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2004/12/18

生の現場における文脈の作用

 計測自動制御学会システム・インテグレーション部会講演会
セッションの座長とシンポジウムのパネラーを
するために、つくば国際会議場に行く。

 筑波には、97年にイギリスから帰ってきた
直後に、1ヶ月ほど住んでいたことがある。
 短い時間だったが、ゆったりとした空間と
自然がすっかり好きになった。

 土浦駅から乗ったタクシーの運転手さんは、
57歳の女性だった。
 ラジオから流れる歌に、「これは、私が17歳の
時に流行したんですよ」と言う。

 来年つくばエクスプレスが開業すると、
土浦から学研都市に向かう客が減って、タクシー
は打撃になる。
 「でも、かえって、つくばに来て、夜土浦
に向かうお客さんがいらっしゃるんじゃないかと
言っているんですよ。ほかのタクシーは午前2時
で終わりだけど、うちは24時間やっている
でしょ。バスとかもなくなっちゃうし、使って
くれるお客さんがいるんじゃないかと
言っているんですよ。」
と話しているのを聞いているうちに、
まさにこれが文脈というものの生の現場に
おける作用だな、と
思った。

 どんなに良い料理とサービスでも、
人の流れが少ない場所にある店は
苦戦する。
 個人の創意と工夫によって切り開ける
ことには限界がある。
 つくばエクスプレスの開業で、タクシー
が置かれている文脈が変わる。
 似たようなことは、私たちの人生の
至るところにあるだろう。

 クオリアと文脈と関係については、
引き続き考えている。
 つくばのタクシーの運転手さんのように、
私たちは、一人一人が自分の置かれている
文脈の中で、懸命に生きている。
 生きる、ということが第一義的なのであって、
それは必ずしも美しいものではないし、
特には醜かったり、みすぼらしかったり、
みっともなかったりする。

 たまたま、生の文脈から美が生み出されれば
それは僥倖だが、美に結実しなくても、
 生きることの方が上である。
 美しかろうが何だろうが、そんなことは
知ったこっちゃない。

 一方で、文脈体験は、そのままでは
生の個別性に埋没してしまう。
 そこで、クオリアが、その私秘性にも
かかわらず、逆説的に公共性を構築する
手段として登場するのである。

 私の司会したセッションは、神戸大学の
郡司ペギオ幸夫の研究室の発表4件と、
東大の上田完次さんの研究室の発表一件。
 郡司と短い時間だったけど、いろいろ議論
できたのが楽しかった。
 
 シンポジウムは、
パネルディスカッション ロボット・セラピーと共創
司会 浜田 利満(那須大) 三宅 美博(東工大)
パネラー 木村龍平(帝京科学大)橋本周司(早稲田大)武者利光(脳機能研究所)茂木健一郎

 私は、Serious Entertainment Robotの
概念を提出した。
 感情と不確実性のテーマの話をしたら、武者さんが
「ゆらぎ」との関係を指摘されたのが興味深かった。
 橋本周司さんは、言われることが一つ一つ
こちらのアンテナに引っかかってきて、共感できた。

 仕事が終わり、土浦駅近くの吾妻庵に行く。
 創業100年以上の老舗だが、土浦駅付近は
最近閑散としているらしく、客は少なかった。

 店のしつらいや味は素晴らしい。北関東独特の、
広々とした空間に磨き込まれた渋みがあって、
 来る度に、こっちの方がちゃらちゃらした
東京なんかよりむしろイギリスに近いんじゃ
ないかと思う。

 私もそうちょくちょく来れるわけじゃないけど、
人が行き交う文脈のメインストリートでいい気に
なっているやつらよりも、
 こうして恵まれない文脈で苦戦している
志あるものたちにこそ、自分の思いを寄せたい、
と思いながらフレッシュひたちに乗ったら、
何時の間にか眠っていた。

12月 18, 2004 at 08:41 午前 |

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