばして
きたからと言って、
 「お前はスパムだ、あっちいけ、しっし」
と一々やっていたら、
 神経細胞としての人生はやっていられない
ことになる。

 最近は日本語のスパムも増えてきて、
中には傑作! と言ってあげたいものも
あるが、
 おあいにくさま、
 こっちは絶対返信とかクリックとかしないんだから、
ご苦労様なことである。
 スパム制作者がどのような欲望、必要、意図に
かられてせっせとスパムを作っているのかは
知らないが、
 100万分の1クリックに賭けているのだと
したら、随分だな、と思う。

 もっとも、スパム制作者の中には、
この世界に対して
ヒトラー的な巨大な悪意を抱いているヒトが
いるかもしれず、
 スパムも決して馬鹿にはできない。

 大昔、とあるターミナル駅を
ガールフレンドと歩いていた時、
駅の横で女の子に次から次へと声をかけている
若い男がいた。
 みんな無視して通り過ぎていくのに、
めげずに声をかけまくっている。 
 その姿が何だか少しミジメで、
滑稽だったので
 思わず二人で笑ってしまったら、
男がこちらをじろっと見て、
 「今、笑ったろう!」とすごんだ。
 こわかった。

 くわばらくわばら、「笑っていませんよ!」
と言って逃げたが、
 あの場合、持たざる者を持てる者が
笑ったという意味で、
 我々が悪かったのかもしれない。

 しかし、スパム一般の背後にあるものは
別である。
 本当は
 スパムを笑っている場合じゃないのかも
しれないとも思う。
 スパムの背後に何が隠れているか、
わかったもんじゃない。
 普通の人は、スパムをわざわざ作って配布する
というようなご苦労さんなことはしないと
思うからである。

3月 30, 2005 at 06:24 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/03/29

TEPCOセミナー

7/8(金) 13:20〜15:30

講師 茂木 健一郎氏 ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー

脳と心のミステリー 〜最新脳科学の挑戦
脳科学を知れば、人間がもう少し分かるようになる? 人間の自我や意志はすべて、脳を構成している神経細胞(ニューロン)の働きに過ぎません。でも、なぜ、脳という物質に心が宿るのか。心とは何か。その謎に挑みつづけてきた気鋭の脳科学者が、現代脳科学の最新の知見を踏まえ、私たちの永遠のテーマ「脳と心」の解明に迫ります。

http://www.tepco.co.jp/life/custom/tsemi76/course-j.html#A

インターネットからのお申し込み

http://www.tepco.co.jp/life/custom/tsemi76/appli-j.html

はがきでのお申し込み(2005年4月14日消印有効)

http://www.tepco.co.jp/life/custom/tsemi76/guide-j.html#view

3月 29, 2005 at 09:37 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

Feeding the animals in the craziness zoo in my brain.

池上高志に触発されて、久しぶりに英語の
blogを書いた。

Feeding the animals in the craziness zoo in my brain.

Recently my best friend, Takashi Ikegami reminded me about the value of craziness. We must defend it, nurture it, or otherwise we perish.
In Cambridge U.K. (where I stayed in 95-97), they had the one of the world's earliest application of webcam...........

Read the whole stuff below.

http://qualiajournal.blogspot.com/

3月 29, 2005 at 08:56 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

BBCoach Project表彰式

ブロードバンド上で、小中校生が
協力しあってコンテンツをつくる、
BBCoach Project
の最終審査、表彰式が丸の内であり、
去年に続いて審査員として出席した。

今年も残念ながら大賞は出なかったが、
北海道の小学生と東京の高校生が
コラボしたり、
インターネットならではの面白い
展開があった。

審査員は、他に
石田晴久(多摩美術大学教授)
佐藤皇太郎(Artless Art Studio)
田中章雄(マクロメディア CTO)

子供たちの世界では、コラボレーションして
共になにかを作り上げる、ということは
実は殆ど奨励されていない。
大人の世界では「成果主義」が機能しないことが
反省されているのに、
教育課程は究極の「成果主義」が未だにまかり
通っている。
つまりは成績が「成果」であり、それを
もとに大学入試を最終ゴールとする
競争が行われている。
その中では、同世代の子供たちは潜在的な
「ライバル」であり、コラボして何かを
創り上げても、何の得にもならない、という
状況が続いている。

しかし、実際に人間が何かを創り上げる
プロセスは共創(co-creation)であるというのは、
経験的事実である。
独創性を重んじる科学者や芸術家も、
ディスカッションしたり、アイデアを交換したり
することなしでは、新しいものを
生み出すことができない。

このあたりのことは、最近出た
「脳と創造性」に書いた。

成果主義は、少なくともちょっとはゆるめて、
コラボの精神をもっと奨励しないと、
まずいだろう。
そんなことを考えながら、子供たちのプレゼン
テーションを聴いてきた。

一つ気がついた大きな問題は、Flashなどの
インターネット上のアニメのインフラの持つ
潜在的政治性である。
コンテストに参加した
子供たちは巧みなFlash使いになっていたが、
ある特定のアプリ、フォーマットが
標準になっていくことは、
とりわけ、表現の細かい作り込みを
することを命とするアーティストにとっては、
死活問題になる。

今春
東京芸術大学の大学院に進学する植田工が
言っていた、
東京美術学校では、狩野派の絵師たちが
一日に何千本も線を描いて修業した
という話が忘れられないのだが、
そのような世界とFlashの世界がどのように
共存して行けるのか、そこで立ち現れている
問題群は、Open Sourceの問題も含めて
奥深い。

自然言語はある企業が
囲い込んで開発、配布する、というような
構造にはなっていない。
Open Sourceこそが、言語のようなインフラを
創る際のフェアで効率の良いやり方であるように
思われる。

つまり、ビジネスの問題としてはいろいろ
課題があったとしても、
開発の方法論としてはOpen Sourceに勝る
ものはないんじゃないか。

Sunの新しい3Dのデスクトップ環境、
Looking Glassの開発は、Linux上で
Open Sourceでやられている。
Sunの秋元禮さんのプレゼンテーションを聴いて、
Looking Glassの将来に大いに注目したくなった。
もっとも、Microsoftは例によって後出し
じゃんけんを画策し始めているようである。

マクロメディアの田中章雄さんはSan Franciscoに
拠点を移されていた。
田中さんの語るアメリカの子供たちの
創造性のはじける感じはなかなかのものだった。
つまり、ITによって世界の風景は変わって
しまった/変わりつつあるわけで、
デジタル・デバイドは感性や世界の奥深くで
密かに進行しつつあるように思えた。

審査もしたが、いろいろ考えて
勉強にもなった。
アタマを使うことはこんなにも楽しい。
子供たちも何か掴んで帰ってくれたんだったら
いいな。
仕掛け人の、アットマークインターハイスクール
学長、
柳沢 富夫 さん、ありがとうございました。応援しています。

3月 29, 2005 at 07:59 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/03/28

国家とお金

竹島については、日本も韓国もそれぞれの
言い分があるようだ。
 こんな時は、コイントスで決めたら、
と言っても、「国家」が絡むと
そうもいかないということなど判っている。

 自分の身体の範囲さえわからず、
セルフ・タッチを通して模索していく
新生児の立場にたちかえれば、
 国家などきわめつきの人為だということ
くらい判っている。
 人工衛星から見れば国境線などないことも
判っている。
 しかし、「国家」というものが、その起源は
アーティフィッシャルだとしても我々の
脳の中で強烈なリアリティを持ってしまって
いることもまた事実である。

 結論として、
 国家というパトスに対しては、認知的距離を
持って接しようと思っている。
 靖国神社参拝の問題にしても、
自分がどのような態度をとるか、ということよりも
(それは畢竟一億分の一の問題に過ぎないから)
なぜ、人々が(日本も韓国も)この問題について
パッショネットになるのか、ということを
考え、分析することが私のやるべきことだと
思っている。

 お金も同じで、私はお金のプロになろうとは
思っていない。
 お金に対しては認知的距離(detachment)を
保ちたい。
 お金の運用について、パッショネットに
なろうとは思っていない。

 自分の預金についても、残高は確認するけど、
それ以上何かしようと思ってはいない。
 お金のことを考えるのがイヤなのである。

 私の友人には、似たようなのが多くて、
郡司ペギオ幸夫は、なぜか銀行のキャッシュカード
を家に置きっぱなしで、いつもクレジットカードの
キャッシングで下ろしている、とかわけの
わからないことを以前言っていたが、
今でもそうなのだろうか。

 ワグナーは「反ユダヤ主義」で知られるが、
ワグナーの「ユダヤ」は民族でも宗教でもなく、
つまりは拝金主義だった。
 若き日に、パリでヒドイ目に遭ったのである。
 お金というものが、人心を動かし、
人々の行動を支配する、そのような構造自体に
対して反発した。

 『ニーベルングの指環』では、自然の中から
収奪したラインの黄金が、
ワルハラ城の建設に対する謝礼に向けられる。
 この「錬金術」が全てのドラマトゥルギー
の起源になるわけだが、
 そのワグナーがお金ばんざいの拝金主義に
対してどんな態度を取っていたか、そんなことは
作品を見ていれば判る。

 もっとも、お金と縁を切るわけにもいかない。
 「根岸の里のわびずまい」と最後につければ
なんでも川柳になる、とは良く言われることだが、
 「それにつけても金のほしさよ」
とつけえれば、どんな上の句でもリアリティを
持つ。
 つまりは、誰もお金と無縁では生きてはいけない
のであって、
 それはワグナーも一緒だった。

 少なくとも、お金について考えることが
人生のプライマリーな関心事になる、
 そんなことにはオレはなりたくない。
 資本家になったら、始終「あの金をどういかそう」
「あの借金をどう返そう」「キャピタル・ゲインは
いくらだ」とかんがえていなければならない。
 ヒグラシじゃあるまいし、「カネカネカネ」
はいやだ、というのが、私の本音である。

 島田雅彦が「金では買えない快楽」にこだわるのは
あんがい深い哲学的意味を持っているのだと思う。

 国家とお金。この二つのパッションの淵源に
対してどのような態度をとるか。
 実に難しいが、時々は考えてみようと
思う。
 もちろん、プライマリーな関心事、という
わけではない。 

 企業経営、買収にはお金以外の
要素もある、などということは当たり前だが、
最後はお金の収支になるということを、
プロは判っているはずだ。
 お金が血液や生き物に見えてこないと、
プロの資本家などになれるはずがない。

 昨日、必要があって小林秀雄の「モオツァルト」
を読み返してみたら、
 やはり掛け値なしに素晴らしかった。
 朝起きて、「さて、今日はあの金をどう生かして
やろう」と思案する資本家の生活よりも、
 やはりこっちの方がオレにとってはいい。

3月 28, 2005 at 07:30 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/03/26

塀の上で大の字になること

新潮社 「養老先生と遊ぶ」
(新潮ムック) 2005年3月29日発売
「養老先生ってどんな人?」のコーナー

茂木健一郎 塀の上で大の字になること

湯島に、私が大学時代から行っている「エスト」というバーがある。ある時マスターの渡辺さんと養老孟司さんの話をした。「養老先生よくいらしてましたよ。お酒を飲んでいらして、突然いなくなるんです。外に出ると、店の前の道に大の字になって寝ていらっしゃる。先生、どうされました、と伺うと、いやあ、マスター、空の星がきれいだねえとおっしゃって」(続く・・・)

http://www.shinchosha.co.jp/yoro/index.html

3月 26, 2005 at 06:01 午後 | | コメント (2) | トラックバック (1)

脳を本当にきたえる方法

朝日カルチャーセンター 春期特別講座

脳を本当にきたえる方法

茂木健一郎

2005年3月30日(水) 13:30〜16:30

http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0501koza/A0301.html

3月 26, 2005 at 05:52 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

ノーベル賞の小柴さんが伝えたいこと

ヨミウリ・ウィークリー
2005年4月10日号
(2005年3月28日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第47回


ノーベル賞の小柴さんが伝えたいこと

一部引用

 本来、学ぶことほど楽しいことはない。江戸時代の国学者、本居宣長の下には、話を聞きにたくさんの人々が訪れた。人生の様々な贅沢をさんざん尽くした商人たちが「いや、学ぶことが、こんなに楽しいこととは思わなかった、今までいろんな遊びをしてきたけれども、こんなに楽しい遊びはない」と感嘆したと伝えられている。
 学ぶことは、つらいことばかりではなく、本来この上なく楽しいことである。そして、学ぶ楽しみは、他から与えられるのではなく、自ら積極的に取り組んではじめてわかるのである。
 現代の高校生たちは、大学受験などの人生の試練を前に、学ぶことを楽しむという気持になかなか浸れない日常を送っている。だからこそ、小柴先生のメッセージは、大切な意味を持っていると思う。
 もう一つ、小柴先生が折りにふれ強調されるのが、「ゆったり」と楽しむことの大切さである。せっかく自発的に取り組む機会が与えられても、時間に追われているのでは十分楽しむことができない。短い時間に成果を上げる「ファースト・ラーニング」ではなく、ゆったりと楽しむ「スロー・ラーニング」こそが大切だとのお考えなのである。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

3月 26, 2005 at 05:48 午後 | | コメント (2) | トラックバック (0)

感情

春になると、さまざまなものが解放されて
くるように思う。
 空気の中に、そこはかとない何かの
香りが漂うようにも感じられるが、
 おそらくはそこここにある何かが
揮発して鼻腔をくすぐるのであろう。

