ずっと勉強
戦線がひろがって、仕事の量も増えて、
結局、起きている間やっていることは
ぜんぶ仕事絡み、という感じの
人生であるが、
考えてみると、そうなることをずっと前から
望んでいたのであるから、
幸せというべきなのかもしれない。
物理学の院にいるとき、球面調和関数
の計算を延々とつづけて、それから
上野の森を抜けて東京文化会館に行き、
音楽をきくと、全く違ったモードになる。
小説家は人生で体験したことをすべて
仕事に反映させられるのに、なぜ科学者は
それができないのか。
それが当時の私の悩みだった。
「クオリア」という視点にめざめて
その悩みの解消のダイナミクスが延々と
はじまったわけだけど、
そのうち、
小説もまた一つの専門性であり、
逆に、数理の世界も人生一般と無縁ではない、
ということが身に染みてわかってきた。
Brain Club 第64回。
(Brain Clubは、研究所の脳科学セミナーである)
田辺史子が修論発表の予行をして、
柳川透がプログレス・レポートをする。
セミナー前にコンビニで「昔の玩具」
という食玩を買ったが、
空気鉄砲はうまく飛ばずに哀しかった。
夜は新宿で筑摩書房の増田健史さんと打ち合わせ。
春から「ちくま」で始まる連載のテーマについてなど。
答え一発。「こんなことを申し上げて
何ですが、茂木さん、ずばり、それで行きましょう!」
と増田さん。
後はビールを飲んで与太話であるが、
しかしその与太話も仕事と言えば仕事で、
いろいろ発想がわいてくる。
移動中は、
Feynman Lectures on Physicsを
iPod Shuffleに入れたものを聴きながら
歩いていた。
同時にGlimcherの本を読む。
つまり、目がさめている間はずっと勉強か
考えるか仕事をしているのだけれども、
最近新しいことを学ぶのが楽しくて仕方が
ないのでそれで良い。
Feynman Lectures on Physicsはどちらか
と言うと勝手知ったる世界だが、
柳川透が英語の勉強をしたいというので
買った。
しかし、何回も考えた量子力学のFoundations
などの話をFeynmanの声でもう一度聞いていると、
脳が定まった軌道から逸脱しようとして、
新しい発想がわいてくる。
これは一種の動的ゲシュタルト崩壊であろう。
かくて、ずっと勉強の人生である。
2月 9, 2005 at 06:49 午前 | Permalink
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