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2005/02/18

筑波大付属駒場高校入試問題

研究所に行ったら、筑波大付属駒場高校の
国語科、関口隆一先生から封筒が。
 今年度の入試に『脳内現象』が使われたという
ことで、その問題文を送っていただいた。
 使っていただいたのは、次の部分である。
 深謝。

 人がこの世に生まれ落ちたとき、そこに立ち現れるのは、自己と他者が未分化の世界である。どこまでが自分の身体で、どこからが外界なのかも分からない。それどころか、自分と外界という領域自体が成立してない。新生児の様子を見ていると、さかんに、自分の身体を触りながら、自らの身体の範囲を確かめているかのように見える。このような、「セルフタッチ」と呼ばれる探索の過程を通して、私たちは、次第に世界と自分の関係について学んでいく。
 母親や父親といった他者は、新生児にとっては、ぼんやりとそこにいるもの、空腹や関係性欲求などの必要を満たしてくれる道具のようなものである。その他者に、自分とは違った心のようなものがあるということに気づくのは、たとえば、いつも泣けばミルクをくれる母親が、たまたま何らかの理由でミルクをくれなかった時だろう。母親が、必ずしも自分の要求を満たしてくれる道具のような存在に尽きるわけではない、ということを悟ることによって、新生児は他者の心の所在についての最初の感触を得るのである。
 4歳くらいになる頃から、人間は、他人が自分とは異なる心を持つ存在であるということが判ってくる。このような「心の理論」と呼ばれる認知能力を身につけることは、人間の社会的知性の実現において必要不可欠なステップである。他者とのかかわりの中で、自分の欲望と他者の欲望が必ずしも調和しないこと、他者には他者の「都合」があり、それを時には尊重すべきであることを学習することを、人は「大人になる」と言う。どれくらい自分の立場を離れて世界について考えることができるかということで、その人の成熟の度合いがわかる。
 相対性理論によって科学界に革命をもたらしたアルベルト・アインシュタインは、「ある人間の価値は、まず何よりも彼が自分自身からどれくらい解放されているかということで決まる」という言葉を残した。
 アインシュタインは、必ずしも科学とは何かということを説明するために右の警句を吐いたのではない。しかし、「自分自身から解放されていること」が、科学という営みの精神的必要条件であることも事実である。科学は、自分の立場を離れて世界について考えるということを突きつめた営みである。科学をするということと、他人を思いやるということは似ている。
 秋の野にカマキリがいるのを見て、カマキリなんて、何だか知らないけど適当に世界の中に生まれてくるのだろう、とそれ以上の関心を持たない人に、科学する心は育たない。あのカマキリは、今はあんなに大きいけれども、卵から生まれた時はとても小さかったはずだ。一体、その小さい頃は何を捕まえて食べて育って来たのだろう、とカマキリという他者の立場になって想像して見ることから、科学する心は育まれていく。
 ここにいう他者とは、もちろん、心がないものでも良いし、生命のないものでも良い。リンゴの木が落ちるのを見て、重力を発見するのも同じことである。リンゴなんて、勝手に落ちるんだろう、月なんて、勝手に天上に浮かんでいるんだろうとそれ以上の関心を持たないならば、重力の法則は発見されない。リンゴが落ちてくるのはなぜか、月が落ちてこないように見えるのはなぜか、とリンゴ、月という他者の立場に立って考えて、初めて重力の発見への道が開かれる。
 他者に真剣な関心を向けないことで、人間は世界にあふれる驚異に目を閉ざす。他者への無関心は、科学する心を育む上での最大の敵なのである。

2月 18, 2005 at 06:30 午前 |

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コメント

>問題文に感動して、設問を解くことを忘れ
本当は、僕らはそうでなくちゃいけないんじゃないでしょうかね。
僕は子供の頃、本が大好きで、クラスの誰よりも本を読んでいましたが、読書感想文だけは苦手でした。
僕はあまりにその物語が好きで、何かを付け足すことなんてできませんでした。

投稿: nomad | 2005/02/19 23:17:07

 国語の問題って、こうやって作られるのかと、感激しました。こういった先生の国語の授業は、とても刺激的で楽しい授業なのだろうと思いました。
 この高校を受験される方達は、問題文に感動して、設問を解くことを忘れないようにしないといけないですね(笑)。

投稿: sky | 2005/02/18 14:55:04

 私の拙論文に、地球(のみに限らず)人は、生を受けた(受精)時点から死の道程が始まり、死して無への永劫回帰の道程が始まる。前者は、宇宙の衰退へと突き進み、後者は、宇宙の誕生へと突き進む。
 その中間の時間空間に、私は母の胎内からこの地球にひょんなことから出てきたのであった。『真鍮の釘』の自伝的小説の冒頭でもあります。
 これは、宇宙の中の将来の地球環境を悲観した小説でもあります。また、宇宙的視野に立った地球防衛を祈願した論文形式をとっています。宗教、人種等々の差別からくるテロ行為、戦争はゆうに及ばず、甘い考えですが、環境にしろこの前のインド洋の津波にしろ、
世界中の人間が地球防衛の意識に立つべき事を疎かにしているのではないか痛感しています。身近な地震や台風の被害によって、徐々に遅かれ、見直されつつある今日この頃ですが・・・。

投稿: 水無月 | 2005/02/18 10:00:35

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