 春は、感情もまた解放する。
 胸の中でいろいろなものがうごめきはじめるのが
感じられる。

 うらやましい、という感情。
 仕事をしていたら、白洲信哉から電話があった。
 京都に向かう車の中から、とのこと。
 富士山が綺麗だった、とのこと。
 それで、要件はといえば、まず花見を
どこでやるか、ということを話した。
 それから、「日月山水図屏風のある寺(金剛寺)
の近くには、絵に似た風景があるんですよ。
もちろん、そっくりじゃあないですけどね。
そこに行くと、ああ、と思いますよ」
と白洲信哉は言った。
 うらやましい、という感情。
 そこに行きたい。しかし、白洲信哉なしで
どうやって探せばいいのか。
 何だか首根っこを押さえられた気がする。

 すまない、という感情。
 夜、増田健史に会った。
 私の「脳」整理法の原稿が遅れているので、
増田健史が筑摩書房内であーだこーだと
言われているとのこと。
 まことにすまない、と思う。
 いろいろなことで忙殺されている日々だったの
だけど、
 ぜひ時間をどーんと取って原稿を書かなくては
と思う。
 もともと書きたい原稿である。
 書きます、すみません。

 楽しみ、という感情。 
 4月か5月に、Penroseに会いにOxfordに
行くかもしれない。
 The Road to Realityがまだ途中なので
読んでしまおうと思う。
 
 落ち着かない、という感情
 研究室の花見をどこでやるか、関根が
選んでいる。
 来年修士に入る星野くんも、イギリスから
帰ってきた。
 早く桜を見てすっきりしたい。

 苦しい、という感情
 意識の非局所性の起源を考えていると
苦しい。
 今「科学」として流通している全ての
言説は
 まったく何の役にも立たないことは
判っている。
 もっともらしい事を言っているやつは
みんなダメだ。
 そのあたりの事情を、きっと生物屋さんは
わからない。
 何しろ世界モデルが違うんだから。
 クリックを天才だと思っているようじゃ
ダメだ。
 実に苦しい。

 美しい、という感情。
 マーラーの『大地の歌』は美しい。
 仕事をしながら聴いているとほろりとする。
 春にはマーラーが素直に聴ける。
彼のマンネリズムも含めて。

 カツ丼が食いたい、という感情。
 春学期は早稲田、聖心女学院、芸大と
週3コマ授業をしなくてはならないから大変だ、という
感情。
 ピエールマルコリーニのチョコの甘さが
恋しい、という感情。
 「文學界」の仕事で改めてドストエフスキーを
読み直して彼はやっぱり天才だ、という感情。
 カラマゾフを読み直したい、という感情。
 バイロイトに行って、『指環』を聴きたい、
という感情。
 現代から逃げ出したい、という感情。
 現代とがっぷり四つに組みたい、という感情。
 クオリア・マニフェストに殉じたい、という感情。
 あれもこれもやりたい、という感情。
 
 おだやかな春の日差しの下、桜のつぼみが
次第にふくらんでいくのをゆったりと眺めて
笑っていたい、という感情。

 いろいろな感情に、私という小さな存在は
もう押しつぶされてしまいそうです。
 だからこそ、いっそうロジックを磨きたいと
思います。
 桜の下でお会いしましょう。みなさん、
それでは、ごきげんよう。

3月 26, 2005 at 10:39 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/25

高橋源一郎、内田樹 対談

 美術評論家の橋本麻里さんの
お誘いを受けて、朝日カルチャーセンターでの
高橋源一郎、内田樹対談を聴きにいく。

 橋本麻里さんはAERAで美術評論の
連載を持っていらっしゃるので
読んでいる人も多いだろう。
 もともと、BrutusのQualiaの記事の
連載で御世話になった。
 高橋源一郎さんの娘さんである。

 内田さんにお会いしたのは
はじめてだった。

 たまたま、私たち3人は、現在「文學界」
に連載を持っている。
 高橋源一郎 ニッポンの小説
 内田樹 私家版・ユダヤ文化論
 茂木健一郎 脳のなかの文学

 控え室での話題は自然に来月号
の原稿進捗状況になった。
 内田さん 終了。もうゲラになっています。
 私 25枚中15枚
 高橋さん これから書きます。火曜日までに
終わらせれば大丈夫(なはず)、しかし、今まで
落としたことは一度もない!

 というわけで、内田さんが一番優秀だということが
わかった。

 「脳のなかの文学」は16回ないし17回で
完結の予定なので、私がお二人より一足先に
戦線離脱するはずである。

 時間となり、
 対談が開始され、お二人の
対話は、「近代文学」という制度
の周辺のさまざまな話題に及んだ。

 高橋源一郎さんは、7割の
明晰さと、3割の謎、ということを
言われた。
 それくらいの割合が
読者を惹きつける、という「産業構造」が
確立してきたというのである。
7対3のフォーマットが
流通し、再生産されてきた。
 ところが、橋本治さんの書くものには
3割の謎がないという。
 だから、批評家たちはどう扱ったら
良いか、分からないのだ、というのである。

 内田樹さんは、言語表現というものは、
もともとその中心に空白を抱え、
その空白をめぐってなされるものだ、
と指摘された。
 そして、他者性には二種類あり、
時間軸を導入したときに、いつかは
理解できる他者性と、
決して理解できないであろう他者性の
二種類があり、その差異が
重要だ、ということを、国際関係論に
おける(manage可能なものとしての)
riskと、(manage不可能なものとしての)
dangerにも言及して議論された。

 対談終了後、内田さんのお知り合いの
方のパーティーにお呼びいただき、
 その後、高橋さん、橋本
さんと一緒に六本木のイタリアン、
Ristorante Amoreに移動した。

 文学や脳の話をしつつ、
「父」と「娘」の会話
(お前、最近はどうなんだ)
(至って順調よ)
に対して、私が「行司」としてコメントする、
ということに相成った。
 
 それにしても、Amoreは素晴らしい
店であった。
 イタリアのイタリアンというよりは、
ロンドンのイタリアンを思い出させ、
 私はちょっぴりロンドンが懐かしくなった。

3月 25, 2005 at 08:22 午前 | | コメント (0) | トラックバック (3)

2005/03/24

「意識は科学で解き明かせるか」重版

天外伺朗(土井利忠)、茂木健一郎著

「意識は科学で解き明かせるか」

(講談社ブルーバックス)
は重版(5刷)となりました。
ご愛読に感謝いたします。

3月 24, 2005 at 10:07 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

一徹のVサイン

私の「一番弟子」の田谷文彦クンは、
昨日、そして今日と通過儀礼。

 昨日の試練はくぐりぬけて、
4月からの田谷くんのライフスタイルも見えて
きた。
 めでたし、めでたしである。
 今日の試練も、何とか
くぐり抜けて欲しい。
 
 自分で出来ることだったら
ともかく、
 他人が何かをするのを見ているのは
はらはらするものである。
 うまくやってくれよ、
と思いつつ、
 手を出すことができない。
 そのはらはらドキドキを味わうのが、
サッカー観戦や野球観戦なのかもしれない。

 最近、ケーブルテレビで時々『巨人の星』を
流しているが、
 あの「星一徹」の気持というのは、
かなり普遍的なものなのかもしれない。
 時々ちゃぶ台をひっくり返しつつも、
心の奥底では、「飛雄馬よ、うまくやってくれよ」
と祈るようなキモチなのである。
 その星一徹のキモチが判るようになった
ということは、
 私もそれなりに年を経てきたということ
なのだろう。

 昨日、関根崇泰と議論しながら、
星一徹のキモチになった。
 せっかく面白い現象を見つけていながら、
スピード感が足りない、
 もどかしい。
 ラーメン屋行脚をしている場合じゃない!
 地球はものすごいスピードで太陽の
まわりを回っているのだ!
 ええぃ、じれったいなあ。
 研究室の花見の幹事もお願いしたいけど、
こっちの方のスピードアップも一つよろしくね、
 面倒だ、オレが書いちゃう・・・
と手を出したくなるところをぐっとこらえて
我慢するのが、
 星一徹の役割なのである。

 飛雄馬が、甲子園に旅立っていく時、
ホームから密かに見送る星一徹が、
いきなり「Vサイン」をする名場面が
あるが、あれだよ、あれ。
 大きくプリントアウトして、研究室の壁に貼って
置こうかしら。

 一徹は、君たちにVサインを出しつつ、見守って
いるのですよ。
 判りましたか、D3の柳川透くん、小俣圭くん!

 もちろん、私には、飛雄馬としてやらなくては
ならないことも沢山ある。
 ふふふ、この一徹、まだまだ老け込む年では
ありませんわい。
 見てろよ!
  
 それにしても、
 「巨人の星」は熱くて、いいマンガである。
 あの、行き詰まって悩んでブレイクスルー
する、というのがいいね。
 関根くんも、たまには見て、根性を
つけましょう。

 最初の放送当時、小学校低学年だった私は
午後7時からの放送が見たくてたまらなかったが、
父親が「NHKの7時のニュース」を見るという
方針だったので、
 父がいる時は見れなくて、
「先週アームストロング・オズマに
消える魔球を投げた、あの後一体どうなったんだ!」
と気になって仕方がなかったことを、
懐かしく思い出す。

3月 24, 2005 at 06:23 午前 | | コメント (1) | トラックバック (2)

2005/03/23

マーラーの5番

朝の仕事をしながらFMを聴いていて、
偶然、マーラーの5番のこのうえなく魅力的な
演奏が流れるとき、
ああ、人生は美しいと思う。

3月 23, 2005 at 08:57 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

「わからない」という至福

 新潮社の雑誌『考える人』が、
今度の号で心脳問題を特集するというので、
ここのところ
北本壮さんにいろいろ質問されている。

 その中で、白と黒のパターンの中に、
それと気が付けば絵があるような「だまし絵」は、
もっとないのかとたずねられた。
 
「ダルメシアン」 

「ダレンバッハの牛」 
が有名であるが、他にはないのか、というの
である。

 金沢工業大学の田森佳秀が、いろいろな
写真から「ダルメシアン」タイプの絵をつくる
アルゴリズムの研究をしている、と以前に
聞いていたので、
 田森にメールを送ってみた。

 すぐに返事が来て、自分でつくったやつは、
事情があって出せないが、こんなものも
あるよ、と二つの図を送ってきてくれた。

 これが、私の時間を奪うことになるとは
お釈迦様でもご存じなかったろう。

 二つの図のうち、一つの方は5分くらいで
判ったのだが、
 もう一つの方が、なかなか判らない。
 折り悪く、やらなくてはならない仕事が
沢山あるのに、
 気になって仕方がない。
 コンピュータの画面の上にあるその図を、
ずーっと眺めては、これは何だろう、
何だろう、と考え続けた。

 内田百間(門に月)が、「お腹が空いている」
のは一番好きな状態の一つである、と書いているが、
 私の場合、「判らない」というのは一番好きな
状態の一つである。
 早い話、クオリアの問題はもう10年「判らない」
 だから、絵が何なのか、判らない状態は
好きなはずなのだが、
 どうしてもそれが気になって仕事に手がつかない。
 それは、プラクティカルに言えば困ったこと
だった。

 断続的に二時間見て、それでも判らない。
 脳がものすごい勢いで可能性をサーチ
しているのが感じられて、
 そのこと自体は愉しくて仕方がないのだが、
なにせ、時間は経っていくし、片づけなければ
ならないことも山積している。
 仕方がなく、緊急の仕事だけはして、
研究所に向かって移動した。

 途中で、心配になって、田森に
電話した。
 間違いなく正しい図を送っているんだろうな、
 上下は合っているんだろうな、と探りを
入れたのである。
 何の絵か判らなくても、「答がある」と保証
されれば、安心する。
 クオリアについては、答があるかどうか、
現時点では神様しか知らないが、 
 すくなくとも、この「だまし絵」については、
神様ならぬ田森佳秀が、答があることを
保証してくれた。

 昼食の時、ふっと他のことを考えていて、
ぱっと見たら、その瞬間に判った。
 判ってしまえば、それ以外のなにものにも
見えない。
 ここまで苦しかったが、
もう大丈夫だ。
 一体、私の脳みそはこれまで何をやっていたのか、
おろかだったが、ご苦労さまと肩を
(脳みそに肩があるのならば)叩いて
やりたい気持になった。

 やっぱり、判らないということは好きである。
 世の中に判らないことはまだまだ沢山あるので、
そのことを考えていたいと思う。
 考えていると、酸欠状態になるけれども、
それはそれで好きでたまらない。

3月 23, 2005 at 06:22 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/22

理想の散歩道

私が今住んでいるところから、
裏道のようなところを通って、
公園の中を抜け、
 以前国立の病院で、今は
集合住宅の敷地になっている周囲の
森の中を歩き、
 寺の横を抜けると
そこにそば屋がある。

 特においしい、というわけではないのだけれども、
そこに至る散歩道が気持が良いので、
休日にはテクテクと歩いていくことが多い。
 片道7−8分の散歩である。

 「味」だけではなく、そこに行って
帰ってくる体験の質全体を問題にし、
それを消費するというのはつまりは
「クオリア消費」だが、
 同じようなことをやっている人が
もっといても良いはずなのに、
 他にはあまり見ない。

