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2005/01/10

人間がつくったもの以外を

寒空の下、二時間くらい外でぶらぶらした。

 寒さ暑さは皮膚全体で感じるものだ。
自分を膜が包んでいるような感じになる。
 冷たい空気に自分をさらしていたら、
なんだか、桃の皮にうっすらと包まれている
ようなきもちになった。
 
 なぜ桃の皮なのかと言えば、冷感の
層はそれくらい薄いし、また自分の皮膚が
桃色に近づいていくからだろう。

 人工的しつらいの中にいるとどうしても
忘れてしまいがちだが、
 自然の中には美があふれている。
 ふと見上げた木の枝が、日暮れて青から
赤のグラデーションを見せる空を背景に
黒くジグザグに走っている時、
 そこにはほれぼれとするような美しさがある。

 自然の美しさなど、昔から人類は
重々知っていたはずだが、
 文明肥大、自意識肥大になった現代の人間にとって、
自然の美しさほど脈絡がつけにくいものは
存在しない。

 私が本能的に警戒するタイプの人間は、
そのアタマの中身が社会的文脈の中にすっかり
絡めとられていて、
 すべてのもののraison d'etreが
社会的にしか意味付けられないような思考を
する輩だ。
 いわゆる「哲学」よりも、「思想」系の
人間にそれは多い。
 だから、私は、「思想」というものを
参照しようとは思うが、時に強い
拒絶反応を抑えられないことがある。
 エグミが強すぎるのだ。

 孔子くらいすっきりした大きな倫理観
を提示できればすばらしいが、
 できそこないの孔子ほど嫌なものはない。
 漱石の「即天去私」は、できそこないの
孔子からの逃走ではないか。

 もっとも、人間同士の脈絡が他の全ての
脈絡を消してしまうということは、
 現代固有の問題ではもちろんなくて、
昔も、たとえば戦いの時などにはしばしば
見られたのだろう。
 戦争の最大の罪は、敵と戦うということ
以外の文脈を消してしまうことである。
 だからこそ、
 小林秀雄の次の言葉は私に感銘を与える。

 通盛卿の討ち死にを聞いた小宰相は、船の上に
打ち臥して泣く。泣いているうちに、しだいに物
事をはっきりと見るようになる。泣いているうち
に、しだいに物事をはっきりと見るようになる。
もしや夢ではあるまいかというようなさまざまな
惑いは、涙とともに流れ去り、自殺の決意が目覚
める。とともに自然が目の前に現われる、常に在
り、しかも彼女の一度も見たこともないような自
然が。
(小林秀雄『平家物語』)
  
 親友の池上高志は三葉虫の化石を集めるのが
趣味だが、
 社会的文脈を離れて、そのような時間を持つ
ことを志向する人間以外は結局信用できない。
 養老孟司さんがしばらく前にコマーシャルで
「私は一日に一回は、人間がつくったもの
以外のものを見ようと思っています」という趣旨の
ことを言われていたが、
 現代人の座右の銘にふさわしい。

 冬の一日、冷たい空気の中で、人間が
つくったもの以外に取り囲まれる。
 こんなに幸せなことはない。
 空を背景にした枝のジグザグや、
黒々とした森のシルエットを心の中に
取り入れれば、
 とっちらかった現代人のアタマの中も、
少しは神に近づくだろう。

1月 10, 2005 at 08:15 午前 |

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   消費という言葉について考える時に、ぼくは交換価値と使用価値という言葉がひとつのキーワードになる気がしています。これはもともとマルクスの『資本論』第1部「... [続きを読む]

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コメント

こんばんわ。
僕は「則天去私」という言葉を心の言葉として、いつも嫌なことがあると「天に則って、私を去れ」と、すべてを受け入れるように己を強制し、主体を否定し、否定しきれない主体に対して、ある種の諦観の言葉として噛み締めていました。「語りえないものに対しては沈黙しなければならない」といったヴィトゲンシュタインの言葉と共に、わたしは、俗世に対して、の聖性を維持すべく、「沈黙は金」を実践しています。こんなわたしは実際には負け組みです。

投稿: | 2005/01/11 0:41:40

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