東京と地方
東京から離れると、広々と土地や空が
広がっていて、
その中でうごく人たちの姿も、また
普段私が会う人々と違う。
「人間」というものは確かにこういう
ものだったな、と思わせる何かがある。
店の人と話していて、お金を払い、
商品をやりとりするという機能の流れからの
逸脱があるのも地方である。
少し何か話すと、おまけして
くれたり、
なにかをくれたりする。
もっとも、東京のコンビニで客ごとに
それをやっていては、もたない。
お互い機械のように流れ作業を
せざるを得ない必然性がある。
小学生6年生の時、中学生の先輩に呼び出された。
先輩は、鉄棒に寄りかかりながら、人生について
語ってくれた。
「○○高校が一番いいけどむずかしい。学校で
一番くらいじゃなくっちゃ。○○高校
もむずかしい。クラスで一番くらいじゃ
なくっちゃ。健ちゃんもあれだな、○○高校
に入れればいいんじゃないか。医者か何か
になったらどうだ? もうかるぞ。」
人間は動物のはずだが、あの頃、自分は
動物だとは思っていなかった。
「人生」という確固とした枠組みが
あって、
その枠組みの中でこれから自分は生きて
いかなければならないのだ、と思っていた。
それは、襟を正すような、鼻がつんと
するような、奇妙なリアリティの感覚だった。
これからそのような人生に向き合わなくては
いけないのだな、と身が引き締まる思いが
した。
東京から離れて、地方に行くと、
そのような人生の感覚が確かにまだあるのが
感じられる。
一方、東京の生活は、次第にそのような
ものからずれて行っているような気がして
ならない。
善し悪しの話をしているのではない。
人間はいかに生きるべきか、
という「倫理」に対する感度が異なるのである。
だから、倉本聡さんは、富良野を舞台にして
「北の国から」というドラマを書いたのではないか。
富良野なら、人生の選択の重みを
自然に感じさせることができる。
東京という設いの何かが、
人に倫理を自覚させないものがある。
自動機械として電車に乗り、仕事をし、
人と会い、酒を飲むことを「ラク」にする
仕掛けがある。
東京は好きだけど、時々離れなければ
何かがダメになると思う。
そのことを、決して忘れないでいよう。
2月 21, 2005 at 07:13 午前 | Permalink
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» 『北の国から』とS氏 トラックバック DJ相沢拓実 --雑談カフェ--
僕の番組担当じゃありませんが、
シティテレビ中野のディレクターS氏です。
収録が終わるとよく僕の相手をしてくれます。
鶏のトサカみたいな... [続きを読む]
受信: 2005/03/19 15:14:40
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コメント
大阪から地方に出てきて ちんちん電車で麦畑の真ん中の無人駅に ポツリと降り立ったとき
”俺の人生ここで終わりか”とふと思ってしまいました 親友に何もないところだと言ったら ”自然があるやないか”と その意味がわからなかった それから20年たって 自然に遊んでもらってる自分がいます
でも、心斎橋の人の流れも好きです
投稿: withcom | 2005/02/21 13:24:22
ご指摘のとおり、倉本さんはあえてもっとも東京的ではない場所を選んで、しっかりと東京あるいは都会的なものが何なのかを、執拗に語っていると思います。
それはありがちな「自然に還るべきだ」といった垂直的なメッセージではなく、常に「決定的に還れない場所」への良質のレクイエムになっているがゆえに、わたしたちの心の「芯」に届くのでしょうね。
彼のドラマの定石である「遠くにいる誰か」「死んでしまった誰か」という不在・欠落の物語も、東京という都市の只中では「見えないもの」なのかもしれません。
投稿: nonotang | 2005/02/21 10:59:39