 寺の横には、夏になると
トカゲがたくさんいる。
 木の幹にずらりと並んで、
ひなたぼっこをしている。
 昨日もいるかなと思って注意していたが、
まだ季節が早いのか姿を見なかった。

 ケンブリッジには、市街から
トリニティカレッジ所有の「グランチェスター牧場」
を経て、グランチェスター村まで、約30分の
散歩道がある。
 日曜にはみんな歩いてサンデー・ランチを
食べに行くのが人気のある風習で、
 アラン・チューリングなどもよくやって
いたらしい。

 「歩く」というのは重要な思考機会だから、
気持ちよい散歩道は、一種の知のインフラである。
  
 私が良くやるのは、代々木駅から
原宿駅まで、明治神宮の森の中を抜けるルートで、
天気の良い日など、山手線に乗らずにわざわざ
歩く。
 玉砂利の道に、時折光の川が出来ていることが
ある。

 日曜日にそば屋に行く話を書くつもりが、
いつの間にか散歩道の話になってしまった。
 つまりは、理想的な散歩道を常に探している
のである。

3月 22, 2005 at 04:35 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/21

ネットワークの外を思うこと

黒田恭一が解説するFMの音楽番組を
聴いていたら、
 突然チャイムが鳴ってアナウンサーが
喋り始めたので、地震を知った。
 
 小倉や福岡は母の出身地で、子供の時から
何回も行っていてなじみが深い。
 自分は半分は九州人だと思っている。
 今年は九大の客員で数回は行くことになると
思うから、
 ますますなじみがある。

 一日中気に掛かっていた。

 ライブドアとフジテレビの問題には、
あまり関心がない、
 というか、パッションがかき立てられない。
 あのようなことにムキになるタイプ
の人と、そうでない人がいると思うが、
 どちらかと言えばムキにならない
人の方が、私の友人には多いと思う。
 郡司ペギオ幸夫や池上高志が、
ライブドアの問題について
熱く語る、などということは考えにくい。

 どうしてかと言えば、判りきったことだから
だろう。
 たとえば、ネットワークが出来たとする。
そのネットの中で出来ること、展開すべきことは
たくさんある。
 インターネット上でやることは、そりゃあたくさん
ある。
 しかし、だからと言って世界がその中に
閉じこめられるわけではない。
 ネットに接続しないおじいさんだって
いるだろうし、
 空を飛ぶヒバリもいる。

 僕や、郡司や池上は、きっと、おじいさんや
ヒバリの方が気になるのである。
 最近、柳川透とスモール・ワールド・ネットワーク
についていろいろ議論して、
 研究プロジェクトも立ち上げているが、
じゃあ、その数理が「グレート」という領域
に達しているかと言えば、
 そういうことではない。
 WattsとStrogtzの論文にしても、別に
グレートというわけではない。
 ネットワークの内部から、グレートな
ものが出るわけではない。

 柳川とやろうとしていることのねらいは、
むしろ、ネットワークの数理を語りつつ、
ネットワークの外を取り込むことなのだが、
これからクレッシェンドで取り組んでいくことに
なるだろう。

 ニッポン放送の社員が文句を言っているのも、
要するに報道の本質はネットの外にもあるだろう、
ということじゃないかと思う。
 それはその通りだと思う。
 早い話が、地震が来るかどうかネットじゃ
わからないだろう。
 ネットを使って、ぐちゃぐちゃやりたい
やつは、勝手にやれば良い。
 それで金もうけしても、別にかまわない。
 あまりそういうことに、興味がない。

 夕暮れ、仕事に目途をつけて、
近くの公園に行き、
 何気ない斜面の草や石ころや棒きれの
様子を眺めていると、
 一つ一つの石ころに小宇宙があり
(こいつらはどこから来たのか、どうして
こんな形になったのか、異なる数種類の
草は、どうやってこのような密生分布を
獲得するに至ったのか)
 飽きもせぬが、それとネットワークは
関係ないだろう。

 私は別にラッダイトではない。ネットは
ヘビーユーザーだし、モバイルしまくりだし、
ライブドアが新サービスを立ち上げてくれれば
使いまくるし、ちゃんと金も払うし、
 地上波テレビがなくなったって別に
いいけど、
 そういうことには興味はあまりないんだよね。

 最近、ロジャー・ペンローズと必要があって
メールをやりとりした。
 「一ヶ月前から日記がなくなっていて、
スケジュールが決められなくて困っていたが、
ケンブリッジのある友人の庭から出て来たので
良かった」などととぼけたことを書いている。
 ライブドアに話題をかっさられている
東京とは違う空気が流れているようである。

 ペンローズがネットがどうのといった
ことに興味があるとは思えない。
 それでも、ペンローズが広い世界を
見ていない、ということにはなるまい。
 むしろ話は逆だろう。 

3月 21, 2005 at 06:34 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/03/20

『脳と創造性』発売

茂木健一郎 『脳と創造性』「この私」というクオリアへ
(PHP研究所)
ISBN: 4569633536 ; (2005/03/19)

発売中
です。

<出版社からの内容紹介>
脳と創造性はどのような関係にあるのか。創造性とはそもそも何か――。
このような問いは、現代においてきわめて重要であるにもかかわらず、誰も正面切って論じようとはしなかった。創造性を天才の神秘のインスピレーションと見做したり、脳をコンピュータのアナロジーで考えるなど、様々な固定観念が立ちはだかっていたからかもしれない。
創造性の脱神話化、論理と直観、不確実性と感情、コミュニケーションと他者、感情のエコロジー、クオリアと文脈、一回性とセレンディピティ、個別と普遍。
以上のような切り口から、著者は、脳を単なる閉鎖系として扱うことなく、ダイナミックで予測不能なカオスとしての「生の現場」に切り込み、脳と創造性の秘密を探っていく。この世界で生命、人間、そして脳が創造性を発揮することの根っこに迫る。
養老孟司氏推薦! クオリア問題をライフワークとする著者の新境地。


<帯の推薦文より>

創造性は現代の中心課題であるのに、
なにか暗黙の前提になっていて、
誰も考えようとはしなかったが、
茂木さんは脳の側から本気で
その第一歩を踏み出した。
躍動感あふれる思考につられて、
読者の思考もいきいきと働き出す、
すごい本である。

養老孟司
<目次>
●第1章 創造性の脱神話化 
●第2章 論理と直観 
●第3章 不確実性と感情 
●第4章 コミュニケーションと他者 
●第5章 リアルさと「ずれ」 
●第6章 感情のエコロジー 
●第7章 クオリアと文脈 
●第8章 一回性とセレンディピティ 
●終章 個別と普遍

<本文より>
クオリアは、あくまでも私秘的な(プライベートな)体験である。
その私秘的な体験が、逆説敵ではあるが、個別を超えた普遍性を支える。
確かに、自分の見ている赤と、他人が見ている赤が
同じであるということを確認する術はない。
しかし、意識の中で感じるクオリアこそが、私たちの生み出す
様々な科学、文学、芸術上の作品の普遍性を担保するのである。
その普遍性への根拠のない信仰を抜きにして
創造の苦しみに耐えることなどできない。

3月 20, 2005 at 10:54 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

花發多風雨,人生足別離。

昨日の日記の最後のセンテンス
「補助線だけが人生だ」
は思いついて、書いて、コーヒーの
お代わりをしに台所に立った時に、
そういえば井伏鱒二の「厄除け詩集」に

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

という言葉があったなあと思い出した。

 井伏の言葉は深く美しい。オレが女だったら、
そんな詩を書く男がいたら、それだけで
興味を持つのではないか。

 以前ニューカレドニアに行った時、
ヌーメアに「ビルボケ」という花に包まれた
美しいカフェがあった。
 そこでぼんやりするのは至福の時間だったが、
それ以来、ぼんやりすることを「ビルボケ」
と言うことにしている。

 あまりにも忙しかったので、ビルボケした。
ソファに寝ころがって文藝春秋(2005年4月号)
を読んでいたら、いつの間にか眠った。

 白川静さんの「皇室は遙かなる東洋の叡智」
という論文が大変興味深かった。
 白川さんの東洋についての膨大な知識に
裏付けられた、精緻な論考。 
 とりわけ、中国、日本、西洋の関係についての
洞察は深く、鋭い。

 (引用)相異なる文化を持った民族によって征服
され、そのたびに異質の文化が対立する、という
パターンは、中国の歴史において、幾度となく
繰り返されます。対立する思想は、たがいに
自らの正統性を主張し、普遍性を競ってきました。
それが中国の文化にダイナミズムを与え、その思想
に深みを与えてきた。(中略)そうした試練によって
鍛えられたがために、中国の文化、文学というものは、
社会的、政治的にきわめて深く真摯な考察を積み重ねて
きたのです。

 (引用)これは、江戸中期のことでしたが、新井
白石がイタリーから密入国した宣教師を取り調べた
とき、西洋の科学、西洋の技術に非常に簡単しました。
ところがひとたび、宗教の問題になると、処女懐胎
などの説明を聞いた白石は唖然とする。なぜ、
あれだけの物質文明を持ちながら、そのような幼稚な
ことを信じているのか。精神文明においては
東洋の敵ではない、と考えたのです。

 続いて、白川さんは、「天皇が続いているという
事実そのものが尊い」と主張する日本主義は、
一種の思考停止だったと指摘する。
 思想としての普遍性が欠けているというの
である。
 白川さんの言う「東洋の叡智」は、現代
中国にもきっとあるのだと思う。
 都知事のように、情緒的な中国批判をしても
仕方がない。

 自分の情緒的な反応を、無知で正当化
するのは一番まずいパターンである。
 自省を込めてそう思う。
 現代社会では、よほどの猛勉強をしなければ
まともな素養など身に付かない。
 自分は文系だから、理系だからと
無知を正当化するのは論外で、
 そういう情緒に付き合う必要はない。


 「対角線論法」を知らない「文系」に世界の深さを
語る資格はないし、
 日本が明治維新の時に独立を保てたのは、
別に日本が特に優秀だったからではなく、
アメリカが南北戦争で忙しかったからかもしれない、
というような可能性を考えられるほどにも近代史を
知らないやつにも、
 ナショナリズムを語る資格はない。

 ものを知らないやつが自分の情緒で
うだうだいうのが一番やっかいである。

 マスメディアがそういう無知なうだうだを
助長してきたのが過去10年なのではないかと
私は懸念する。

 白川さんの言う「東洋の叡智」については、
もっと勉強しなくてはなるまい。
 そういえば、井伏の「厄よけ詩集」の
「花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが
人生だ」は、于武陵の「勸酒」
の訳であった。


勸君金屈卮,
滿酌不須辭。
花發多風雨,
人生足別離。

3月 20, 2005 at 08:16 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/03/19

野球という体の文化

ヨミウリ・ウィークリー
2005年4月 3日号
(2005年3月19日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第46回

野球という体の文化
一部引用

 以前、公園で草野球をやっていたら、パキスタンの人が二人通りかかって、面白そうだ、いっしょにやらせてくれと話しかけてきたことがある。もちろんいいよ、と即席の国際親善を図ったが、この二人が全くへたくそなので驚いた。おそらくはスポーツか仕事で鍛えたであろう頑強な体つきをしているのに、ボールを投げようとすると、女の子が「いくわよ〜」と言いながら投げているようなフォームになってしまうのである。
 パキスタン人のお兄さん二人と野球をやって、野球は一つの身体の文化なのだと気が付いた。私が当たり前のようにボールを投げ、バットを振って打つことができるのは、子供の頃から草野球をやって、そのような身体の動かし方が染みついているからである。周囲の人とのふれあいがないと言葉を獲得することができないように、身体の文化も、そのような文化に接し、学習しなければ自分のものにすることができないのである。

全文は「ヨミウリ・ウィークリー」で。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

3月 19, 2005 at 10:23 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

補助線だけが人生だ

朝日カルチャーセンター「脳とデザイン」
最終回は、日月山水図屏風と内藤礼について
考え、
また20世紀の科学の二つの宝、
DNAの二重らせん構造と
E=mc2の発見のオリジナルの論文を
読んで、
 そこに現れているデザインの問題
について議論した。

 次回の朝日カルチャーセンター脳講座は、
4月15日からの全5回で、テーマは
『脳と癒し』である。
 最終回に南直哉さんと対談する。

 最近思うことは、脳科学を「脳」科学として
やっているうちは、相対性理論や
DNAの二重らせん構造発見に相当する
ブレイクスルーは起こらないのではないか、
ということである。

 たとえば、「スモール・ワールド・ネットワーク」
という視点をとれば、
 脳の神経細胞のネットワークと、ハリウッド映画
の俳優の共演関係と、インターネットの構造が
同じ数理で語れる。
 そんな視点が重要なのではないか。

 脳を脳として研究することも大切であるが、
まったく関係ないように(現時点では)見える
ものとの間に、えいやっと補助線を引くような
ことをしなければ、ブレイクスルーなど
生まれるはずもない。

 特に、意識の起源についてはそうだと
思う。

 朝日カルチャーセンターの前は、研究所で取材を
二件受け、
 Brain Club。
 田谷文彦くんが前頭葉でのcontext memoryについて
の面白い論文を紹介した。
 それで、いいアイデアを思いついて、
さっそく実行することにした。

 張さんは手の動きの知覚についての論文を紹介。
これは、阪大の石黒浩さんの研究に大いに
関係しそうである。

 朝カル後の飲み会の前、関根崇泰と
ボディ・イメージの研究のアイデアについて
立ち話。
 飲み会本体では、増田健史と大塚久雄
を巡って議論。

 いろんな方向に、補助線を引きまくって
やる!

