2005/02/28
分類不可能
最終日は、筑紫哲也さん、林真理子さん、秋元康
さんの話を聞いた。
秋元さんは実は現代の孔子ではないか。
島田雅彦はいなかった。後で電話があって、
朝豊橋を出てしまったのだと言う。
ホールに座っている時から寒気がして、
インフルエンザではないが、風邪は引いたらしい。
要するに喉や鼻などの粘膜がやられた。
帰りの新幹線で、いつもは簡単に眠れるのに、
着かれているのに意識が消えない。
東大の柏キャンパスのワークショップで、
峯松信明さんのお話を伺うつもりでいたのだけれど、
もう遅れてしまっているし、体調的に
これはダメだと思い、家に直行した。
トンカツを食べ眠ったが、珍しく午前1時に目が
さめる。
なんとなくテレビをつけたら、暗い森の
中で女の人が日本語で不思議なことを言って、
それから中国語で歌い始めた。
これは何だ、と番組表で調べると、
一青窈という歌手であった。
どうにも、分類不可能な人のように
思える。
自分が分類不可能だから、
同類にはがんばって欲しいと思う。
変な時間に目が覚めて、目覚めたら
寝坊していた。
パワーポイントをつくらなくては
ならない。
粘膜はどうやり過ごすか。
今日は柏に是が非でもいかなくてはならない。
常磐新線が出来ると、柏キャンパスは随分
便利になるようだ。
http://www.mlab.t.u-tokyo.ac.jp/fyrf/lecture.php
2月 28, 2005 at 07:37 午前 | Permalink
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2005/02/27
世界の国からこんにちは
ヨミウリ・ウィークリー
2005年3月13日号
(2005年2月28日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第43回
世界の国からこんにちは
愛知万博の開幕が近づいてきた。1970年の
大阪万博の記憶をよみがえらせつつ、脳科学から
見た万博の意義を探る。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
2月 27, 2005 at 07:57 午後 | Permalink
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金で買えない快楽について
2月 27, 2005 at 06:41 午後 | Permalink
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爆発。
引き続き、「オープンカレッジ in 穂の国」。
朝は、浅葉克己/小笠原敬承斎/佃一可/名倉鳳山の
「書道道中膝栗毛」を聴いた。
浅葉さんは、松岡正剛さんの会で何回かお見受け
したことがあるのだけども、本格的に話を聴くのは
はじめてだった。
とにかく芸達者な方である。
中国、雲南省に伝わる「トンパ文字」を掘り起こして
世に広めたことで知られる浅葉さんは、その後も
書にこだわり続けている。
新しい文字が出来ることで、時代が変わるのでは
ないかと信じているのだという。
浅葉さんの一日は、硯に向かって墨を擦り、
楷書をしたためることから始まる。
最近の浅葉さんのお仕事は、タイポグラフィーの
未知の可能性を模索していると言ってよい。
小笠原流の礼法の話は、はじめて聴いた。
室町時代から伝わる古文書と、現代の作法の関係が
面白い。
それから、いろいろな分科会を
ハシゴして、
自分たちの会と相成った。
船曳建夫、植島啓司、島田雅彦、茂木健一郎
で「金で買えない快楽について」である。
メンバーを見ても、これは
絶対に面白い話になるという確信があった。
実際面白いことになって、私は「爆発」した。
だいたい、池上高志や郡司ペギオ幸夫などと
喋る時もそうだけれど、
気が合うほと、爆発する、というのが
芸というかダイナミクスなのであって、
予定調和よりは良いのではないかと思っている。
なぜ私が爆発したかというと、
植島、島田両名が、「性愛」を中心に快楽を
語り、しかもその語りが男性の「恋愛強者」
からの一種趣味的な言説に終始していたように
思ったので、
これは対位法としてもアンチを提出しないと
バランスがとれないのではないかと思って、
オブジェクションしたのである。
ところが、船曳さんも植島、島田を擁護
したので、3対1になってしまった。
N対1という状況には慣れている私では
あるが、このメンバーでいきなりそうなるとは
思わなかった。
だが、しかし、面白かった。
最後まで孤立無援の私ではあったが、
あとで三枝成彰さんが来て、
「ぼくも賛成だよ。性愛もいいけど、バッハの
マタイ受難曲もいいよね」
と言って下さったのが救いではあった。
終了後、みんなでビールを飲みながら「反省会」
をしていると、日比野克彦さんがやってきた。
豊橋のチンチン電車の中で、浅葉克己さんたちと
セッションをして来たのである。
植島さんの年収の激しい上下動をはじめとする
オモシロ話をしているうちに、
「夜楽」の時間になった。
「夜楽」では、島田雅彦、私、浅葉克己、
さかもと未明のメンツで参加者とワインを飲みながら
喋った。
そのまま私は全体の打ち上げに行って、
さらにいろんな方と喋ったが、
島田は「オレはいかない」と言って、
電話をしたら、ワインを飲んだ後で、
ラーメンを食べているという。
仕方がないので、私が後で島田の部屋に行った。
ビールを飲みながら、文学の話をした。
それで、午前2時になったので、部屋に戻って
眠った。
爆発にはじまり、文学に終わる。良い一日だった、
と言えるのかもしれない。
2月 27, 2005 at 09:10 午前 | Permalink
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2005/02/26
オープンカレッジ in 穂の国
エンジン01文化戦略会議 オープンカレッジ in 穂の国
に参加するために、豊橋にきた。
島田雅彦さんに誘われてきたが、実は
あまりどのような会なのか、判っていなかった。
新幹線を降りたら、
事前に御著書をお送りいただいた
浅葉克巳さんが大きなトランクを持っている。
後で聞いたら、
セッションで使う、掛け軸などが入っている
らしかった。
オープニングがある豊橋市公会堂の控え室
でぼんやりしていると、船曳建夫さんがいらした。
最近読んだ「日本人論」再考(NHK出版)
がとても面白かったのである。
基調講演は堺屋太一さんで、万博の話だった。
もう20年近く前、堺屋さんのお話を
聞いて大変面白く、「これは金が取れる講演だ!」
と思ったことがある。
今回の話も大変面白かった。堺屋さんは
大阪万博を企画、プロデュースしたその人である。
万博観が変わるような話だった。
その後は、松井孝典さんと三枝成彰さんの
対談があり、松井さんが地球学から見れば
二酸化炭素と温暖化の関係はよく判らない、
私は宇宙人として地球を見ていると熱弁。
私はいろいろやることがあって、
堺屋、松井講演中も時折内職を余儀なくされて
いたが、
部屋に戻って仕事をしているうちに
夜のセッションが始まってしまった。
これもよくわからないで行ったら、
わーっと人がいる大変な会で、いろいろな
人と話した。
中村圭子さん、原島博さん、福本潮子さん、
三枝成彰さん、松井孝典さん、亀井眞樹さん、
波頭亮さん。
その後二次会があって、やすみりえさんや
原島博さん、船曳建夫さんといろいろ
喋る。
しばらく前に、島田雅彦さんが
朝日新聞の日曜版に誰かと二人で階段から
落ちたと書いていたが、
その一緒に落ちた人が誰かわかった。
今朝は再び仕事、セッション、仕事の
一日が待っている。
2月 26, 2005 at 07:12 午前 | Permalink
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2005/02/25
『脳と創造性』 ー「この私」というクオリアへー
新刊予告
茂木健一郎 『脳と創造性』ー「この私」というクオリアへー
PHPエディターズグループ
2005年3月中旬発売予定
はじめに
第1章 創造性の脱神話化
第2章 論理と直観
第3章 不確実性と感情
第4章 コミュニケーションと他者
第5章 リアルさと「ずれ」
第6章 感情のエコロジー
第7章 クオリアと文脈
第8章 一回性とセレンディピティ
第9章 個別と普遍
おわりに
2月 25, 2005 at 08:16 午前 | Permalink
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「あぶら」であり、「あぶら」でない
私は芸大のやつらが好きだ。何故かと
いうと、彼らがとてもタイヘンな方法論的困難
を引き受けて、作品をつくろうとしている
からだ。
現代美術ほど、「なんでもあり」のところで
表現を試みているジャンルを私は知らない。
文学に比べても、
音楽に比べても、
科学に比べても、
現代美術では、「方法論的な解放」の自由と
絶望が実際に制作者と鑑賞者に押し寄せてきている。
その中で作品をつくっていくことがラクな
はずがない。
しかし、だから生きている甲斐があるという
ものだろう。
私の「美術解剖学」の授業に出入りしている
「解剖組」のうちは芸大でも一番入試倍率が
高い油絵科(仲間うちでは、「あぶら」という)
の学生である。
彼らの多くが卒業で、卒業制作の
発表の季節である。
大学院に進むやつが多いとはいえ、
一つの区切りである。
だから、東京都美術館に見に行った。
本人と作品の写真を並べて撮った。

名取祐一郎 と 『切り絵アニメーション』

大出翔子 と 『母と結婚』

荻野友奈 と 『自画像』

蓮沼昌宏 と 『四コマと鳩のフィールドワーク』
芸大の「あぶら」の学生は、「あぶら」を描かない。
荻野さんの自画像は一般の人が思い浮かべる自画像に
近いが、その卒業制作は、プロジェクションと
羽田空港の映像を組み合わせた、いいカンジの
作品だった。
「あぶら」が「あぶら」の厳しい修業をしながら、
しかし最後の制作では「あぶら」を描かない。
ここに何かぐっと来るものを感じて
しまうのである。
今日の午後4時からは、杉原信幸が
パフォーマンスをやるというので、
皆さんぜひ東京都美術館(「とびかん」)
にいらしてください。
杉原信幸
パフォーマンス「体内記憶」
行為の足下
断崖の足どりで
肉体に流れる景色
東京芸術大学卒業制作展にて
2005年2月25日(金)16:00から
東京都美術館 展示作品前

前回のパフォーマンスでの杉原信幸
卒制展を見終わって、芸大にほど近い、
安藤忠雄がクラッシックな建物に
ガラスのコラムを突き刺した
国際子ども図書館のカフェで、布施英利さんと
お話する。
来年度のことや、学生たちのこと。
布施さんの人間観察の鋭さと的確さには、
いつも驚かされる。
新刊の『はじまりはダ・ヴィンチから』
を頂いた。
全てが終わり、みんなで根津の「車屋」で飲んで
いたら、バイト上がりの植田工がやってきた。
椹木野衣さんが卒制展の作品を見に来てくれた、
と喜んでいる。
植田を誘って、ちょっと外に出たら、
世界はみぞれになっていた。
2月 25, 2005 at 07:48 午前 | Permalink
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2005/02/24
言葉に惑う時代の若さ
文藝春秋 2005年3月臨時増刊号(2月26日発売)
「言葉の力」
茂木健一郎 「言葉に惑う時代の若さ」
http://www.bunshun.co.jp/mag/extra/kotoba/index.htm
2月 24, 2005 at 07:13 午前 | Permalink
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ニャロメ! の時代
このブログに時折コメントを書き込んで下さる
長谷邦夫さんが、井上陽水の「桜三月散歩道」
の作詞者だということを知った時には
びっくりした。
陽水の『氷の世界』は大好きなアルバムで、
その中でも、「桜三月散歩道」は、最も
好きな曲(カラオケで歌う確率が高い曲)
なのである。
その後で、長谷さんが、伝説の「トキワ荘」時代
から、赤塚不二夫さんといわば二人三脚で
様々な仕事をされてきた方だと知って、またびっくり
した。
私は赤塚不二夫のギャグ漫画が好きで、
赤塚不二夫 漫画全集 DVD−ROM
も購入している。
その長谷さんの書かれた「漫画に愛を叫んだ男たち」(清流出版)
を読んで、胸が熱くなった。
人生は複雑系で、先のことなど予想できない。
後から見れば、あれは名作だ、これは歴史に残る
などと言えるが、創っている本人たちは一生懸命
で、その時々で工夫して、目の前の仕事をしている
だけである。
「蝶のはばたき効果」は至るところにある。
未来が予想できず、コントロールできないからこそ
人生は面白いし、新しいことの創造ということも
あり得る。
そんな思いが、長谷さんの本を読んで込み上げて
くる。
どんなジャンルも、創成期には独特の青臭さと
生の躍動があるものだと思う。その気配を私は
愛する。
長谷さんは、その創成期のマグマの運動の
まっただ中にいた。
赤塚不二夫の漫画のキャラクタで一番好きな
ものの一つが「ニャロメ」である。
学生運動の時に学生たちのアイドルになった
ニャロメである。
そのニャロメ風に言えば、
未来なんてわからないんだ、ニャロメ!
