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2004/12/04

愛することで、弱さが顕れるとしても

2004年12月7日発売の「文學界」
2005年1月号に、茂木健一郎「脳のなかの文学」
連載第10回 「愛することで、弱さが顕れるとしても」
が掲載されています。

 一部抜粋

 しかし、学問の方法論を遵守するということと、何かを愛するということがしばしば相容れないことも事実である。
 誰でも、自分の子供は特別な存在であると思う。では、自分の子供が確かに他の子供とは違うということを、客観的に、反証可能な形で示してみろと言われても、それは親の愛の本質とは関係がないと誰もが思うことだろう。

 己れの子が己れの家庭にのさばっている間は天にも地にも懸替のない若旦那である。この若旦那が制服を着けて学校へ出ると、向うの小間物屋のせがれと席を列べて、しかもその間に少しも懸隔のないように見えるのはちょっと物足らぬ感じがするだろう。
       (夏目漱石  『趣味の遺伝』)

 自らが愛するものが、不特定多数の集合の中に置かれた時に平凡に埋没してしまう。そのような認識の瞬間によぎる寂しさを、誰もが経験したことがあるはずである。『吾輩は猫である』と同時期に書かれた『趣味の遺伝』の中の一節には、自分が愛する対象が広い世界の中で客観視されてしまうことの切なさが捉えられている。
 文学が、人間の個別の生が普遍なるものに出会う現場の消息を描くものであるとするならば、主観と客観の狭間で愛が内包する根源的矛盾を避けて通ることはできないはずだ。恋愛を描くのが文学の中心課題だと言いたいのではない。坂口安吾や丸谷才一の小林秀雄批判が正当であること。それにも拘わらず小林秀雄の愛に殉じる姿勢がその批判を超えてしまうこと。そのような事情をどのようにとらえ、そこから何を抽出するか。このやっかいな問題を考える精神運動の中にこそ、人間にとって愛とは何であり、文学とは何かを考えるヒントが隠されている。


http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm

12月 4, 2004 at 08:37 午前 |

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