 補助線だけが人生だ。

3月 19, 2005 at 10:12 午前 | | コメント (1) | トラックバック (1)

2005/03/18

楽しむ科学教室映像

高校生ための「楽しむ科学教室」
(Real Player映像、1分40秒)

http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/gib/3_news/0503/3j61.htm 

3月 18, 2005 at 08:49 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

脳の最新科学解説

脳の最新科学解説(中日新聞記事)

美濃加茂高校生対象に教室

 高校生に基礎科学のおもしろさと魅力を知ってもらう「楽しむ科学教室」(平成基礎科学財団主催、県、県教委協賛)が十六日、美濃加茂市内のホテルで開かれ、県内外の高校生約七十人が参加した。県内での開催は初めて。

 はじめに、東大名誉教授でノーベル物理学賞受賞した小柴昌俊同財団理事長が「科学は自分で積極的に取り組んでこそ楽しめる。講師の先生が困るくらい質問して講義を楽しんでください」とあいさつ。ソニーコンピュータサイエンス研究所の茂木健一郎さんが「心と脳の不思議な関係」と題して講演した。

 茂木さんは、脳についての最新科学をわかりやすく解説。参加者からは「記憶喪失はなぜ起こるのか」「脳の記憶量に限界はあるのですか」などと盛んな質問があった。

 また、教室に先立ち、同財団県民応援団(団長・牛込進県工業会長)から、小柴理事長に募金二十万円が贈られた。 (生田 貴士)

http://www.chunichi.co.jp/00/gif/20050317/lcl_____gif_____007.shtml 

3月 18, 2005 at 08:41 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

日月山水図屏風から風花へ

名古屋に移動し、愛知県立美術館の
「自然をめぐる千年の旅ー山水から風景へー」 
で「日月山水図屏風」を見る。

「すごい」としかいいようのない室町時代の
作者不詳の作品である。
展示替えで、4月10日までしか見られないので、
近隣の方はお急ぎを。
東京のヒトも、新幹線に飛び乗って見に行け!
普段は、金剛寺にあり、年に二日間しか見ることが
できない。

 会場には、なんと、国宝の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」
(「早来迎図」)

や、国宝、久隅守景の
「夕顔棚納涼図屏風」などもあり、さすがは
愛知万博記念ということで、
頭がくらくらし、生命の危険を感じるほど
魅力的な名品のそろった展覧会であった。

「早来迎図」の前でも、もっと時間を費やしたかったが、
ここは初対面の「日月山水図屏風」に絞って、
時間の許す限り(約30分間)その前にいた。

一つの絵の前にずっといるというのは、以前
長谷川等伯の松林図を見た時に開眼した
やり方である。
あの時は2時間いた。
日月山水図屏風の前にも、それくらい居たかった。

海の波が、「気」の流れのように下に漂って
いる。
松やその他の木はもちろん、何よりも山や
海に生命の気配があって、
万物がうねり、流れて、一つになる契機を
みせながら、なおも一つ一つの個別を保っている。

地球の造山運動とその浸食もまた一つの
生命のいとなみであり、松の木は
そのうねりの上に生えた小さなカビの
ようにも見える。

うねりは地上だけにとどまっているのではない。
月や太陽は、遠くはなれた宇宙空間の中に
あって、光という不思議なメディアムを
通して、地上の出来事に影響を
及ぼしている。

すべてのものが、響き合って、包み合って、
包まれている。

名古屋駅ビルの高島屋で「白洲正子の世界展」
を発見、急いで見学する。白洲信哉に、
「あった、行った、見た」と電話。

新幹線で東京に移動、NHKで二件の打ち合わせ。

有楽町の中華料理屋で、「文學界」の
「脳のなかの文学」連載一周年と、島田雅彦
さんの「退廃姉妹」連載集結のお祝い。
文學界担当の山下奈緒子さん、大川繁樹編集長、
文藝春秋の田中光子さん、西山嘉樹さん、丹羽
健介さん、川田さん。
川田さんは身長173センチの元早稲田大学
女子バスケ部であった。
川田さんが名刺を切らしていたので
フルネームが判らないのである。

大川さんは、相変わらず文学の理想を
追い求め、飛ばしまくっていて、
私はとてもとても安心した。
帰り際、大川さんは
「内藤礼の作品は素晴らしい!」と
激賞した。

新宿五丁目の「風花」に移動。
矢作俊彦さんがいらした。

島田雅彦も、大川さんとは違う
リズムとメロディーで飛ばしまくっていたが、
私はいろいろ仕事もあり、時間が小さくなった
頃に帰宅した。

あの後、島田雅彦がどのようにさえまくったのか、
とても気になったが、
眠りに就く前に最後に意識に上ったのは、
日月山水図屏風の輝く太陽だった。

島田さん、女の話もいいですが、
たまにはあの屏風の風景の中に行きませんか。
もちろん、屏風の中で島田さんが女の話を
続けたとしても、
それはそれで奇抜な地上の太陽となるかも
しれません。
 

 

3月 18, 2005 at 07:17 午前 | | コメント (3) | トラックバック (3)

2005/03/17

小柴昌俊先生の「楽しむ科学教室」

(cocologのメンテナンスのせいでupが遅くなった)

 平成基礎科学財団の「楽しむ科学教室」
のために、美濃太田に来る。

 80分×2回、脳と心の関係について
レクチャーする。

 会場に集まった高校生たちが、
熱心で意欲的だったので、ほんとうに
心を動かされた。
 みなさん、ありがとうございました。

 岐阜県のこのあたりは何だか
いい感じである。

 電車に乗る方向を間違えて、無人改札の
小さな駅に着いてしまったのである。
 近くに鉄橋があり、すぐそばに家々が
あり、人が歩けるだけの小さな道があった。
 
 空気がとてもやわらかく、
魂の奥をやさしくぎゅっとつかまれる
ような懐かしさがあった。

 それで、突然だけども、グローバリズム
ということについて考えてしまった。
 競争競争と言うが、そのプラットフォームに
乗っているもの同士でしか成立しないはずだ。
 そもそもダイナミクスがカップルしていなかったり、
単連結ではないものの間には、
 競争など成り立たない。

 駅ビルが均一化していくのは、つまりは
そういう単連結のコネクションが出来てしまうから、
あるいはできると思うからだろう。
 相互作用を持たない、別のドメインが
あって何が悪い。
 
 グローバリズムという思想は、イデオロギー
においてではなく、純粋に力学的見地に
おいて、一つの誤謬である。

 そのローカル駅の近くの風景は、
全国で均一化されていくターミナル前の光景とは
全く違っていて、
 ここに残っていてくれてありがとう、
と思わず感謝したくなった。

 小柴先生が財団でやられようとしている
こと(つまり、ゆっくりと科学を楽しむということを
伝えること)も、本当の意味での柔らかな
ユニークさを育む試みであるように思えて、
 私は小柴先生、ありがとうございますと
心の中で言った。

3月 17, 2005 at 03:10 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/03/16

坂田栄一郎さん

土井利忠さんと、某ロボティックス関連の
書籍の内容について議論。

 九州大学ユーザーサイエンス機構の
糸井久明先生、坂口光一先生が御来所。

 Zhangさん、柳川透と論文の内容について
discussion。

 朝日新聞本社で、坂田栄一郎さんに
写真を撮られる。

 新潮社で、『考える人』の松家仁之編集長、
北本壮さんと打ち合わせ。

 新潮社近くのBrusselsで、北本壮さん、
足立真穂さん、『旅』の葛岡晃さんと。

 坂田栄一郎さんは、まずは30分近く
ご自身の作品などを中心に立ち話を
されて、それからおもむろに
ハッセルブラッドでかしゃかしゃ
撮り始めた。

 一つのマガジンに12枚のフィルムが
入っており、
 それを10巻くらい使った。

 いろいろな方向を向きながら、かしゃかしゃ
撮っているうちに、
 ある瞬間、「あっ、それですね」などと
言われる。
 私は次第に春の陽光の当たる桜の
花びらのような気持になっていった。

 坂田さんの肖像写真の秘密を、体験した。
世間に出るのは、一月後くらいのようである。

 写真を撮られる、ということに
ついて、私は落ち着かないものを心の
中に抱えている。 

 見る/見られることの歓びと哀しみについて、
以前文學界の連載で書いた。
 (「文學界」連載 脳のなかの文学
第6回 見られることの喜びと哀しみ
(2004年9月号))
 その時、太宰の文章を引用した。

 私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
(中略)まったく、その子供の笑顔は、よく見
れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪
いものが感ぜられて来る。どだい、それは笑顔
でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。
その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く
握って立っている。人間は、こぶしを固く握り
ながら笑えるものでは無いのである。猿だ。
の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺を寄せているだけ
なのである。(太宰治『人間失格』)

 太宰は、見る/見られるということの
歓びと哀しみに自覚的な人だったのだろう。
 私も、ティーンエージャーの時に、
太宰のように道化を演じていたことがある。
 しかし、太宰のようにそのエレメントを
人格の中心に持ってくるには至らなかった。

 この文學界の論説の中で、私は
キリストに対するEcce Home(この
人を見よ)を経て、最後は神の視点
にたどり着かなければならなかった。
 そうしないと、落ち着かなかった。
 太宰には、人間(じんかん)にまみれ、そこに
とどまる胆力ないしは怠惰があったように
思う。
 私には、人間(じんかん)にとどまることは
どうもできないらしい。

 平家物語の小宰相も、怪我をした子供も、人間が
泣くのは、他者の視線を意識した時である。人間は
泣きながら生まれ、泣きながら死んでいく。その涙
が乾き、命が尽きる時、他者の視線の向こうから、
広大な天然が浮かび上がってくる。そして、その時
になってようやく、私たちは頼りなく危なげに感じ
ていた他者の視線もまた、母なる宇宙そのものであ
ったことに気付くのだろう。
(「見られることの歓びと哀しみ」より)

 写真スタジオは地下だった。
 朝日新聞の地下にあった輪転機の群れが、
夏目漱石の『坑夫』の青年が
見た地下の坑道のように思い出される。

3月 16, 2005 at 06:33 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/03/15

内藤礼さんの新作

直島のきんざにある
内藤礼さんの「このことを」
を以前、ブルータスの取材で見て衝撃を受けた。

4月1日から、銀座のギャラリー小柳で
内藤礼さんの展覧会(「地上はどんなところだったか」)
があり、それに向けて製作中の
新作を内藤礼さんのアトリエで見た。
ギャラリー小柳の深澤千絵さんも。

内藤さんが、作品についていろいろ解説
してくださった。

至福の時間であった。

世の中には、あまりにも深く秘められていて、
容易に陽光の下に出てこないものがある。
気がつけば、それはそこかしこにあるのだが。

内藤さんの作品については、いずれゆっくり
書くことになると思うので、
素晴らしかった!
とだけここには書いておく。

3月 15, 2005 at 08:30 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

キーパーの気持ち

サッカーの試合を見ていると、なぜ思わず声を
上げてしまうのか?
2005年2月15日の日記を読んで、ソフトバンク・
スポーツメディア事業部の
富田舞さんにご連絡いただき、
1時間ほどお話した。
 
富田さんは渋谷慶一郎さんの知り合いで、世界は
狭い。

話しているうちに、サッカーというゲームは
とてつもなく奥深いものであるよう
に思えてきた。

香山リカさんが「ぷちナショ」で指摘した
ように、ワールドカップの応援は
明るく軽いナショナリズムのように見えるけれど、
実はちょっと違った見方もあるんじゃないか、
というようなことを話した。

「ゴールキーパーの気持ち」についても話した。
キーパーは孤独である。
自分のチームが、相手側フィールドで
プレイしている時はいいんだけど、
こっちにボールが来て、「ああ、来た来た来たよ」
と感じている時の切迫感について話した。

その後、富田さんの専門だった建築の話もした。

キーパーのような気持でいる人は、
世の中のいろいろなところにいるような気がする。
今の日本の世相について、
「ああ、来た来た来たよ」
と思っている人は案外あちらこちらにいるんじゃ
ないか。

3月 15, 2005 at 08:28 午前 | | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/03/14

うかつな断片

人生が、本来一つのストーリーで
つながるはずもなく、実際にはバラバラの
断片として私の意識に様々なものがうつる。

朝、新聞を取りに行ったが、そこに新聞は
ない。
そうだ、今日は休刊日だったのだ、と気が付く
時、自分はうかつだと思う。

ビフィズス錠を食べようと口に持って
いく途中で落ち、それがテーブルの横の
椅子のアームに当たって、まったく奇跡的な
ことにテーブルに戻った。

この間、きわめて短い時間だったにも
かかわらず、「あーっ、ビフィズス錠が落ちた、
あの方向に落ちたということは、
床に落ちるから、探さなければ
ならない、オレはめんどくさがりだから、
ひょっとしたら探さないかもしれない、
長い間放置されたビフィズス錠は、一体
どうなってしまうのだろうか」
というような思考が流れる。
危機の時、stream of consciousness の中で
時間の流れが遅く感じられるというのは、
まさにこのことだ、と思う。