何が価値があって、何がないかなんて、後から
判るだけだ、ニャロメ!
最初から決めつけるんじゃねえよ、バカニャロー
ってな感じだよな、まったく。
最近、1970年の万博の「太陽の塔」と
三波春夫の「世界の国からこんにちは」
がしきりに
思い出されてならないのだけども、
世間はともかく、私自身は最近なんとなく
ニャロメ=太陽の塔=世界の国からこんにちは
的な気分の中で生きていて、
その気分の中に、長谷さんの本がぴったり
はまったのである。

2月 24, 2005 at 07:07 午前 | Permalink
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2005/02/23
新しい出会いが脳を育てる
潮出版社 「パンプキン」 2005年3月号
p.6〜17
茂木健一郎 新しい出会いが脳を育てる
http://www.usio.co.jp/html/pumpkin/index.php
2月 23, 2005 at 03:11 午後 | Permalink
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10年ぶりのヘアカット
渋谷慶一郎さんが音環境をプロデュースした
代官山のヘアサロン、SUPERSTARSのオーナーの佐藤民生さんから
メールをいただいたのは、1月10日だった。
リアルタイムで髪の毛を切る音や、会話を拾って、
音環境を生成するのだという。
http://www.atak.jp/work/installations.html
今度中野敬久さん
の写真で、本をつくる、そこに評論を書いてください
というのである。
他ならぬ渋谷さん関係だし、とてつもなく
面白そうだから、もちろんいいですよ、とお返事した。
そうしたら、佐藤さんから、「茂木さんさえ
良ければ、髪を切りSUPERSTARSを体験してい
ただきたい」というメールが来たので、
うーむ、私は思わずうなった。
ついにその日が来たのである。
あれは、1995年の10月、イギリス留学
中のことだった。
ロンドンのキプロス島出身の兄弟がやっている店で
切ったのが最後、髪の毛が伸びたので、
そろそろ切らなくちゃ、と思ったけど、
店に行くのが面倒だった。それで、えいやっ、
と下宿の部屋で自分で切ってしまったのである。
それまで、髪は他人に切ってしまうものだと
思っていた。初めて自分の髪にハサミを入れた時の、
イケナイことをやっているような後ろめたさは、
忘れられない。
それ以来10年、私は自分で髪の毛を切ってきた。
ちょっと伸びてきたな、と思ったら、風呂場に行き、
鏡を見ながら、ジョキジョキと切ってしまう。
後ろの毛は見えないけれど、手を伸ばして、
感触で切ってしまう。
それから髪の毛を洗う。所要10分。
もじゃもじゃになるが、それでも何とかなって
きた。
それが、ついに自分の髪に他人の手が入るという
のである。
2005年2月22日午後7時30分、
私は祈るような気持で、
代官山の店の前に立った。
ホワイトキューブの美しい店で、ただ
SUPERSTARSとある。
スライドドアを開けると、そこに佐藤さんが
立っていて、「はじめまして」と言った。
それからの2時間の体験は、私の今までの
ヘアカットの体験の全てをくつがえす
ようなものだったが、
そのことについては、佐藤さんの本の評論で
いずれ書きたいと思う。
私が驚いたのは、ヘアカットの
技術革新である。
佐藤さんの奥さんの朝子さんがメインの
スタイリストで、微妙なハサミさばきをする。
髪の毛を適量つまんで、
それが落ちてくるときに、ハサミをやや
拡げたまま、内側から外側にスライドさせながら
切る。
それを何度も何度も繰り返す。
ウサギがやさしくハムハムと
髪の毛を食べてくれているかのようである。
これは一体何なのだろう、と思った。
途中で、「しばらく目をつぶっていてください」
と言われた。
前髪を切るのである。
目を閉じて、渋谷さんのサウンドを聴いていたら、
椅子を90度ずつ回されて、違う頭の面が
鏡を向いているのが判った。
再び顔が正面を向いて、目を開けたとき、
そこには知らない髪型の人が映っていた。
びっくりして、「これはなんですか」
と朝子さんに聞いたら、
「ドライカット」というものだという。
短い髪の毛は、長い髪の毛を支えて、浮き上がらせ、
形をつくる。
つまりはそのような構造をいたるところに造って、
スタイルをつくるのである。
つまり、髪の毛の彫刻なのである。
それでわかった。街を歩いていて、「今風の髪型
だな」と思わせる人に会うことがあるが、
その「今風」がドライカットだったのだ。
そう気が付けば、ドライかそうでないか、
区別が付くような気がする。
SUPERSTARSの近くの「遊泳禁止」と書かれた
居酒屋で、佐藤さんの話を聞く。
あまりにも面白いので、ガクゼンとした。
SUPERSTARS、おそるべし。
4人のスタッフもあとから
きて、佐藤さんとの掛け合いがまた面白かった。
知らぬが仏とは、まさにこのことである。
自分でドライカットはできそうもない。
人生の悩みがまた一つ増えた。
2月 23, 2005 at 08:50 午前 | Permalink
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2005/02/22
臨床脳科学
「ヨミウリ・ウィークリー」の連載「脳の中の人生」
がそろそろ一年になるというので、
編集長の川人献一さん、デスクの臼井理浩さん、
それに、いつも原稿のやりとりや校正などで直接
御世話になっている二居隆司さんが「懇談」
に誘ってくださった。
汐留シティセンタービル42階の「えん」
の窓からは、向かいに、電通本社ビルがおおきく
見えた。
「脳の中の人生」を書くことは、とても勉強に
なっている。最初は、最近の脳科学の研究から
面白い話題をわかりやすく紹介する、ということを
中心にやってきたが、そのうち、「臨床脳科学」
と仮に私が名付けているアプローチが
中心となってきた。
一般向けの講演などをすると、質疑応答
の時間になって、
それまでの講演内容と直接関係のない
質問が出ることがしばしばある。
そのような時、ああそうか、世間では、こんな
問題にリアルな関心があるのだな、と気づく。
「リアルな関心」の在処は、脳科学内部の
研究の方向性とは必ずしも一致しない。
ならば、話を逆にして、ヨミウリ・ウィークリーの
連載では、まずは世間のリアルな関心から
出発して、それと脳科学の間を補助線で
結ぶことを試みてみよう。
そう思っての、「臨床脳科学」である。
そんな方向転換ができたのも、
ヨミウリ・ウィークリー編集部からゲラが
帰ってきた時、私が仮につけたタイトルと
違うことが多かったからである。
週刊誌にとって、タイトルは命である。
なるほど、週刊誌というのは、こんな
タイトルの付け方をするのか、と思った。
それで、気づかされた。
齋藤孝さんの「コメント力」にも通じるが、
他者とのやりとりで学ぶことは多い。
その、タイトルを毎回付けて下さって
いたのが、デスクの臼井さんだと知った。
二居さんは私と同じ年齢で、いろいろ
な世代体験を共有している。
川人さんは中国哲学をやった元文学青年である。
川人さんは、時折文学界の「脳のなかの文学」
も読んでくださっていると言う。
人生と文学が交錯して、
昨今の政治情勢からプロ野球まで、
大変楽しい懇談会だった。
目覚ましなしで起きるようになったのは
いつからだろう。
スペインのホテルの部屋から広場を
見ていたら、闘牛が始まって、
人々が逃げ出した。
広場に直接材料をまいてパエリヤをつくっているので、
汚いなあと思ったら、ちゃんと消毒してあると
いう。
そういえば、広場の石畳の色が、なんとなく
白い。
鈴木健が、大変良いこと(「戦慄系」)
を書いているのを見つけた。
3日前の「年に一回のちゃぶ台ひっくりかえし」
で言いたかったことと大いに関係するので、
紹介したい。
「世の中には、戦慄したことがある人としたことがない人がいて、したこ
とがない人と戦慄について共感してもらうのは難しい。だから、戦慄系
を説明しても意味はない。分かるやつは分かる。分からないやつは分か
らない。ただそれだけだ。」
集合論は、無限集合論まで行って初めて
意義が判る。「対角線論法」を中学や高校で
教えるべきだというのが私の持論である。
http://blog.picsy.org/archives/000203.html
2月 22, 2005 at 06:55 午前 | Permalink
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2005/02/21
東京と地方
東京から離れると、広々と土地や空が
広がっていて、
その中でうごく人たちの姿も、また
普段私が会う人々と違う。
「人間」というものは確かにこういう
ものだったな、と思わせる何かがある。
店の人と話していて、お金を払い、
商品をやりとりするという機能の流れからの
逸脱があるのも地方である。
少し何か話すと、おまけして
くれたり、
なにかをくれたりする。
もっとも、東京のコンビニで客ごとに
それをやっていては、もたない。
お互い機械のように流れ作業を
せざるを得ない必然性がある。
小学生6年生の時、中学生の先輩に呼び出された。
先輩は、鉄棒に寄りかかりながら、人生について
語ってくれた。
「○○高校が一番いいけどむずかしい。学校で
一番くらいじゃなくっちゃ。○○高校
もむずかしい。クラスで一番くらいじゃ
なくっちゃ。健ちゃんもあれだな、○○高校
に入れればいいんじゃないか。医者か何か
になったらどうだ? もうかるぞ。」
人間は動物のはずだが、あの頃、自分は
動物だとは思っていなかった。
「人生」という確固とした枠組みが
あって、
その枠組みの中でこれから自分は生きて
いかなければならないのだ、と思っていた。
それは、襟を正すような、鼻がつんと
するような、奇妙なリアリティの感覚だった。
これからそのような人生に向き合わなくては
いけないのだな、と身が引き締まる思いが
した。
東京から離れて、地方に行くと、
そのような人生の感覚が確かにまだあるのが
感じられる。
一方、東京の生活は、次第にそのような
ものからずれて行っているような気がして
ならない。
善し悪しの話をしているのではない。
人間はいかに生きるべきか、
という「倫理」に対する感度が異なるのである。
だから、倉本聡さんは、富良野を舞台にして
「北の国から」というドラマを書いたのではないか。
富良野なら、人生の選択の重みを
自然に感じさせることができる。
東京という設いの何かが、
人に倫理を自覚させないものがある。
自動機械として電車に乗り、仕事をし、
人と会い、酒を飲むことを「ラク」にする
仕掛けがある。
東京は好きだけど、時々離れなければ
何かがダメになると思う。
そのことを、決して忘れないでいよう。
2月 21, 2005 at 07:13 午前 | Permalink
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2005/02/20
友だちの友だちは友だちか?
ヨミウリ・ウィークリー
2005年3月6日号
(2005年2月21日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第42回
友だちの友だちは友だちか?
