年に一回のちゃぶ台ひっくりかえし
竹内のことを書いたついでに、書くけれど、
くだらない科学をやって、「これが立派だ」
と開き直っているやつを見ると、本当に
アッタマに来る。
物理は最近でこそ行き詰まりを見せているけれども、
物理学が明らかにしてきた宇宙の秩序の
すごさにくらべれば、
大抵の科学がやっていることなど、児戯に
等しい。
そりゃあ、人間だから、常に自分の目指すことが
できるわけじゃない。
だけど、本当はもっと凄い世界があるんだ、
と判って目の前のことをやっている
やつと、
自分のやっていることが大したことだと
勘違いしている野郎の違いは見ていれば
すぐ判る。
そして、勘違い野郎がのさばっているのが
現代である。
たとえ拙くても、「未だ言葉にできない」
未知の何かを模索している研究は、
ある姿をしている。
宇宙全体に感覚が拡大していくような、
めまいを覚えることすらある。
一方、
最初から答えが見えているような、
つまらねえ研究は、聞いていて、
息が苦しくなってくるからすぐわかる。
池上高志風に言えば、「セクシーじゃ
ない」のである。
物理の何が凄いって、たとえば、
交換関係が成り立たない、つまり、ab-baが
ゼロにならない代数が量子力学で生きてくる
ことである。
普通、2×3と3×2は同じだよね。
それが違う、ということが、
実はミクロの世界では効いてくるのです。
知らなかった、というひとは、ぜひ
量子力学の本を読んで勉強してください。
粒子と粒子を交換すると、符号が同じ場合と、
マイナスになる場合がある。
それが、粒子の集団のダイナミクスを変える。
何のことか判らない方は、
「量子統計」を勉強してください。
相対性理論はもちろんのこと。
「おい、何なんだよ、それは!」
と思わず叫びたくなるような深淵が至るところ
にある。
科学は、本当はものすごいものなのであって、
素人がちょっと聞いただけで「あーそういうことね」
と判るようなことをやっているやつらなんて、
本当はクズなのだ。
しかし、NatureとかScienceレベルの学術誌にも、
そのようなクズ論文が出て「これが科学でござい」
とのさばっているのが現代なのである。
本当にアッタマに来るが、結局他人のことは
どうでもいいから、自分でしっかりやるしか
ないのである。
だから、こういうちゃぶ台ひっくりがえしは、
年に一回くらいやれば十分である。
星一徹は、黙って仕事をするよ。
2月 19, 2005 at 08:22 午前 | Permalink
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コメント
天才がいなきゃ科学が発展しない?
ありえん。若手には時代の利がある。
だから、伝統を超えることができる。
投稿: 通りすがり | 2005/02/21 14:20:01
昨日はご馳走様でした。竹内さんの右隣に座っていた水谷です。茂木さんと初めて会って、素直にクオリア日記を書いている人だなと思いました。
茂木さんが記述した感情と同じかどうかは分からないところですが、僕も大学内という閉じた空間で多々憤りを感じることがあります。大学にいるほとんどの教官も茂木さんの言う「勘違い野郎」に相当することでしょう。このままでは日本の知性が衰退していくと感じ、奴らに反抗的な態度を取っていたこともありました。その間、奴らに蹴落とされないよう必至に格闘してきました。しかし、「憎まれっ子世にはばかる」「○○は死んでも治らない」と言われるように、迷いがない奴らはかなりの強敵です。教授になれる所以はやはりこういう一種の強さがあるからなんだと痛感しています。
もちろん、僕は僕なりにできる限りのことをやっていきたいのですが、これ以上の科学の進歩は、もう天才の誕生を待つしかないように思えています。どういうタイプの天才が生まれるかは僕には想像もつきませんが、もしかしたら既存の知性を十分に受け継がなくてもクオリアの理論を思いついてしまうかもしれません。逆にあらゆる知性を統一して新理論を打ち出すことができる人かもしれませんが、どちらにせよ、ひたすら待つしかない気がするのです。
そして、その天才は1人いれば十分なわけです。その1人が自分である確率は限りなくゼロに近いですが、自分だろうが、他人だろうが、自分のできることはただ一つ。自分が良いと思う環境をこの世に残していくこと、それは、常日頃から自分が『やりたい』と思っていることを実践していくことだと考えています。結局のところ、あらゆる人がそういう考え方に落ち着いてしまうんでしょう。それは、いわゆる「勘違い野郎」だってそう考えているわけですから、世代が分かっても「勘違い野郎」が生存する割合は変わらないのですね、きっと。
ウチの研究室の論文がサイエンス誌に載るくらいですから、現代の科学がいかに飽和しているのかが垣間見れます。今までと同程度の能力を持つ天才では新しい大発見は見つけられないほど、行き詰っているのでしょう。今後、大発見がなされる周期は長くなる一方でしょうが、そんな時勢の中でも科学に対する真摯な姿勢を崩さず、良質なものを追い求めてみようと思っています。僕が生きているうちに今後1人でも天才が現れてくれたら、幸福な人生を送れたと感じているのではないでしょうか。
ちなみに竹内さんの講座を受けている理由は趣味だと申しましたが、正確には、僕の趣味は「竹内さんのような人」なんです。いや、ホモとかそういう意味じゃなくて…。
投稿: 水谷 | 2005/02/20 4:02:14
ここに書き込みして、叱られたり、保留されたりするのも勉強と考えて・・・
>自分のやっていることが大したことだと勘違いしている野郎
そういう方々は、社会の「安定」に役立っているんだと思います。誰もが「もっとすごい世界がある」と思っていたら、ぐちゃぐちゃになって、理解不能な世の中になるから、不安で仕方ない・・・「あーそーゆうことね」ってとりあえず理解しないと、運用のしようがない。
世界の半分の人間は飢えている世の中です。世界をコンピューターが支配して、人間の飢えその他の欲望を満たしてくれるようになったら、皆安心して「もっとすごい世界がある」と思えるようになるのではないでしょうか。世界から、過酷なその日暮らしをなくせば、茂木さんの夢が叶うかもしれませんよ。
人の世界を人間の身体に例えると、茂木さんが、大脳新皮質の一つのコラムで、そういう「自分のやっていることが大したことだと勘違いしている野郎」は、筋肉や関節、末しょう神経なのかも。だから茂木さんが運動すればするほど、筋肉や関節の動かなさに気がつくのです、なんちゃって。
そういえば子供の頃は、身体が重いなんて思ってたかな・・・
身体が重いと言う状態を学習をしてから、ほんとに身体が重くなっちゃったのだろうか。
>ミニよもぎまんさん
クオリアは、他人には決して感じる事の出来ない、個人の体験だと僕は思います。人間は、細胞と、DNAが、ほとんど同じだから、他人にもあるだろうと予測できる。だから、人間と近い生物、特に、条件反射以上の事をやってのける生き物なら、クオリアをもって生活していると予測できるのでは?いや、ほんとに測る事は出来ないという仮定で考えたのだから、予「測」ではなく、予知?推測?
投稿: 倉本 | 2005/02/19 20:44:28
公の場でそこまで切り捨てるとは流石ですね。
私も勘違いしないように頑張ろうと思います。
ところで、クオリアというものはヒトにしかないのでしょうか?
その原型はげっ歯類や下等霊長類にも見受けられますか?
投稿: ミニよもぎまん | 2005/02/19 17:08:08