もっとも、ビフィズス錠の危機だから、
大した危機ではない。

「時間の流れが遅く感じる」というのは、
おそらくは記憶の刻みが細かくなるからで、
後付けの記憶の目盛りが、あたかも時間的に
さかのぼって時間の流れの知覚に影響を
与えるかのような構造をしている。
こんな小さなところにも、意識の科学の
ネタが転がっている。

コンビニに行って、食料と雑誌類などを
買い、また別の店に行って、飲み物を買って、
ふらふら歩いていた。

家に帰って、雑誌類などが入った袋が
そのまま一つなくなっていることに
気が付いた。
記憶の中で、
歩いていた経路を振り返ってみると、
どうも、最初のコンビニに置いてきたとしか
思えない。

面倒だったが、戻ったら案の定あった。

つまり、「手に袋を持っている感触が
ある」ということで
私の認知プロセスは満足してしまって
いて、「二つの袋がなければならない」
ということを認識していなかったのである。
店員さんが袋詰めしている間、私は
あらぬ方を見てぼうっとしていたのであろう。

さかのぼれば、
おつりの千円も損してしまった。
おつりをもらうと何時も私は手にくしゃっと
もって何気なくポケットに突っ込んで歩き出すが、
はっと気が付くと、千円足りなかった。

これは全く私が悪いのであって、
というのも、私の机の上には、小銭が山のように
おいてある。
買い物をするときに、小銭をだすのが面倒で、
どんどん溜まっていくのである。

これはいけない、というので、昨日は小銭を
使うためにコンビニに行ったのだった。

とは言っても、二十数枚くらいだと思うが、
多くのコインを出したため、店員の女の子が
混乱してしまったに違いない。

もはやこれまでなので、
千円札については黙っていた。

その、千円札を間違えた女の子が渡して
くれたはずの雑誌の入った袋を、私は置いて
きてしまった。

なんだか、机の上の小銭から、因果が回って
いったような気がする。

確定申告が面倒でたまらなくて、毎年
締め切りぎりぎりになる、というのも、
因果である。
「必要経費」と言われてもなあ、
とあっちこっちに散逸しているに違いない
領収書を思って、呆然とする。

要するにあたまの中はいつでもぼっとしている
わけで、
例えば今でも港さんが見せてくれた
洞窟の絵のことを考えていたりする。
池上が最近郡司について言っていたことも
考える。

3月 14, 2005 at 06:45 午前 | | コメント (4) | トラックバック (1)

2005/03/13

「脳と創造性」アマゾン予約開始

茂木健一郎
「脳と創造性」 「この私」というクオリアへ
(PHP研究所)
2005年3月19日発売
ISBN: 4569633536

アマゾンで予約可能になりました。

長澤護さん、コメントで教えてくださり、ありがとう
ございます。

3月 13, 2005 at 07:37 午前 | | コメント (3) | トラックバック (0)

他人が自分に入ってくる

他人の話を聞いているのが好きだ。
 とりわけ、その人の世界観、パーソナリティーが
直接伝わってくるような話だと、
 まるでその人が自分の中に入り込んで来ている
ようなキモチになる。

 それも、なるべく意見が遠い人だと良い。
なぜこの人はこのような発言をしているのか、
その切実さ、必然性のようなものは、
ちょっと想像してみればおおかた見当が付く。
 同じ人間なんだから、だいたいこのような
道筋であんなことを言ったり、やったり
しているのか、と推測することができるのである。

 このような、他者の心の推定は、普通の
認知科学の言葉で言えば「心の理論」
であるが、
 より一般的な視点から見れば「メタ認知」
である。
 そもそも私は全ての意識表象は
原理的にメタ認知であるという立場をとる
ので(『脳内現象』参照)、ここで言う
メタ認知は、その一般的なメタ認知の特別な
インスタンスだということになる。

 先日、品川駅を降り立ったとき、
コンコースに紙の袋をもった変な女の人が
いた。
 おそらく五〇歳くらいだろうか、
コンビニの前に立って、流暢な英語で
 crazy woman, dangerous.....
などと同じフレーズをくり返していた。

 紙袋を両手に持ってバランスをとっている
ところとか、
 通行人の流れに対して直角に向いているところ
とか、
 ふらりふらりと揺れているところとか、
 なんだか幾何学的センスのようなものが
感じられた。

 アタマがおかしい、と片づけるにはもったいない
いろいろな興味深いものが、その人の振る舞いからは
伝わってきた。
 本当はしばらく見ていたかったのだけど、
仲間だと思われてにこりと笑われたりすると
ちょっと困るので、そのまま歩いて来た。

 雨の中、派手に転んで傘の柄を折って
しまったのは、その後の事である。
 傘が守ってくれて、小指の第一関節を
ちょっとすりむいただけで助かった。
 今考えてみれば、
 crazy woman, dangerous.....
の言葉のリズムが頭の中に残っていたとしか
思えない。

 つまりは、どんなに極端な言説を
吐いている人にも、右から左まで、
品行方正から品性下劣まで、
 その言説の依って立つところ、
パーソナルな必然性は何となく推測
できる。
 crazy woman, dangerous....が
アタマの中に入ってくるくらいだから、
 わかることは判る。
 モンダイは、極端な人たちがしばしば
自分のそのような言説がどのような切実さ
から来ているのか、自覚しないところだろう。

 メタ認知は、人を自由に、そしておそらくは
謙虚にする。
 自分を相対化することは、決して
自分を大切にし、自分にこだわることと
矛盾することではない。

3月 13, 2005 at 07:24 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/12

私流「国語入試問題必勝法」

ヨミウリ・ウィークリー
2005年3月 27日号
(2005年3月14日発売)

茂木健一郎  脳の中の人生 第45回

私流「国語入試問題必勝法」

一部引用

 脳のはたらきや、コミュニケーション、言葉の意味など、入試問題として取り上げやすいテーマを扱っているせいか、最近、私の書いた文章が高校や大学の入試で使われることがしばしばある。
 入試問題という性格上、実施された後に、「実は文章を使わせていただきました」という丁寧なお手紙とともに、問題が同封されてくる。興味をひかれて解いてみるが、これが案外難しい。
 とりわけ、「この文章の趣旨は何か、次の中から選びなさい」という選択問題が解けなかったりする。文章を書いた本人も、「はて、どれが正解だろう」と悩んでしまうのである。自分の書いた文章の意味がわからないとは、一体どういうことか、情けない限りである。
 だからと言って、決して入試問題が悪いというわけではない。国語の入試問題は、その道のプロが作成したものである。長年国語教育にたずさわってきた現場の感覚から生み出された問題からは、学ぶべきことが多くある。
・・・・・・・・

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

3月 12, 2005 at 07:15 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

『脳と創造性』見本届く

PHPエディターズグループの石井高弘さんが、
3月19日発売予定の

茂木健一郎 
『脳と創造性』「この私」というクオリアへ
(PHP研究所)

の見本を送ってきて下さった。
石井さん、ありがとうございました。


3月 12, 2005 at 12:14 午後 | | コメント (2) | トラックバック (0)

他人の心のシミュレーション

港千尋さんの研究会で訪れた海浜荘の朝、
パワーブックの電源アダプタが回収できず仕事が
できなかったので、ふとんの中に入って、
10日に、角川書店の金子亜規子さんにお会いした
時にいただいた
『野性時代』16号に掲載されていた
辻仁成さんのORIGAMI(一挙270枚掲載)
を読んだ。

 最近、何やら新しい脳の活動モードが
自分の中で立ち上がっている。
 それは、好悪といった感情の反応を
とりあえず捨象して、
 対象に対して認知的距離(ディタッチメント)を
持って接するということで、 
 小説で言えば、
 なぜこの人はこのような物語を書き、
このようなドラマトゥルギーに対して
関心を持ち、
 このような人物にこのような行動をとらせる
のであろうか、
 というようなことを、客観的な立場から、
しかし共感的に分析する、というような
脳の活動である。

 このようなことを自分が思うように
なっている、と自覚するきっかけは、
 文學界に「文学と科学の間に」を書いたことだった
かもしれない。

 辻さんにとっての切実さは私にとっての
切実さとは違うが、なぜ辻さんがこのような
物語を書くのか、その人生の軌跡を想像して
見ることは面白いことだった。
 自分の人生の軌跡などサンプル数としては
N=1に過ぎないから、
 なるべく多くの他者に出会わないともったいない。
 自分と違う人であるほど良い。

 もっとも、そのことと、自分の生の文脈を
一人称的に引き受けることは両立するはずである。

 ライブドアvsフジテレビの件でも、
ライブドアのやり方を支持し、「既得権益」
を守る側をののしる人の発言も、
 堀江さんのやりかたを「けしからん」と
怒るような人の発言も、それぞれの発言が
どのような生の必然性から来るのか
ということを想像することに、今の
私の関心は向かっているようだ。

 自分が堀江さんだったら、ライブドアの
社員だったら、フジテレビの社長だったら、
ニッポン放送の社員だったら、どのような
ことを考え、行動するか。
 それはある程度シミュレーション
することはできる。
 野次馬の心理も、ある程度は
シミュレーションできる。

 あまりかっかしないで、
自分と異なる立場の人の行動はどのような
必然性に基づいているのか、と
想像して見て、
それから自分の生の一人称性を引き受ける
ことで、新たな豊かさの次元が開かれる
のではないか。

 もっとも、こんなことを書いていても、
所詮私は血の気が多いから、
 爆発するときは爆発してしまう。
 あとから、ちょっとしゅんとして、
相手の態度の背後にあったものを
反省したりするのである。

 先回りして反省するように修業したいと
思う。

3月 12, 2005 at 06:45 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/11

科学とアート(承前)

時は流れ、品川に向かう東海道線の中。

研究会は大変面白かった。
私が喋った後、もとみやかおるさんが、
伝統技法「金つぎ」を生かしたアートプロジェクトの
話。
割れた焼き物を捨てずににかわと金で接いで
使い、あまっさえそれを新たな「景色」として
楽しんでしまうという世界でも日本だけで
見られた技法で、いろいろなものを接いで
しまう。

ネガとポジを裏返すと、実は「割れ目を接ぐ」
ということが形態形成における普遍的原理なの
ではないか。

続いて、松木宏之さんが、音声処理、人工知能、
ロボットの話。
ロボットのデザインとは一体何なのか、
その原理的及び実際的考察を巡って議論が
盛り上がったが、
アート側のロボットデザインの現状に対する厳しい
認識が印象的であった。

続いて、伊藤俊治さんがフランスで開かれた
自然物を集めた展覧会の画像を見せながら、
形態形成、人為の問題を議論。
確かに、人間は自分の創造性を
特権化すべきではない。
それは、自然界に普遍的に存在する
自己組織化の傾向の一つのインスタンスに
過ぎないのだ。

港さんが、クロマニヨン人の洞窟から
大量の「奇妙な形をした自然物」が発見
されたことから、アートの始源は、
自然界に落ちている興味深い形のものを
見出し、集めることにあったのではないか
と指摘。

港さんは1994年にフランスで発見されて
一大センセーションを巻き起こした
La Grotte Chauvet
の洞窟画の絵を見せて、
私の脳の中にも一大センセーションを
巻き起こした。
凄すぎる。

http://www.culture.gouv.fr/culture/arcnat/chauvet/fr/

http://pro.wanadoo.fr/quatuor/art_b12_0004_00.jpg


夕食後、中ザワヒデキさんが、独特の
オーラを放ちながら議論を先導。
李明喜さんが、スルドイ意見を放ち、
伊藤さんがワインを手にさえまくり、
港さんが
アート&サイエンス複合体の蜃気楼が
ゆらゆらと見え始めたように思った。

参加者は、一筋縄ではいかない
強者たちであり、和して同せず、
同して和せず、
丁々発止のワイン・シンポジウムは
small hoursまで続き、
私はワイングラスを持ちながらうとうとし、
30分後に会話を続けるという得意技を
繰り出して強者どもに対抗いたしました。

いろいろなものの蜃気楼が見えたように
思うので、ぜひ追求してみたいと思う。

3月 11, 2005 at 03:34 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

科学とアート

港千尋さんに誘われて、
鎌倉の海浜荘で行われた多摩美術大学の
Science and Artの研究会に参加。

他の参加者は、
もとみやかおる、松木宏之、伊藤俊治、森脇裕之、中ザワヒデキ、
門光子

など。

夜、みんなでワインを飲んだ部屋に電源コードを置いて
きてしまった。

私は早起きのクセがあり、その部屋にいったら、
当然誰もいなくて、私の電源コードも
しまってくれたらしく、なくなっている。
みんなまだ寝ている。

ということで、電池がなくなってきていて、
この項、あとで電源コードを確保できたら
書き継ぎます。

3月 11, 2005 at 06:30 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/03/10

団まりなさんを訪ねて

生物学者の団まりなさんを、千葉県館山市の
ご自宅に訪ねる。

桑原茂一さん、吉村栄一さん、それに
dictionary編集の中橋由貴さんと一緒である。

団さんが、大阪市立大学を退職された後、
館山の里山に住むのを楽しみにしている
ということは、養老孟司さんの「養老シンポジウム」
http://www.qualia-manifesto.com/yoro.html)の際に
伺っていた。

