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2005/01/05

一度普遍を経由して

オレと竹内薫
が、20そこそこの「怒れる
若者」だった頃、卒業研究が同じ研究室
だったこともあって、よくつるんでいた。
 安田講堂の前を歩きながら、竹内が、
「神がこの世界を創ってくれたわけだから、
その秩序を理解しようと努めるのは人間の
義務だ」というようなことを言ったことが
ある。
 
 その感覚は良く判るな、と想いながら、
赤門前のバンビに一緒に行って、
ハンバーグ定食を食べたのを昨日のことのように
思い出す。

 昨日の日記で紹介した「夏目漱石と明治日本」
の中で、吉本隆明さんが次のような話をしている。

 ぼくの知り合いで、欧米白人と結婚した女性が
います。話の折りに、「むこうの男は、そんなにいい
かね」なんて無遠慮に訊くと、こんな答が返って
きた。
 「むこうの男が、日本の男と比べて、とくに
素敵とは思わない。でも、一つだけ、逆立ちしても
かなわないなと思うことがある。
それは、普遍性というものへの確信よ」
 普遍性への確信というのは、文化のちがい、人種
のちがい、歴史のちがい、そういったちがいを
超えて、人間のあり方としての共通性を信じる
ということです。そういう信仰にもとづいて、
文化も創造するし、恋愛もする。それは日本の
現実とはほど遠いものだというのです。 
 普遍性への信仰は、裏腹に、特殊性への
蔑みをともないます。西欧のインテリと話を
していると、何だ、こいつ、ものわかりのいい
顔してたって、一皮むけば、日本人を野蛮な
者としか見ていないじゃないか。そう感じ
させられて鼻白むことが、しばしばあります。
 漱石が英国で直面したのは、そういう
世界でした。
・・・・・・
(吉本隆明『漱石の巨きさ』 前掲書 p.52)

 こういう文章を読むと、私は、「ああ、この
人は信用できる人だなあ」と思ってしまう。

 それがヨーロッパ起源だろうが何だろうが
知ったこっちゃないが、一度「普遍」を
経由したことのない人とは、話ができない。
 フヘン概念を経由していない人と
話をしていると、大変ストレスが溜まるの
である。

 しかし、その上で、吉本さんのように、
フヘンが時にそうではないものに対して
差別的に働く、ということの哀しみを
倫理的に引き受けなければ、人間として
成長することはできないだろうとも
思う。

 東京学芸大学付属高校の時、今は弁護士をしている
宮野勉と、よく「荘子 対 孔子」の論争を
した。
 宮野は孔子派で、私は荘子派だった。
 私は宮野を「この常識人め」などと非難して
いたが、
 一度普遍を経由した上で、特殊なものの哀しみ、
慈しみに目覚めるなどして、
 要するに人間がこなれてくると、孔子の
「論語」が問題にしていたことが何となく
ココロに沁みてくる。

 昨日は夕飯におでんを自作した。
 ところが、大根を買うのを忘れていて、
あわてて走った。
 もう間に合わないから、おでんを食べ始めて、
大根は別の鍋で煮立てて、後半にどぼんと
鍋に投入した。
 卵も二つの残しておいたから、
今朝は大根と卵がとても楽しみだった。

 というような機微も、「ふふん、この特殊め」
と切り捨てられてしまうのだったら、普遍を
生きていても仕方がない。
 同じ普遍を生きるにしても、奇妙なものたち
に対する愛に満ちた普遍を生きたいと思う。
 
 ところで、漱石の時代の人たちはよく手紙を
書いたわけだが、
 このようなweb日記は、要するに手紙のような
ものなのではないかと最近考える。

1月 5, 2005 at 08:52 午前 |

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こっそり私淑している大先輩がGoogleへ転職。 Googleには、でも、一つだけ、逆立ちしてもかなわないなと思うことがある。 それは、普遍性というもの... [続きを読む]

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コメント

ご返事ありがとうございます。
Web日記の文体形式が
書簡に似ていると言うのであれば
それは了解できます。
愛に満ちた普遍を体現したいと願う弱輩ものです。
今年もいろいろ考えさせていただければ幸いです。

投稿: Coco | 2005/01/06 12:15:00

Cocoさま

コメントありがとうございます。
ご指摘のような差異は確かにありますね。
それは重々認識した上で、
(1)執筆が外部からのトリガーで行われているのではなく、内発的である。
(2)身辺雑記、雑感にこと寄せて意識の流れを記録する
というような意味で、書簡という形式が実質的に発展したものではないかと考える次第です。

投稿: 茂木健一郎 | 2005/01/06 10:55:40

時々訪ねています。
頷けるコメントが多く楽しんでいます。
でも、漱石の時代の人たちが書き送った書簡と
Web日記が同じとは私は思えません。
「不特定」と「特定」の差はあまりにも大き過ぎると思います。
いかがなものでしょうか?


投稿: Coco | 2005/01/06 0:24:37

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