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2005/01/29

はなむけの言葉

 東京芸術大学の学生たちの卒業制作の内覧会
があった。

 ふだん、彼らが使っているアトリエで
作品を展示する。
 植田工も、蓮沼昌宏も、杉原信幸も、
最後の日々は、
みんな死にそうになって描いていた
ようだった。

 通過儀礼とは、そのようなものだろう。

 蓮沼、杉原の作品の前で、本人といっしょに
写真をとる。
 植田は、風邪を引いたといって寝ていたので、
撮影できなかった。


杉原信幸と、卒業制作


蓮沼昌宏と、卒業制作


植田工の自画像

 杉原が、パフォーマンスをやった。
 黒いアクリルを塗りたくった黒まだら原始人に
なって、
 枯れ葉をまき散らし、トイレットペーパーを
参列者の頭の上に敷き出し、
 水を出しっぱなしの流しに身体をつっこんで、
そのまま動かなくなった。
 杉原の上にあるのが、自画像である。


杉原信幸のパフォーマンスと自画像

 今月号の芸術新潮のマルセル・デュシャン特集に、
デュシャンにとっては、すでにあるスタイルで
絵を描くことは、一種のレディ・メードだった
とある。
 何十倍もの倍率をくぐり抜けて入ってきた
彼らのこと。
 なになに風の絵を描くことは可能だろうが、
それはレディ・メードである。
 そのあたりに転がっている便器を拾ってきて
署名するのと何も変わりはしない。
 そんなキビシイ世界認識の中で、彼らが闘って
いることは、2年付き合ってきたから、
よく判る。

 世の中に出ていけば、相変わらず印象派だ
院展だ、号いくらだと言っている世間がある。
 内発的なオリジナリティに対して冷淡なのは、
別に芸術の世界に限ったことではない。
 君たちは目の前に何の具体的な未来を
描くことができなくて、途方にくれている
のかもしれないが、
 それは本当に新しいことをやろうと
している人たちが、誰でも直面することです。

 君たちに授業もしてくれた、親友の
池上高志が、こんなことを描いています。
 科学的知識を、「アート」と置き換えれば、
今日、一つの通過儀礼を成し遂げた君たちに、
最高のはなむけの言葉になるでしょう。

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最近は科学の上での根本的な考え方はあんまり進歩していない。
知識だけがどんどん増えて、最新のことは他の分野の
人やちょっと離れた人はぜんぜん知らない。

もっとも考え方の展開を伴わない、こまごまとした知識は
およそ興味を持てないものである。感動がない。そんなものは
ネット上に転がっている。

伝わる知識の量にはそういう意味で上限がある。
興味がないから、感動がないから、みんな学ばないし分からない。
それが遺伝子にはない、ミーム限界である。

しかし、ばーんとした根本的に新しい考えや見方は
みんなも食らい付いてくるだろうし、伝わる。
伝わらない科学的知識に、なんの意味があるだろうか。
(池上高志)

1月 29, 2005 at 09:26 午前 |

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コメント

ミームの限界を突破せよ!

・・・最近は、宇宙の果てと脳の限界の関係に興味があるんですが、興味があるだけで、何ともならないんです。私達の誰もが気づいていない事。それは、何か・・・

科学の装置が巨大化してゆくように、芸術の装置も、巨大化してゆくんでしょうか。スーパーコンピュータを使った芸術なんていいなぁ・・・、見えないものを見えるようにする。じつは、芸術と科学って同じものですね。芸術家よ、科学を学べ!科学者よ、芸術を学べ!

とりあえず僕は、少しは考えられそうな、「脳と戦争」を考えているところです。妙な争いしてないで、みんなが自分の幸福についてしっかり考えれば良いという風な結論になりそうなんですが・・・。

自分の意識が脳の機能だと皆知っていれば、そもそも、今のような戦争は起こらないのではないか。石油争いなんて・・・
・・・人工化の果ては・・・
・・・結局は皆にいつか訪れる死・・・

・・・政治家よ、あなたの脳は、数億人という人間の幸せを、まともに考えられるように出来ていますか?国という生き物、個体のアポトーシス・・・
・・・世界を国という単位で分けるのをやめたとして、人間は、どういう行動をするだろう。皆さんは、国境がなくなったら、どこに住みたいですか?・・・
・・・一定の文化レベルを保ったままの、原始的生活は、世界中にネットさえあれば可能だろうか・・・

生まれては消えてゆく、私の脳内活動、まとまりが無いですね(笑)

投稿: 倉本 | 2005/01/30 10:09:17

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