団さんの近著「性のお話をしましょう」(哲学書房)
の「あとがき」には、

哲学書房の中野幹隆さんが、田んぼを見下ろす私の
家を尋ねて、房総半島の先端の館山まで来て下さった
のは二〇〇一年七月のことでした。

とある。その通り、里山の中にある団さんの
お宅は、素晴らしい環境に包まれていた。


団さんのお宅の玄関から、前の水田を見下ろして

団さんのパートナーである惣川徹さんが、パスタを
二種類ご馳走して下さった。

団さんと、様々なことについて議論する。
女性研究者の問題や、性の問題、細胞生物学の
問題など。
時間はあっという間に過ぎ、帰りの電車の時間が
近づいてきた。

迎えのタクシーが来るまで、しばらく近くを
散策する。見れば見るほどほれぼれとするような
美しい里山である。
館山近郊でも、ここまで整って残されているのは
ここだけになってしまったという。
谷津をぐるりと囲む木々の作るシルエットを見ている
だけでも飽きない。
梅の花が咲いているので、ウグイスは来ますか、
と聞くと、来ます、リスも、タヌキも、イタチも、
トンビも来ます、ということ。

いろいろなものがやって来る家の前の畑
で出来た大根を団さんはその場で収穫して、
お土産に下さった。

団まりなさん、ありがとうございました。

東京駅に着いた時は、日はとっぷりと暮れていて、
京葉線の改札から大根を抱えて出た私たちは、
まるで絵に描いたようなお上りさんで、
迷っているうちにFour Seasons Hotelの
正面玄関に出てしまい、
コンシェルジュに丁重に「お出口はあちらです」
と送り出された。

私はともかく、ダンディーな桑原さんまで
大根の人になってしまった。
大根の人のまま、桑原さんオススメの
八重洲口の南インド料理
ダバ・インディアで、クレープ料理「ドーサ」や、
マトンチリカレーを食した。

店内を見渡すと、インド人比率が高かった。
きっと、真正なる味を供しているに違いない。

3月 10, 2005 at 07:46 午前 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2005/03/09

竹内薫が3月8日の日記

http://6706.teacup.com/yukawa/bbs2

で言及していた「クローズアップ現代」
2005年3月7日

「ブンガクに異変アリ!?〜台頭する若手作家たち」

 
を私もスゴ録で録画して見た。

私はそれほど多くの「若手作家」を読んでいる
わけではないが、
この中でも取り上げられていた島本理生さんは
良い作品を書くと思う。
一度書評で取り上げたこともある。

作品に対する評価は、それがどのような文脈に
置かれているかではなく、読んだ
後の言葉に出来ない独特の感覚、
すなわちクオリアによるしかないと考えるのが、
「クオリア原理主義」である。

その意味で、「ブンガク」を書く若手作家の作品
の中から、素晴らしいものが出てくる
可能性は必ずあると思うし、偏見を持たずに
読んで行きたいと思う。
ライトノベルとか、ミステリとか、そのような
「文脈」には回収できない体験の質を持っている
作品があったら、これからも読んで行きたい。

ただ、これはあくまで私の個人的な嗜好であるか
もしれないが、世界のことをろくに
知りもしないくせに、「おれがおれが」
の「ナルシシズム」の匂いが
する作品は私はどうもダメである。
それと、単純な「計量の法則」を最初に
設定して、人間の生という本来根源的に
予測不可能なものをその設定した規矩にむりやり
おしこめる、という作品もダメである。
(プロットの都合に合わせて人を殺す
ミステリが典型)
何作かの「若手作家」の作品を読んで、
私は上のような点で「ひどい目」に合っている
ので、
あちゃー、という感じがしてしまう
のは仕方がないだろう。

「クローズアップ現代」で引用、朗読
されていた作品の中にも、「あちゃー、
そこまでナルになるかよ!」と耳を
覆いたくなるものがいくつかあった。
もっとも、断片を聴いて判断するのは
フェアじゃないから、機会があったら
いくつかの作品は読みたいと思っている。

それと、これは当たり前のことだが、
コンテンポラリーの作品に比べて、時を
経て古典として残っている作品は、やはり
それなりの質を持っている。

その意味で、私は「ブンガク」という制度を
信頼している。
カフカの「城」にせよ、ナボコフの「ロリータ」
にせよ、
ブンガクのプロが「素晴らしい!」と認める
ものはやはり素晴らしい。
クオリア原理主義において、素晴らしい。

コンテンポラリーのものが質において雑多なのは、
これは仕方がないことだ。
我々の生そのものが、百年経ったらどうなるか
判らない雑多なものではないか。
古典的な作品にのみ基準を置くと、生の躍動を
殺してしまうことになる。

とりあえず、自分の生の文脈を一人称的に
引き受けて、その中で生成してみるしかないわけで、
その結果が素晴らしいものになるどうかは
宝くじだから、二の次だ。
そんなことを、PHPエディターズグループ
から今月中旬に発刊される

『脳と創造性』では書いたつもりである。

今の若手作家が、あまり世界のことを知らなくて、
マンガとかテレビとかしか見ていないとしても、
それは彼らの生の文脈だから、
そこから生み出されるものが彼らに
とっては切実なものだ、ということは確かなんだろう。
後は、宝くじに当たるといいね、とお祈り
するしかない。

私自身を言えば、もう広い世界を知ってしまった
から、現代日本の風俗に埋没するわけにも行かず、
猛勉強をするしかない。
ただ、ナルな若者を自分が面倒みなくちゃ
いけないことになったら、それはもはや仕方が
ない、一生懸命面倒を見る、くらいの雅量は
持っている。
孔子が書いているように、人間というものは
変わるものだしね。

逆に、彼らにしか見えていない現実も
きっとあると思うから、それは学びたいと
思う。

3月 9, 2005 at 06:48 午前 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2005/03/08

ハードとソフトの融合

ハードとソフト(コンテンツ)の融合は難しい。
しかし、だからこそやりがいがある。

Nature Interface) Vol.19 (Feb 2004) p.86-86

茂木健一郎 qualia technica 第6回 「ハードとソフトの融合」

一部引用

(全文pdfは、
http://www.natureinterface.com/j/ni19/P086-P087/)

 「ハードとソフトの融合」ということが、しばしば言われる。
 たとえば、ゲーム機器という「ハード」と、ゲームという「ソフト」、あるいはCDプレイヤーという「ハード」とCDという「ソフト」を融合することによって、新たなテクノロジーやビジネス領域が開けることを期す。今まで別のものと考えられてきた要素を統合して、今までにない世界が切り開かれることを期待して、このようなスローガンが唱えられる。
 ところが、実際には、融合を実現することは難しい。多くの場合、一つの会社が、ハードも売るが、ソフトも売るという、二つの活動を同時並列的やっているということが、「ハードとソフトの融合」の実態であることが多い。融合というスローガンを掲げていても、ハードを開発している人間と、ソフトをつくっている人間ではカルチャーも方法論も別々のままで、両者の間にシナジーがなかなか生じないというのがしばしば実情である。そのような実情を見ると、融合などということを言わなくても、別の活動としてやっていればそれでいいんじゃないか、とも思えてしまう。
 ハードとソフトの融合ということを本当に実現するためには、人間にとって「ハード」とは何か、「ソフト」とは何かという、認識の根本に立ち返って考えなければならないだろう。それでこそ、真にエキサイティングな新しいテクノロジーやビジネスの領域の可能性も見えてくる。
(中略)
 クオリアという視点を持ち込むと、ロボットのように人間の存在形態にあからさまに似せた人工物だけでなく、今日私たちの身の回りにあふれる様々な人工物の多くにおいて、「ハード」と「ソフト」を融合する道筋が見えてくる。
(中略)
 キャンバスはハードであるが、その上に描かれた絵はソフトであるという伝統的思考に対して、現代美術が、フォンタナの『空間概念』といった作品に象徴されるように、両者の区別を相対化する方向に進化してきていることは興味深い。「ハードとソフトの融合」は、テクノロジーの進歩が、世界を見る私たちの認識の過程の変容を巻き込むことによってこそ進展していくと期待されるのである。
(後略)

3月 8, 2005 at 09:04 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

仕事で身体を鍛える

新潮社の足立真穂さんから送って
いただいた
 甲野善紀、田中聡の『身体から革命を起こす』
が大変面白かった。

 「ナンバ」走法の話などももちろん面白かった
のだが、もっとも「うん、そうだ!」と頷いたのは、
次の箇所だった。

 昔から行われていた仕事感覚でやったほうが、
ずっと本質的な身体づくりができると思います。
 初代の横綱若乃花が、石炭を天秤で担いで、
揺れる板の上をバランスをとりながら運んでいた
とか、あるいは西鉄で年間七十試合ぐらい投げて
四十何勝三十何敗した稲尾投手なんか(中略)
あの人は、子供の頃、櫓を漕いだりして、仕事で
身体を作っていたそうです。最近、そういう仕事で
作った身体とそうでない身体の違いがはっきり出た
のは大相撲の横綱朝青龍ですね。モンゴルで育って、
子供の頃から重い石を運んだり、家の手伝いで仕事を
している。六歳くらいで二十キロぐらいの石と
格闘していたという話を読んだことがあります。
 (中略)そうやって作った身体だから、多機能
でしょう。持ちやすいバーベルとかじゃないんです
から。ウェイト・トレーニングで作った身体とは、
全然ちがうんですよ。(上掲書 p.39)

 これだよ、これ! と私は思ってしまった。
 仕事の性質上、どうしても机に向かうことが
多いが、子供の頃から身体を動かすのは大好き
である。
 しかし、その方法論として、世間に流布
しているものは何だかヘンだ、と前から思っていた。

 大学院生の時、長島重広というのがウェイト・
トレーニングに凝っていて、全身には筋肉が
いくつある、それを一つ一つ鍛えるのだ、
と聴いて、「ひょえー」とは思ったが、何だか
ヘンだな、と思った。
 「今はこの筋肉を鍛えているのだ」
といいながら、椅子に腰掛け、腕をある角度
にしてバーベルを上下しているのを見ると、
とっても妙な気がした。

 会員になってずーっと行っていないスポーツ
クラブがあるのだが、そこでマシーンを使った
時に、これはすげーツマラナイ、と思った。
 まるで、籠の中で車輪をぐるぐる回している
ハムスターじゃん、と思った。

 以前から、身体を鍛えるんだったら、
例えば、森に入って木こりをやるのが
本筋なんじゃないか、と思っていた。
 その理論付けというか、なぜそうなのかを、
甲野さんと田中さんの本を読んでメタ認知
できたように思う。

 身体には筋肉が600以上あるという。
それをどうコーディネートして動かすかは、
つまりはきわめつけの複雑系の問題である。
 タイミングの問題があり、調整の問題が
ある。
 さらに言えばそれは知性の問題なのであって、
甲野さんの言うように、持ちにくいものを
いかに持つか、重いものをいかに軽く持つか
という方法論を捨象してしまっては、本末
転倒である。
 身体のモノカルチャーになってしまう。

 つまりは、身体の使い方においても、
「知性」一般と同じような複雑さと
柔軟さが必要だということで、考えてみれば
当たり前のことなのだが、
 一部の「科学的トレーニング」は、
そこのところをあまりにも単純にとらえて、
身体を蒙昧なる「機械」にしてしまって
いたのではないか。
 マシンルームで単純動作を繰り返すよりも、
状況が刻々と変わるリアルワールドで
 櫓を漕いだり、石を運んだりする方が、
よほど脳ー身体複合体には良質の
栄養になるに違いない。

 身体を動かすことが、むずかしい問題を
考えていることと同じ「知性」を鍛える
ことの延長であって、単なるエネルギー
と力の問題ではないと思った瞬間、
 身体を動かすことがとても楽しく思えてくる。

 それで、昨日はさっそくいろいろ身体を動かして
みた。 
 影響を受けやすいのである。

 階段を2段抜かししながら、「ナンバ」も
やってみた。
 なるほど、まだまだ気が付いていない
身体の運動の可能性が沢山隠れていることが
納得される。

 春になったら、いろいろ力仕事をしたくなって
きた。

3月 8, 2005 at 07:40 午前 | | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/03/07

脳が妄想を生む仕組み

AERA 2005年3月14日号 p.17

インタビュー記事 + 写真

3月 7, 2005 at 08:48 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

未来へ向けて沸き立つ万博

Popular Science 日本版 2005年4月号 p.80-81
(2005年3月4日発売)

茂木健一郎 未来へ向けて沸き立つ万博

一部引用

 愛知万博について言えば、成長著しい中国を中心とするアジアからの訪問者が、日本が必要としている清新な風を運んできてくれるのではないかと思う。大阪万博前後の日本の経済成長率は、年率10%前後だった。今では考えられない数値である。その考えられないくらいの高度成長を続けているのが現在の中国である。いろいろ問題はあるにせよ、基本的に沸き立つ気分の中にいるに違いない。
 その沸き立つ気分が、愛知万博を通して、少しは日本に感染すれば良い。その結果、どうなるかは知らない。社会という有機体は、多くのパラメータが絡む複雑系である。未来が予想できるのならば、こんなに楽なことはない。ただ、何もしないで座っているより、何かやった方がよいことは確かである。
 万博は、もともと、一国で閉じる話ではない。最近の日本人の議論は、どうも内向きではないか。1889年、フランス革命100周年を記念してパリ万博が開かれ、エッフェル塔が完成した。1900年のパリ万博には、内田百間の師である夏目漱石が訪れた。日本がまだ、坂の上の雲を目指して駆けていた頃のことである。
 坂の上の雲は一つではないし、どこから見るかによって風景も変わる。愛知万博が、日本人の見る風景が少しでも変わるきっかけになれば、モリゾーとキッコロも救われるだろう。

(「近況」コーナーでは、杉原信幸さんの東京
芸術大学卒業制作展(内覧会)でのパフォーマンス
について、写真をつけてコメントしています)

3月 7, 2005 at 08:36 午前 | | コメント (2) | トラックバック (0)

スーラ(溶ける)

夕方、仕事をしながらNHK FMを聞いて
いたら、ユネスコの国際作曲家会議(IRC)2004
で選ばれた作品を放送していた。

 その中で最優秀の「スーラ(溶ける)」を聞いていたら、
途中で、「ケッケッケッケッ!」とでも表現するしか
ない、人間の声のような音が聞こえてきて
笑ってしまった。

IRC国際作曲家会議2004
「スーラ(溶ける)」          
ヘレナ・トゥルヴ作曲 (エストニア)(18分50秒)
(管弦楽)エストニア国立交響楽団 (指揮)トーマス・バビロフ

 解説者は「妖怪」と言っていたけれど、
この曲は地球温暖化をテーマにした曲で、
地球温暖化で南極の氷が溶けると、妖怪が出てくる、
みたいなメタファーなのかもしれない。

作曲者のHelena Tulve は、温暖化で氷が溶けるだけではなく、さまざまな
アイデアや、物質、音色などが一つの状態から
もう一つの状態に移行する様子を描きたかったらしい。

"Sula denotes the process of thawing, melting - the transformation of ideas, materials, timbres and sounds from one state to another. The composition was partly inspired by the rather topical notion of global warming, by this image of a colossal iceberg thawing up."


