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2004/12/28

普遍的にして、人間的なるもの

スマトラ島沖地震の映像を見ていると、
インド洋沿岸の生活の様子がいろいろ見えてきて、
災害の悲惨さの向こうから、かの地域の
消息が伝わってくる。
 それにしても、広大な地域である。
 沿岸の総延長が何キロメートルになるのか
は知らないが、
 その延々と続く海岸線に津波が押し寄せた
わけである。

 映像の中から被害を
訴えかける人々の言葉が、何を言っているのか
わからない。
 バベルの塔とはこのことか、と改めて思う。

 言葉がない状態からある状態への移行は
進歩であるようでいて、実は「対称性の自発的
破れ」でもある。
 混沌に穴を開けていったら、七日目に
混沌は死んでしまった、というのは荘子
だが、
 対称性が破れて「穴があく」という
ことが、良いことばかりであるはずがない。

 実際、言葉を得ることで、人間の中で
何かが死んだのかもしれない。

 世界には様々な地域があり、
人々がそれぞれの文脈の中で懸命に
暮らしている。
 その文脈を離れて生はないけれども、
それだけでは「普遍」に到達することは
できない。

 ローカルな文脈からしか生成は
ないけれども、 
 しかしそのローカルな文脈を超えた
普遍に達すること、「普遍的にして、
人間的なもの」(universally human)に
達することで、初めて芸術は芸術になるし、
文学は文学になる。

 遠いインド洋の、顔も肌の色も
話す言葉も違う人たちの被災に
compassion(共苦)を寄せることは、
芸術的感性のトレーニングでもある。

 文脈主義とクオリアの関係について
いろいろ考えた年だったけれど、
 「オタク」などという文脈も、
それがいかにuniversally humanなもの
に接続するかを考えなければ、真の芸術には
ならない。
 椿昇さんが言うように、「オタク」は、
下手すると
新たなゲイシャ、フジヤマになってしまう。

 クオリアは私秘的なものだと思われがちだが、
逆説的に普遍性を担保するものとして
立ち上がってくる。
 その時、それを生み出した文脈は、
建物を作るときに一時的に使われた足組のように、
背景に消えていってしまうのだ。

 インド洋の被災者の置かれている文脈を
自分が一人称的に体験することはできないけれども、
それに共感することができるのは、私秘的で
あるはずのクオリアの逆説的な公共性担保の
はたらきを通してである。

12月 28, 2004 at 07:32 午前 |

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コメント

「対称性の自発的破れ」が市場交換パターンの避け難さであるのならば、飽くなき消費とは、あり得ぬ対象性の回復を試みる、夕景に浮かぶノスタルジーへの終りなき回帰である。(先生を真似て、箴言風にやっちゃいました。)

投稿: | 2005/01/01 19:28:14

十数年前にインドネシアで皆既日食がおきた時は、
何ヶ月もかけて用意周到に、インドネシアの島々のそれぞれの部族の首長に、こういうできごとが何月何日に起きるけれども、悪魔の呪いでも何でもなくて、これはこういう仕組みで起こるものなので、パニックを起こしたりしないようにと説明をしたというのを昔ドキュメンタリーでやっていました。地震からTSUNAMI到達までに時間があったのに、連絡システムがなかったり、そもそも、通信システムすらもないような地域だったりしたこと。地球の営みと人間の暮らしということをまざまざと見せつけられました。満月でしたし。

投稿: | 2004/12/28 12:24:14

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