複製技術時代の文学
文學界 2005年3月号(2005年2月7日発売)
茂木健一郎 「脳のなかの文学」第12回
複製技術時代の文学
一部引用
もし、ベンヤミンの言うように、複製技術が
「アウラ」を奪うものならば、自筆原稿にこそ
強いアウラがあるはずである。ところが、実際
には、漱石その人が伝わってくる原稿用紙の手
書き文字よりも、活字の方が、代助という仮想
の人間の生の一回性の感触が高まっている。こ
の事情は、『それから』という作品だけに固有
のこととは思えない。どうやら、文学とは、複
製技術の上にこそ純粋なアウラを再現する芸術
様式なのではないか。だとすれば、文学は、現
代美術がデュシャンやウォーホルを経由して到
達したオリジナルとコピーを区別しない地点に、
とっくの昔に達していたのではないか。
言葉は、人間が生み出したすぐれた複製技術
である。文学は、その本性として生の一回性を
写し取ることを目指すが、その表現の基盤は言
葉という複製技術に依拠している。文学の生命
は、私秘性と公共性の間の緊張関係の中にこそ
ある。意識というプライベートな体験と物質と
しての身体という公共的存在の間で揺らぐ人間
という存在形式そのものの中に、文学を生み出
す衝動は根ざしているのである。
2月 4, 2005 at 09:19 午前 | Permalink
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コメント
郁子さん、こにたさん
コメントありがとうございます。
論争はいいですね。論争! 論争!
日本に欠けているのは、良質の論争。
今朝、新聞売りが家にきて、「論争あります」
と言いました。
マクドナルドの店員は、「論争は0円です」
と言いました。
論争が服を着て歩いているような友人が
います。
いま、横を通り過ぎていきました。
投稿: 茂木健一郎 | 2005/02/05 9:11:05
楽しい議論ですね。
私自身、全文拝読しないままで。
「文学とは、複製技術の上にこそ純粋なアウラを再現する芸術様式なのではないか。」
と言う前提は、かなり危険かな、とは思うのです。どんな芸術も、所詮「複製」ではないか、と言うところに行ってしまいそうで。
ただ、文学、ことに、近代文学はあきらかに「複製技術時代」に適応して、そこで「アウラ」を再現出来る物として育ってきた。ポップアートより早く。
私の専門としている近世文学の場合、印刷技術が読書や認識に与える影響力について、非常に早い時期に自覚的だった人がいるようです。彼らは、像としての「作者」を操りながら、文字テクストで何を伝えるか計算していたフシがあります。ついでにポップアートも同時進行でした。
その一方で、“真蹟”は、尊重されたわけですが。
いろんな意味で西鶴の行動は興味深いです。
さて、問題は、江戸の本の持っている「アウラ」は、活字本で伝わるか、複製本で伝わるか、と言う話で。勿論、マテリアルの問題なんですが、メディアがメッセージである、と言うのも確かなことで。
ここに、複製として発生したオリジナル、と、その複製と言う存在があります。
漱石の小説を、文庫で読むか、全集か、初版単行本か、新聞か、はたまた自筆原稿か。電子書籍やテキストデータでは? 朗読は?
そのとき、我々が、読書行為に於いて、全く、何も感覚的な差異を体験しないのかどうか。あるいはむしろ、文庫本の方が、直接的な体験である、と言えるかどうか。「アウラ」(強引に、「クオリア」も?)のみの問題ではないように思いますが、何か、潜んでいる物に近づいているようにも……。
とりとめのない感想ですみません。
きっと、議論ずれてしまいましたね。
ちょっと、石川九楊を読まねば、と思いました。
先月見た芹沢銈介の物語絵の“原画”など思い出したり。
出直します。
投稿: こにた | 2005/02/04 20:12:25
言語は複数人で共有することではじめて実用される記号で、
実体の置換であり、交換することでコミュニケーションが生まれますね。
その一連の運動に複製技術との関係性を感じました。
いや、間違ったかもしれません。
私も今から本屋に走ります。
投稿: 郁子 | 2005/02/04 18:44:33
JAMさんコメントありがとうございます。
おっしゃられることはいちいちごもっともですが、
そういうことは判った上で書いているわけです。
とりあえず、『文学界』全文をお読み下され
ば幸いです。
(JAMさんが問題にされていることに
explcitに言及しているわけではありません)
投稿: 茂木健一郎 | 2005/02/04 16:18:37
通りすがりの学生です。
言葉は複製技術だとおっしゃっておられますが、具体的にどう意味なのでしょうか?他人が語ったり書いた言葉をそのまま同じように自分も書いたり語ることができるということでしょうか?わたしもベンヤミンの論文をずいぶんと読みましたが、この文脈で複製技術という言葉を使うのは、あきらかにベンヤミンの意図した意味は越えていると思われます。
また、ベンヤミンの文脈で解釈すれば、漱石の自筆原稿にはやはりアウラはあるでしょう。それは原稿というマテリアルにあるのであって、その内容を読むという行為はまた次元の違う問題です。文字は意味を伝える媒体であると同時に、それ自体が鑑賞の対象にもなります。文学は文字の形ではなく内容を扱う芸術で、自筆原稿の持つアウラを感じる芸術は文学ではなくカリグラフィー(書道でもいいですが…)です。そこを整理されないままに、デュシャンらの美術系の人間を出しても、まともな比較であるとは思われません。また、オリジナルとコピーという問題は、文学の世界では、「製本されたもの・自筆原稿」というレベルではなく、引用・パロディーという内容のレベルで論じられるべきだと思われます。
投稿: JAM | 2005/02/04 15:42:56