素敵だ。

 ラジオは、セレンディピティを運んでくる。
NHKのHPには、FMの番組表が細かいデータ
付きで載っているので、それを参照しながら
聴いているととてもいいセレンディピティの
風が吹いてくる。
 先日は、

「人魚の歌 Hob.26a:25」 ハイドン作曲
(3分32秒)(ソプラノ)アーリーン・オージェ
(ピアノ)ワルター・オルベルツ
<DEUTSCHE SCHALLPLATTEN TKCC−70123>


がとびっきりのセレンディピティだった。

 さて、春でもあるし、スーラ(溶ける)という
素敵なメタファーをしばらくは追求してみたい。
 一見異質に見えるものとか、
 相容れないものとか、そういうものと行き交って、
溶かして/溶けて、別のものになってみたい。

 今日は春のように暖かくなるそうである。

3月 7, 2005 at 06:16 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/03/06

特許局のアインシュタイン

特許局のアインシュタイン

 同志社大学から、2005年の入試で
藤原書店 『環』 vol.14
所収の
『読むという純粋体験』 ー普遍と個別の汽水域ー

http://www.qualia-manifesto.com/fuhenkobetsu.html

が使われたということで、問題が送られて
きた。
150点満点中90点の配点で、

文学を読むという行為について、私は、しばらく前から、ある一つのことが気になっていた。すなわち、なぜ、自筆原稿を読むよりも、活字となったものを読む方が、文学的体験として純粋なものが立ち上がるように思われるのかという問題である。
 きっかけになったのは、夏目漱石の自筆原稿を見たことだった。以前に奈良の国立博物館に行った時に、龍門文庫と呼ばれる古典籍、自筆本のコレクションの展覧会をやっていた。その中に、漱石の「それから」の自筆原稿の展示があったのである。

から始まり、

活字は、私たちの脳の中で言葉が個々のエピソード性から独立した普遍性を獲得して収納されている、その記憶の形式に近しい形態なのである。

まで、かなりの長文が引用されている。
 例によって解いて見たが、例によって難しい。
 書いた本人にとっても入試問題が難しい、というのは
しばしば聞かれるジョークだが、
 なぜそうなのか、ということは恐らく「メタ認知」
に関わる。
 つまり、国語の問題は、書いた本人もしばしば
意識化していないような暗黙の前提を問うている
のである。

 科学や芸術、文学といった分野で創造にかかわる
人間は、メタ認知に重大な関心を抱かざるを得ない。
 メタ認知と創造性は深く結びついているからだ。
 早い話が、ニュートンがそうである。
 リンゴは落ちる、月は落ちない。この、
一見当たり前に見える事態の背後に暗黙のうちに
前提にされていることを問うたとき、はじめて
力学が立ち上がった。

 アインシュタインの相対性理論も、
「同時」という当たり前に思われることの
メタ認知に関わることだった。

 科学の発見の二大源泉は、実にメタ認知と
セレンディピティ(偶然幸運に出会うこと)だと
言うことができるのである。
 
 自分の書いた文章が入試に出て、
それを解くというのも自己言及的メタ認知を
鍛えるのに役に立つかもしれない。
 自分が書いている時に必ずしも気づいていない
前提に気づかされるからである。

 他人に自分の考えを聞いてもらう、
talk throughと呼ばれる行為もメタ認知を
鍛えるのに役に立つ。
 人に論理的に自分の立場を説明しようと
すれば、
 どうしても前提にさかのぼっていかなければ
ならないからである。

 talk throughの大切さは、英語圏では広く認識
されている。
 たとえば、ダーハム大学の


「研究を通してPh.Dを獲得する方法」
という文章には、

Many PhD candidates go through periods of depression, isolation, and mind blocks (as well as periods of elation when things are going really well).ハ At these times, it is important to talk through your problem with your supervisor, other postgrads etc.

とある。大学院生で、上の文章を読んで、「ああ、
私に(彼に/彼女に)当てはまる!」と思わない
人はいないだろう。

 もちろん、talk throughは、それを
聞く側をも鍛える。
 アインシュタインは、特許局で「街の発明家」
の話しを辛抱強く聞いて、それを論理的に
整合性のある特許の書類にする訓練が
大変役に立ったと回想しているが、
 特許局のアインシュタインにとって、特許の
書類を審査し、整理することはまさに
メタ認知のトレーニングになったのだろう。

3月 6, 2005 at 07:14 午前 | | コメント (10) | トラックバック (0)

2005/03/05

堀江社長にとって「世界は誰のものか」

ヨミウリ・ウィークリー
2005年3月 20日号
(2005年3月7日発売)
茂木健一郎  脳の中の人生 第44回

堀江社長にとって「世界は誰のものか」

一部引用

 オックスフォード大学を出た人間は、世界が自分のものだと考える。ケンブリッジ大学を出た人間は、世界が誰のものでもかまわないと考える。
 最初に聞いた時、うまいことを言うものだと思った。確かに、知り合いのケンブリッジの研究者には、「世界が誰のものでもかまわない」というような、ぼんやりとした人が多い。自分の利益のために賢く立ち回る、ということには興味がない。オレがオレが、と出ていくことには関心がない。そうしたいやつには、勝手にやらせておけば良い。自分は好きな研究が出来て、宇宙の真理が解明できればそれで良い。そんな、世俗的には無欲な人たちが、科学を支えてきたのである。
 歴史は面白い展開をするもので、最近の企業経営は、科学の知識なしではなりたたなくなった。たった一つの発明が、何百億円もの利益につながる。複雑な数式を用いて計算をしなければ金融関係の投資も成り立たない。「世界をおれのものにしたい!」と思っても、「世界が誰のものでもかまわない」と浮世離れした思索を重ねてきた科学者たちの成果を使わなければ、欲望が実現しなくなった。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

3月 5, 2005 at 04:39 午後 | | コメント (1) | トラックバック (0)

Spatio-temporal dynamics of the visual system revealed in binocular rivalry

Spatio-temporal dynamics of the visual system revealed in binocular rivalry

Fumihiko Taya and Ken Mogi

Available online 2 March 2005

Neuroscience Letters, in press.

Abstract

3月 5, 2005 at 04:26 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

色物の時代

最近、筑摩の増田健史と話していた時、
現代は「色物」が多い、ということに気が付いた。
 ちなみに、「色物」とは、
三省堂提供「大辞林 第二版」によれば、

寄席演芸のうち、中心にならない物。現在の東京の寄席
では落語以外の漫才・音曲・曲芸・奇術などをいい、大
阪では漫才以外の落語などをいう。

とある。

 私は東京の寄席に子供の頃から親しんでいる
ので、「色物」という言葉の理解は、東京風である。
 もちろん、落語でも笑うわけだから、そんなに
かしこまっているわけではないが、どこか
裃を着けている気分がある。
 落語が終わって、漫才や曲芸の人たちが
出てくると、裃がとれて「何でもあり」の
世界になるというか、にぎやかしになるというか、
天の岩戸という感じになる。

 大阪では逆になる、というのは本当である。
 時間があれば、なんばグランド花月に行くことに
しているが、
 あちらは漫才が主流であり、時々落語家が
出てくると、「あーっ、色物だ」という
感慨が込み上げてくる。
 かといって、「さあ、ここからは何でもありの
世界だ」という開放感があると言えば、そうでも
なく、むしろ、ちょっとシュン、とする
感覚である。
 大阪人は、最初から何でもありの世界に
生きているのかもしれない。

 現代が色物全盛だというのは、東京の寄席の
意味においてであって、
 つまりは裃を着けた作品の流通量が少ない、
あまり注目を浴びない、ということである。
 『電車男』などは典型的な色物だし、
 あらゆるジャンルで色物が大はやり。
 本寸法の古典落語は絶滅寸前である。

 だからどうだ、というわけではなくて、
そう整理すると、寄席の雰囲気を熟知
している私としては、「ああそうか」と腑に落ちる。
たまには古典落語を聞いてみたい気もするが、
色物は色物として楽しむことができる
気がしてくる。

 ちなみに、東京の寄席の色物でピカ一は
「ボンボンブラザーズ」である。
 紙を鼻の上に載せるあの芸を、もう数年は見て
いないので、
 こんなことを書いていたら、また見たく
なってしまった。

 丸山真男、柄谷行人、大塚久雄などの
本寸法をここのところ移動中に読んでいたので、
対照として、現代の書店をにぎわす諸作品が
全部色物に見えたのかもしれない。

 色物でないものも生産され続けているの
であろうが、
 残念ながらあまり話題にもならず、
消えていってしまうのである。
 色物と本寸法のバランスがとれてこその
知的エンターティンメントなのだけれども。

3月 5, 2005 at 10:16 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/04

対談 “コミュニケーション”で脳は発達する。

月刊「潮」2005年4月号

対談 “コミュニケーション”で脳は発達する。  
茂木健一郎VS野村進

http://www.usio.co.jp/html/usio/index.php

3月 4, 2005 at 11:13 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

タベルノフ・カニスキーの不在について

ランチタイムに、インディペンデント・キュレーター
渡辺真也さん
が来て、いろいろ議論する。
 渡辺さんは
「もう一つの万博展」を企画して
いろいろ精力的に動き回っている。

 国民国家というのは難物だから、必ずしも
渡辺さんの言うようには行かないと思うけど、
一つの運動としては理解できる。

 渡辺さんは
 ニューヨークに普段住んでいるから、日本を
外の視点から見ている。
 そうなんです、日本の知識人は堕落しているのかも
しれません。
 まあ、なるようにしかならないでしょ。

 午後はずっと仕事、ひたすら仕事。
 5時30分になって、はっと気が付き、
品川駅に向かいながら、次第に
 タベルノフ・カニスキーに変身して行く。

 電通の佐々木厚さんから、「カニを
沢山食べる会」というものに誘われて
いたのである。
 福井放送主催のパーティー。とにかくひたすら
越前ガニを食べた。

 カニというのは、食べれば食べるほど
はまってもっと食べたくなるものだと
初めて知った。
 4皿くらい食べて、もういいやと
ぼんやりしていると、割烹着の女の人が、
「カニいかがですか」と言うので、
思わず「あっ、おねがいします」と答えて
しまう。

 タベルノフ・カニスキーは、結局、8皿
食べてしまった。
 カニだけをひたすら食べ続けるという
経験は初めてだった。
 佐々木さん、ありがとう。

 ぼーっと座って眺めていると、大きなテーブルで
四人の板前さんが次から次へとカニをさばいて行く。
 新橋第一ホテルのパーティー会場の片隅に
カニをひたすら解体する人たちがいて、
もう一方にそれをひたすら
消費する男たちの群れがある。

 うーん、やんぬるかな。
 この世は不思議な場所である。とても特定の
イデオロギーで割り切れるもんじゃない。

 筑摩書房の増田健史からメールあり。
保坂和志
と飲んでいたのだと言う。
 他人が、ひそかに楽しいことをしていた、
と聞くとなんだかとても悔しい。
 保坂和志と飲みながらどんなに楽しい話を
していたのだろう、と思うと、
 悔しくて仕方がない。

 自分はタベルノフ・カニスキーだったくせに、
タベルノフ・カニスキーの不在こそが、
 この世の最大の問題であるように思えてくる。

 思えば、タベルノフ・カニスキー自体が、
昨日までこの世界に存在しなかったのである。
 かくも長き、タベルノフ・カニスキーの不在では
あった。

3月 4, 2005 at 07:09 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/03

文学と科学の間に

文學界 2005年4月号(2005年3月7日発売)