インターネットは、数回ノードを超えれば、
世界中の誰とでも結びつくことのできる
「スモール・ワールド・ネットワーク」を実現
させたはずであった。なのに、何故、むしろ
気のあった仲間とのたこつぼ的コミュニケーション
が流行るのか? スモール・ワールド・ネットワーク
を使いこなすための秘訣を脳の仕組みから考える。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
2月 20, 2005 at 05:09 午後 | Permalink
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人間の脳はいかに一回性と日常性をとらえるか
Lecture Records
茂木健一郎
「人間の脳はいかに一回性と日常性をとらえるか」
アーカスプロジェクト アートセミナー講演
2005年2月20日 つくば国際会議場
mp3 file, 44分 10.2MB
http://www.qualia.csl.sony.co.jp/person/kenmogi/lectures/mogiarcus20050220.MP3
2月 20, 2005 at 09:16 午前 | Permalink
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現場の人
トンカツに始まり、天丼に終わる。
B級グルメの夢の一日だった。
トンカツで朝ご飯を食べ、仕事をしながら「ひたち」
で土浦に向かい、
そこからタクシーで国際会議場に行った。
アーカスプロジェクトのアートセミナーに出るためである。
日比野克彦さんは、「大きい」印象の人だった。
似たような印象を、橋本治さんにも感じた
ことがある。
まず、帆足亜紀さんが
アーカスプロジェクトの紹介をして、その後で
私が、
「脳は一回性と日常性をどうとらえるか」
というタイトルで40分話し、
その後日比野さんがワークショップが
あった。
文字を使っていろいろやって行く。
アートとはつまり、気づきの過程である。
いろいろな人が会場に来ていた。
朝日出版社の赤井茂樹さんや、美術編集の
逸見陽子さん、電通の佐々木厚さん、水戸芸術館
の森司さんも。
森さんは、8月に水戸芸術館で
日比野さんの展覧会を企画していて、その
作品の製作の準備に入っているということで、
最後の対談でも、日比野さんから、
その話が出た。
対談中も言ったけれども、
私は現場が好きだ。
現場にいれば、たとえ失望や怒りを感じる
場合でも、
必ず何かを学ぶことができる。
だから、いろいろな現場に自ら
飛び込んでいくことでしか、
学ぶことはできない。
日比野さんは、ずっと現場にいた人だと思う。
発せられる言葉の海から、
ずしりと重い直球が来た。
つくばに来ると、土浦の「ほたて」
で天ぷらを食べるのを楽しみにしている。
ずっと貝の名前だと思っていたが、
店の人と話していて、実は
「保立」さんがやっていることが
わかった。
「よく勘違いされるのですよ」
と保立さん。
座敷には、仕出しに使う長持が
重ねてある。
2004年12月18日の日記に
書いた「吾妻庵」は、親戚だと言う。
土浦で私が愛する店は、親戚どうしだった。
かくて、B級グルメの夢の一日は終わった。
天丼を食べて歩く土浦の街は、とてつもなく
暗く見えた。
きっと、疲れていたのだろう。

2月 20, 2005 at 09:02 午前 | Permalink
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2005/02/19
年に一回のちゃぶ台ひっくりかえし
竹内のことを書いたついでに、書くけれど、
くだらない科学をやって、「これが立派だ」
と開き直っているやつを見ると、本当に
アッタマに来る。
物理は最近でこそ行き詰まりを見せているけれども、
物理学が明らかにしてきた宇宙の秩序の
すごさにくらべれば、
大抵の科学がやっていることなど、児戯に
等しい。
そりゃあ、人間だから、常に自分の目指すことが
できるわけじゃない。
だけど、本当はもっと凄い世界があるんだ、
と判って目の前のことをやっている
やつと、
自分のやっていることが大したことだと
勘違いしている野郎の違いは見ていれば
すぐ判る。
そして、勘違い野郎がのさばっているのが
現代である。
たとえ拙くても、「未だ言葉にできない」
未知の何かを模索している研究は、
ある姿をしている。
宇宙全体に感覚が拡大していくような、
めまいを覚えることすらある。
一方、
最初から答えが見えているような、
つまらねえ研究は、聞いていて、
息が苦しくなってくるからすぐわかる。
池上高志風に言えば、「セクシーじゃ
ない」のである。
物理の何が凄いって、たとえば、
交換関係が成り立たない、つまり、ab-baが
ゼロにならない代数が量子力学で生きてくる
ことである。
普通、2×3と3×2は同じだよね。
それが違う、ということが、
実はミクロの世界では効いてくるのです。
知らなかった、というひとは、ぜひ
量子力学の本を読んで勉強してください。
粒子と粒子を交換すると、符号が同じ場合と、
マイナスになる場合がある。
それが、粒子の集団のダイナミクスを変える。
何のことか判らない方は、
「量子統計」を勉強してください。
相対性理論はもちろんのこと。
「おい、何なんだよ、それは!」
と思わず叫びたくなるような深淵が至るところ
にある。
科学は、本当はものすごいものなのであって、
素人がちょっと聞いただけで「あーそういうことね」
と判るようなことをやっているやつらなんて、
本当はクズなのだ。
しかし、NatureとかScienceレベルの学術誌にも、
そのようなクズ論文が出て「これが科学でござい」
とのさばっているのが現代なのである。
本当にアッタマに来るが、結局他人のことは
どうでもいいから、自分でしっかりやるしか
ないのである。
だから、こういうちゃぶ台ひっくりがえしは、
年に一回くらいやれば十分である。
星一徹は、黙って仕事をするよ。
2月 19, 2005 at 08:22 午前 | Permalink
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朋あり
朝日カルチャーセンターの講師控え室で
準備をしていたら、
後ろからぽんぽんと肩を叩くやつがいる。
誰だと思って振り返ったら、竹内薫だった。
びっくりした。
竹内と私の講座は、重複して受ける人も
いるので日付が重ならないようになっている
はずなのだが、
たまたま祝日の関係で曜日が移動した
らしい。
ぜひ終わったあとの飲み会を一緒にやろう、
と言って講義室に向かう。
親兄弟は自分で選ぶわけではない。
いわば「宿命」であるが、親友というものは、
たくさん会う中から自分の意志で選ぶわけだから、
また別の重みがある。
特に竹内の場合、二十歳の時からずっと
だから、なおさらである。
あの頃、自分たちが将来どんなことを
生業としているか、予想などできなかった。
生業が決まってから会う人たちは、
もはや同じゾーンと決まっているわけだから、
ベイズ推計的に言えば情報量がない。
タブラ・ラーサだった二人が、
似たようなことをやる運命を辿るというのは、
そこにノン・トリヴィアルな情報があるわけで、
しみじみ味わい深い。
ということで、沢山他の人もいたから
ずっと話していたわけではないが、
飲み会で言葉を交わしていろいろ
面白かった。
朝日カルチャーセンターに頼んで、
時には同じ日にしてもらおうかしら。
つまり、人生は複雑系で、しかも何が
やってくるか判らない外部性があるから、
予想などできない。
そのことを、心の底から面白い、と思うようになった。
五年後十年後だって、どこで何をしているか
なんてわかりはしない。
どんな問題にぶつかるか、
何に情熱を燃やすか、そんなこと判ってたまるか。
しかし、どんなことがあっても、竹内とは
友人であり続けるだろう。
殆どの時間は別々に過ごしているわけだから、
その人生の軌道も本当は重なりようもない
のだけども、
それでも時々近づいてくるのが面白い。
願わくば、お互いにフライ・バイで加速できるような
存在であり続けたいものである。
2月 19, 2005 at 07:55 午前 | Permalink
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2005/02/18
小柴先生の楽しむ科学教室
第8回
開催日 3月16日(水)
会場 岐阜県 シティホテル美濃加茂
講演題目 「心と脳の不思議な関係」〜心を生み出す脳のシステム〜
講演者 茂木 健一郎
協賛 岐阜県・岐阜県教育委員会
後援 NHK
応募要項(原則として高校生対象)
プログラム
2月 18, 2005 at 11:30 午前 | Permalink
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脳とデザイン 第3回
本日
朝日カルチャーセンター講座
脳と心を考える ー脳とデザインー 第3回
(途中からの参加もできます)
http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture18.html
2月 18, 2005 at 08:26 午前 | Permalink
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香山リカさん
日本歯科医師会雑誌に、一年間「人間の科学」
のコラムを連載してきたが、それもそろそろ
終わりなので、その「引き継ぎ」の打ち合わせが
ニューオータニの「千羽鶴」であった。
来年担当されるのは、香山リカさんである。
私の書いてきた記事は、
http://www.bookpark.ne.jp/jdab/
から閲覧できる。
2004年 12月 Vol.57 No.09
スポーツで判断力を鍛える
2004年 11月 Vol.57 No.08
脳はいかに美を見るか
2004年 10月 Vol.57 No.07
偶然と必然の間
2004年 9月 Vol.57 No.06
人間はサイズをどう判断しているか?
2004年 8月 Vol.57 No.05
サヴァンと天才
2004年 6月 Vol.57 No.03
記憶力とは何か
2004年 5月 Vol.57 No.02
不確定性に対処する情動のシステム
2004年 4月 Vol.57 No.01
末端と中枢
香山さんとお会いするのは、昨年の松岡正剛さんの
「花・ドット・コム」以来だった。
昨今の日本の状況について、いろいろ話す。
日本歯科医師会の梅村長生先生、渡邉滋先生とも
意見交換した。
香山さんは東京学芸大学付属高校の同窓である。
同じ時期に在校していたはずで、制服姿で
すれ違っていたかもしれない。
香山さんをはじめ、斎藤環さん、計見一雄さんなど、
精神科医の方々が社会問題などについて批評
活動をされているのは興味深い傾向だと
思っている。
つまりは現代は病理においてとらえられる
ということである。
もともと、人間の精神が予定調和で行くはずが
ない。
際を走っていくのだから、時にはバランスを
崩すこともある。
社会の中ではいろいろな意見のぶつかり合いが
あるが、
それを「正論」と「正論」の衝突だと
考えるから硬直化する。
病理と病理のぶつかり合いととらえることで、
視線に深みとダイナミクスが生まれるのではないか。
まだまだ当分香山さんの活躍の時代が
続きそうである。
香山さんは、友人の森健さんとの共著
「ネット王子とケータイ姫」
がある。
まだ買っていなかったのでアマゾンで
注文した。
2月 18, 2005 at 07:00 午前 | Permalink
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筑波大付属駒場高校入試問題
研究所に行ったら、筑波大付属駒場高校の
国語科、関口隆一先生から封筒が。
今年度の入試に『脳内現象』が使われたという
ことで、その問題文を送っていただいた。
使っていただいたのは、次の部分である。
深謝。
人がこの世に生まれ落ちたとき、そこに立ち現れるのは、自己と他者が未分化の世界である。どこまでが自分の身体で、どこからが外界なのかも分からない。それどころか、自分と外界という領域自体が成立してない。新生児の様子を見ていると、さかんに、自分の身体を触りながら、自らの身体の範囲を確かめているかのように見える。このような、「セルフタッチ」と呼ばれる探索の過程を通して、私たちは、次第に世界と自分の関係について学んでいく。
