うーん、無茶苦茶だ。
仕事ばかりしていると、何かが蓄積
してくるので、
散歩をすると同時に、
ぱっとソファに横になって
活字を乱読する。
「新潮」2月号の浅田彰、柄谷行人、鵜飼哲
鼎談を読んだり、大森望、豊崎由美の
「文学賞メッタ斬り!」
を読んだりする。
31日締め切りのはずの「大仕事」をひたすら
机に向かい、迅速職人のごとくキーを
叩き続けて書きつづる。
その一方で、conventional scienceの内部での
仕事も進める。論文を読み、論文を校正し、
論文を書く。
無茶苦茶な世界に生きているなあと
思う。
その無茶苦茶さが、シミジミ面白い。
浅田さんたち3人は、ジャック・デリダに
ついて語り合っているのだけれども、
そこにおける鋭利な切り口と、
conventional scienceでの知の体系が
全く異なる。
ある文脈ではconventional scientistは
全くナイーヴなarse holeに見える。
保坂和志さんが、新潮2月号の
連載「散文性の極致」で、
「利根川進みたいな能天気なヤツは、あと十年
とか二十年で記憶が解明されて、あと百年
以内に意識の全貌が解明されるとか言っている
けれども、全然無理なんじゃないか?」
と書いているが、確かに、ある思想の文脈の
中では、科学者は能天気に見える。
別の文脈ではポストモダンの哲学者は
ふにゃふにゃの思想入れ歯人間に見える。
数学的概念を、その厳密な定義を
知らずに振り回してしまったりする
人間に見える。
両者をどう結んだらいいのか。図太い
補助線を引かなければ、この世界はずっと
分裂したままだろう。
大森さんと豊崎さんの対談も
面白い。
つまりは、講談社のメフィスト賞作家が
問題なのだ。
私は、文學界の連載「脳のなかの文学」
第7回(2004年10月号)
「スカ」の現代を抱きしめて
の中で、舞城王太郎さんの「好き好き大好き
超愛している」を、「スカ」の現代を象徴する作品
として批判した。
森博嗣さんの「すべてがFになる」は、
沖縄のビーチで下半身海に浸かりながら
読み、あったま来てゴミ箱に捨てた。
大森、豊崎は舞城王太郎支持である。
宮本輝は、新しい文学が読めないのだと言う。
私は、自分が間違っていたと
悟れば態度を改める。
しかし、
宮本さんは宮本さんなりに
考えていることがあるのは間違いない
と思う。
要するに世界は分裂してしまっているのだから、
誰かが補助線を引いて、見通しを良くするしかない。
舞城王太郎好き好き大好き、という根拠の
ない自信を抱いた若者も
キモいし、
メフィスト賞なんてクズだ、と眉を
上げているおじさんもなんだか寂しい。
無茶苦茶な現代だと思う。
夏目漱石やカフカとかそういう人たちが、
そんな現代から遠く離れた
ところで古典としての美しさを放っていることだけは
はっきりと確信できる。
現代はふにゃふにゃの過渡期か。
気を付けて渡らなければなるまい。
1月 31, 2005 at 07:20 午前 | Permalink
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コメント
tatenoさん
柄谷行人さんについては、これから本格的に
読もうと思っています。
何かを感じることは確かです。
投稿: 茂木健一郎 | 2005/02/02 6:51:53
今、柄谷行人に凝っています。
彼の、60年周期の歴史の反復、あるいは120年周期の歴史の反復は、まさに全共闘世代の息吹を伝える、戦前の思考です。
柄谷さんについて、どう 思います。
投稿: tateto | 2005/02/01 19:58:49