茂木健一郎 「脳のなかの文学」第13回
文学と科学の間に

一部引用

 夏目鏡子述、松岡譲筆録の『漱石の思い出』は、
漱石の生涯に関する一級の資料である。この中に、
長女の筆子が火鉢のふちの上に何気なく置いた五厘
銭に、漱石が英国以来の追跡妄想を爆発させる場面
がある。ロンドンにいた時に街で乞食にやったのと
同じような銅貨が、これ見よがしに火鉢のふちにの
っけてある。いかにも人を莫迦にしたけしからん子
供だと思って、一本参ったのだという。鏡子は妙な
ことをいう人だなと思う。
 このような不条理にも見える漱石の狂気に、通常
の文芸評論の方法で迫ることも可能である。しかし、
私には、『漱石の思い出』に挿入されている、漱石
死後の解剖に携わった、長与又郎博士の「夏目漱石
氏剖検」(標本供覧)の筆記が面白かった。

 次ニ一ツ付ケ加エテオ話シスル必要ガアルト思ウ
ノハ、夏目サンハ天才肌ノ人ニ往々見ルトコロノ種
々ノ性質ヲ持ッテオラレタヨウデアルガ、コトニ近
来ニナッテカラ追跡狂ノヨウナ症状ガアッタ、スナ
ワチ誰カ自分ノコトヲ悪く言ッテオリハシナイカト
イウヨウナコトガダイブアッテ、ソノタメニゴ家族
ノ方ガ往々オ困リニナッタコトガアルトイウコトヲ
伺ッテイルノデアリマス、コノコトニツイテ多少心
当タリガアリマスカラ申シ上ゲタイノデアリマスガ、
御承知ノトオリ糖尿病ニハシバシバ種々ノ原因カラ
神経衰弱ガ起コルトイウコトハ多クノ人ガ実験シテ
イル、マタ糖尿病ノ時ニ稀デハアリマセンケレドモ
種々ノ精神症状ヲ起コスコトガアルトイウコトヲ、
ズット前ニフランスノ学者ガ注意シテ書イテイルヨ
ウデアリマス、カノ有名ナルノオールデンノ
Die Zucker krankheitトイウ本ヲ見マスト、(中略)
一般症状ノホカニ、特有ナ精神病ノ症状起コシテ
来ルコトガアルトイウコトガ書イテアル、(中略)
ソノ中ニ追跡狂モマタ糖尿病ノ時ニ起コルトイウコ
トガアル、(中略)夏目サンモソレニ当タルヨウナ
コトデハナカロウカト考エマス、コレハ単ノ想像デ
アリマシテ学術上の根拠ハナイ。

 この文章を読んだ時、私は、「ああ、ここに文学
があった」と思った。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm

3月 3, 2005 at 07:26 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

職人

先日のエンジン01の会の4人の討論会の
後の「反省会」で、島田雅彦がビールを飲みながら、
「いやあ、ぼくは職人ですから」と言って
いた。
 実は内心深く共感したのだが、
 ただ単に私と島田さんがやっている
ことが似ているというだけのことだろう。

 文章を書くにしても、論文を書くにしても、
漠たる構想を最終的なプロダクトにもって
いく過程では、歯車を組み立て、分解し、また
組み立て、全体の整合性を高め、少し離れて
様子を見て、また近づいて細部を見て、
時にはえいやと構造を作り直して
完成度を高めていく静かなプロセスが
必要になる。
 それはつまり職人としか言いようがない
プロセスであって、
 その意味で島田さんが職人と言った
その趣旨はよくわかる。

 Steve Jobsは、Real Artists Ship!
(本当のアーティストは、出荷するものだ!)
という名言を残しているが、
 出荷した「ブツ」は、自分を離れて
独立した実体として流通していく。
 アーティストは言い訳をしてはいけない。
 補足説明とか、「本当はこういう気持だった」
などと言葉を補おうとしてはいけない。
 なぜならば、流通する「ブツ」が全て
だからだ。
 
 「職人」とともに、最近共感している
メタファーは、やや古典的だが、「勉強」
である。
 この日記は身辺雑記ではない。なぜなら、
一日のうちで何が起こり、何をしたかを
綴るのが本意ではないからだ。
 だいたい、どんな仕事をして大変だったとか、
そんなこといちいち書くのは面倒くさいし、
読む方もつまらんだろう。
 つまり、この日記で余裕こいている
ように見えるのは、一日のうち
この日記を書いている時が唯一の休息の
ようなものだからで、
あとの時間は必死こいているので、
そこのところよろしくお願いします。 

 最近の仕事量や、人と会う量は
異常で、起きている時は常に全力疾走
しているような感覚だけど、
 その中で「勉強」することに至上の
歓びを感じている。
 専門はもちろん、まあとにかく
 ありとあらゆるものを読み、聞き、見て、
考えている。

 どうやら人生のそういう時期に来たらしい。
 なんだか青年期が再び訪れたような
感じでもある。

 だから、しらふでいることも、最近は
好きになった。
 コーヒーとチョコレートが朋である。
 猛勉強する職人でいさえすれば、
世界が誰のものでもかまわない。

3月 3, 2005 at 07:17 午前 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/03/02

おいしさの、思い出せない記憶

知のWebマガジン en 連載
茂木健一郎 おいしさの解剖学 第十二回

http://web-en.com/

3月 2, 2005 at 12:23 午後 | | コメント (0) | トラックバック (0)

意識の誕生の始源的光景

アーティストの鈴木康広さんが
研究所に来てトークしてくださった。

http://www.nhk.or.jp/digista/hall/2001/0804_suzuki.html
 
http://www.mabataki.com/profile/

 鈴木さんは、まず、学生時代につくったという
「パラパラ漫画」を見せてくれた。
 これが滅法おもしろい。普通のメモパッド1冊に
線画で、
 羽ばたくハトに目がついてまたばきする
 りんごが地面に落ちて芽を吹く
 「上」という字が上に行き、「下」という
字が下に行ったりする
といった、様々な世界が展開する。

 続いていろいろな作品をビデオで見せて
くれた。
 もっとも有名なのは、おそらく「遊具の透視法」
「まばたきの葉」なのだろうけど、
 他にもいろいろ見せてくれた。

 「遊具の透視法」については、ミニチュアの
グローブジャングルを持ち込んで、自分で回して
投影し、実演してくれた。
 じっと見ていたが、何だか不思議な感覚である。

 
 
 「まばたき」もそうだが、ちかちかと切断され、
しかも続いて行く世界の不思議さは、
 人間の意識そのものの成り立ちの根幹に
かかわっている。
 意識の流れ(stream of consciousness)は、
あたかも伸ばされた飴のように連続につながるよう
に見えて、
 実は離散的な神経細胞の活動によって
支えられている。

 離散と連続の接合面にこそ、意識の流れは
生じるのだ。
 
 鈴木さんの作品は、意識の誕生の始源的
光景に我々を引き戻す作用があると思う。

 芸大から、植田工、蓮沼昌宏、杉原信幸、藤本徹も
鈴木さんのtalkを聞きにきた。

 植田、蓮沼、杉原の三人は、3月1日が
大学院の合格発表で、三人とも無事合格していた。
 とにかくめでたいのである。

 鈴木さんにありがと会、三人の大学院合格祝賀会、
それに、須藤珠水も、日本財団のグラント合格
おめでと会を五反田の「あさり」で開く。


 
 左から、蓮沼昌宏、鈴木康広、藤本徹、田辺史子

 関根崇泰に、「部長、ま、お一つ」
と言うと、おじさん声で、
 「おお、そうかね。まあ、一つ、茂木君もがんばり
たまえ」
と言うので、おもしろい。
 
 もっと居たかったが、私はいろいろ仕事が
山積していて、人生という机から崩れ落ちそうに
なっており、
 生ビールを1.5杯飲んだだけで引き上げた。

 あの後、関根がずっと部長をやっていたか
どうかは判らない。

3月 2, 2005 at 05:26 午前 | | コメント (0) | トラックバック (2)

2005/03/01

テレビゲームは本当に脳に悪いのか?

ヨミウリウィークリー 2004年12月12日号
茂木健一郎 「脳の中の人生」 第31回
テレビゲームは本当に脳に悪いのか?

 脳についての一般の関心はますます高まってきているようである。私も、脳についての講演会をさせていただく機会が多くなった。
 質疑応答になった時に、毎回のように出るのが、「ゲームは脳に悪いのでしょうか」という質問である。「ゲーム脳」に関する何冊かの本がきっかけとなって、不安に思う方が多くなったらしい。
 確実に言えることは、特に子供時代にゲームばかりやっているのは良くないということである。身体を動かしたり、本を読んだりするといった活動をまんべんなくやって、初めて健全な脳が育つ。ゲームにしろ何にしろ、一つのことだけやると、脳の発達が偏ってしまう。
 では、ゲームをやること自体が脳に悪いのかと言えば、そんなに簡単に結論できる話ではない。
 アメリカには、ゲームをやることによって視覚情報処理能力が高まるという研究をしているグループもある。特に、複数の「敵キャラ」が画面で同時に動くようなアクション・ゲームが効果的らしい。視野の中のものを見渡して、同時にいろいろなものを認識、判断する能力が高まるというのである。このような実験結果は、英国の『ネーチャー』をはじめとする権威ある科学雑誌にも報告されている。
 1980年代にニュージーランドの心理学者、フリンは、先進工業諸国の人々の平均知能指数が、1950年代から一貫して上昇し続けているという研究結果を示して、注目を浴びた。現在では「フリン効果」と呼ばれているこの現象の原因について、現時点では確証はない。栄養状態の改善や、学校教育システムの変化が原因であるという説もある。
 有力なのが、情報環境の変化が原因という説である。新聞、ラジオ、テレビ、コンピュータ。新しいメディアが登場する度に、人間の脳はそれまでよりも高速に、大量の情報を処理するように適応してきた。今日、若者が携帯でメールをやりとりする時の情報処理の速さは、一昔前の人だったら目を回していたかもしれないほど速い。このような脳の使い方の変化が、知能指数の上昇として現れているという説があるのである。
 もちろん、情報洪水とも呼ばれる現代の状況が必ずしも人間の幸せにつながるわけではないし、知能テストで人間の能力の全てが測れるわけではないことは言うまでもないことである。
 日本では、コンピュータやビデオ・ゲームといった新しい情報機器の脳に対する影響は、否定的な意味で語られがちである。一方、アメリカでは良い面と悪い面のバランスを冷静に分析する傾向が根強い。このような文化の差が、日米のITの総合力の差につながっている可能性は否定できない。
 解剖学者の養老孟司さんは、テレビゲームが大変お好きである。研究会の翌日、養老先生に「良くお眠りになりましたか」とお聞きしたら、「いやあ、朝5時までゲームをやってしまって眠れなかったよ」と言われてびっくりした経験がある。東大時代の養老先生の助手で、美術評論家の布施英利さんによると、養老先生は、議論をしながら手元でコンピュータゲームをしていたと言う。
 養老先生は大変な読書家で、虫取りもする。バランス良く脳を働かせてさえいれば、ゲームをしても害はないことを、養老先生が身をもって示している。

3月 1, 2005 at 07:24 午前 | | コメント (4) | トラックバック (0)

芸人たらん。

柏への行き方が難しかった。
 駅スパートで調べると、日暮里で乗り換えて
ずっとJRで行くより、途中千代田線を挟んだ
方が早いという。
 はてな? と思いながら従ったが、
スイカとパスネットを同時に入れたり、
 無人改札でこれは記録されない、どうしようと
悩んだり、ミステリーゾーンの体験をした。

 東大の柏キャンパスに行くのは初めて
だったのでわくわくした。

 タクシーの運転手が、米の話をしてくれる。
 新潟の米なら
一俵4万でも5万でも売れるけれど、
 このあたりの米は一俵1万いくらにしかならない。
 まあしかし、ヤミだとそれより2千円は
高いかな。
 しかし、自分でツクと、20俵ツイても
2俵減って18俵になっちゃうから。
 二度ツキするから、今日電話して今日持って
きてくれ、と言われても無理だ。 
 どうしても、2、3日前に言ってもらわなきゃ。

 おもしろい。

 ちょうど、大塚久雄の『社会科学における
人間』

を読んでいて、人間類型ということに
ついて考えていたところだったから、いろいろ
考えさせられる。 

 講演開始前、20分くらいに着いて、
ばーっと話す。
 アレンジしてくれた院生の神尾正太郎さんをだし
にしていろいろ話したので、
 神尾さんには迷惑だったかもしれない。

 終了後、峯松信明さんと音声言語認識の話を
しながら、学食(カフェテリア)でカレーを
食べる。
 続いて、伊庭斉志さんの研究室を
見学させていただいた。

 人間類型と言うことで言えば、豊橋のエンジン01
に集っていた人たちは、皆「芸人」だった。
 つまり、あまりにも分野が違う人どうしが行き交えば、
いちいちディテールを説明している暇が
ない。
 ぱっと伝わる、そのような判りやすい造形のものを
生み出さなければならない。

 たとえば、三枝成彰さんが作曲の
ことについて細部を説明し始めたら、大変なこと
になる。
 それよりも、「モーツァルトの未完成曲を委嘱されて
完成させた」という造形はぱっと伝わる。

 自分もそのような造形をつくっていかなければ、
と豊橋では思ったが、
 タクシーの運転手の米ツキもさては芸だったか、
と気がついたのは今朝である。

3月 1, 2005 at 06:50 午前 | | コメント (1) | トラックバック (0)