母親や父親といった他者は、新生児にとっては、ぼんやりとそこにいるもの、空腹や関係性欲求などの必要を満たしてくれる道具のようなものである。その他者に、自分とは違った心のようなものがあるということに気づくのは、たとえば、いつも泣けばミルクをくれる母親が、たまたま何らかの理由でミルクをくれなかった時だろう。母親が、必ずしも自分の要求を満たしてくれる道具のような存在に尽きるわけではない、ということを悟ることによって、新生児は他者の心の所在についての最初の感触を得るのである。
4歳くらいになる頃から、人間は、他人が自分とは異なる心を持つ存在であるということが判ってくる。このような「心の理論」と呼ばれる認知能力を身につけることは、人間の社会的知性の実現において必要不可欠なステップである。他者とのかかわりの中で、自分の欲望と他者の欲望が必ずしも調和しないこと、他者には他者の「都合」があり、それを時には尊重すべきであることを学習することを、人は「大人になる」と言う。どれくらい自分の立場を離れて世界について考えることができるかということで、その人の成熟の度合いがわかる。
相対性理論によって科学界に革命をもたらしたアルベルト・アインシュタインは、「ある人間の価値は、まず何よりも彼が自分自身からどれくらい解放されているかということで決まる」という言葉を残した。
アインシュタインは、必ずしも科学とは何かということを説明するために右の警句を吐いたのではない。しかし、「自分自身から解放されていること」が、科学という営みの精神的必要条件であることも事実である。科学は、自分の立場を離れて世界について考えるということを突きつめた営みである。科学をするということと、他人を思いやるということは似ている。
秋の野にカマキリがいるのを見て、カマキリなんて、何だか知らないけど適当に世界の中に生まれてくるのだろう、とそれ以上の関心を持たない人に、科学する心は育たない。あのカマキリは、今はあんなに大きいけれども、卵から生まれた時はとても小さかったはずだ。一体、その小さい頃は何を捕まえて食べて育って来たのだろう、とカマキリという他者の立場になって想像して見ることから、科学する心は育まれていく。
ここにいう他者とは、もちろん、心がないものでも良いし、生命のないものでも良い。リンゴの木が落ちるのを見て、重力を発見するのも同じことである。リンゴなんて、勝手に落ちるんだろう、月なんて、勝手に天上に浮かんでいるんだろうとそれ以上の関心を持たないならば、重力の法則は発見されない。リンゴが落ちてくるのはなぜか、月が落ちてこないように見えるのはなぜか、とリンゴ、月という他者の立場に立って考えて、初めて重力の発見への道が開かれる。
他者に真剣な関心を向けないことで、人間は世界にあふれる驚異に目を閉ざす。他者への無関心は、科学する心を育む上での最大の敵なのである。
2月 18, 2005 at 06:30 午前 | Permalink
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2005/02/17
Wangari Maathai
たまたま、珍しく午後7時30分に
家にいて仕事をしていた。
『クローズアップ現代』で、
植林運動で2004年度のノーベル平和賞
を受賞したWangari Maathaiさん
のインタビューをやっていた。
立派な人だなあ、と思いながら聞いていて、
はっと気が付いた。
今の日本において、大の大人が興奮して
口から泡吹いてマジメに議論していることの
殆どは、世界の大勢から見たらどうでもいいこと
に違いない。
いつから、日本はこんなに内向きな国に
なったのだろう。
たとえが非常に悪くて恐縮だが、
家に閉じこもって外に出ない主婦(夫)が、
次第に外の世界を見なくなり、家庭内の他人様から
見たらどうでもいい細かいことばかり
気にするようになって、次第に神経症っぽく
なっていくようなダイナミクスを今の日本は
たどっているのではないか。
それはともかく、Wangari Maathaiさんの
考えていることはぱーんと大きく、
こういう人の笑顔を見ながら本当に意味のあることを
考える時間が増えれば、日本も少しはマシな
国になっていくのではないか。
夕食は、すき焼きにした。
ビールは飲まなかった。
人に会って飲むのも好きだが、
しらふでいるアタマの状態も好きだ。
ビールなしでいかにすき焼きを食べるか、
という大命題(他人様から見たらどうでも
いい問題の典型である)も、緑茶を入れて
軽々とクリアしてしまう。
ところが、夕食後食べたロッテ、ラミー
チョコレートのパッケージをふと見ると、
アルコール度数3.7%と書いてある。
しらふでいるのは難しいものである。
まあここは一つ、大きなことを考えましょう。
有田芳生さんの日記
に、2月14日に丸山健二さんの写真展を
見に行ったとある。
丸山さん、クミチョーという呼称が次第に
定着していく気配アリ。
有田さんはここのところテレサ・テンの本
のお仕事に取り組まれている。
Wangari Maathaiさんやテレサ・テンのような、
巨きな姿をした人物をいかに
出していけるかが、これからの日本の命題ではなかろうか。
せっかくの生きるエネルギーを内輪のもめ事
に向けているのは実にもったいないことである。
2月 17, 2005 at 05:52 午前 | Permalink
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2005/02/16
記憶オーディション
夕刻、福井茂人さん、Slow Handの佐藤
理恵子さんと打ち合わせ。
福井さんがコミュニケーションの話を
して、私が記憶の話をしているうちに、
「記憶オーディション」というメタファーに
たどり着いた。
一日に経験することは沢山あるのに、
なぜか記憶に残るものと消えてしまうものがある。
小学校の先生のある言葉が、ずっと記憶に
残っていたり、
ある画像が鮮烈な印象に残ったりする。
世の中の森羅万象が、脳の中の限られた
記憶の「特等席」を巡って争い、
ほとんどのものは予選で落ちていく。
モナリザ、「バカは死ななきゃ
なおらない」、「人民の人民による人民のための
政治」、岡本太郎の太陽の塔。。。。
これらは、記憶オーディションの勝者なのだ。
新宿の「千草」で集英社の鯉沼広行さんと
ブンガク談義。
鯉沼さんは、新書に移る前には
文芸の編集部に長くいらしたので、
いろいろブンダン裏話を
教えてくれた。
今までの新人賞作品で一番よかったのは、
多和田葉子の「かかとをなくして」
だとか、ドストエフスキーの「死の家の記録」
が良いとか、そういう話も聞いた。
「結局、どんな作家でも、後世に残る
作品は結局2つか3つだと思い定めて、
それを残すべく努力するしかないと
思うんですよ。それで、編集者は、そのような
作品をつくるべくやるしかないと思うんですよ」
と鯉沼さん。
本を書くということと、それが残るということは
別問題である、というのはまさにその通りである。
小説に限らず、世の中のあらゆる表現は、
「記憶オーディション」をしている。
何が残るかは、単にexposureを増やせば
良い、ということではなく、半ば無意識の、
半ば感情の問題であるから、コントロール
不可能だ。
今、私たちが「歴史」として了解している
ことの背後には、数限りない消えていってしまった
ものたちがある。
「私」にとっての人生も、また同じである。
私はかつて確かに小学生だったはずだが、
その殆どの体験は明示的に想起されることなく、
しかし確実に私の人生に影響を与え続けている。

2月 16, 2005 at 08:16 午前 | Permalink
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2005/02/15
実験3
東工大の修士論文審査会ですずかけ台に行く。
田辺史子さんが「ヒトの陳述記憶における再固定化
説の検証」というテーマで発表。

三宅美博先生が、「実験3」の結果に大いなる
興味を持ってくださった。
意外な結果が出た「実験3」を含め、
陳述記憶の記銘、編集の不思議について
いろいろ面白いことを明らかにした、素晴らしい
修士論文だったと思う。
終了後、研究室の綿々、それに中村清彦先生
の研究室から澤繁実さん、梅田圭吾さんも来て、
青葉台の「笑笑」で打ち上げの懇親会。
修論が終了した後、「笑笑」で打ち上げを
やるというのは、ここ数年の「伝統」である。
今、ホンダに就職している、長島久幸くんも
来てくれればいいのになあ、と思いながら
みんなで飲んでいた。
そのように書けと長島君に以心伝心で言われたので、
そのように書く。
飲み会の時に話したこと。
私は、ある人間ができる、できない、
ということを基本的に決めつけない。
このヒトはこの程度できるかもしれない、
という「仮説」を持つことはある。
しかし、ある人間の潜在能力が
どれくらいのものか、
こればかりは判らないと思っている。
「男子3日会わざれば刮目して見よ」
は孔子だが、
男子に限らず女子もそう、人間はみんなそうである。
ついでに言うならば、自分自身に対しても
そのようにして接するような人生でなければ
ならないと思う。
誰にでも、実験3があるのだ。
明け方、南極に旅行する夢を見た。
南極のはずなのに、大きな道路に自動車が
走っているのだ。
ただし、空は限りなく大きい。
その町はずれでは、どうやら氷が割れていて、
海にペンギンが飛び込んでいるらしい、
と思いを巡らせているうちに目が覚めた。
2月 15, 2005 at 07:24 午前 | Permalink
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2005/02/14
Interview in English
NHKラジオ 英会話レッツスピーク 2005年3月号
Interview in English by Kate Elwood
No.24 茂木健一郎
What do you think is the reason behind the boom in interest in the brain these days?
How did you first get involved in brain research?
What do you find most appealing about this area of research?
You're also an art critic and literary critic--did those fields welcome you?
How did you learn English?
For further questions and my answers check out the issue in a magazine shop near you.
http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&textCategoryCode=09105
2月 14, 2005 at 07:44 午前 | Permalink
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チョコを食べて、森をぐるぐる走る理由
森本哲郎「吾輩も猫である」(清流社)
と
吉田真「ワーグナー」(音楽之友社)
読了。
「も猫」はイラストが良い。森本さんが現代に
対して怒っているポイントも了。文明批評は現代
に密着していてはできない。
ワーグナーの生涯なら暗誦できるのに、つい
読んでしまう。
コンパクトに禁欲的にまとまった好著だが、
人間本気で生きれば喧嘩するものだ、ということを
確認できたのが良かった。マイヤーベアー、
ブラームス、ニーチェ、リスト、メンデルスゾーン
らを巻き込んだconとproの対立は、単なる党派的な
ものではなく、精神世界の運動でもある。
対立するエネルギーすらないのが現代日本か。
時々むなしくなることがある。
縁側でまどろんでいる猫を決め込んでいるのか、
それとも、本気でやっていることなど、一つも
ないのか。
メフィスト系文学や、ITに浮かれている
人たちは、
いったいどんな「人間観」を持っているのか。
それは、よりよき人間の生き方につながるのか?
新しい美の世界に我々を運んでいくのか?
