朋あり
朝日カルチャーセンターの講師控え室で
準備をしていたら、
後ろからぽんぽんと肩を叩くやつがいる。
誰だと思って振り返ったら、竹内薫だった。
びっくりした。
竹内と私の講座は、重複して受ける人も
いるので日付が重ならないようになっている
はずなのだが、
たまたま祝日の関係で曜日が移動した
らしい。
ぜひ終わったあとの飲み会を一緒にやろう、
と言って講義室に向かう。
親兄弟は自分で選ぶわけではない。
いわば「宿命」であるが、親友というものは、
たくさん会う中から自分の意志で選ぶわけだから、
また別の重みがある。
特に竹内の場合、二十歳の時からずっと
だから、なおさらである。
あの頃、自分たちが将来どんなことを
生業としているか、予想などできなかった。
生業が決まってから会う人たちは、
もはや同じゾーンと決まっているわけだから、
ベイズ推計的に言えば情報量がない。
タブラ・ラーサだった二人が、
似たようなことをやる運命を辿るというのは、
そこにノン・トリヴィアルな情報があるわけで、
しみじみ味わい深い。
ということで、沢山他の人もいたから
ずっと話していたわけではないが、
飲み会で言葉を交わしていろいろ
面白かった。
朝日カルチャーセンターに頼んで、
時には同じ日にしてもらおうかしら。
つまり、人生は複雑系で、しかも何が
やってくるか判らない外部性があるから、
予想などできない。
そのことを、心の底から面白い、と思うようになった。
五年後十年後だって、どこで何をしているか
なんてわかりはしない。
どんな問題にぶつかるか、
何に情熱を燃やすか、そんなこと判ってたまるか。
しかし、どんなことがあっても、竹内とは
友人であり続けるだろう。
殆どの時間は別々に過ごしているわけだから、
その人生の軌道も本当は重なりようもない
のだけども、
それでも時々近づいてくるのが面白い。
願わくば、お互いにフライ・バイで加速できるような
存在であり続けたいものである。
2月 19, 2005 at 07:55 午前 | Permalink
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コメント
(凡人オヤジのタワゴトで失礼します:-)
ハリウッド映画の文法の一つだと、個人的に
決め付けている「友(朋)の法則」があります。
(映画物語内で:-)
情況を問わず、裏切りは許されない。:-)
たとえ、友が悪の道に落ちようとしている
のを助けようとした誠実な裏切り?であった
としても。その場合許される選択は
友を失うか、友とともに落ちるかである。 :-)
で、蛇足にて、「悪人の法則」
(映画)前半で、悪事をやった人間が
後半改心して活躍しても許されることは
ない。たいてい身を挺して散る:-)か、
罪をつぐなう現実に直面する。
ってのもどうでせう? :-)
はっは、現実が上記の反対だから、という
単純さが現れているのですな。多分。 :-)
投稿: Kimball | 2005/02/19 9:38:40