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2005/01/06

真実の瞬間

2005年1月7日発売の「文學界」
2005年2月号に、茂木健一郎「脳のなかの文学」
連載第11回 「真実の瞬間」が掲載されています。

 一部引用

 スペイン語で、「真実の瞬間」(La hora de la
verdad)とは、闘牛の最後に、闘牛士が牛にとど
めを刺す時を表す言葉である。そのことは、曖昧
には知ってはいたが、実際にその意味をはっきり
と認識したのは、セビリアで闘牛場に出かけた時
のことだった。
 学会の帰りに、セビリアで半日だけ空いた。何
も期待せずにぶらぶら出かけたら、その日がたま
たま開催だった。もちろんチケットは売り切れて
いて、会場の周りに、何人かのダフ屋がいた。何
回か往復し、人相を評定して、この人なら何とか
なるだろうと当たりをつけた。向こうは英語が不
自由だが、こちらのスペイン語も形無しである。
とは言っても、そのような時に交わす言葉など決
まっている。値段を確かめて、それから、「良い
席なのか?」と尋ねたら、男は、誇らしげに「プ
レジデンテ!」と叫んだ。「プレジデンテ!」と
言うからには良い席なのだろうと入ってみたら、
スタジアムの最後列から3列目だった。
(中略)
 二つの魂が接近する時、私たちが自分と世界と
の間に普段は置いているスクリーンが取り払われ
る。その結果、お互いの魂の姿はよりよく見える
ようになってくるが、同時に、それは自我がひん
やりとした世界の消息に直接触れる危険を冒すこ
とでもある。闘牛の「真実の瞬間」は、このよう
な、私たち人間の魂のダイナミズムを可視化する。
闘牛士が、突進してくる牛の角に触れて傷つくよ
うに、愛において無防備になる私たちは、魂が傷
つく可能性を認容している。
 もちろん、闘牛士と闘牛の対峙が、さまざまな
文化的、歴史的脈絡に絡め取られた舞台で成立し
ているように、二人の魂が向き合う時も、決して
私たちは社会的文脈から自由になることはできな
い。文脈に二重、三重に串刺しされ、それでもな
おそこに一瞬原形質の何かが立ち現れることこそ
が、魂の危機であり、創発であり、真実の瞬間の
実体である。

http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm

1月 6, 2005 at 07:35 午前 |

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