常に原理に引き戻して考える、という
クセは、日本では歴史的に薄弱だった。
だから、進化論も力学もできなかった。
一方、個別の趣向に沈潜していく傾向は
すぐれていた。
だから、歌舞伎や若冲が出来た。
その意味では、メフィストも2chも
日本の伝統芸能である。原理から導かれる
何かではない。のめり込む何かである。
オタクやスーパーフラットである。
ところが、こっちは次の進化論や力学を
模索しているわけだから、
どうしても日本においては反主流になる。
おいおい、もう少し原理的なことを
考えてくれよ、と言いたいが、
主流は原理なんか知るか、と言う。
「文学賞メッタ斬り!」
のような本が、
文学とは何か、これからの人間像とは何か、という
ような原理的考察なしに、饒舌なゴシップ・トーク
として成立してしまうところに、日本文化の強さも弱さも
ある。
それが外に出て行くとゲイシャ・フジヤマになる。
東浩紀のような、フランス現代思想の奥底まで
知り尽くした知識人でさえ、ゲイシャ・フジヤマに
巻き込まれてしまう。
もうこの構図自体はずっと続いてきたわけだし、
これからも変わるはずがないから、
こっちが個人(individual)として覚悟を
決めるしかない。
なんだか、憂鬱である。
うまいチョコレートでも食べて、
森の中をぐるぐる走るしかない。
2月 14, 2005 at 07:31 午前 | Permalink
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2005/02/13
組長からの電話
今朝になり、寝ころがって文藝春秋を
読んでいると、突然組長からの電話。
不意を衝かれ、
キンチョーして、読みさしの
文藝春秋をどこに
置いたかわからなくなった。
無事に安曇野に着き、今朝は
雪下ろしをしているのだと言う。
今年は山つづじを植えました、
ぜひ見にいらっしゃいとのお誘い。
文芸文庫の後書きのお礼を丁寧に
言われて、こちらの方が恐縮する。
人間(じんかん)に嫌気がさしたら、
いつでも自然があったことであるよ。
丸山組長のように、自然の中に
引っ込むという手があった。
ちょうど、これも読みさしの
オノ・ヨーコの『グレープフルーツ・ジュース』
の中に次のような一節がある。
隠れていなさい。
みんなが家に帰ってしまうまで。
隠れていなさい。
みんながあなたを忘れてしまうまで。
隠れていなさい。
みんなが死んでしまうまで。
うん、そうしよう。
2月 13, 2005 at 10:42 午前 | Permalink
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「国民総ぎこちなさ」のすすめ
ヨミウリ・ウィークリー
2005年2月27日号
(2005年2月14日発売)
茂木健一郎 脳の中の人生 第41回
「国民総ぎこちなさ」のすすめ
量子力学もインターネットも、さいしょはみんなぎこちない。スキーがうまい人よりも下手な人の方が魅力に感じることがあるのは何故? 少子高齢化でも、国民が「ぎこちなさ」の価値を忘れなければ大丈夫。おじいちゃん、おばあちゃんが新しいことにぎこちなくチャレンジしている姿は美しい。「国民総生産」ならぬ「国民総ぎこちなさ」のすすめ。
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
2月 13, 2005 at 08:34 午前 | Permalink
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爆発工作集団の不在
スキンヘッドの迫力ある異形から、私がひそかに
「組長」と名付け、尊敬申し上げている
丸山健二さんが写真展のサイン会のために
上京されるというので、はせ参じた。
『荒野の庭』刊行記念写真展
新宿紀伊国屋
2月15日(火)
都会の喧噪を嫌う丸山さんは、安曇野から
あずさで日帰りである。
到着され、まずは新宿中村屋の3Fで
フランス料理を賞味されているところに
うかがった。
版元の求龍堂の方々や、講談社の大葉葉子
さんがいる。
ちょうどデザートとコーヒーになって、一人
先に画廊に行ってしまったというので
私がいただくことになる。
サイン会は成熟した男が多かった。
丸山さんがサインをされている間、
私は中村屋で吉田真著「ワーグナー」
(音楽の友社)を読みながら
カレーを食べていた。
終わって大葉葉子さんが電話をくれたので、
ビームスの前にある「らんぶる」に行った。
アエラの表紙を撮っている坂田栄一郎さんも
いらした。
そのうち、あずさの時間になり、丸山
さんは坂田さんたちと外へ。
「今年の庭はすごいぞ、4月から見頃になる」
と丸山さん。
ぜひ伺います、と挨拶して、
後には、大葉葉子さん、講談社学芸文庫の
堀山和子さん、講談社書籍販売局の水口来波さん
と私が残された。
どんな波が来ていたのか、ここで私は
講談社のメフィスト賞作家の文学が新しい
などと提灯持ちしているやつらなど、知るもんか、
幼稚で
下劣なやつらなんて、どの時代もいるじゃないか、
それがどうした。なんで、人間の精神の高貴な
部分、美しい部分を書かない。清涼院流水
とかいうのが千の密室殺人とか書いているらしい
けど、くだらなさすぎ、シャノンやチューリングの
堕落した下僕だろ。モーツァルトの頃だって、
ガキみたいなやつとか、人殺しするやつとか、
いたに決まっているじゃないか、でもそんなことには
一切言及しないで、16歳にして
Exsultate Jubilateを作曲して後はただ黙っている、
こっちの方がよっぽど立派だろ。堕落した女子高生の
くだらねえ話なんて、読みたくないんだよ。
そもそも、現代日本ではやりの「人間観」なんて、
ヒューマニズムの核にかすりもしないじゃないか。
また、ゲイシャ・フジヤマみたいに奇妙な猥雑物
として消費されて終わるのが落ちだよ。
ゲーテだったら会ってどんな世界観か聞きたい
と思うけど、舞城王太郎の哲学なんて、別に聞きたいと
思わないじゃん。美しく気高い核心を外して、
どんどん昆虫のような奇妙な特殊に向かっていて、
それを商売になるからと賞賛しているのが今の
一部の日本の浮かれたやつらじゃないか。
電車男がどうしたって言うんだよ。
西尾維新の特集がユリイカで出たからって、
それが何だっていうんだ。
大体、漫画とか、サブカルとか言って、バカにするなよ。
いいやつだってあるんだから、単にガキっぽい、
自己チューの、饒舌なだけの作風を漫画的
とか言っていると、良質の漫画描いている人たちが
怒るぜい。
要するに単なる幼稚なガキなんだよ!
幼稚なガキが未成熟の人間を描いて、ちょっと
哲学っぽい雰囲気を漂わせているだけじゃん。
そんなもんに騙されるな、っていうんだよ。
くだらねえ。
などと、一人で爆発してしまった。
三人は大人であるから、まあまあ、と
私をなだめた。
大人の間で、一人で爆発しているのは
とても寂しい。
こんな時、池上高志あたりがいたら、
一緒に爆発してくれるのに、と思った。
爆発工作集団求む。
何事も勉強だから、と文藝春秋を買い、
阿部和重の『グランド・フィナーレ』を
読みながら帰った。
少女趣味の情けない男の等身大の話。
現代である。
帰ってベンジャミンの植木を見つめて
いたら、少し落ち着いた。
2月 13, 2005 at 08:11 午前 | Permalink
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2005/02/12
日本人よ、お目覚めの時間です
桑原茂一のClub Kingがつくるフリーペーパー、
dictionary 102号 「日本人よ、お目覚めの時間です」
ただいま配布中
http://www.clubking.com/dictionary/
配布場所のリスト dictionary communityは、
http://www.clubking.com/distribution/
にあります。
2月 12, 2005 at 10:07 午前 | Permalink
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Wedding
ソニー 広報センターの尾花慎二さんと浅井晴美
さんの結婚式に出席。
新宿のパークハイアット39階にて。
尾花さんには、すっかり御世話になった。
様々な取材の時に、尾花さんのテキパキ
とした差配にどれだけ助けられたか判らない。
浅井さんとは、北京にオープンした
Explora Scienceの企画で一緒に仕事をした。
南米にいたので、英語とスペインが
ペラペラである。
お二人は、結婚後上海に赴任される。
時速500キロのリニアモーターカーに
何度も乗ることになるのだろう。
乾杯の挨拶は短いほど良い。
指名を受けたので、赤い糸は自分が見えるものか、
他人から見えるものか、慎二さんと
晴美さんの場合客観的存在として赤い糸が
見えたらしい、という話をぱっとやって、
無事ヴーヴ・クリコのロゼを乾杯した。

Champagne Towerのお二人
普通は丸いテーブルだが、
私たちは中央の長テーブルに座る。
右隣にいらしたのは、外務省OBの針谷さん
夫妻である。
左隣は、QUALIA推進本部の青木崇
さんである。
斜め前に、地球環境問題の碩学、石弘之さんが
いらした。
控え室にいるとき。
尾花さんの後輩、川治豊成さんにお会いした。
今は講談社現代新書出版部にいらっしゃる。
郡司ペギオ幸夫の現代新書はいつできるのだ、
と聞いたら、
時々連絡はとっているのですが。
7年8年は普通です、とのお答え。
講談社の郡司はセミになっているらしい。
ワインはうまいし、食事は素晴らしいし、
テーブルセッティングは美しい。
QRIOが二人(体)、途中でお祝いにかけつける。
新郎新婦は幸せそうだ。
何から何まで、
とても良い披露宴だった。
慎二さん、晴美さん、上海でもお幸せに。
家に帰って、ばたんと寝る。
今朝は風邪が少し良くなっているような
気がする。
ただ、くしゃみはまだ出る。
ベランダの白侘助が満開である。
そろそろ、花見の算段をしたくなる季節になった。
2月 12, 2005 at 08:56 午前 | Permalink
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2005/02/11
「仮想」を「現実」にする意志
ポピュラーサイエンス2005年3月号
p.80-p.81
茂木健一郎
「仮想」を「現実」にする意志
日本が世界に誇る建築家、安藤忠雄さんの著書
『連戦連敗』を読むと、建築の本来の住処は現
実ではなく仮想の世界ではないかと思われてく
る。安藤さんほどの超一流の建築家でも、国際
コンペでは敗れることが多い。最終的に実現す
る建物はただ一つなのだから、当たり前である。
建築というのは、その場所に合わせて設計する
ものだから、同じアイデアを使い回すわけにも
いかない。結局、一つの現実の建築の周りには、
実現しなかった沢山の「仮想」の建築がまとわ
りつくようになる。・・・・
http://www.popsci.jp/
2月 11, 2005 at 05:21 午前 | Permalink
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断絶論
変な時間に眠るので、変な時間に目が覚める。
イシガキチョウが目の前を飛んだ。
ほら、あそこに珍しい
蝶がいる、と一生懸命叫ぶのだが、
周囲の人は何の反応もしない。
断絶ということを知らないんだな、
とあきれて目が覚めた。
現代はスカでも、そのスカの現代を
抱きしめて生きようと思っていたが、
その決意も最近にぶってきた。
このところ、朝、NHK FMを
聴くのが習慣になっているのだが、
そこで流れる音楽に、時々とてつもなく
すばらしいものがある。
自分で選んだ曲ではなく、他人が
選んで曲を聴くというのは何とも言えない
セレンディピティである。
そんな中、中世イギリスのJohn Dowlandの
リュート歌曲なども知ってCDを買った。
Flow my tearsも好きだが、
Come againの方がもっといい。
バッハのマタイもたまたま流れて聴いたら、
自分で聴くのとはまた違った味わいがあった。
こんな怪物みたいなものが、
初演からメンデルスゾーンによる再演まで、
100年も放って置かれたなんてもったいない。
そんなこんなでいろいろ古い音楽を
聴いていたら、
別に無理してスカの現代に合わせること
はねえや、という気分になってきた。
犯罪者の異常な心理とか、
ティーンエージャーの心の揺れとか、
そんなもんを読まなくても別にいいや、
という気がする。
立ち現れる人間の姿がマタイとは
だいぶ違うのである。
現代人は、鏡に映る自分の姿をよくみたら
どうか。
同時代のものばかり見ていると近視眼になる。
一体、長い歴史の中で現れてきた
様々なものたちの中で、
コンテンポラリーなものは、どんなニュアンスを
もってそこに立っているのか。
むろん現代にも良いものがあるから、
それにはちゃんと向き合った方が良い。
人気商売の中でちやほやされているものには
ロクなものがない。
人気があるものが現代人の等身大の像だと
すれば、
鏡をじっくり見た後でたたき割ってしまったら
どうか。
そんなことを考えていたら、イシガキチョウが
何を象徴しているのか、判った。
断絶のむこうにあるものこそを思いたい。
それにしても咳が出る。
2月 11, 2005 at 05:15 午前 | Permalink
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2005/02/10
日本の法律家の怠慢
日本の法律家の怠慢
私は一応法学士である。
以前から、日本の法律関係者は怠慢だと
思っている。
たとえば、
前近代的な制度を残して平気でいるからだ。
連帯保証人の制度もそうで、公序良俗に
反して無効、と言い切ってもいいんじゃ
ないかと思っている。
こんなものを民法の条文に残しておいて、
よく先進国を気取っているなあと思う。
別に法学を専門にしているわけでは
ないから、普段は黙っているけど、
たまたま文藝春秋の「日本の論点plus」
で八木宏之さんが書いてくださっているので
引用する。
http://books.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/
small businessを始めるときに、親兄弟に
連帯保証人になってもらう。
そんな「しがらみ」のどこに経済的合理性が
あるのか。
外国人留学生が、不動産屋に行って、
日本人の連帯保証人がいないと借りられません、
と言われる。
俺はイギリスで家を借りるとき、500ポンドの
depositを払っただけだった。
日本の法律関係者は、バカか?
うっとおしい前近代的な制度を押しつけやがって。
連帯保証人とるなら、保険に入れよ。
実定法の解釈の重箱をつつくことならば、
誰でもできる。
俯瞰的な目で立法政策を論じる大きな動きが
なぜもっと出ないか。
プロ野球コミッショナーを見て、日本の
法実務家の胆力などどうせあんなものだと世間から
あきれられているままでは、ちょっと寂しい。
2月 10, 2005 at 03:19 午後 | Permalink
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その時、魂は祈りの響きになる
2月 10, 2005 at 09:30 午前 | Permalink
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思わず声が出るのはなぜか
完全に風邪への下り坂を滑り落ちつつあるのが
わかったので、
夜はおとなしくワールドカップ予選を見た。
英語では、world cup qualifierという。
途中で、4年前に買った8番小野の
日本代表シャツをひっぱりだして着た。
なぜ小野かといえば、レッズだったからである。
しかし、途中でふとテレビのユニフォーム
と私のを見比べると、模様が違う。
私のは、肩に白い三本線が入っていない。
デザインが変わったとは知らなかった。
なんだか仲間はずれになった気がした。
なぜ、サッカーを見ていると、
思わず声が出るのだろう。
日常生活では「そこだ!」「いけ!」
「よし!」などと叫ぶ、などという
ことは全くあり得ない。
そこまでアブナクはない。
してみると、サッカーの試合を見ることの
意味は、
「思わず声が出る」という希有な体験を
するということにあるに違いない。
デルタ関数的な解放である。
カテゴリーを誤解している、ということは
時々ある。
ハリウッド映画の娯楽大作の良さは、
はらはらドキドキして、ああ面白かった、
という「マッサージ効果」だとある時悟った。
翌朝何も残らない。良い日本酒と同じである。
これが、タルコフスキーや小津安二郎だと
もやもやしたものが後に残って仕方がない。
3年経っても10年経っても、まだもやもや
している。
『ストーカー』や『秋刀魚の味』の場面が
フラッシュバックして仕方がない。
まるでPTSDである。
そこを行くと、ハリウッドの娯楽大作は
大したものだ。
立つ鳥後を濁さない。
別に悪い意味で言っているのではない。
もちろん半分は皮肉である。
私にとってのサッカー試合(特にワールドカップ
関係)の機能は、思わず声が出る、という
ことに尽きるのかもしれない。
すばらしい機能だ。
小野のユニフォームを着るというような、
バカなことをする。
思わず声が出て、バカなことをする、という
機能は、カラオケに似ているという気もするが、
とにかくいい試合だった。
サッカー選手には、全面的に賞賛を惜しまない。
あの運動量で、反射神経で、難しいことをやっている。
日本代表を張るのは、大変なことだ。
全国のサッカー少年は、限りないあこがれの
想いを込めてみていたのだろう。
途中から、私もサッカー少年のつもりで
見ることにした。
だから、今朝はサッカー少年のままで、
風邪を引いている。
2月 10, 2005 at 06:28 午前 | Permalink
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2005/02/09
やった!
大黒、偉い!
おもわず、30センチくらい飛び上がった。
2月 9, 2005 at 09:34 午後 | Permalink
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マーリンは本当はいない
幻冬舎の大島加奈子さんに
送っていただいた大ベストセラー
Good Luck
を読む。
二人の騎士が魔法のクローバーを探しに
森に入る。一人は偶然の幸運を求めるが、
もう一人は、魔法のクローバーが生える
条件をいろいろな人に聞き、その条件を
自ら整えようとする。
「魔法のクローバーの方程式」を満たすよう、
努力する。
その結果、条件を整えた騎士は、
魔法のクローバーを手に入れる。
よくできた話だが、この世界では、
本当は誰も「魔法のクローバーの方程式」など
知らないし、知り得ない。
本当に新しいものに、方程式などない。
全てを見通して、二人の騎士に試練を与える、
魔法使いマーリンなど存在しないのだ。
2月 9, 2005 at 10:25 午前 | Permalink
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憲法9条アンケート
広告批評 2005年2月・3月合併号 No.290
憲法9条アンケート
私の回答
【質問1】
日本国憲法の第9条を改定することについて、賛否とその理由をお聞かせください。
私は、国の政策判断の基準は、明文のルールでは書けないというイギリスの非成文憲法の精神に共鳴する。大切なのは、条文よりも原理である。英語のconstitutionは、国の成り立ちという意味であり、聖徳太子の「十七条憲法」の条文というイメージが強い「憲法」という訳語を当てたのは、誤訳とさえ言える。人類が長い歴史の中で苦労してつかんできた平和や民主主義、平等といった原理をいかに発展的に継承していくかということの方が、条文にこだわるよりも大切なことである。条文を墨守するという日本の官僚に時折見られる態度は、できそこないの人工知能のようである。立場が何であれ、憲法の条文にこだわる態度も、どこかそれに似ていないか。日本の政治状況の問題点は、むしろ、原理を大切にしない点にある。9条を改正しようという側、守ろうという側がそれぞれ依って立つ原理は何なのか? その点に関する議論を深めることこそが、日本の政治を巡る言説の成熟につながる。
【質問2】
改憲問題のほかにも、温暖化問題や教育問題なども大きなテーマになっていますが、それらを含めて、この国のあり方や方向などについて、お考えがあればお聞かせください。
日本は、今、自らのアイデンティティが何であるかわからなくなり、新たな自己像を模索する魂の危機(spiritual emergency)の時期を迎えている。ベンヤミンが「アウラ」という概念で記述したように、歴史上の文脈は二度と戻ってこない。グローバリズムの中で日本が置かれている文脈を引き受けて、新たな自己像を模索するしかないのである。危機は、創発(emergence)と結びつく。人間は、しばしば際(きわ)を歩むことで、新しいものを生み出してきた。現在の危機を創発に結びつけるには、むしろ従来の日本像にこだわらないオープンな姿勢が必要とされる。どんなに前衛的であろうとしても、どうせ過去は引きずる。ならば、思い切り自己を開き、未知の幸運と出会うセレンディピティに賭けるのが良い。
http://www.kokokuhihyo.com/magazines/index.html
2月 9, 2005 at 08:53 午前 | Permalink
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ずっと勉強
戦線がひろがって、仕事の量も増えて、
結局、起きている間やっていることは
ぜんぶ仕事絡み、という感じの
人生であるが、
考えてみると、そうなることをずっと前から
望んでいたのであるから、
幸せというべきなのかもしれない。
物理学の院にいるとき、球面調和関数
の計算を延々とつづけて、それから
上野の森を抜けて東京文化会館に行き、
音楽をきくと、全く違ったモードになる。
小説家は人生で体験したことをすべて
仕事に反映させられるのに、なぜ科学者は
それができないのか。
それが当時の私の悩みだった。
「クオリア」という視点にめざめて
その悩みの解消のダイナミクスが延々と
はじまったわけだけど、
そのうち、
小説もまた一つの専門性であり、
逆に、数理の世界も人生一般と無縁ではない、
ということが身に染みてわかってきた。
Brain Club 第64回。
(Brain Clubは、研究所の脳科学セミナーである)
田辺史子が修論発表の予行をして、
柳川透がプログレス・レポートをする。
セミナー前にコンビニで「昔の玩具」
という食玩を買ったが、
空気鉄砲はうまく飛ばずに哀しかった。
夜は新宿で筑摩書房の増田健史さんと打ち合わせ。
春から「ちくま」で始まる連載のテーマについてなど。
答え一発。「こんなことを申し上げて
何ですが、茂木さん、ずばり、それで行きましょう!」
と増田さん。
後はビールを飲んで与太話であるが、
しかしその与太話も仕事と言えば仕事で、
いろいろ発想がわいてくる。
移動中は、
Feynman Lectures on Physicsを
iPod Shuffleに入れたものを聴きながら
歩いていた。
同時にGlimcherの本を読む。
つまり、目がさめている間はずっと勉強か
考えるか仕事をしているのだけれども、
最近新しいことを学ぶのが楽しくて仕方が
ないのでそれで良い。
Feynman Lectures on Physicsはどちらか
と言うと勝手知ったる世界だが、
柳川透が英語の勉強をしたいというので
買った。
しかし、何回も考えた量子力学のFoundations
などの話をFeynmanの声でもう一度聞いていると、
脳が定まった軌道から逸脱しようとして、
新しい発想がわいてくる。
これは一種の動的ゲシュタルト崩壊であろう。
かくて、ずっと勉強の人生である。
2月 9, 2005 at 06:49 午前 | Permalink
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2005/02/08
逃げない
お昼は、AIBOやQRIOを造った土井利忠
さんと一緒に。
田谷文彦くんも一緒。
前半は、天外伺朗さん的なことを話したが
後半は、最近のロボット研究業界の
うわさ話に。
土井利忠=天外伺朗(ペンネーム)
である。
山の上ホテルで、ジャーナリストの野村進
さんと対談。
2001年3月30日、31日にあった
養老シンポジウムで、東大の山上会館で
お会いして以来である。
いつもの脳の話もしたが、
相手が野村さんなので、昨今の社会情勢
のことも俎上に。
なぜ、最近は日本人論が流行らないのだろうか、
という話題に。
野村さんの結論は、それは日本人が
自身を喪失しているからだろう、ということ。
なるほど、だから、隣国の中国に
Schadenfreude
を向けるような雑誌の記事や本が流行るわけである。
私は、他人様のことはどうでも良いから、自分の
ことをちゃんとしなければと思う。
昨今の日本が特に好きなわけでもないが、
仕方がない。漱石も、『文学論』序でこんなことを
書いている。
倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年
なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹
のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。(中略)
帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり。去れ
ども余は日本の臣民なり。不愉快なるが故に日本を
去るの理由を認め得ず。(中略)是れ余が微少なる
意志にあらず、余が意志以上の意志なり。余が意志
以上の意志は、余の意志を以て如何ともする能はざ
るなり。余の意志以上の意志は余に命じて、日本臣
民たるの光栄と権利を支持する為めに、如何なる不
愉快をも避くるなかれと云ふ。
先月号の『新潮』で浅田彰が「昨今の日本の
最悪のイデオロギー状況」と発言していた。
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
いずれにせよ、逃げない。
自分のことをちゃんとするしかないじゃないか。
日本人が今、自己のアイデンティティの危機に
陥っているとすれば(私は陥っていると思うが)
自らの底に降りていって、深層から何か鉱脈を
探り当てるしかないと考える。
適当にガス抜きしている場合ではないだろう。
一つ大きな仕事を終えたら、気が少し
ラクになったが、考えてみると前に山脈が
延々と続いている。
誰にとっても、そうなのであろう。
終わりなど、ない。
『明暗』が未完のまま世を去らなくてはならなかった
漱石のことを思う。
『漱石の思い出』の末尾にある、漱石の死後の
解剖学的所見を述べた講演の筆記録
夏目漱石氏剖検(標本供覧) 長与又郎博士述
は凄みがあった。
「ここに文学があった!」と叫びたくなった。
何がどうなのかはここでは書かないが、
この講演録を読むだけでも『漱石の思い出』を
買う価値がある。
私の持っているのは文春文庫である。
2月 8, 2005 at 07:01 午前 | Permalink
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2005/02/07
噺家に学ぶ言葉のみがき方
「原子力文化」2005年2月号 p.3〜p.9
対談 噺家に学ぶ言葉のみがき方
三遊亭白鳥(噺家)
茂木健一郎(脳科学者)
http://www.jaero.or.jp/
2月 7, 2005 at 07:51 午後 | Permalink
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頭を悪くする方法
午前2時30分。今まで起きていたのではなくて、
さっき起きたのだから為念。
大仕事がいよいよ締め切りとなると、
こうなる。
コーヒーとチョコレートがインフラである。
夏目鏡子は『漱石の思い出』の中で、
「頭を悪くする」という表現を
連発している。
漱石は頭を悪くすると、やたらと当たり
散らしたり、被害妄想を持ったり、ちょっとの
ことで気分を害したり、大変だったそうである。
前兆現象として、顔が真っ赤になる。
顔が赤くなると、子供が緊張する。
不思議なことに、胃が悪くなると、
頭が治る。
なんのことはない、頭と胃を交互に
悪くしていたわけである。
胃を悪くする方法は判らないが、
頭を悪くする方法は経験から判る。
強度の強い思考を長時間続ければ
いいのである。
やさしいことを考えていてもダメで、
うんと難しくこんがらがったことを、
ずっと考えていれば、きっと
漱石のように「頭が悪くなる」と
思う。
自分でも、あまり長い時間強度の強い
思考をしていると、あやうくなるのが
判る時がある。
ロンドンで、下宿に籠もって
手当たり次第に原書を読んでいた時に
頭を悪くしたに違いない。
もっとも、好きこのんでバランスが
崩れるまでやる必要はない。
漱石はたまたま頭が悪くなったが、
頭が悪くなったから漱石になるとは限らない。
大学の落第生だとアインシュタインに
なる保証があるわけではないのと同じことである。
私は不断あんがいマジメに考えているので、
酒を飲む時くらいはバカ話をしたい、という
気持が強い。
そこはぱっと切り替える。
池上高志も、私と似たようなタイプである。
酒を飲むときもむつかしい話をしたがる
やつを、二人知っている。
郡司ペギオ幸夫と、塩谷賢である。
もっとも、塩谷賢は、普段ぐうたらで
適当にやり過ごしているから、
酒を飲んだ時にそのカタキをとろうと、
好きこのんで
むつかしさに絡んでいる可能性がある。
そこを行くと、郡司は、普段からむつかしい
ことを考えていて、しかも酒を飲んでも
むつかしい話をしたがる傾向がある。
我々の仲間で、頭を悪くする可能性が
一番あるのが、郡司かもしれない。
もっとも、陰で隠れてばかをしている
可能性もある。
酒を飲んでもむつかしい話を
するようになったら、要注意である。
そろそろ、カラスがかあと鳴き始める時間だ。
2月 7, 2005 at 02:45 午前 | Permalink
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2005/02/06
変人であることの自由
2005年2月20日号
(2005年2月7日発売)
ヨミウリ・ウィークリー
茂木健一郎 脳の中の人生 第40回
変人であることの自由
31人ものノーベル賞学者を輩出しているケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ。そこで目にした、科学的独創性を支える「変人であることの自由」とは?
http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/
2月 6, 2005 at 07:02 午前 | Permalink
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普段着のアメリカ求む
仕事をしながら乱読するクセはやまず。
同時に5冊くらい平行して読んでいる。
夏目鏡子述 松岡謙筆録の『漱石の思い出』
を実は読んでいなかったことに
気づいてアマゾンで買った。
『猫』を書き始めたころの話など、
血が沸き立つ気がする。
ハリウッド映画は大嫌いで、
特に近年の「ブロックバスター」と呼ばれるような
予算を沢山つかってマスマーケットをねらう
作品はほとんど全部嫌いで、そのことは
至るところで公言しているから知っている
人も多いと思うが、
七不思議の一つは、アメリカのテレビドラマは
好きだということである。
そんなに沢山見ているわけではないが、
昨日ケーブルテレビで久しぶりに見てしまった
「刑事コロンボ」の「歌声の消えた海」
もそうだった。
とてもよく出来ている。小学校の時も
NHKで夢中になって見たが、
今見ても面白い。
おそらくは、普段着のアメリカ人は好きだ、
ということと関係している。
テレビドラマは、普段着でつくっている
気がする。
一方、映画の方は、舞い上がっている気がする。
映画「ET」で、ETが助かって少年が
おおげさに喜ぶところとか、
「トゥルーマン・ショウ」で、
ジム・キャリーが巨大ドームを出ることを
「決心」して、それを中継で見ていた
人たちが拍手するところとか、
あーいうのは見ていてとっても醜い。
気持ち悪い。
だから、ブロックバスター映画は嫌いだ。
塩をまいて、追い払いたい。
テレビドラマはいい。節制が効いている
し、unassumingだし、no nonsenseな
人たちが出てくる。
こういうアメリカなら、付き合いたい。
世界のいろんなところに出かけていって
戦争をしているのは、舞い上がっている
アメリカなのであろう。
頼むから、普段着に戻ってくれないか。
乱読の方は、水村美苗の「続 明暗」
とか、田中小実昌の「ポロポロ」とか、
新潮社の足立真穂さんからお送りいただいた
甲野善紀 田中聡の「身体から革命を起こす」
とか、いろいろ積んであって楽しみに終わりが
ない。
仕事で読む英語の本とは別腹である。
2月 6, 2005 at 06:11 午前 | Permalink
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2005/02/05
「脳とクオリア」 7刷
「脳とクオリア」(日経サイエンス社、1997年)は、7刷となりました。
ご愛読に感謝いたします。
2月 5, 2005 at 09:04 午前 | Permalink
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フランス式キスの不在について
ランチタイムに、品川プリンスホテルの
38階の寿司屋にいった。
アーノ(2年前に研修学生として研究所に
滞在)とアドリーヌが、3週間の日本でのバカンスを
終えてフランスに帰国するので、
その前にランチを、ということになったのである。
ここには時々行く。研究所から歩いて
15分で、見晴らしがいい。
眼下に山手線、東海道線、横須賀線、
京浜東北線、新幹線が走り、
「鉄ちゃん」にはこたえられない。
東京タワーマニア、六本木ヒルズマニアにも
こたえられない。
晴れた午後には遠くレインボーブリッジも見える。
柳川透(東工大博士課程)と佐塚直也(東工大博士課程
ー>ソニー)も同席。
アーノとアドリーヌのよちより歩きの赤ちゃん、
ルーも同席。
ルーは小さなどんぶりに白いご飯をもってもらい、
それをフォークで食べてごきげん。
床の上をのっしのっしと歩きまわり、
アーノが「ゴジラだ!」と言う。
しかし、このゴジラは炎を吐かずに
目をきょろきょろさせる。
いずれパリで春永に、と別れたが、
あとで、柳川がアドリーヌとフランス式
わかれの挨拶(両頬にちゅ、ちゅと軽く
キスする)があるのではないかと
ドキドキしていた、ということを知った。
実際には、フランス式キスも
握手もなかった。
じゃあね、とにっこり別れただけである。
同じ場面で、私はポケットに手を突っ込んで、
ぼーっと立っていただけなのに、
柳川は内心どきどきの乱れを感じて
いた。まさが柳川がそんなことを
考えているとは、思わなかった。
透ちゃんも成長して大人になった。
物理的には同じ光景でも、
心象風景は違っていた。
当然、アーノ、アドリーヌに映る
風景も違っていたはずだし、ベビーカーに
乗せられたルーに映る風景も違っていた
はずである。
芥川龍之介の『藪の中』につながる
齟齬は日常に常にあるわけで、それは言った、
言わないの論争をしてみれば身に染みてわかる。
京都大学の斎藤亜矢さんが研究所のセミナーに
来た。修士論文の内容を発表していただく。
ラウンドテーブルに座った私たちと斎藤さんの
見る風景は違っていたことであろう。
山には雪が降り積もり、空には太陽が
輝き、
粉々に砕けた姿見のような断絶した主観性の
中に、世界は少しずつ違った姿を見せている。
もし神がいるとすれば、
神は砕けた姿見を合わせた時に現れるのではないか。
2月 5, 2005 at 08:48 午前 | Permalink
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2005/02/04
脳とデザイン 第2回
本日(2005年2月4日 午後6時30分〜)
朝日カルチャーセンター講座
脳と心を考える ー脳とデザインー 第二回
(途中からの参加もできます)
http://www.qualia-manifesto.com/asahi-culture18.html
2月 4, 2005 at 10:12 午前 | Permalink
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複製技術時代の文学
文學界 2005年3月号(2005年2月7日発売)
茂木健一郎 「脳のなかの文学」第12回
複製技術時代の文学
一部引用
もし、ベンヤミンの言うように、複製技術が
「アウラ」を奪うものならば、自筆原稿にこそ
強いアウラがあるはずである。ところが、実際
には、漱石その人が伝わってくる原稿用紙の手
書き文字よりも、活字の方が、代助という仮想
の人間の生の一回性の感触が高まっている。こ
の事情は、『それから』という作品だけに固有
のこととは思えない。どうやら、文学とは、複
製技術の上にこそ純粋なアウラを再現する芸術
様式なのではないか。だとすれば、文学は、現
代美術がデュシャンやウォーホルを経由して到
達したオリジナルとコピーを区別しない地点に、
とっくの昔に達していたのではないか。
言葉は、人間が生み出したすぐれた複製技術
である。文学は、その本性として生の一回性を
写し取ることを目指すが、その表現の基盤は言
葉という複製技術に依拠している。文学の生命
は、私秘性と公共性の間の緊張関係の中にこそ
ある。意識というプライベートな体験と物質と
しての身体という公共的存在の間で揺らぐ人間
という存在形式そのものの中に、文学を生み出
す衝動は根ざしているのである。
http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm
2月 4, 2005 at 09:19 午前 | Permalink
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悪貨が良貨を駆逐する
このところ、振り込め詐欺だとか、偽札
だとか、偽造コインだとか、あのような
犯罪の報道がある度に、
私はいらだち、犯人に対して深い
怒りを覚えていたが、
他にも破廉恥な犯罪はたくさん
あるのに、なぜそれほど義憤を感じるの
だろうと、自分でもつかめていない
ことがあった。
それが、今朝、起き抜けにふと
わかった。
これらの犯罪は、文化において
「悪貨が良貨を駆逐する」
( (C) Thomas Gresham)現象に
似ているような気がするのである。
このことわざが由来した16世紀の
イギリスの場合は、悪貨を発行していたのは
政府だった。
ヘンリー八世が銀の含有量を落としたシリング貨を
流通させた結果、人々はそれまでの「良貨」はしまい
こんで、「悪貨」ばかりを使うようになり、
良貨が市場から消えた。
良貨と悪貨が共存すると、悪貨に良貨は
駆逐されるのである。
文化においては、悪貨と良貨は、ある
作品を生み出すことがどれくらい困難か、
というコストに相当する。
苦労して生み出した「価値」のある
作品と、そんなに苦労しないで生み出す
そんなに価値のない作品が、市場において
同じ評価を受ければ、どうしても創造者
は悪貨製造に走ることになる。
早い話が、未だ言語化されていない
何かを掴もうとした実験的な作品よりも、
ストーリーの都合に合わせて人を殺すことで
成り立つ作品を量産する
「人殺しで生きている」((C)斎藤美奈子)
ミステリー作家の方が実入りがよければ、
ご都合主義のミステリーという悪貨が
実験的な作品という良貨を駆逐する。
(別に、全てのミステリー作品が悪貨だと
言っているのではない。ホームズや
ポアロを夢中になって読んだこともある。
現代の作品だって、
中には良いものもあるだろう。
しかし、
「ミステリー」というジャンルをまずは立て、
こういうプロットにしよう、だから
まずここでコイツを殺させなくっちゃとか、
このトリックは新趣向だとか、それを
またおもしろがってマニア的に
評論するとか、その類
の頭の働かせ方がイヤなのである)
誰でも、自分の利益を図りたいとは思う。
私だって、自分が利益を得たいという
気持はある。しかし、それはあくまでも、自分が
利益を得るきっかけになったことが、
社会にとっても利益になるという
前提があってのことである。
そのためには、元手をかけなければならない。
困難なことをやるしかないのである。
現代社会、悪貨のやりとりがあまりにも
多くないか。
本当の意味での元手が掛かっていない、
オキラクな悪貨のやりとりが。
有志よ、良貨同盟をつくりませんか。
Thomas Greshamの進言で、時のエリザベス一世は
通貨政策を変え、銀の純度の高いシリング貨を
流通させるようになり、イギリスのシリング貨は、
ヨーロッパでもっとも希求される通貨になった
という。
良貨こそが、長期にわたる反映の礎なのである。
悪貨がはびこる日本は、そのうち繁栄もせず、
尊敬もされない国になってしまうのではないか。
ヘンリー八世になるより、エリザベス一世に
なるほうがきっと良い。
2月 4, 2005 at 06:46 午前 | Permalink
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2005/02/03
脳と仮想
『脳と仮想』
(新潮社)は、3刷となりました。
ご愛読に感謝いたします。
2月 3, 2005 at 08:23 午前 | Permalink
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他者としてのフランス現代思想
例によって、仕事がいそがしいほどストレス
がたまって本を乱読してしまう、という法則に
より、仕事の合間に
先日筑摩書房の伊藤笑子さんからいただいた
ちくまプリマー新書5冊のうち、
内田樹さんの「先生はえらい」と、
吉村昭さんの「事物はじまりの物語」を読む。
プリマー新書は、中高生でも読める、という
やさしい文体と、原稿用紙150枚程度という
短さが特徴で、
まさにone sittingで読める。
忙しい仕事の合間に、ちょっと休憩、
という感じで読むにはぴったりである!
内田樹さんは周知の通り、フランス現代思想や
武道など、たくさんの引き出しをもたれている
大学の先生である。
内田さんの「先生はえらい」も様々な
刺激的論点が入っていて面白い。
漱石の小説における「謎の先生」の位置づけ
(三四郎の「偉大なる暗闇」、「こころ」
の「先生」など)、ラカンの「未来完了形」
問題、「太公望秘伝の兵法の極意」の話など、
思わず立ち止まり、考え込んでしまうような
ことが満載である。
凡百の教育論とは一線を画した、
「先生が生徒に教える」という世間の思いこみの
後ろにぽっかりと開いた世界の深みを直接
のぞきこんでいるような気分にさせられる本である。
読んでいるうちに、
内田さんの書かれていることと直接関係する
わけではないけれど、他者としてのフランス思想
ということを再び考えてしまった。
私は外国語は英語は苦労しないくらい出来て、
ドイツ語はある程度できる。
しかし、フランス語はマジメにやったことが
ない。
フランス語で書かれた哲学書を読んでいる人たち
には、
どうも私にとって異質な何かを漂わせている
感じがある。
私の依拠している場所を普通の言葉で言えば、
アングロサクソン的というか、きちっと構造化
された経験主義、とでも言うのだろうか。
一方、フランス現代思想には、よく言えば
底が抜けた、ふにゃふにゃの思想世界に沈潜
していく勇気があるが、
悪く言えばあまりプラクティカルではない。
no nonsenseの実際主義こそ、
イギリス経験論を特徴づけるのだと思う。
イギリスのコメディの中では、しばしば、ジャック・
デリダをはじめとするフランスの思想家が
茶化されるが、その揶揄の文脈は、大抵、
「ごちゃごちゃ言っているけれどプラクティカルでは
ない」というものだ。
私自身はといえば、おそらくプラクティカル
と底抜けの間で分裂していて、
きっとドーバー海峡の真ん中あたりに
沈んでいるのだと思う。
だから、本当は、バランスをとるためにも、
フランス語の哲学書をもっと読まなくては
ならないのだけども、いかんせん時間がない。
内田さんの「先生はえらい」も、学ぶという
ことについて、底が抜けたきわめて面白い
論点を提出していて、この上なく刺激的
である。
しかし、プラクティカルかというと、
それはよく判らない。
「いい先生、悪い先生」は客観的に
最初から決まるのではない、と内田
さんは書き、底が抜けた
根源的な思想としてはごもっともなのであるが、
プラクティカルな問題に直面している
学校経営者としては、やはり、
できるだけ「良い先生」を揃えようと
思うだろう。
もっとも、内田さんも、大学で実務的な
仕事をしている時にはプラクティカル
にやってらっしゃるということは
ブログを
見ていると判る。
それに、私の心に残る「先生」たちは、
みな、確かにプラクティカルな領域を逸脱
した、無明の境地の中で、なにやら不可思議な
雰囲気を漂わせているからこそ「先生」
たちなのである。
そこには指導要領もスキルの伝達も
何もない。
プラクティカルと底抜けのどちらかを
選ぶ、というのではなく、両方引き受ける。
プラクティカルと、底が抜けた思想の
結婚からこそ、何か面白い子供が生まれるのでは
ないかということが、
私のつらつら思うことである。
イギリスとフランスはお互いに相手を
「A nation of shop keepers」
(ナポレオンがイギリス人を揶揄して言った言葉)
「frog」
(イギリス人がフランス人を揶揄して言う言葉)
と茶化しつつ、実は愛し合っている。
かつて、ルアーブルの私の友人は、
「イギリスに行くと、イングリッシュ・
ブレックファーストを食べるのが楽しみなんだ!」
と告白したし、
イギリス人はパリがもっともロマンティックな
都市だと思っている。
この複雑怪奇な現代世界では、
複眼的な思想が必要だ。
no nonsenseで世界を平面的にしか見れない
人に対しては、「君、少しフランス思想を服用
したまえ」と言いたいし、
フランス思想にかぶれてぐちゃぐちゃな
人には、「君、もう少しプラクティカルになりたまえ」
と言いたい。
いっしょにドーバー海峡の真ん中あたりに
沈みましょう。
2月 3, 2005 at 07:16 午前 | Permalink
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2005/02/02
たった一人の革命
斎藤環さんの『文学の徴候』を読みながら
研究所に向かう。
斎藤さんも、舞城王太郎さん支持である。
だが、私としては、引用されている文章を
読んでも、やっぱりあまり好きになれない。
貴重な時間で、読まねばならないものは
たくさんあるから、「新しい」と評されている
作家を、そう次から次へと読むことは
物理的にというよりも生理的に不可能である。
思うに、ミステリー、サスペンス、ホラー、
饒舌体、ライトノベル、etc.を支持し、
「純文学」を仮想敵とする批評家の
スタンスは、その深層心理において
実はポピュリズムに依拠していないか。
北上次郎が、もっとも影響力のある批評家
だというとき、
それはおそらくは動かすマーケットが一番
大きい、ということを意味している。
一番金がうごくジャンルの周りで仕事を
していた方が、自分にとっても実入りが良い。
そんな、あまりにもあからさまな方程式が、
「「純文学」なんて古い。これからはなんたって
メフィスト系作家だよ。」
という批評家の一見「かっこよい」スタンスの
背後にあるような気がしてならない。
私は、『トムとジェリー』のカートゥーンを
見るのが好きで、すばらしく良く出来ていると
思うけど、
『トムとジェリー』には絶対なくて、
いわゆる「ハイカルチャー」と称される、
伝統的に高い価値を認められてきたジャンルの
傑作にはある「何か」はまちがいなく感じられるし、
信じられる。
『トムとジェリー』とゲーテの『ファウスト』
を同列に論じることなどできない。
古いと言われようとなんと言われようと、
これだけは譲れない。
もちろん、舞城王太郎が『トムとジェリー』
だと言っているのではないから、為念。
饒舌体でバイオレンスでジコチューな世界を
描けば、それで新しい文学だと言われても、
オレは頷かない。
現代がそういう時代だというのは判るけれど、
しばしば反時代こそが本質を衝き、古典の山脈に
つながっていくのではないか。
堀江敏幸さんが、あんなに美しい小説
(『雪沼とその周辺』)を書いても、
『セカチュー』に比べれば微々たる数しか売れない。
島田雅彦さんの「無限カノン」三部作や、
保坂和志さんの『カンバセイション・ピース』
も同じこと。
つくづくポピュリズム、マーケット主義はいやである。
もちろん、出版社の営業政策として
たくさん売りたいというのは判る。
オレももし出版社を経営していたら、
沢山売ろうと思うだろう。
自分が作家だったら、書いた本が沢山売れたら
いいと思うだろう。
しかし、売れる本を書くということと、
書いた本が売れるということは違うのだ。
科学のいいところは、世間の人々が何を考えて
いようと、この世界を動かしている真実さえ
掴んでしまえば、
たった一人で革命が起こせることである。
アインシュタインがE=mc2という式を
提出した1905年、この式の含意は誰も
理解していなかった。
質量欠損が発見されたのは、1920年に、
アストンがヘリウム原子と水素原子の質量を
正確に測定した時である。
4つの水素原子の質量は、ヘリウム原子の
質量よりも大きかったのだ。
これが、太陽が輝くメカニズムかもしれない
と指摘したのは、エディントンだった。
つまりは、アインシュタインー>アストン
ー>エディントンと、それぞれ、当時世界で
「たった一人」が事態を(真理を)把握して
いたわけで、それだけで革命を起こすのには
十分だった。
たった一人で革命を起こせる、というところに
科学者の栄光も孤独もある。
一方、文学(評論)の世界には、悪い意味での
ポリティクスが多すぎる。
反時代の栄光と孤独を貫くことは、
「売れない」という淘汰圧の前に、あまりにも
難しいことなのだろうか。
もっとも、科学も最近は真理商売じゃなくて、
人気商売化している。
それでも、いつ「E=mc2」のような超弩級の
発見がたった一人の革命によってもたらされるか
わからない。
その時、人気商売をしていた人たちは、
静かに歴史から退場していく。
そのようなことが可能な点に、
科学の何とも言えないすばらしさがある。
科学には、反時代という姿勢の有効性が、
まだ死なずに残っているのだ。
文学だって、同じことができるんじゃないか。
メフィスト賞が「時代」ならば、
「反時代」こそを模索したい。
2月 2, 2005 at 06:40 午前 | Permalink
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2005/02/01
おいしさと文化
web magazine en
茂木健一郎 連載
おいしさの解剖学 第十一回
「おいしさと文化」
http://web-en.com/
2月 1, 2005 at 01:56 午後 | Permalink
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欠乏と豊饒のコントラストを魂の糧として
風の旅人第12号
(2005年2月1日発売)p.117-118
茂木健一郎 連載 「都市という衝動」 第11回
欠乏と豊饒のコントラストを魂の糧として
2月 1, 2005 at 07:06 午前 | Permalink
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キスはいくらですか?
俺が一人でカウンターに座っていると、
老人がドアを開けて入ってきた。
俺の背中にあるテーブルに座る。
若い女が、老人に歩み寄った。
老人は、何やらもごもごと言ったあと、
ためらうように、
「あのう、キスはいくらですか?」
と聞いた。
若い女は、少し恥ずかしそうに、
「キスは90円です」と答えた。
老人は、きっぱりと、「キスをください」
と言った。
若い女は、うなづくと、「お好みで
キスです」と言いながら奥に入っていった。
しばらくして、若い女が老人のテーブルに
歩み寄って、何かを置く音がした。
女が去ろうとすると、老人はすがるように、
「あのう、キスはまだですか」と聞いた。
女は、なだめるように、
「今すぐですから、しばらくお待ちください」
と言った。
後ろを振り返ると、上品な顔をした
老人が、
何やら期待に顔を紅潮させて座っている。
少年のような純粋さを
感じさせる人である。
これから何が起きるのか、最後まで
見届けたかった。
しかし、残念。俺はもう
自分の天丼を食べ終わってしまっていた。
気が付けば、老人のテーブルにも
すでに天丼が置かれている。
石津君の修論審査の後の昼下がりに入った、
早稲田駅近くの「てんや」
での出来事である。
2月 1, 2005 at 06:57 午前 | Permalink
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不可視な時間の流れの豊かさ
石津智大君の修士論文の審査をするために、
早稲田大学の文学部キャンパスへ。
石井康智先生、山崎勝男先生とともに、
石津くんの説明を聞いて、質疑応答を。
早稲田の事務から修論が送られてきたのは
2週間ほど前だったが、読んで驚いた。
しばらく見ていなかった子供が、立派に
大きく成長したような感慨をもった。
初期視覚野への高次視覚野からのフィードバック
の機能的意味を、
さまざまな論文を読んでレビューした上で、
自分の立てた仮説で実験している。
大きな問題意識を持って、それをきちんと
具体的な実験に落としている。
「いろいろ言いたいことがあるんだけど、
とりあえず経験主義科学の枠内で、これをやる!」
という禁欲主義が見える。
石津君、偉かった。
柳川透、アーノと待ち合わせて、
外苑前の七音社へ。
目黒から引っ越した後、初めてきた。
松浦雅也さんはあいかわらずファンキーで
ラジカルだった。
アーノが、自分がプロジェクトでつくった
ゲームのデモ画面を見せる。
アーノは、フランスに帰ってから、こんな
ことをやっていたのか、とびっくり。
なかなか良くできたゲームのオープニングで
ある。
プレイステーションのICOにインスパイア
されたとのこと。
最近のゲーム業界の流れ、
これからの方向性について、いろいろ
喋る。
久しぶりに松浦さんと喋れて、良かった。
不可視な時間の中で、いろいろ蓄積
している人と話すのは、新鮮で刺激的である。
人間は飽きない。なぜなら、変わるから。
お互いに何をやっているのか見えない
時間の流れがあり、再び出会うからこそ、
この世界は豊かである。
神宮球場の横を抜けて、国立競技場前まで
歩く。
とっぷりと日は暮れ、風は冷たかったが、
心は温かかった。
一人でなくて良かった。
2月 1, 2005 at 06:29 午前 | Permalink
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